■【戦争というもの】(9)

――メディアの戦争遂行の責任

羽原 清雅

 戦争が仕組まれる初期、戦争に踏み込んだ戦闘段階、そして戦争終結時の対応などにおいて、メディア、とりわけ戦前のメディアが新聞、NHKにほぼ限られていた時期には、大きな役割を担った。国家権力を動かすことはできなかったが、国民の世論形成に及ぼす影響は極めて大きかった。したがって当然、その報道の責任は問われるべきだし、報道を通じて戦争の遂行に果たした任務についても、歴史的に長く追及されなければなるまい。
 筆者は戦争報道に関わらなかった世代だが、戦後の新聞社内部で感じたことも含めて書いておきたい。

 「戦争というもの」は動きだしたら、止めにくい現象だ。戦争が仕組まれていく前段の症状を見逃し、しかもそれを許容したならば、人間の生命も、積み上げてきた資産も灰燼に帰す結果を受け入れざるをえない。それほどに、走り出した戦争状況は突き進むばかりで、ブレーキを利かせようのないものなのだ。過去の歴史が、そのことを証明している。だがそれも、戦争体験者がいなくなるころには、過去の反省や教訓は除去され、もっともらしい理屈を述べて悲惨な事態を正当化し、繰り返しがちになる。

 メディアは、そのプロセスを熟知しながら、戦争という国策に追随しがちだ。大きな歴史的な視野で国家権力の危険な方向、準備につながるプロセスを的確に予知し、報道し、その流れを早くに食い止めることは、そう簡単な作業ではない。
 すでに現状でも、集団的自衛権容認などの安全保障法制、秘密保護法制、緊急事態条項、さらには公的文書の廃棄や改ざん、あるいは軍備の増強、原水爆阻止の動向無視、トランプ傾斜の外交姿勢など、将来的にリスクを招きかねない措置が各方面で進められている。総体として懸念を生む状況になってきている。結果として、警戒するような事態がなければいい。しかし、マイナスに作用する事態がない、ということも言えまい。

 右するか、左するか、の見えにくさが将来の日本のありように絡んでこないか、そのような長期的な視点が乏しかったことが、戦前の報道に欠けていたことを強く感じざるを得ない。
 そのような「今」を念頭に置きつつ、戦前の報道のありようを点検してみたい。

         <外圧・内圧にもろかった新聞>

 新聞と戦争との関係は、さまざまな角度から取り上げられている。ここでは、第2次世界大戦中の15年間にわたる日中・太平洋戦争を中心に取り上げたい。新聞を取り巻く環境は、一見強く、影響力があるように見える。世の中が順調な場合にはそう言えるだろうが、「いざ」という重大事態となると、意外にもろいことがある。
 長らく新聞記者として、新聞社内のいろいろな意思決定の過程を見てきた。その経験から結論的に言えば、緊急的な大事にうろたえないためには、①大まかな可否の原則を踏まえ、②日ごろから物事を継続的に、長期的な視点をもって、広角的に見ていくこと、だろう。抽象的だが、そんな姿勢を、より多くの記者たちが日常身に着けていくことが必要だ、と感じている。

 新聞はとかく、目先の動向を追うために、視野狭窄、目前の出来事、利害にこだわりがちになる。あれこれ心がけていても、習性的に目先の状況に左右されかねない。そこに、プラス・マイナスさまざまで、左右されがちな状況に迫られ、つい誤った判断を下す。日ごろの周囲を見ながらの取材、編集の仕事が、かえって新聞社の将来に待ち受ける長期展望を見誤らせる事態を招きかねない。現実主義的な対応に慣れてしまうと、権力側の動向に引きずられ、先行きの分析・判断よりも、当面の流れに乗る方向に身をゆだねがちになる。
 しかも、そのぎりぎりの決断は、読者を巻き込んでの方向付けになる。先の戦争推進役の一端を担った朝日新聞の周辺から見ていきたい。

*** 外圧
 日本政府、軍部の中国大陸への侵出の夢は、明治維新以来脈々と続いていた、と言えよう。軍備の増強が整い、財閥等の経済力が高まり、列強の侵略が進むにつれ、また国内の不況や人口増加などが大きな政治課題になるにつれ、また相手側の弱みに付け込むように、大正後半から日本のかねての夢を具体化するようになる。国民の意識は天皇国家にまとまり、一部の反政府、反戦などの左翼批判勢力の抑圧も徐々に進む。
 新聞を取り巻く「外圧」を整理しておこう。

(1)国民精神総動員運動、国家総動員法、大政翼賛体制 日本軍の謀略による盧溝橋事件に端を発して、日中戦争が拡大する(1937=昭和12年7月)。前年には日独防共協定が生まれていた。日中戦争直後には、中国の国民党と共産党の第2次国共合作が組まれ、これに対応して日本では第1次近衛文麿内閣の下に「国民精神総動員運動」が推進された。全国民による戦争遂行と社会的な不満解消が狙いで、八紘一宇・挙国一致・堅忍持久をうたった。政府に「国民精神総動員委員会」、民間に「国民精神総動員中央連盟」ができて、大宣伝が展開された。

 40(同15年)4月、米内光政首相を会長とする「国民精神総動員本部」に改組。日中戦争の長期化、経済の不調などが増大する中で、ナチスに倣う強大な国民組織を目指すもので、6月以降には政党や労組の解散が進むが、軍部などには米内政権を倒し、近衛の再登場を求める狙いがあった。7月には、国民的人気のある第2次近衛内閣が生まれ、10月には一部の反対をはらみながらも「大政翼賛会」が結成され、国民精神総動員本部は吸収された。
 この組織は首相が総裁、各知事が支部長の官製の国民統制組織だったが、隣組、町内会、大日本産業報国会、翼賛壮年団、大日本婦人会などを広く傘下に置き、国民を拘束することにもなった。東条英機首相主導の42(同17)年4月の翼賛選挙を推進した。
 このような国民統率の組織は、今では考えられないが、「戦争というもの」の土台になったことは間違いない。新聞が国家権力に着実にからめとられ、身動きのできないフレームが徐々に出来上がるのだ。

 それ以上に強大な力を発揮したのが、1938(同13)年4月施行の「国家総動員法」だった。
 もとは20年前に第1次世界大戦の経験から、そしてシベリア出兵に備えて生まれた「軍需工業動員法」だったが、この機能をさらに拡大強化して、国家の総力戦体制をとることのできる法制だった。議論もほとんどなく、国民はほとんど知ることなく、法律が生まれていくこわさ、と言えるだろう。今日でも、強大な国家権力と議論の不十分な国会のもとでなら、このような事態、たとえば集団的自衛権による自衛隊の地球の裏側までの派遣が可能になるなど、長い目で見ると、そうした事態も皆無とは言えないのではないか。
 この法案は、第1次近衛内閣の下で、当初は西尾末広ら社会大衆党などの小会派が賛成しただけで、民政党、政友会など既成政党は、政府が強大な私権制限を握ることに反対論が強かったが、近衛による衆院解散への恐れもあって、最終的には同調した。また、この法律は41年の大改正により、総動員の対象を物資にまで広げ、これに反する場合には罰則を強化する、というものだった。
 このような社会全体の枠組みができていく中で、新聞報道はどこまで自由でいられるのか。

(2)各種広範な言論統制法規 戦争遂行にあたって、社会全般に多様な規制措置が取られるが、ここでは2・26事件(1936=昭和11年)以降の法規名だけを挙げておこう。それだけでも、新聞、出版等の身動きの取れないフレームが垣間見えるに違いない。なお、新聞については、新聞紙条例(1875=明治8年)、その後新聞紙法(1909=同42年)ができており、新聞社は発行ごとに納本、検閲を受け、常時検閲官庁の内務省、情報局、検事局、警視庁検閲課、府県庁特高課などの検閲を受けていた。
 以下の法規の特徴は、文言が抽象的かつ一般的で、官憲が自在に解釈を拡大して、対象者を検挙できるものだった。そこに立法上、運用上の怖さが隠されていた。
 
 ・1936年5月  思想犯保護観察法―広田弘毅内閣
   (思想犯検挙5万9,000人、入獄中509人、うち非転向120人に)
 ・1937年6月  不穏文書取締法―第1次近衛文麿内閣   (2・26事件後、陸軍皇道派一層の人事を進めるとともに、軍内部等の怪文書などを追放)
 ・1937年7月  軍事事項の新聞紙掲載禁止(陸軍省)令―同上
   (日中戦争勃発に伴う措置)
 ・1937年8月  軍機保護法全面改正―同上
   (軍港、港湾、空港、要塞、砲台等の測量、撮影などを禁止し、刑罰を強化)
 ・1937年8月  海軍軍事事項の新聞紙掲載禁止(海軍省)令―同上
 ・1937年12月 外務大臣示達の外交関係事項の新聞紙掲載禁止(外務省)令―同上
 ・1938年4月  国家総動員法―同上
 ・1938年8月  悪徳不良紙の整理統合―同上
 ・1938年9月  新聞用紙供給制限令―同上
 ・1939年3月  軍用資源秘密保護法―平沼騏一郎内閣
   (国家総動員法による人的物的資源の徴用に関する秘密事項のうち、軍機保護法の及ばない軍用資源の情報が外国にもれるのを防ぐもの)
 ・1939年4月  映画法―同上
   (従来の内務省による映画フィルムの検閲、都道府県の興業取り締まりをさらに厳格に)
 ・1939年7月  国民徴用令(勅令)―同上
   (国家総動員法による。政府が国家総力戦に人的物的資源を統制運用できる。朝鮮人強制労働の徴用もこの法令によった)
 ・1941年1月  新聞紙等掲載制限令(勅令)―第2次近衛内閣
   (国家総動員法による。国策遂行上外交、財政経済など対外国秘匿の記事の不掲載と規制や発禁や差押さえ措置を規定)
 ・1941年3月  国防保安法―同上
   (国家機密漏えい、諜報活動、治安妨害などに対する法律で、ゾルゲ事件で適用
 ・1941年5月  治安維持法改正―同上
   (国体の変革結社を支援する結社、準備的結社を検挙する項を創設し、罰則も強化)
 ・1941年5月  予防拘禁手続令―続令―同上
   (治安維持法改正に伴い導入した、刑の執行を終えても再犯の可能性がある者は予防拘禁できる対応策)
 ・1941年12月 新聞事業令(勅令)―東条英機内閣
  (国家総動員法に基づき、新聞事業の統廃合の強制権限を握り、新聞統合を推進)
 ・1941年12月 言論出版集会結社等臨時取締法―同上
   (言論、出版の自由を政府統制下に抑え、戦争遂行の一助となる)
 ・1942年2月  戦時刑事特別法、戦時民事特別法―同上
  (太平洋戦争勃発直後に決めた戦時犯罪処罰特例法をさらに広げ、厳罰化、裁判迅速化を図った。人権侵害、冤罪などの生まれやすい法改正だった。民事も同趣旨)
 ・1943年2月 出版事業令(勅令)―同上

(3)新聞統制―内閣情報局、大本営 新聞を直接的に脅かすのは、政府や軍部の報道自体への規制である。
 満州事変(1931=昭和6年)前後から日本の帝国主義的外交は国際的に非難を浴びるようになる。そこで外務省、陸軍、参謀本部などが対外情報戦略の再検討に入り、1936年7月に内閣書記官長のもとに「内閣情報委員会」を設置、翌年9月に内閣官房、外務省、陸軍の関係を調整する狙いもあって「内閣情報部」が設けられて、対中国戦略のみならず、公安維持のための情報統制、国民向けの情報提供、マスコミ関係の統制などが強化された。折から日中戦争、国民精神総動員運動の始まる時期で、外務、内務、逓信、陸軍(情報部=38年9月までは新聞班)、海軍(軍事普及部)の情報、報道関係の部門を集結させた。
 40年12月、「内閣情報局」として、さらに権限を強化、国内の情報収集、言論・出版・文化関係の検閲などの統制、文化人ら各界の組織化、国民へのプロパガンダ、そして新聞記事の規制や検閲などにあたった。国民への宣伝活動も大きな任務だった。重要な任務は、新聞記事や出版物などの検閲で、その要員の多くは内務省警保局検閲課の面々だった。
 また、戦闘地の取材、激励などに従軍画家、カメラマン、文学者、芸術家、芸能人など多数が組織されて派遣された。大半は戦争賛美に傾き、愛国の機運を醸すものだった。これも、戦争の「流れ」というものの怖さ、を示すひとつの姿だっただろう。

 情報局の総裁は外務官僚が多かったが、戦争の激化に伴うように1944年には朝日新聞の主筆、副社長だった緒方竹虎が小磯内閣の国務相を兼ねて情報局総裁に就き、次いで同じ朝日新聞で副社長、日本放送協会長を務めた下村宏(海南)が就任した。統制の現場の実務を担うトップは情報局次長であり、内務官僚のほかに、東京日日新聞の政治部長、日本放送協会専務理事や出版会会長を務めた久富達夫が2回にわたり就任した。これは、報道現場を知る幹部を据えることで報道機関にニラミを利かす狙いもあった。

 陸海軍は、形としては内閣情報局に組み込まれながらも、別の報道管制の機能を持った。それが「大本営」だった。戦時、事変にあたり設置される、天皇直属の最高統帥機関で、天皇の輔弼機関として政府機関から独立した強大な権限を握った。日清、日露戦争時に置かれたが、1937年の日中、太平洋戦争時には常設となり、戦争の状況報道などはすべて大本営の発表に従い、戦況など偽りの内容も多く、国民には各地での戦勝ばかりが伝えられることになり、世論を大きくミスリードした。
 新聞社などは大本営発表以外の報道は許されず、やむを得ない状況に置かれたが、とはいえ結果的に報道がもたらした責任から逃れることはできない。それでは、どうしたらよかったのか、その答えは出せない、というしかない現実の壁があった。
 大本営設置以前は、「参謀本部」が天皇直属の中央統帥機関として機能していたが、37年の新設により大半の任務は大本営に移された。
 戦局が厳しくなった終戦1年前の44年8月、それまでの大本営政府連絡会議を廃止して、「最高戦争指導会議」が設けられた。内閣の下に国務(政府)と統帥(大本営)の一元化を図ろうとするもので、首・外・陸・海の4相、参謀総長、軍令部総長が参加した。
 しかし、一元的な戦争指導はできず、政府と軍部の連絡調整の機能にとどまった。

(4)民衆に蓄積された好戦気分 国民大衆にとって、戦争とは「勝って、賠償金や領土の配分を受けるもの」といった意識が、日清、北清、日露、第1次大戦などの戦争の勝利経験によって根付くようになっていた。神風の吹く日本が負けるわけがない、といった信仰である。
 しかも、政府や軍部は実態以上に強国日本を宣伝し、日本民族の優秀さを過大にアピール。その一方で中国や朝鮮の民族について、劣等で貧しく、国は乱れ、日本を敵視する集団、といった差別、侮蔑の意識を鼓吹していた。そのような民族に負けることなどあり得ない、と信じ込ませた。大衆は、現実の姿を知らされず、軍部が危ない橋を渡り、運によってなんとか勝ち進んだこと、財政規模に見合わない過剰な軍事費をつぎ込んだこと、などは知らされていない。海外諸国の帝国主義的侵略の実態も、ほとんど知ることもない。比較のない、井の中の蛙状態だった。
 さらに、国民皆兵として徴兵され戦場で死んでも、家族たちはその悲しみよりも、靖国に祀られ、国家や天皇のために命を投げうったという誇りの方を信じたがった。身内を殺した敵国の人間を恨み、憎み、さらに報復を思う。身内が命を捧げた以上、勝利の分け前があって当然、といった気分も生まれた。報道に惑わされ、島国の狭い世界からは、戦争事態の裏側、侵略された相手民族の苦衷や嘆き、国家による誇大宣伝の実像などは読み取れるはずもない。
 したがって、日本の大衆は、戦勝時の美酒に酔い続け、旗行列に浮かれ、次の戦争も勝つものと信じた。

 この状況では、政府や軍部の宣伝が全面的に信じられ、徴兵でも、供出でも、内心はともあれ応じざるを得なかった。それは、否応なく戦争待ちの好戦的な気分につながっていた。異論も議論もない一枚岩の社会では、ブレーキも利かない。
そうした土壌に乗る新聞は、この大衆の気分に逆らえない。彼らは、大切な購読者であり、新聞の経営者にとって、この市場を黙視した紙面づくりをすることはできなかった。

*** 内圧
 では、このような環境に置かれた新聞報道と経営は、どのように振舞ったのか。社会的な外圧に対して、新聞内部の計算や迷いを「内圧」として考えたい。
 念のためだが、あまりにも巨大な「外圧」に抵抗しがたく、内圧がもろくも戦争支持に傾斜した、やむを得なかったのだ、と言うつもりはない。ほかに打つ手はなかった、とも言いたくない。
 結果的に、そのようになったことは、明らかに批判されるだろう。ただ、不十分ながらも戦時の状況を見つめ、先人の言動をトレースし、新聞人としての責任を感じつつ、この経験が将来にどうすれば生かせるか、という視点から考えるしかない。
 もうひとつ、当時「承詔必謹」なる言葉が飛び交っていた。天皇のおっしゃることは必ず謹んで受け止めよ、という意味合いだが、これは国家権力にとって、言論を封じるにもってこいのセリフで、これを守らないことは非国民の証しにもなった。天皇を利用した言論統制の装置であり、この効果も戦時の報道に重くのしかかっていた。

(1)経営か報道の使命か 新聞事業はあくまでも営利事業の上に成り立つ。一方で、報道の内容に責任を持ち、伝えるべき情報を的確に提供する暗黙の了解がある。読者迎合の興味や面白さ本位の売り方、権力の代弁や一方的攻撃・擁護といった報道姿勢は採らない。基本的に公平、公正で客観的、極力広い視野で報道にあたることが、記者、編集者の理念だといえよう。難しいことだが、そのようにありたい、と多くの記者たちは願う。
 記者や編集の立場とは相容れない要請が、新聞事業には付きまとう。経営の基盤は、一定の読者からの購読料やスポンサーからの広告収入にあり、この収益が事業自体を成り立たせている。一方の経営の立場は、読まれやすい記事、また社会の大きな流れに逆らい過ぎない姿勢を求める。
 この相克が、小資本の新聞社のなかで繰り広げられる。報道の原則か、経営基盤の維持か、である。「戦争というもの」を避けるべきだ、という本来の主張と、片や読者の求める報道でなければ、事業の存続はできなくなる、とする現実路線との衝突である。

 現時点でかつての事態に可否を言うことは可能だ。だが、戦争の始まろうとするなか、推進する国家権力がさまざまな法的、制度的な統制を仕掛け、ガンジガラメにされていく環境のもとを考えると、机上の空論は述べられない。当時なら、気弱に妥協し、権力に追随していたに違いないからだ。とはいえ、その姿勢でよかったのか、と問われれば、やむを得なかったにしても、認めたくはない。

(2)岐路になる満州事変 ここでは、日中戦争を迎えたとき、戦争に向けて社論を転換していく朝日新聞の幹部たちの苦悩の言動を紹介したい。『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』1991年)などを参考とする。

 1931(昭和6)年9月18日夜、日本の関東軍の策謀で旧満州・瀋陽(当時奉天)に近い柳条湖付近の南満州鉄道の線路が爆破され、その直後に中国軍への攻撃を開始した。19日の東京朝日(以下東朝)の紙面は、発端は中国側の仕業として、「奉(天)軍 満鉄戦を爆破」との見出しを載せ、大阪朝日(以下大朝)は「日支兵衝突激戦中」とし、文中で電通報として「暴戻なる支那兵が満鉄駅を爆破し我守備兵を襲撃」とした。
 東朝は9月8日付社説で「支那側の対日態度にかんがみ、外務といわず、軍部といわず、はたまた朝野といわず、国策発動の大局的協力に向って、その機運の促進と到来とをこの際日本のため痛切に希望せざるを得ない」としたため、編集局整理部員は、社論は対中国強硬論に転換した、と判断した、という。だが、社は満蒙問題の社論をまだ決定していなかった。

 この直後に、大朝本社にやってきたのは右翼の笹川良一(のち国粋大衆党総裁)、次いで内田良平(黒龍会主幹・大日本生産党総裁)だった。一方、東朝の緒方竹虎編輯局長は、「満州独立論」を説いた小磯国昭陸軍軍務局長を訪ね、美土路昌一(戦後に社長)は参謀次長に会うなど、状況掌握に努めた。小磯は「現地軍任せ」といい、参謀次長は「朝日は反軍の張本人」といったという。

 9月20日、東朝の社説「権益擁護は厳粛」で、中国側の日本権益侵犯を批判し、「一日も早く外交交渉に移して、これを(満州という)地方問題として処理」すべきと主張。23日には、前々日に朝鮮軍司令官林銑十郎が独断で満州への越境出動を開始したことで、「帝国陸軍が帝国政府と別個の行動を執り得るはずはない」と警告した。これらの指摘は妥当だが、侵略の実態からすれば、穏やかに過ぎるが、刺激を避けたい配慮はうかがえる。
 まだ影響力を持つ朝日に対する、軍や政府、世論の波に乗じる右翼などのプレッシャー、あるいはそれなりの配慮が字面に現れているようだ。大朝は20日の社説で、事件の局地化で対応することを望み、「特に此際出先軍部に対して必要以上の自由行動をせざるよう厳戒すべき」と書いて、軍部や右翼の攻撃を強めた。

 ところで、大朝の立場を見ておこう。かねて普選を説き、軍縮を主張し、大正デモクラシーの陣頭に立ったメディアである。大正の中頃、普選阻止、米騒動、シベリア出兵決定などに批判の高まる寺内正毅首相に対して、関西新聞界はこぞって批判、記者の批判大会が盛り上がっていた。大朝は1918(大正7)年8月、この大会を伝える記事のなかで、不穏を意味する「白虹日を貫けり」の言葉を掲載したとして、激しい攻撃をかけられた。
 その結果、村山龍平社長、鳥居素川編輯局長、長谷川如是閑社会部長、丸山幹治通信部長(丸山眞男の父)、論説の大山郁夫らが総退陣している。満州事変はその10余年後、騒動の打撃から立ち直った時期でもあった。

 満州事変に先立って、現地では万宝山事件、中村大尉虐殺事件といった不穏な事態が続き、国内には反中国の機運が高まっていた。満蒙強硬論の南次郎陸相が「門外無責任の位置にある者」が「みだりに軍備の縮小を鼓吹し国家国軍に不利なる言論宣伝を敢てする」といった激しい演説をぶてば、東朝、大朝ともに厳しい姿勢をとった。このように、朝日新聞と政府や軍部との関係は極めて対決的だった。

 社内の動きが続くが、社説の変化を見ていこう。
 満州の扱いについては当時、諸説があった。①満州は国民政府統治の中国の一部<民政党の浜口雄幸ら>、②万里の長城以南の中国本土は国民政府の統治を容認し、長城外の満蒙は張作霖ら奉天財閥<日本の影響下/政友会の田中義一首相ら>、③中華民国の主権存続のもとに満州を分離し、日本の実権掌握下の新政権樹立<関東軍の一部>、④満蒙を領有し、対ソ戦争に備えるため、中国主権を認めない<陸軍中枢と参謀本部第1部>、などに分かれていた。 
 満州事変後、ハルビン特別区、黒竜江省などの独立の動きが出ると、10月1日の東西朝日の社説に大きな違いが出た。東朝は、厳格な不干渉主義を求め、独立国家のできる、できないよりも、日本がなぜ権益擁護、懸案解決に必死であるかを国際的に認識させることが急務であり、根本だ、と主張。一方、大朝は「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」とうたった。さらに、国民政府が満州にまで日本権益の一掃を図れば、日本と衝突して、満州の各州は独立運動により国内紛争、国際紛争防止の措置が必要になる、といった趣旨で「満州緩衝国設置」の論を説いた。
 大朝は、中国ナショナリズムを肯定し、満州の東北各省は中国の一部、という認識を示していたが、この緩衝国化の論はその持論を捨てた、ことであった。

 10月12日、大朝は幹部や各部長らの会議を開き、「社説を統一して国論をつくる大方針」を協議、翌日には部長会、次いで整理部、支那部の現場記者に説明した。だが、「この事変で英米を刺激、ひいては世界戦争に拡大しないか」「このまま軍部の独走を許すと、日本は破滅を見ないか」など、反発は収まらなかった。その一方で、現役・予備役の軍人らは、事変関係の記事の扱いが小さい、といった大朝不買運動を続け、右翼などの数々のいやがらせが頻発した。
 12月に、若槻礼次郎から犬養毅の内閣に代わる。大朝は、その衆院、貴族院での荒木貞夫陸相の謝辞を掲載しなかったことを機に、整理部員らのかつてない大量の配置転換が進められた。これが一応の幕引きとなったのだが、整理部員たちの主張がむしろ正しく、のちに悪い方向に進んだところに、この現実的な打開策の誤りが証明されることになる。
 朝日新聞にとって、「広く先を見る」大切さと、周囲の巨大な外圧の回避策との、厳しい対立だった。こうした場面は、いまも決して珍しいことではない。このような厳しい体験が新聞を生き残らせていく糧となり、新聞記者を育てる土壌になるように思われる。

(3)購読者の存在 先に触れたように、読者あっての新聞である。経営の基盤でもある。
 したがって、この対応は重要だ。そこで、読者たちの受け入れやすい「流れ」に乗るか、説得して「筋」を通すか、という厳しい選択を迫られる。読者は世論を表すものであり、「筋」だけで紙面を作っていていいものか、読者の空気に沿う紙面の方が優先すべきではないか・・・当時の朝日社内では、そのような議論、ないしは論争の前提になっていただろう。
 当時の読者の多くは、戦争支持論が大勢だった。日清、日露、第1次大戦と勝ち進み、大筋では賠償金などのメリットを手にしており、この戦いに勝てば当然、中国大陸への侵出が可能になる。それによって、一般の国民には日常の苦しい経済状態を打開してくれる、と思う。当時、天皇、政府や軍部の国家権力がアピールする状況からすれば、そのように信じるのが当然でもあった。言論統制下での、権力の宣伝は国民に信じられていた。世論は誘導され、大勢は好戦的だった。
 だが、メディアは長期的、かつ国際情報を見てきた経験から「筋」を紙面化したい、と考えたとしても、国家の検閲の分厚い壁を超えることは極めて難しいことだった。
 そこで、新聞社として2者選択に追い詰められる。編集局のかなりの部分には「筋」論があり、経営幹部や収入部門の販売、広告の立場からすると、売れない新聞では納得できない。売れなければ、あるいは不買運動が広がれば、経営は続け難いのだ。

 それが、先に触れた社論の転換につながった。
 もちろん、記者たちの間でも、戦争推進の軍部や政府内部、議会関係などの担当者は、取材しにくく、あるいは政府などの言い分に同調する者もいる。戦争に向かう世相からすれば、現実路線になじむ記者がいてもおかしくはない。

          <路線を転換した新聞のあがき>

 戦争回避、日中関係の柔軟対応、軍部台頭の警戒、といった路線を変えざるを得なかった朝日新聞だが、大阪と東京の社説はそれぞれ筆者も内容も別々に書いており、時折立場の違いを見せていた。政府や軍部との接触の多い東京は情報も早いが、気遣いしがちになる。一方、距離的にも離れた大阪は、ある意味で第3者的な視点から、クールに状況判断ができる。
 当時の東京主筆の緒方竹虎、大阪で論陣を張った主筆の高原操と、彼に先立つ編集局長鳥居素川(白虹事件で引責)が双璧で、緒方自身が東西朝日の足場の違いを指摘している。緒方は戦後に首相候補と目されたほどで、当時も政府や軍部に知人が多く、高原は白虹事件後に編集局長、主筆になり、大正期には「普選と軍縮の高原」といわれていた。両者の主張に違いが出て不思議はなかった。しかし、2・26事件(1936=昭和12年)のあと、東西の論調の開きが問題になると、緒方の意向もあり、筆政一元化、単独主筆となって、高原は満州事変勃発直後に筆を折り、1940年に身を引くことになる。

 以上が、満州事変を支持する立場に変わった朝日が次第に軍国調を高めていく節目だった。
 ちなみに、二人はともに福岡県出身、修猷館(中学)では緒方が11年後輩、という関係にあるが、立場はかなりの違いがあった。余談だが、高原の五高時代の先生は夏目漱石で、朝日入社は一緒の年だったという。
 大阪の朝日新聞記者だった後藤孝夫は、丹念に当時を分析して、450ページに及ぶ『辛亥革命から満州事変へ―大阪朝日新聞と近代中国』を書いた。1911年から31年までの20年間の大朝の社説1287編を解読して、朝日は国内の大正デモクラシーのよりどころであった立憲主義と、海外進出の波に乗る帝国主義という矛盾のうえに立脚し、進歩的とされてはいたものの、この矛盾が戦争にのめり込む岐路になった、と見る。余談ながら、若い記者には、この労作を読むことを勧めたい。

*** 大朝社説の抵抗
 朝日新聞の立場が次第に厳しくなるなかで、大きな路線の転換はあったが、それでも東朝、大朝とも弱いトーンながら、権力を監視し、問題点緒を指摘して、2、3年は従来の主張の維持に努める。満州事変勃発、満州国建国のあとの5・15事件、国際連盟脱退のころの社説を見ておこう。
 だが、激動の続くなか、紙面全体が戦争礼賛に染め抜かれていく。時代に飲み込まれた多くの記者自身の変容もあり、その風潮が紙面を変えていった。一度選んだ道は変えようもなく、加速され、ゆがみ、ひずみを増すばかりだったことが示されている。

(1)5・15事件とファッショ化批判 右翼血盟団による井上準之助前蔵相の暗殺(1932=同7年2月)、団琢磨三井合名理事長射殺(同3月)のあと、東朝社説は「議会政治の現状に対する不満は直に議会政治の打倒の結論に導く必至関係を持って居るかどうかであり、改善修正に一指も染めずして直ぐに打倒に急ぐ一部憂国者の性急短慮を惜む」(4月13日)と書いた。トーンは弱いが、朝日は政情を批判するにあたり、各種の見解が出されるべき議会がものを言わず、本音としてはそのだらしなさを嘆きつつ、このように言わざるを得なかった。新聞報道は、多様な意見が出されてこそ、その対比において是非を述べ、方向も示すことができるのだが、その舞台である議会が、国家権力のもと、かつ迎合的姿勢に陥って、言論を麻痺させてしまった。
 5月7日には、「何を語る? 政界の無風 政治、諸党派みな不安 頻に動くファッショ勢力 注目される臨時議会」を、夕刊一面トップに置いた。

(2)5・15事件批判 直後の5月15日、国家改造を叫ぶ海軍、右翼らが首相官邸などを襲い、犬養毅首相らを殺す。5・15事件である。大朝の高原は、「言語同断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照しても、また軍律に照しても、立憲治下における極重悪行為」と、軍部を「痛烈に批判」(『朝日社史』)した。のちに注目されたのが、福岡日日新聞の菊竹六鼓の社説だった。犬養に傾倒しすぎる感はあったが、「あえて国民の覚悟を促す」との社説で「暗殺というよりも一種の虐殺であり、虐殺というよりも革命の予備運動」と看破し、「近来右傾的運動のぼっ発に乗じ、左傾運動者輩が、国家民族の仮面をかむり、ファッショという流行語を仮り来たりて、ややもすれば国民を扇動せんとするあり、或は政治的野心家輩が、その政権欲を遂げんが為に、陛下の軍隊と軍人とに誘惑の手を延ばさんとするあり」と、この先に起きてくる危険な事態を見抜いていた。

(3)政党政治の擁護 この事件後の5月17日から26日までに大朝、東朝とも8本の社説を通して、政党政治、国民政治の確立、憲政の常道を擁護し、これを否定する風潮、そして「挙国一致内閣論」「軍部の政治関与」に反撃した。そして登場したのが、“温厚”とされた海軍出身の斎藤実首相だった。これは「政党内閣」から「挙国一致内閣」という、ある意味で民意を反映せず、政権の決定がそのまま遂行される体制の始まりになる。斎藤のもと、「満州国」建設、国際連盟脱退などファシズムの道を進み、斎藤自身が2・26事件で殺害される、という皮肉な結果になった。

(4)国際連盟脱退に「慎重」 1933(同8)年2月14日、国際連盟でリットン報告書と満州国不承認が全会一致で決まる。24日の総会では、42対1で対日勧告案を可決、松岡洋右全権は退場、3月27日脱退を通告する。この国際的孤立について、大朝社説は「この勧告に憤慨して早まった行動を採ることはこの際慎まなければならない」、東朝は「勧告書は判決文にあらず」として「勧告を応諾すると否とは、一に当事国の裁量に存する」「勧告書がたまたま日本政府と見解を異にした事実そのものは、決して憤慨に価しない。国策は冷静透徹せる判断の下に決せられねばならない」とした。
 今思えば、いささか生ぬるい論調だが、当時の政情としてはこれが精いっぱいだったのだろう。

(5)滝川京大事件に怒り 1933(同8)年、京都大学教授滝川幸辰の姦通罪、尊属殺人、内乱罪の考え方を、まず超右翼の慶応大教授蓑田胸喜らが「赤化教授」として、美濃部達吉、牧野英一、末弘厳太郎らとともに攻撃。鳩山一郎文相や議会も、これに便乗して追及した。その結果、滝川はじめ佐々木惣一、末川博ら6教授が依願免職となった。反発する教授らはすでに39人が辞表を出していた。学生たちは抗議の大会を開き、東大でも同調する怒りの大会、デモが行われた。
 朝日をはじめ、各紙が批判したが、この事件を機に学者や学生への弾圧が強まり、右翼らを勢いづかせて、美濃部の「天皇機関説」など、学問や言論の抑圧が強まっていった。
 このころ、獄中の共産党幹部佐野学、鍋山貞親はじめ三田村四郎、風間丈吉、田中清玄らが相次いで転向して、反政府、反軍部などの抵抗勢力は大きく減退していくことになる。

*** 戦時下の社説の変容
 開戦当時の迷いや抵抗は、次第に弱まり、戦争の支持・正当化から、戦争礼賛・激励にトーンを変え、敗色濃厚になると悲壮な、神がかり的な論調になっていった。冷静とか、客観性とかの新聞の使命からすっかり外れてしまった。あえて、終戦2年ほど前からの、いくつかの社説を引用しておこう。いくらでも、愚かな社説を拾い出せるが、数本にとどめておく。
 戦争勃発時の悩ましい思いなどは消えて、「神風」来援的、精神力のみが頼り、天皇尊崇の表現はうつろ、説得力を欠く非論理的表現など、これがかつての朝日だったか、と思わせる稚拙な社説というしかない。記事も同様だ。しかも、なによりも、戦局の不利を書き続けながら、敗退の結果に思いを馳せることなく、国民鼓舞の文言を連ねている姿はみじめというしかない。

(1)不滅の大精神を賛う(1943=昭和18年4月25日) 「大義のために死を見ること帰するがごとく、純忠至誠、後世国民をして感奮興起せしむる忠臣烈士の亀鑑はわが国史を飾っているのである。しかしてこの大精神は今日わが国民の何人にも強く把持せられ、醜(しこ)の御楯として大君の辺にこそ死なめの念に燃えないものは一人としてないのである」

(2)山本(五十六)元帥を悼み且誓う(同年5月22日) 「誠に武人として至高至大の栄誉たると同時に大御心のほど恐懼感激に堪えざるところである。・・・・・刻下内外の情勢極めて重大、戦局また最も深刻にして事態は一瞬一刻の苟且偸安(こうしょとうあん=将来を考えず一時の安楽に逃げる)を許さない至厳なるものがある。・・・・・ここに恭しく元帥の戦死を悼むとともに国民をあげて元帥の崇高壮烈なる精神に生きんことを神明に誓い奉る」

(3)報道と盛り上がる戦意(同年6月6月4日) 「(山本元帥戦死という)悪材料発表による国民士気の沮喪を、極端に恐れる米英としては、かつは怪しみ、かつは日本国民の士気低下を期待したであろう。だが、かれらは、日本人は日本人である、という簡単明白な事実を、認識しえないのである。そして、わが大本営発表の正確さ、迅速さに対する信用が、世界の果てまで浸透し、それがやがて、米英政府に対する米英国民の不信となってゆくのを、当惑しながらも、どうすることもできないでいる」

(4)学徒兵士に栄光あれ(同19年11月29日) 「(この年9月、東条内閣は学生らの入隊を決定、10月に第1回入隊学徒の壮行会を明治神宮外苑競技場で開いた。いわゆる学徒動員である。)人生の行路を味い尽したとも、学の蘊奥を極めたともともいい難いものが珍しくないかも知れぬ。・・・・・祖国永劫の発展は諸君五尺の短身を要求している。・・・・・諸君こそ誠に選ばれたる至幸の者といわねばならぬ。・・・・・良き学徒と良き軍人とがその精神において完全に合致する事実を、今こそ学徒軍人は身を以て立証すべきであろう」

(5)ガ(ダルカナル)島の勇士に応えん(同年8月18日) 「(ガ島に飛行場建設完成直後、米海兵隊に占領され、少数兵力で守れるとの大本営の目算が外れ、再攻撃も敗退、米軍勝利の第一歩になった時点で)七生報国は皇国武人の素懐である。不屈必勝といい、見敵必殺という、いずれも七生報国の熱祷から迸り出づる我が陸海軍の伝統的精神にほかならない。・・・・・道はある。戦力増強の一途がこれであって、これ以外にない。戦力を急速に増強して太平洋戦局に攻勢転移の好機を捕えることである。これ以外にはない。そのためには驕敵撃滅の翼を増産することである。今なおガダルカナル島に展開している密林の戦場は、銃後の生産工場に通じている。孤立無援の最悪なる条件下に苦闘する勇士の闘魂は、これ斉しくわれら銃後国民の闘魂でなければならない」

(6)宸襟を安んじ奉らむ(同20年4月18日) 「(沖縄戦は4月に米軍上陸の事態となっていた。)琉球島を挟む彼我の攻防戦は正に激烈を極めておる。思えばサイパン、レイテ、硫黄島と順次その野望を西太平洋上に擅(ほしいまま)にし、暴戻飽くところを知らぬ敵の北上戦略は刻一刻、前進の一途を辿っているかに察せられる。琉球の運命の如何にかかわらず、敵の我が本土侵寇は愈々苛烈の度を加えるものと見なければならぬ。・・・・・時ある哉、畏くも優渥なる勅語を拝するを得ると共に、特に救恤振作のために御内帑金を賜う、誠に感奮の極みと申上ぐるのほかはなく、挙国一致、総蹶起の赤心を愈固くしたのは素よりそのところである。・・・・・唯々宸襟を安んじ奉らんことを誓い奉るのみである」

          <社説と雑報記事・イベント等との落差>

 当時の社説といえば、東朝の場合、大体3ページ目にベタの扱いで15字、80行程度、つまり400字詰め原稿用紙3枚程度で掲載される。場所はページの最上段ではあるが、横一段、タイトルの見出しのみで、「社説」とかのカットもない、極めて目立たないものだった。よほど教育レベルの高い読者でなければ読まないし、影響力も乏しい。表現も難解で、趣旨判断に至りにくい。

*** 時流に乗る報道記事
 社説に比べて、報道記事の扱いは紙面上当然大きく目立つし、読者によく読まれて、反応も大きい。記事は次第に、先に紹介した社説同様に、日本軍礼賛・連戦連勝の様相・敵対国への分析なき攻撃と誹謗といった色に染め抜かれていった。
 だが、クールに記事を読んでいくと、戦争の当初はともあれ、日本が敗退の道を歩み続けていることは明快にわかる。戦争礼賛の記事ながら、そこには「事実」も読み取れる。読者も、冷静さを欠き、大本営などの発表を鵜呑みにし、先入観となっていた「日本は勝つ」の神話に溺れていた、と今なら感じざるを得ない。「戦争というもの」を幅広い情報のもとに考え、徐々に進められる戦争への体制に巻き込まれない判断力があれば、日本の数百万、諸外国も含めれば1千万台といわれる死者、不明者、負傷者を出さずに、別の道があったのではないか、と今さらのように思う。こうした経験を知り、国家権力の誤りを早期に読み取れることが、着実に戦争状態を生み出す流れを食い止める一助になるのではないか。

 「大本営発表」の記事でさえ、日本の敗退間近、を感じさせるものが多く、せめてヒロシマ・ナガサキの悲惨を体験する前に、国家権力にはなすべき任務があったはず、と思わせる。ただ、法的にも、制度的にも、国民の大勢の意識にしても、戦時体制にガンジガラメにされ、異論の出しようのない社会を作り上げてきたことも、あらためて思わざるを得ない。
 ここでは、朝日新聞の太平洋戦争以降の見出しを大まかに見ていきたい。ちなみに、記事は強軍、援軍の表現に満ち、国民の鼓舞に徹底している。

・「ハワイ・比島に赫々の大戦果」「米海軍に致命的大鉄槌/戦艦6隻を轟沈大破す 航母1、大巡4をも撃破」(1941=昭和16年12月9日)
・「我奇襲作戦の大戦果確認/白堊館当局も甚しく驚愕/死傷者三千、損害予想以上」(同月10日夕刊)➡白堊館=米ホワイトハウス。
・「我損害、率直に公表/米、苦しまぎれのデマ」(同月11日)➡帝国海軍が航空母艦1隻を失った、との米側情報に対して。
・「米英撃滅国民大会/八社共同主催/正義の矢放たれたり/先勝に酔はず鉄の団結肝要」(同月11日)➡緒方竹虎主筆(朝日)、徳富蘇峰社賓(東日=現毎日)、正力松太郎社長(読売)はじめ報知、中外商業新報(現日経)、都、国民(ともに現東京)、同盟通信(現共同、時事)の8社出席。
・「大東亜戦争/大理想、直截に表現/対米英戦の呼称決す」(同月13日)➡「大東亜10億の民族を圧迫搾取し、その支配を永久化する」米英に対して、「『共存共栄』の理想的新秩序を建設する」帝国政府、とその記事は書く。
・「この万歳、全世界も聞け/一億の歓喜と感謝けふぞ爆発/神前に赤誠の人並み/首相ら靖国社頭に感激の祈念」(1942=同17年2月19日夕刊)➡英国統治のシンガポール陥落により、「大東亜戦争戦勝祝賀第一次国民大会」が開かれた。東京市と朝日共催の大音楽行進では、野村秀雄編輯局長が陸海軍万歳の三唱。その見出しは「絢爛 勇武の捷歌/帝都に轟く音楽行進」 
・「けふ帝都に敵機来襲 九機を撃墜、わが損害軽微」(同年4月19日夕刊)➡米軍による初の空襲。翌日の朝刊見出しは「初空襲に一億沸る闘魂/敵機は燃え、墜ち、退散/バケツ火叩きの殊勲 我家まもる女手/街々に健気な隣組群」

・「けふ出陣学徒壮行大会 沸る滅敵の血潮/進め悠久大義の道 敵米英学徒を圧倒せよ 首相訓示」(1943=同年10月21日夕刊)➡記録映像では雨の中での大会だったが、雨の様子は触れられていない。気象についての報道規制か、デスクによる削除だったか。
・「数万の大軍兵糧攻め インパールの敵、重大危局」(1944=同19年5月28日)➡牟田口廉也司令官による無謀な戦闘はこの戦争での最大級の失敗とされるが、特派員のこの記事では弾薬、食糧名護に苦しむのは敵側、と書く。
・「神鷲の忠烈 万世に燦たり 敵艦隊を捕捉し必死必中の体当り/機・人諸共敵艦に炸裂/誘導の護衛機、戦果確認」(同年10月29日)➡敵艦戦に爆弾を積んだ飛行機で、死を前提に出撃した神風特別攻撃隊(大西滝次郎海軍中将発案)は終戦10ヵ月前に始まり、片道飛行の約3000機で3700余の若い生命を失った。同日紙面の解説記事には「身を捨て国を救ふ 崇高極致の戦法 中外に比類なき攻撃隊」の見出しが立つ。続いて「神風隊、連続猛威振う 戦巡艦など十隻と空母九隻撃沈破 群がる敵機排除」(同年11月1日)とある。
・「B29約百三十機、昨暁帝都市街を盲爆 約五十機に損害 十五機を撃墜す」(1945=同20年3月11日)➡死者8万以上、負傷4万から10万余、被災者100万といわれる東京大空襲。19日紙面では、被災地視察の天皇に随行した記者が「今はただ伏しては不忠を詫び奉り、立っては醜(しこ)の御楯となり・・・・・この不忠の民を不忠とも思召されず、民草憐れと思召し」と書いた。どこまでが本音か、美文調の文体が空々しい。
・「沖縄本島に敵上陸 主力は南部地区に 更に十五隻撃沈破/我陸上部隊、果敢の邀(よう)撃」(同年4月2日・大本営発表)、「沖縄 陸上の主力戦最終段階 軍官民一体の善戦関東三箇月/廿日敵主力に対し全員最後の攻勢/殺傷八万、撃沈破六百隻」(同年6月26日)➡なお、16日の記事では「離れ島消耗戦の意義は、敵に出来得る限りの出血を与え、時を稼ぐところにある。最後の勝負を決するのは、いうまでもなく本土決戦である。・・・・・本土決戦のこの大陸作戦的利点を生かすのも殺すのも、戦場に協力すべき一億国民の必死必勝の覚悟如何に懸る」と、本土決戦の覚悟を国民に迫っている。

*** 戦争に拍車をかけるイベント類
 新聞社を支える販売と広告の部門は、「質」もさることながら「量」、つまり購読者の多いこと、その人々の関心の赴くものに関心が高い。職務上、当然だろう。少数派になっても、正統な社説は重要だが、多くの人を惹きつける記事や行事も必要である。このような立場からは、発言力を握る政府や軍部の意向、そこに傾斜する大衆庶民の性向に逆らうかの論調は、本音として困惑のタネでもあろう。
 一線の記者たちにも、取材現場の動きを追って記事を書くなかで、取材先の空気に染まっていくこともあろうし、相手からプレッシャーのかかることもあろう。また、世間の雰囲気になじめば、視野も狭まり、目先の現象に飲み込まれることもある。ぐらつく社論や原則に寄り添う記者よりも、現場の現実を選ぶ記者が増えてもおかしくはない。大勢が変化してくれば、取材現場と営業の職場の受け取り方や取り組む姿勢は接近してくる。

 戦争加担の話題に戻して、事実関係を列挙しておこう。営業部門を中心に、購読者から離れたくない、社会の大きな流れに沿うべきだ、との意識が強かったのだろう。

・「在満将士慰問金募集」(1931=昭和6年10月) 異論の強かった大阪整理部などの配置転換などに先だつ、「満州事変支持」の社論決定の直後に、この社告を出した。1年足らずで、総額45万円余の多額が集まった。学卒の初任給が7、80円の時代だった。 
・慰問袋2万個(同年10月) 朝夕刊以外に戦争報道の号外も多く発行配布し、感動した読者が各地で慰問運動を広げ、朝日は「慰問の微意を表する」として慰問袋や慰問金募集の社告を出した。関東軍から感謝状が贈られたことも記事になった。
・「肉弾三勇士の歌」懸賞募集(1932=同7年2月) 盧溝橋事件後の上海事変に苦しむ陸軍だったが、3兵士が鉄条網爆破を試み爆死、軍は日露戦争の広瀬中佐にならぶ「軍神」として宣伝。大朝は「これぞ真の肉弾!壮烈無比の爆死」とうたい、この歌の懸賞募集をした。2週間程度で12万5,000編近い応募があった。山田耕筰作曲でレコード化され、まさに戦争礼賛の世相に便乗して、当てたのだった。この記事は美辞麗句、大仰のものだったが、実はのちに誇大な作文的報道と分かる。同様の兵士はほかに3人いたこと、戦場光景に誤認報道があることなどが、当時の現場にいた元兵士が証言したのだ。 
・戦争報道と航空機 満州事変勃発の1931年9月から上海事変中の翌年2月までに、朝日の大陸派遣は記者、カメラマン、航空機関係など117人に及んだ。記事、写真の輸送にあたった飛行機は11機で、飛行回数296回、距離は14万キロを超えた。号外発行は大朝204回、東朝146回。社有機のほかに、陸軍省は新聞社機の活用を重視し、31年6月末には朝毎電通3社に軍用機を貸与した。軍との関係は強まる方向にあった。
 社機に海軍参謀ら要人を乗せて最前線の偵察飛行もして、朝日、海軍の連携飛行は1年余続いたという(『新聞と戦争』朝日新聞出版)。
・主催イベントに大人気 「満州事変一周年記念展覧会」(1932年、大阪)、「支那事変聖戦博覧会」(1938年、西宮球場など・145万人の入場収益15万円を軍用機献納義金に)、「戦車大博覧会」(1939年、靖国神社・名古屋・関西)、「大東亜建設博覧会」(同年、西宮球場)、朝日社員出向の会社による「国策紙芝居」政策や興業(1940年)など多様で、戦争機運を高めた。

・神風号の訪欧飛行(1937=同12年4月) 朝日社機が1万5,000キロ余のロンドンに、51時間20分ほどで飛び世界新記録を出した。全国的に話題をさらい、朝日は飛行時間予想の懸賞募集を出したところ、応募は実に474万通。また、全国の小学生に1,200万枚の航空絵葉書を贈るなど、増紙によって購読、広告収入が増え、社益を潤した。
・出版事業も好調 『アサヒグラフ』は太平洋戦争で内容が一変して聖戦完遂型に。『映画朝日』は『航空朝日』に。『大陸画刊』(華字誌)、南方向け『太陽』(情報局の委嘱)、『ちから』(大日本産業報国会の委嘱)、『週刊少国民』など、かつての文化的傾向から戦時色に変わっていった。''
・「軍用機献納運動」(1937=同12年7月) 日本人居留民200余人が中国保安隊に虐殺された「通州事件」、上海派遣隊長大山勇夫中尉ら2人が中国保安隊に射殺された「大山事件」を機に、この運動を呼び掛けたところ、約462万円の献金があり、陸海軍に爆撃機、偵察機、戦闘機など計60機を献納した。社として10万円、飛行機の朝日、の余韻があった。
・軍歌も募集''(1938=同13年) この年の「皇軍将士に感謝の歌」で生まれた「父よあなたは強かった」のレコードは3ヵ月半で50万枚近く。朝日は戦争ごとに歌を募集、満州事変が始まって「満州行進曲」、32年の上海事変で「肉弾三勇士の歌」、日中戦争がはじまると「皇軍大捷の歌」、40年に「興亜行進曲」など。東京日日、大阪毎日は「爆弾三銃士」と名付け、同様のイベントを興した。 

・満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会(1939=同14年) 明治神宮外苑競技場での大会のあと、カーキ色の制服、戦闘帽、リュック姿の16-19歳の青少年が上野まで大行進。広田内閣が36年、関東軍の20年間100万戸・500万人派遣の計画をもとに政策化した一環で、朝日主催の壮行会。終戦までに8万6,000人が送り込まれた。引き揚げた若者も、大陸の土に埋もれた子も。朝日は、義勇軍の入門書、満州開発の啓蒙書や小説を出版、またこうした事業を推進した「満州開拓の父」とされ、この義勇軍の訓練所長だった加藤完治に41年、「朝日賞」を与えた。
・「撃ちてし止まむ」(1943=同18年2月) 陸軍の決戦標語として選び、朝日は当時の有楽町本社の壁面に百畳分の、星条旗を踏み、手りゅう弾を持って突撃する兵士の写真を掲げ、紙面でもこのタイトルの連載記事を掲載した。ちなみに、戦時標語として知られた「欲しがりません勝つまでは」は前年、大政翼賛会と朝毎読3紙が募集した「国民決意の標語」だ。「聖戦へ 民一億の 体当り」「国が第一 私が第二」「贅沢は敵だ」などの標語もあった。
・社長も軍用機献納に率先(1941=同16年12月) 太平洋戦争開始後、献納運動の社告を出して、社が10万円、社長村山長挙と社主上野理一が各1万円を寄付。1937年の運動以来、740万円余で116機を献納。社告に「千機、二千機われらの手で」とある。
・「銃後婦人の一日入営」(1942=同17年12月) 2,400人を対象に、朝日と大日本婦人会支部が主催。この年10月には、「敵国米英豪実相報告講演会」を日比谷公会堂で開き、中村正吾ら特派員が講演。

*** 権力への迎合と記者の立場
 厳しく言えば、権力者への迎合である。権力を凝視し、世相風潮の非を説き、国際社会の空気を伝えるべき新聞の姿勢が、次第に変わっていく。前に触れたように、すさまじい権力による外部からの圧迫、比較や選択のできる情報や環境を持たず、国家・天皇尊崇のみの教育に染められ、権力側になじみ、信じる人々・・・・国際感覚や判断力もある知識層や一部の報道関係者が声を出すに出せない状況で、生きていく道はいわば「転向」あるのみ、といった現実だった。

 緊迫しない、穏やかな当初はともあれ、時代のゆがみは次第に拡大していく。戦争の準備段階が進み、戦闘の激化に伴うにつれて、新聞記者は二者択一の状態に追い込まれる。踏み絵の前の信仰者の心境だろう。目先を利かす者、強さと流れに沿う者、家族や生活を思う者など、さまざまであることは、日常生活のなかでも経験するところだろう。
 社説、記事の見出しや内容、そして新聞社の諸行事に見えるとおり、激しい権力寄りのトーンになっていくところに、その時代の姿がはっきり示されている。社内人事についても、その時代や社会の空気になじみやすい人材が起用される。

 新聞記者として、すべてを捨ててでも、あるべき筋を通すか、迷いつつ最小限の妥協で済ますべく進むか、どっぷりと流れにのまれても強靭に残るか・・・・追い込まれての生き方は、そこに生きた者しかわからないだろう。その生きるプロセスにおいてはさまざまな瑕疵を感じ、内心では「これでいいのか」という葛藤が絶えずあったに違いない。後世に論じるとき、客観、冷静に見直さなければならないが、当事者の立場、心境、反省の思いなどと齟齬の出ることは覚悟せざるを得まい。

 戦後の朝日新聞に継続性をもって関与した人物は少なくない。野村秀雄、千葉雄次郎、関口泰、田中愼次郎、長谷部忠、笠信太郎といった人材は、どのように戦前と戦後のおのれを考えただろうか。緒方竹虎、細川隆元といった、別の世界で活動した人々はどうか。わずかな記録が残されており、多少追って後述したい。
 戦後の紛糾の高まるなかで、戦争報道の責任が十分にとられず、明白にされなかったことには問題が残る。彼らが新聞社という世界で蘇ったことに、何らかの許容の余地があったのだろうか。

 戦後に、戦争責任の一端を問われた各界指導者らが多数、GHQによって公職から追放されたが、朝鮮戦争勃発に伴い、一気に釈放され、戦後の政界、官界等に社会復帰して、制定時の新憲法の理念から離れて、その後の日本の針路を大きく変えることになった。新聞社にも、そうした責任を棚上げするような空気があったのか、と共通した印象もある。新しい時代にふさわしい人材がいなかったわけではないはずで、そこに日本的な姿を感じる。時代を動かした人々が結果的に針路を誤り、国民や読者に望ましくない影響をもたらしたような場合、その責任を明確にし、終止符を打ったうえで新たな道に進む、といった風潮があるべきではないか。

          <どのように反省したか>

 朝日新聞の変貌を、社説で見ていきたい。終戦直前をまず見ておこう。

*** 終戦直前 
 昭和20年8月11日の記事は、「一億、困苦を克服 国体を護持せん」の大見出しがあり、一方に阿南陸相の訓示として「死中活あるを信ず」として「断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ」といった徹底抗戦論が掲載された。社説には、鈴木貫太郎首相の応援なのか、趣旨不明の「重臣論」が載る。当時の、国体護持第一とするポツダム宣言受諾の和平路線と、阿南陸相らの一億玉砕の徹底抗戦論の対立があり、終戦前の象徴的な紙面でもあった。
 翌12日。「大御心を奉戴し 赤子の本分達成」「最悪の事態に一億団結」「戦雲全満州に及ぶ」などとあり、社説は「興国沈着なれ」として、「天皇に帰一し奉るべき万邦無比の我が国柄として一切が大御心に出づべきこと申すまでもない」とする。天皇の意向を押し出しての和平路線の主張だった。

 終戦前日の14日の社説は「敵の非道を撃つ」として、原子爆弾の残忍性をアピールしつつ、「ただこれに対しては報復の一途あるのみ」「わが当局が早急にこの対策を樹て」と、まだ「報復」の意思をのぞかせた。この機に及んで「当局の対策」をいうあたり、どこか他人事であり、責任の所在つくりを感じる。そして、国体、天皇、精神論を説きつつ、戦時下中の主張をダメ押しするところに、まだ動揺が見えている。
 このころすでに、報道幹部はポツダム宣言の受諾を感知していたはずで、なおも論調におかしさを感じるところもあるが、軍部などの強い玉砕論があるなかでは、天皇を前面に押し立て、世論の鎮静化を狙うためだったのか。要は国民の生命をいかに守るか、こそが焦点のはずだった。

*** 降伏直後 
 8月15日当日の大見出しは「戦争終結の大詔渙発さる」。社説は「一億相克の秋(とき)」。隣に大きな「再生の道は苛烈 決死・大試煉に打ち克たん」との第2社説的な主張が載る。前者には、「大君と天地神明とに対する申訳なさで一ぱい」「誓って宸襟を安んじ奉らんとの決意を今こゝにまた新に堅くせん」など、天皇の意向に沿う終戦の決着に賭けている。別稿の第2社説でも「軍官民それぞれ言分もあろう、だが今はいたづらに批判し、相互に傷つけるべき時期ではない」「国体を護持し得るか否かは・・・・日本国民の魂の持ち方如何」「特攻魂に端的に現れた七生報国の烈烈たる気魄は・・・・永劫に子孫に伝へねばならぬ」と、それまでの流れを踏まえ、まだ過去とはならない足場に乗っている。手のひらを返すようにはいかない現実と、過去を正当化したい気持ちがあったのだろう。

 15日の玉音放送を受けた16日の社説「噫 玉音を拝す」として、「端的にいふ。問題は今後にある。将来の新日本にある。」として、食糧、住居、結社、インフレ、労務、そして対外折衝を挙げて「挙国一家の大和によってのみ可能となろう」「功を焦らず、一歩一歩進んでゆかう」と書く。
 これは、当時の細川隆元東京編集局長による『実録朝日新聞』によると、15日の村山社長出席の編集局部長会議で、細川が「今まで一億一心とか、一億団結とか、玉砕とか、醜敵撃滅とかいう最大級の言葉を使って文章を書き綴って、読者に訴えてきたのに、今後はガラリと態度を変えなければならない。これはしかたのないことだが、それだからといって、昨日の醜敵が今日の救世主に変わったような、歯の浮くような表現もとられまい。まあ、だんだんに変えていくようにしようじゃないか」と述べ、社長や長谷部忠政経部長(のち社長)も同調した、という。このような協議から、社としての姿勢自体が「一歩一歩」の取り組みになった、と思われる。

 18日の社説「勇断し突破せよ」では、「君民一体、官民協力して」東久邇宮新内閣の「施策をば、徹底的に支援してゆかう」と活路に乗ろうとする。是々非々、ではない。20日の社説は「国民思想の転換」では、「有体にいへば、国民の精神的挫折は無理からぬ事」と述べたうえで、「今日の敗戦は、過去におけるわが政治指導の失敗であろうが、現実にはその苦杯は、国民全体が嘗めなければならぬということ」「上からの指導に引きずられ、これにのみ全運命を託したわが国民の、過去におくる重大な誤謬への厳しい反省の要である」と戦争責任の一端が国民にもあり、国民が乗り越えるべきことを説く。それはそれとして、戦時下の新聞自体の責任には触れていない。

 22日の「国民は何をなすべきか」の大型コラムは、なすべきことは①敗戦という事実の直視、②敗戦に直面した理由の究明、③如何なる心構えと方途で再建に進むか、だとする。そして、まずは、従来の政治、経済、社会にみられた独善的な傾向、非合理性、非科学性の打破、とした。国民と官・軍との距離感をまだ感じておらず、「一億国民」という表現にある国民一体的な見方、国民の側に立つといいつつの説法口調、責任の所在や謝罪を明確にしない新聞のありよう――まだまだ新聞自体の混沌が続く。

          <身もだえる新聞の現実>

*** 報道の反省と各界への批判
 8月23日に辛うじて「自らを罪するの弁」の社説が出る。天の時、地の利のほか「人の和についてなほ遺憾な点があった」とし、その責任は「決して特定の人々に帰すべきでなく、一億国民の共に偕に負ふべきもの」ながら、「その責任には自ら厚薄があり、深浅がある。特に国民の帰趨、世論、民意、などの取扱に対して最も密接な関係をもつ言論機関の責任は極めて重いものがある」、さらに「過去における自らの落度を曖昧にし終ろうとは思っていない」とダメを押す。
 その一方で、「吾人」つまり朝日のすべての個人が優柔不断だったわけではなく、組織を守り通す必要から、「十分に本心を吐露するに至らなかった」、「言論人として必要な率直、忠実、勇気、それらを吾人の総てが取り忘れてゐたわけではない」とも言う。

 「自らの罪」を認めつつ、全国民の責任を言いうあたりに「一億総懺悔(ざんげ)」論がにじむ。
 間違いなく、国民に責任もある。ただ、権力の圧力はあったにせよ、新聞が読者に大きな影響をもたらしていた事実からすれば、責任の分担を説くことはいささか往生際が悪い。
 こうした反省の姿勢のなかに、日中戦争以来の権力追随、時に権力の先を行く迎合的露払いの言動が日常化していった報道の姿が垣間見える。今時点からの、筆者の印象である。

 戦後新時代の幕開けに必要であることを強調しはじめる。「吏道刷新の要」(24日付)は、「官僚、政党、軍部、その時々の有力者と、国民一般との間に立って、いかによくこれを結びつけるかを苦心するといふよりは、むしろ自らもまた有力者の側に立って恣意を逞しくする」かの姿勢を批判。「議会の新生」(31日付)では、従来の官製選挙、言論圧迫、推薦の名を借りた干渉選挙などの原因は、軍・官だけでなく、「過去の政党人こそ、最も重大なる誤謬への発足」だと指摘、日中戦争以来の「政党政治の腐敗堕落といふ最も大きな一つの過去の事実に直面する」とした。

 「外交の再出発」(9月2日付)では、「我国外交の無定見、無施策、無理想が」破局に投じた、とし、旧来の無批判、独善的、固陋な思想ではやっていけず、「日本自身の自主的な主張と態度」を要し、「外交はも早や技術的問題ではなく、一国の世界政策、信念、理想の問題」とする。
 前日の議会開院式を報じる9月5日、天皇が「平和国家を確立して人類の文化に寄与」と勅語を述べたことで、社説のタイトルは「平和国家」。具体性はないが、「心ある国民はそもそも一部官辺のナチスかぶれの思想が今日の禍ひを齎したことを痛感・・・・独裁者気取りの指導者の介在…を嫌悪」、陰険、謀略、不忠、無智、独善を払しょくした平和国家の途は「かくて世界的に客観性を立証するに至る」。これは8月28日社説「世界的日本の建設へ」に通じている。

 ただ、この時点までは、軍部の反乱を恐れてか、軍隊への批判は乏しい。「畏くも、大元帥陛下の股肱たる帝国軍人について問題があろうはずがない」(「一絲乱るゝ勿れ」8月25日付)とけん制的だが、その内情批判は出てこない。

*** ぬるめの軍部批判
 軍閥、軍部に対する批判が本格化するのは終戦1ヵ月を過ぎてからだった。最初に注目されたのは9月17日社説の「東条軍閥の罪過」だった。第一当事者である軍部に触れなかったのは、一億玉砕論、和平動く皇室の動きへのけん制、対米嫌悪などの残る軍部内を刺激、挑発し、さらなる混乱を警戒してのことだったのだろう。この筆者は、終戦時の社説「一億相克の秋(とき)」を書いた論説主幹佐々弘雄だった。

 この社説は「まことに恥多き戦争であった。」の書き出しで始まる。文中では「目的なき支那事変」とし、名分が浮動的だった支那事変の「暗闇の如き事態に、木に竹をついだやうに起った大東亜戦争」であり、その「傲慢、無智、独善、虚栄」を敢てした「代表的なものが東条軍閥」と断じる。さらに「その反映はたゞに国際的のみではなかった。手先官僚を通じて、国内的にも耐へ難き圧制を強化し漸次奴隷制的様相をさへ呈し始めた。その根拠には、ファッショ謳歌の反国体的独裁思想があった。民衆抑圧の官僚(一字、縮刷版不読)独善の習性もあった」とし、それを先鋭化し、極端なものにしたのが「特種の性格を持った東条的軍閥」「それがこの大戦を不可避のものとした」「(昭和16年)十月中旬東条内閣成立のときに世紀の悲劇は、すでに決定的のものになっていた」と明快だ。第3次近衛内閣の崩壊は、日米交渉の余地があるとする近衛、海相、外相に対して、東条はその余地なしとして「対立抗争」した結果だ、さらに「東条内閣成立に立ち至った経緯ほど奇怪至極のものは世にも稀なり」と弾劾した。

 東条は、この社説の出る6日前の9月11日に拳銃自殺に失敗した。陸相だった東条は1941年1月に「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を示し、これが捕虜になるくらいなら自決を、といった風潮を生みだして多くの犠牲者を出していた。その人物が自殺の失敗はあるまい、と歯切れの悪い自殺劇を指摘された。
 社説は、東条首相の追及はともあれ、この戦争の事態を、支那(満州)事変、つまり1931年の柳条湖事件による日中戦争に始まるとしながら、この15年戦争の責任を東条政権にのみ求めている感がある。だが、戦争責任を問う以上、本来なら大正末、あるいは昭和初期の戦争準備段階から取り上げるべきだった。当時の社としての雰囲気は、ほとんど敗戦後の米国の出方ばかりに配慮し、独立に至っていない、混乱さなかの支那(中国)には目が向いていなかったのではないか。

 さらに、9月21日の社説「重臣責任論」では、固有名詞は一切なく、「まづ重臣自ら衆に抜んでて仮借なき自己批判冷酷無比の自己所断を加へねばならない」とする。対支那問題について「恒に逡巡狐疑して事を敗(やぶ)ったものは、重臣であり、準重臣であり、外交技術家であり、軍人であった。彼らは徒らに偏見と先入主とに捉はれて問題の独占排他に努め、局外よりの解決策に水をさして時務を遷延せしめる外に能はなかった」と厳しい。ただ、日支事変による東亜分裂の悲劇、三国同盟の出現、東条内閣台頭の不可避、「蒋介石を相手にせず」の責任などの具体例を挙げ、近衛に責任を集中させていることがわかる。また、ここでもなお「一億総懺悔」の必要を説く。

 だが、おかしなことに、戦争進展の経過に触れて「これらの諸点に関して、陸海軍将兵はすでに完全に責任を採ってをり、有史以来、初めての非武装国家の実現に協力しつゝある」と書く。だが、軍隊幹部はどのような責任をとったのか。数人の軍人、閣僚らが自決した程度だ。混迷の当時としても、まったく説得力を持たない。まだ「戦犯」への対応すら動き出していない時期だ。当初の朝日新聞の軍部に対する表現は抽象的に過ぎ、核心に触れようとしていない。天皇の軍隊として、政府も議会も触れられない制度のもとで、天皇の威を借りた軍部の跳梁こそ戦争への道に拍車をかけ続けていたのではないか。

*** 揺れる国民責任論
 朝日内部で論争があったのだろうか、9月22日の社説「戦争の責任果して如何」は、国民の戦争責任を取り上げる。日本の新しい出発には既往に対する峻烈な批判、厳正な自己批判への踏み切りが必要だが、「今まで日本に聞かれたものは、いわく敗戦の責任、国民総懺悔、たゞこれだけである」。敗戦の経過が物的戦力の低下、科学力の立ち遅れという説明よりも、「敗けるべき戦争を何故始めたか、の巷の声の方に遥に真剣な響きがある」と、明らかに望ましい軌道修正が見られる。

 政府の戦争不拡大声明にも拘わらずの全面戦争の展開、国民の意表を突く開戦、公然たる組織的テロの横行、民主主義的諸勢力の弾圧、国民の政治的自由の抑圧・・・・こうして政治的空白のなかに武断政治が進められ、この傾向が防共協定、国際連盟脱退、三国同盟に拍車をかけ、新たな太平洋戦争に進んだ。そうした「国民の耳目を蔽い、行動の自由を阻んだ後に来るものが、秘密外交と武断政治であり、そしてかくすることによって、遂に国民を大戦争の渦中に投じた我国指導者の責任こそ、十分に究明」すべき、と述べている。

 さらに、「国民総懺悔といひ、戦争の責任は国民全体の頒つべきものだといふ。・・・・しかし、一面国民は、すでに戦争の結果として流血と災害とを身をもって負担してゐることも事実である。もし国民に戦争に対する責任がありとすれば、それは武断政治による我国政治、外交の壟断を許したことに最も多く存するとも見られよう」と主張。国民がその責任を自覚するにはこのような「武断政治の宿弊を爬羅剔抉し<あばき>、その根絶を強め」国民の政治的自由を取り戻して確固不動のものにすること、軍閥の非違、軍閥の強権を利用して行政を壟断した者、軍閥を援助し私利を追及した者などの罪過も糾弾すべきだ、と述べる。好戦的、専制的、強圧的、非国民的諸勢力の殲滅によって政治の転換、刷新が成就されよう、と指摘している。
 戦時色を温存するかの印象のあった社説のなかで、この主張がもっとも説得力のある判断ではなかったか。すでに、というか、まだ、というか、終戦から40日余であった。

*** 立ち直ったか新たな社論
 9月28日の社説は「対支態度の究明」。結論は、「(長い伝統を持つ)大陸政策が犯した誤謬を詳細に検討し率直に反省し、最も謙抑な態度をもって日支の関係の本当のありかたを探求することに真摯に努力するのでなければ、日本の今後の進むべき道は拓かれようはずはない」というもので、これは今日の日中関係の在り方にも通じる理念といえるだろう。
 この際、社説が展開する戦争直後の対中認識を簡略に示しておこう。

 日本の帝国主義的大陸政策は、第1次世界大戦で資本主義経済が急速に推進され、21カ条要求を頂点とする強硬政策、五四運動を機とする大陸での強烈な反日運動の展開、さらに旧軍閥の内乱による国内の分裂などがあり、昭和に入って田中義一内閣から対支政策の様相は急激に変化、また蒋介石の国民革命軍による北方軍閥打倒・国家統一の運動が進行、また日本の山東出兵で日本の帝国主義が中国の統一と再建を阻むものとして中国民族の深刻な反発を招く。
 南京政府が成立すると、反日教育、抗日運動が進み、両国の関係は先鋭化した。「日本の政策の本質そのものが修正されないために」この趨勢が満州事変を必然化し、支那事変への移行を不可避にした。事変に入ると、東亜新秩序建設の戦争目的のもと、アジア民族の解放・東亜経済ブロック結成が主張されたが、支那中国との協調は不調になる。「日本の主観的な特殊性を強調するだけに急で・・・・普遍妥当的な客観性を持たなかったことが致命的な欠陥」「しかも、・・・・その政策の裏づけとしての支那に対する認識ないし理解が実に低調」とした。この時代認識も、今日の通常の歴史認識と齟齬はなく、報道はその認識を持ちながら、まるで書けず・書かず、の状態だったことがわかる。

 9月26日の社説は「民主化の要請と国民」。米国が日本管理政策を発表したことを受けての論調で、軍国主義の絶滅と政治の民主主義化を2大目標としている。単に軍隊の武装解除、解体、諸施設の破壊にとどまらず、軍国主義的、国家主義的諸制度、諸組織の解体、教育の改革、日本の封建的官僚的政治形体の抑止、大産業及び金融コンツェルンの解体の要を指摘する。
 社説は、この方針を支持しつつ、民主主義化は「決して米国の指令によって生じた問題ではない」という。「軍閥、官僚、財閥による政治の壟断を廃し、国民自身の手による政治の運営を要求したものであって、これこそいふところの民主主義化にほかならない」とする。

 最近の自民党などは引っ込めたが、米国による憲法押しつけ論について、当時からそうした懸念を振り払おう、との意図が見える。「民主主義」の社会的理念は押し付けられたもの、という年来の改憲論者の主張がナンセンスだったことは、すでに見え切っていたといえよう。

*** 報道体質の改革
 当初の朝日の論調は、天皇のもとでの国体維持論、皇国・興国意識の押し付け、全国民の総懺悔といった戦争責任の分配論、軍部軍閥への配慮などの旧体制感覚から抜け出せない表現が目立っていたが、9月下旬になると次第に変化して、引き合いに出されがちだった天皇が引っ込み、軍閥や官僚ら旧権力層への責任追及や批判、論理性を取り戻した大陸政策の分析や反省、今後の民主主義のありようなどが主張されるようになった。正気を取り戻しつつあったのか、米側の出方が次第に見えてきたのか、あるいは、これまでの流れを作ってきた旧人たちが身を引く空気が流れ始めたか、とにかく論調の視野が広がってきた感がある。

 ここではまず、おのれの報道機関としての反省ぶりを見ておきたい。すでに、8月23日の社説「自らを罪するの弁」を示していたが、これは国民総懺悔型で、率直性が乏しかった。しかも、当時はそうであったとしても、普通の読者には読みにくい表現が多く、文章にしても読んで理解してもらおう、というよりも、教条的、抽象的で、自己満足調の内容が目立った。この一因として、そのころの朝日社内での人事抗争、社員らの突き上げなどの揺らぐ内部事情が影響していた。この点は、このあとに触れていきたい。

 GHQが9月29日、日本の新聞紙取り締まりの12法規の撤廃を命じた。これを機に、30日の社説「言論制限の撤去」を書く。「憲法の保障する人民の自由に関する大原則は、多くの例外規定、殊に戦時における特殊事情に応じて制定せられた限りなき取締法によって殆ど完膚なきまでに蹂躙せられてきた・・・・手枷、足梏を寸断する上に十分の効果を発揮することができる」と歓迎する。そのうえで、「これらの自由を享受する立場に置かれた新聞関係者のみならず、国民一般は、徒らに放縦に走ることなく、自ら規矩を心得、準縄<決まり>を守るだけの良識を備へんことを切望したい」と述べる。「人民」という左翼的な言葉まで出てきたところに、変化を感じざるを得ない。 

 10月24日の社説は「新聞の戦争責任清算」である。この直前、終戦直後から続いた社内の人事等をめぐる抗争にケリがついたことに関係している。この社説と同じページに「朝日新聞革新」「戦争責任明確化 民主主義体制実現 社長、会長以下重役総辞職」の記事が載る。この点は後述する。

 社説では「新聞紙の戦争責任について我国一般の見解は必ずしも一致してゐない」としても、責任回避はしない、と云い切る。戦時下にあって「吾人は当初は敢然、顕然と、中頃は隠微の裡に懸る傾向への批判及び抗争の態度を棄てなかったことは今日なほ断言して憚らぬ」と胸を張る。2・26事件の襲撃を受けた朝日新聞が米国ミズーリ大学から「栄誉ある反軍閥紙」の表彰を受けたことを示すのだが、「近衛新体制運動以後、政府と一々歩調を共にするのやむなきに到り、大戦直接の原因の一をなす三国同盟の成立に際してすら一言の批判、一言の反撃をも試み得なかった事実は、固より承詔必謹の精神に基くものであったとはいへ、顧みて忸怩たるものあり、痛恨正に骨に徹するものあり」、新生日本にとって「この種の過去一切への仮借なき批判と清算とが必要なる第一歩」と反省を見せる。出直し宣言のつもりなのだろう。

 戦前の外的な状況からすれば、やむを得ない事情も分からないではない。しかし、今の時点でいうなら、やむを得なかった変節はともあれ、時流以上に率先して戦争を謳歌し、死の待つ戦場に喜々として若者たちを送り込んだこと、あるいは侵略を受け、人心共に甚大な被害を受けた相手国への思い、などが語られていない。「新聞の戦争責任」とはそういう大きなものではなかったのか。

 そして11月7日、朝日新聞社としての「宣言」を打ち出す。「国民と共に立たん」という短いもので、社長以下幹部らが総退陣、「開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいへ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果し得ず、またこの制約打破に微力、つひに敗戦にいたり、国民をして事態の進展に無智なるまゝ今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せん」とした。
 これを受けて同日の社説は「新聞の新なる使命」として、新聞が「国民的民主主義戦線の機関たるところに、今後の我等の使命と役割がある」とした。文中には「刻下日本の現状は飢餓、失業、流民、政治的混沌あるのみである。政府は、これを拱手傍観するかの態度しかとっていない。政党運動もまだ胎動の時期を脱していない」と、珍しく政府の批判が出てくる。

*** 朝日社内の葛藤
 終戦直後の朝日幹部らの協議の模様は、細川隆元の著作から紹介した。だんだんと変えることで、先走らずに、というあたりに落ち着いたのだった。

 ところで、戦争前後の政界では、朝日関係者がいろいろ登場する。ゾルゲ事件の関係者として死刑となった尾崎秀実。東条首相ににらまれ、謎めいた自殺に至った中野正剛。終戦直後に東久邇内閣の書記官長になり、情報局総裁も続けた緒方竹虎、文相の前田多門、首相秘書官兼内閣参与の太田(木村)照彦(のち東京編集局長)、小磯内閣下の緒方情報局総裁の秘書官に中村正吾(のち政治部長、大阪など編集局長)、東久邇内閣参与で石原莞爾に近い田村真作(この参与には児玉誉士夫、賀川豊彦らもいた)、東久邇・マッカーサー会談の通訳は鈴川勇(のち東京編集局長)ら、とにぎやかだった。新聞社として、これだけ政治に関わったことは、かつてあり得なかった。新聞のあるべき機能のひとつは、権力の監視のはずだった。
 他方、終戦と同時に責任を感じて退社したむの・たけじ(武野武治)もいた。また、西部本社の太田了介は、GHQの戦時の写真を廃棄したことを責められ、警察署内で自死している。

 人事をめぐる抗争に触れよう。朝日新聞創業の村山(龍平)家に入った村山(旧姓岡部)長挙社長は戦時から聖戦完遂路線の指揮を執っていた。その周辺に関わる人々の一方に、編集畑には緒方竹虎に近い人材が多くいて、戦争問題処理にあたって、対立抗争が展開された。それとは別に、社員の間には軍国主義反対の声も高まりつつあり、この方の動きはのちに労働組合の活動につながる。そして、のちに共産党から衆院議員になる聴涛克巳らが従業員の総決起大会を開き、彼等自身の手で新聞を作る、と主張した。
 緒方に近い政治部出身者である編輯総長千葉雄次郎、東京編集局長細川隆元、同じく大阪の香月保らが10月に入って、人事異動を進める村山体制に対して会長、社長の退陣などを申し入れる。
 このように紛糾の続くなかで、先輩格の緒方や美土路昌一(のち全日空社長)が調停に入り、10月23日に決着を見て、村山社長、上野会長はじめ全重役、編輯総長、同局長、論説両主幹が総辞職することになる。この決着が11月7日紙面の「国民と共に立たん」の宣言になった。

 余談ながら、細川隆元の著書によると、この会議のなかで、特派員、名古屋支社長、出版局長などを歴任し、著作も多い村山系の常務取締役鈴木文四郎(文史朗)が、「僕は今日まで朝日新聞の本流の地位にいっぺんもついていない。自分はどうしても(重役を)辞めたくない。しかも進駐軍が日本に来ているから、(英語のできる)自分が編集責任者として最適任と思う」と言った、とある。この人物は整理部長時代の昭和8年に『新聞雑誌記者を志す人のために』との書を刊行しており、筆者(羽原)は戦後に読んで「すぐれた先輩」と感じていた。正直ではあろうが、土壇場においてこのようなことを言うのか、と思わざるを得ない。

*** 幹部の反省に想う
 伝記『緒方竹虎』に収録された本人の『遺稿』に、「責任感のひしひしと胸に迫るものがある。それは前後数ヶ月戦時内閣の末席を汚した政治家としての責任ではない。自分の半生を投入した新聞記者乃至新聞主筆としての責任である。・・・・日独伊同盟が調印された時、日本の新聞幹部の大多数は、これに反対であったろうと思う。・・・・然し如何なる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を懐きながら筆に反対を唱へなかったのは、そもそも如何なる悲惨事であったか。それは誰に向って言ふものではない。日本一の新聞の主筆であっただけ、自分は自分を責めねばならぬのである」とある。

 さらに、戦後には社長も務めた長老格の美土路昌一は、その「回顧談」に「顧みて自分の在職中約四十年の最後の十年間は、実にこれらの桎梏と業火の苦しみの両面であった。今になって往時を振り返ってみると、元より軍ファッショの国を誤ったことを痛嘆久しうするが、この非常の時に、全新聞記者が平時に於て大声叱呼した言論自由の烽火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼らを誤らしめたその無気力、生きんが為めの売節の罪を見逃してはならぬ、そしてその群の中に自らも首脳部の一人としてありながら、死支度も白装束も役に立たず、唯碌々としてその間何の働きも出来ず、今徒らに軍の横暴のみを責めている自分に対し、深く反省し自責の念に堪えないのである。言論死して国遂に亡ぶ、死を賭しても堅持すべきは言論の自由である」と述べた。

 その先人の反省に納得するのだが、それでは、おのれに何ができるか、と思うと、非力のみに思い及ぶ。敢えて言うなら、歴史を長い眼で見て、その曲がり角のおかしさ、危険を見抜いたならば、ただただ言い続けることしかない、ように思う。今に生きる自分が、当時の彼らの過ちを言いつつ、断罪できないのは彼らの深刻、かつ真実に近い反省の弁が、いつか自分の言葉になるのではないか、との危惧のせいかもしれない。

 終戦後の「鉄のカーテン」に象徴される米ソによる東西冷戦、その具体化でもある1950年6月の朝鮮戦争のぼっ発によって、日本の針路は大きく変わる。先にも触れたが、約20万とされる戦犯らの公職追放がレッドパージに急転換して、かつての戦争推進勢力が国会や官僚、財界などのリーダー格としてよみがえり、民主化を求めた左翼急進的勢力がまとめて追放されたのだ。日本の政策は、非戦、中立、こじんまりとした平和国家への道だったはずが、大きく変わって、米国の一翼を担い、軍備増強への道に進むことになる。
 朝日新聞も、1950年8月をもって、追放解除となった村山、そして上野の両社主家が復活し、経営陣に加わることになった。

*** GHQの検閲と朝日新聞
 戦前のひとつの言論統制は、官憲による検閲制度だった。だが、戦後になっても、今度は米国支配機関であるGHQがそれを担った。民主主義の原点にあるはずの言論の自由というものは、国家権力の判断によって左右されることを示すものでもあった。ただ、敗戦国として統治される立場にあり、言論の自由など縁の遠かった当時の日本の実態としては、比較的素直に受け入れていた。しかし、米国などにとっては都合がよかったが、戦争の実相を伝え、その責任を追及するためには、いわば口を封じられることになって、将来的には戦争責任の明確化を妨げ、公職追放で復活する旧軍人や官僚、経済人らを救済することにもなった。

 GHQは、終戦間もない9月10日に「新聞報道取締方針」「言論及び新聞の自由に関する覚書」を示し、これでGHQや連合国批判、戦争被害についての報道は抑えられることになる。また、同月19日のプレスコード(日本に与うる新聞遵則)では、新聞記事のチェックが徹底されることになった。検閲対象は、上記のほか、極東裁判、憲法起草、検閲自体、冷戦、軍国主義的な神国日本や戦争擁護、ナショナリズム、大東亜共栄圏、戦争犯罪の正当化、闇市、飢餓の誇張、解禁外の報道などが挙げられた。また、個人の手紙などの検閲は、占領後期に始まった。

 朝日新聞がその最初にやり玉に挙げられ、発行停止処分を受けたのは、9月19、20の両日。15-17日の紙面で、とくに目をつけられたのは、新しい議会、政党に臨むインタビューで語った鳩山一郎の弁。原爆使用や病院船攻撃、毒ガス使用は戦争犯罪、米国人らの惨状視察などによる日本復興責任の自覚などに言及したこと、などに反応したもの。
 また、9月28日紙面では、前日に天皇とマッカーサーが会見した際の写真が大きく載った。長身で襟元のボタンをはずしてリラックスしたマ元帥に対して、モーニング姿で緊張した様子の天皇、という両者の姿は、まさに勝敗を決した両者といった印象があり、まだ生き残っていた情報局はこれに納得せず、命令発売禁止令を出したのだ。だが、GHQはこの新聞の配布を認め、日本側の判断を覆した。

 内閣情報局の解体は45年12月末。終戦によって一部GHQの指示に従ったが、旧制の法規も生きており、その権限の行使だった。この端境期には、治安維持法も生きており、哲学者三木清の獄死も9月26日、終戦から40日も過ぎてのことだった。
 朝毎読など5紙の事前検閲は10月9日から始まるが、すでに同盟通信などがGHQから処分を受けていた。新聞の検閲などは3年ほどで緩むが、実際にプレスコードが失効したのは1948年4月の講和条約発効のときだった。

*** 他社の対応
 朝日新聞を中心に検討してきたが、ひとつにはこの新聞が筆者40年間を過ごした母体であったこと、また他紙を引き込むことなく自己点検をしたかったこと、が理由である。
 ただ、全国各紙とも、①戦前の国家権力の渦中で圧迫を受けてきたこと、②戦時下で大本営の統制以上に戦争賛美に走っていたこと、③戦後になって、戦時の論調をめぐる賛否、戦時の幹部らの責任をめぐる人事問題などで混乱を招いたこと、などの問題を抱え、混乱する事態を招いたことでは共通する点も多かった。

 毎日新聞では、西部本社の編集局長高杉幸二郎が戦争報道の責任の反省から廃刊を主張、白紙状態の新聞を作ったという異例があり、社長奥村信二郎はじめ高杉ら幹部は退陣。だが、本格的な新体制は10月に全従業員名で人事刷新の上申書が出され、11月に入って奥村のあとを継いだ高石真五郎が社長に選ばれている。まずは、穏やかな対応だったようだ。
 一方、混乱したのは読売新聞。10月に従業員の組合が、中興の祖であった社長正力松太郎の戦争責任を追及して退陣と民主化を要求、組合が自主的な生産管理闘争に入るが、社側は組合リーダーを解雇。ところが、12月には正力が戦犯容疑で拘引され、組合が勝つ。その後に鈴木東民ら左翼勢力が伸長、これに対する抗争も激化し、大混乱が続いた。
 共同通信理事伊藤正徳によれば、全国56新聞社のうち44社で戦争責任をめぐる「一種の革命」が起きたという(『新聞五十年史』)。

          <今に残されたもの>

*** 戦争の回避
 長々と、新聞と戦争の関わりについて書いてきた。
 影響力の強い新聞メディアも、国家権力やその手で作られた法制度には弱く、いざとなると崩れ、迎合し、お先棒すら担ぐ現実を見た。
 また、戦後70年を超えた今、テレビ、出版、さらに各種の電子メディアなど、多様な発信機能が展開されるようになって、戦時下を経験した報道機関、あるいは新興メディアのなかには「戦争の教訓・反省」を踏まえないものも増えてきている。さらには、偏向するヘイト・メディアや、奥行きの見えない見出しだけのような短行の発信に尽きるものがあり、若い人々に「戦争というもの」が伝わりにくい状況になってきた。
 報道する側も、それを受ける視聴読者も、ともに若返って、戦争の実感はなく、戦争的な状況に思いが及ばない以上、やむを得ないことなのだろう。

 ただ、戦争が再びないという保証はない。現実に、国際的な緊張は消えることなく、その危機を過大にアピールし、軍備拡大に余念のない政治がある。本来交流を深め、相互理解を高めるべき外交の前面に、軍事が躍り出ている。相手国や民衆への嫌悪の情が煽られる。
 しかし、このまま追従していていいのか。戦争は、時間をかけつつ、大義名分を求めて、準備を進めていくところに発生する。振り返り、あの時が曲がり角だった、と気付いた時にはもう遅い。

 では、どうしたらいいか。まず戦争の勝敗ではなく、戦争の起こる背景を、さかのぼって歴史から見ていきたい。また、戦争の大義名分は、いつも一方的であり、だからいがみ合う相手には理解されず、ますます緊張を高める。さらに、徐々に徐々に、相手への憎しみ、罵声、ヘイト感情を育て、相手との国情、習俗、文化、宗教、歴史環境、地勢的環境などの理解を遮る。
 また、「自国ファースト」の思考は、建国途上の諸国では「誇り」として自らのエネルギーをかきたてるうえで必要だとしても、すでに国力をつけ、一定の繁栄を味わい、生活に一応のゆとりを生み出した諸国の「ファースト」思考は、単なる「おごり」や「うぬぼれ」に変形しやすく、望ましいものではない。豊かさは「謙虚」「寛大」でありたい。

*** 朝日新聞はどうか
 ところで、昨今の朝日新聞はどのような心理状態のあるのだろうか。
 すでに戦争を直接には知らない世代ばかりの新聞社だが、朝日新聞と戦時の軍部、官僚などの権力との関わりについては、ただそうした知識があるというだけではなく、先人の思いや反省が通じているように思える。つまり、権力の実態、権力の報道をゆがめる力、権力の都合による立法行為、なびきやすい政治家や官僚たちの環境と構造――そのような実態を、取材を通じて感知し、その轍を踏まない気持ちを抱き、また過去の誤謬を思いながら、権力と距離を置いて付き合い、聞くことと書くこととの峻別ができるような姿が定着しているのではないか。

 そのことは、毎日の紙面を見て、権力に厳しく、社会の事象を多角的にとらえようとする姿勢に示されている。この点は、概して次々の世代に伝えられているから、全般に一貫した紙面つくりが果たされているように思う。権力にすり寄ってネタをとる、という短視的な姿勢ではなく、権力の監視・チェックという報道の原則を守ろうという姿勢である。
 もちろん、動く事象を追い、知識のない対象をさぐる仕事であり、稚拙や確認不足、中途半端な記事を読者に提供したり、誤報や軌道外れだったりすることも決して少なくない。これらはメディアに付きまとう課題だが、それを許容することはできない。この努力は永遠の課題だろう。

 大きな流れの中で、権力の狙う方向を読み取ろうとする素養は、大まかには認められるのではあるまいか。総体としての話だが、戦前の先人たちの過ち、苦しみを繰り返さない姿勢は貫かれているように思っている。
 それは甘い、との批判の出ることや、物足りないことも少なくないことを承知で言えば、日々の紙面を見ている限り、まずは一貫した姿勢が感じ取れるのだ。国家権力に臆することはない。
 「過ちは繰り返しませぬから」とでもいうことなのだろうか。

 そうしたうしろ盾として、一、二の先人のことばを紹介しておきたい。
 戦後に入社、占領下で取材活動をし、のちに社長となった一柳東一郎は「権力の抑圧によって筆を曲げるよりは、筆を折る、つまり死を選ぶくらいの気概を秘めた企業だということを、諸君もハラの中に入れておいてほしい」と、新入社の記者たちの前で話している。この人物をよく知る筆者(羽原)は、これが単なる掛け声でないことを信じる。

 また、先に触れた終戦と同時に退社したむの・たけじは89歳の時、その退社について「失敗だった」「今まで『報道責任をとって辞めた』と冠付きで紹介されていい気になっていたが、こっぱずかしい」と、琉球新報の記者に話したという。
 それは、同紙が「沖縄戦新聞」という当時の、日本兵に壕から追い出された住民の話など、本当の戦況を特集した新聞を作り、送ったところ、むのは「そうだよ。これなんだよ。戦争の報道にかかわった人間が戦争とは何だったのかを検証しておれば、今のような時代にはならなかったなあ」「こん棒で後ろ頭をぶん殴られたようなショックを受けた」などと、この記者に電話で話したという(2018年10月2日朝日夕刊)。

 (元朝日新聞政治部長)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧