―ノーベル平和賞に千人の女性を―

■『野村かつ子さんのノミネート記念の集い』

――ノーベル平和賞に千人の女性を――集会経過報告記録

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◆◇司会者
 野村かつ子さんのノミネート記念の集い。「ノーベル平和賞に千人の女性を」
の経過について「日本環境保護国際交流会(JBE)」の細木きょう子さんにお話
をしていただきます。

◆◇細木京子氏◆◇
 私は野村さんの講演を聞いたり、著書を読むうちに親しくさせていただきま
した。野村かつ子さんを始め四人のみなさま、「ノーベル平和賞に千人の女性を」
に候補者になられたこと、本当におめでたく心よりお祝い申し上げます。(拍手)
 経過を少しお話します。私のグループのJBEは18年前に京都に留学してい
たアメリカの大学生が中心となって作った環境保護のグループですが、その中
にスイス人でアンドレア・チクノーベルさんという、仕事のかたわらスイスの
「緑の党」の委員をしているメンバーがおります。そのアンドレア・チクノー
ベルと長野ひろみさん夫妻から、昨年の4月にスイスで「ノーベル平和賞に千
人の女性を」というプロジェクトがあるが、日本人のどなたか推薦したいので、
どなたがいいだろうかとの話がJBEに突然来ました。
 
 このプロジェクトはスイスの国会議員のルーズギアビン・パーモットさんの
独創的アイディアで2003年に始まり、一人の人にではなく千人の、しかも女
性に、平和賞というもので、しかも、候補者を世界中から選ぼうというもので
す。(詳しい資料はお手元にあります)。JBEのメンバーでもあり小室さんとも
親しい京都大学の高槻紘先生にもご相談して野村かつ子先生を推薦しようとす
ぐに決まりました。アドレアス・ひろみさん夫妻は以前から野村さんの活動を
ご存知でしたが京都から送った資料をさらに詳しく読み、推薦書を3ページに
まとめて昨年5月に提出されました。
 
 その後、約1年後の今年の4月にこのプロジェクトの日本・韓国の担当者か
らJBEにメールが届きました。世界20の地域からコーディネーターが集まり、
情報を確認し書類を作成していて、日本担当の方はマルゴ岡沢りえさんと言い、
女性学やピーススタディ平和学をアメリカの大学で教えている方でした。その
Eメールには“野村かつ子さんがノミネートされました。おめでとう! もう
一度おめでとう!! ”と書いてあるのです。メールの苦手な私はもうこんな大事
なEメール、間違えてはいけないと辞書を引きながら一生懸命読みました。
2005年1月にオスロの平和賞の委員会がそれを受理したということです。 
(これが千人の女性の写真と活動を載せている冊子です)。
 
 さらに、そのEメールには、このことは29日に世界中のメディアに一斉に
発表する時まで絶対ナイショにすることとありました。このプロジェクトは世
界150ヶ国以上の国から、平和と人間の尊厳を獲得するために草の根の活動を
している女性を候補者に挙げています。活動拠点はその地域であったり、国際
的な場であったり、大学や組織に属している人などさまざまですが、人々を希
望に導き目的に向かって切磋琢磨し続ける女性たちです。千人の女性の名が公
表されていますが、千人目は拘束されたり軟禁されたりしていて連絡取れない
人たち数人なのです。実際には世界には数えきれない女性たちがたくさん活動
していますので、実際には二千人ぐらいの方の名前が挙がったということです。
しかし、11月7日に発表された今年のノーベル平和賞は「国際原子力機関
(IAEA)」とその事務局長のエルバラダイスさんでした。
 
 残念ながらこのプロジェクトが受賞することができませんでしたが、すでに
この直後から、まずスイスで巡回展が始まり、千人の女性の活動内容と写真の
展示が行われています。巡回展は世界中で開かれる予定で、ネットワークはま
すます強いものになっていくことと思います。
 ノーベル賞というと私たちには手の届かない雲の上の話だと思っていました
が、日本ではこのように6人の方がノミネートされたということで急に身近な
ものとして感じられました。私が驚き、感銘したのはヨーロッパやアメリカの
市民活動の考え方や感覚です。ノーベル賞にまで市民グループが女性を推薦す
るのですからなんと力強いものでしょう。市民が自分たちの力で社会を変えて
いこうという溢れるエネルギーがあるのです。野村さんは何十年前からリュッ
クを担いで海外へ出かけ、ご自分の眼と足で情報を得て活動してこられました。
そんな行動力を私たちは少しでも見習っていきたいと思います。今日は「生活
クラブ生協・東京」が中心となり、実行委員会形式でこのような集いが実現で
きたことが心よりうれしく、このすばらしい交流の時間をお集まりのみなさま
と共に有意義に過ごしたいと思います。(拍手)

◆◇司会者
 細木さんは15年前から、子供たちにもわかりやすい環境カレンダーという
ものを作っておられます環境保護運動のために是非お買い上げ下さい。
 私、は渡辺文学と申します。1970年から87年まで公害問題研究会、また市
民運動全国センターなどの運営に参加し、その間、野村かつ子さんとは「取ら
れたものを取り返す消費者の会」、合成洗剤の反対運動、原発反対など、いろい
ろな環境問題に取り組んでいる中で、ご指導をうけました。
 今日はノミネートされた方々の中で、安藤由紀さん、横井久美子さん、ソン・
シンドさんの代理杉山ゆう子さんの4人の方々がお出席で、沖縄の高畑鈴代さ
んと高齢の相馬雪香さんは来られません。
 それでは宋神道さん、(資料参照)と「在日外国人従軍慰安婦謝罪補償請求事
件」を闘い、最近は記録映画作りにも取り組んでおられる杉山ゆう子さんをご
紹介します。(拍手)

◆◇杉山ゆう子氏◆◇
 「在日の慰安裁判を支える会」の杉山ゆう子です。本日は宋神道本人がぜひ
出席したかったのですが、84歳で宮城県で一人暮らしなので東京に来るのは厳
しく残念ながら代理させていただきます。
 宋神道さんは1922年に日本の植民地下の朝鮮で生まれ、満15才の時に親が
決めた結婚をさせられるのがいやで家を飛び出し、一人でどうやって暮らそう
かと考えている時に、戦地に行って働けば結婚しなくていいし自分で生きてい
けるよと、言われて、いわゆる従軍慰安婦にさせられたのです。1938年、中国
の武昌にまず連れて行かれ、日本の敗戦まで約7年間、前線を転々とさせられ、
ようやく敗戦で帰ってきたのです。
 
 それも敗戦になり現地の兵隊の一人が早く日本に帰りたくて、民間人を装う
ために神道さんに日本に行って暮らそうと声を掛け、今さら朝鮮に帰れないし
と連れてこられた。日本に来ると、元兵士から、もう勝手に暮らせと置き去り
にされ、そのご宮城県で在日の方たちに頼って暮らしてきたのです。
 1990年に韓国から従軍慰安婦をはじめ日本軍の戦後の被害者が名乗りを上
げて裁判を起こしました。日本では実名でこういう活動をするのは非常に困難
ですが、宋神道さんは1993年4月に日本の東京地裁に提訴します。
 
 そこから約10年間,宮城県から3ヵ月に1回位、口頭弁論の時々に必ず上
京して高裁と最高裁という形でずっと裁判で闘ってこられました。さらに集会
等で自分の被害だけではなくて、(資料に宋神道さんが国会で証言のコピーあ
り)日本の侵略戦争でどんなことが行われたか、朝鮮人も大変だったが日本人
の兵士たちもどんな目にあったか、そういうことを自分は見てきた、それを話
すのであなたたちはどう考えるのですかと、ずっと訴え続けてこられました。
 勿論、時がずっと経って、今さら訴えても仕方がないという、法律論でいけ
ば非常に困難な裁判でしたが、裁判官たちが一般的な裁判から一歩でも二歩で
も自分たちが踏み出し、こういう被害を受けた人たちの話を聞き、自分たちが
どう考え、どういう反対をするのかと、いうことを訴えてきた裁判だったと思
います。
 
 ただ非常に残念なのは2003年ちょうど10年目の3月21日に最高裁にまで
行きましたが上告棄却、上告不受理。これは、最高裁判所がその訴えを判断す
る以前に、そういう訴えそのものを受けつけないという答えでした。
 非常に困難な中でずっと訴え続けてきたソン・シンドさんに対してこのよう
な、裁判所の返答に、私たちは本当に言葉にならないような怒りを感じました。
その時、宋神道さんは「裁判に負けてもオレの心は負けてない。自分は正しい
ことをやってきた。自分が見てきたことをしゃべってきたのだから」というの
です。
 裁判が終わってもう2年、3年近く経ちますが、この裁判だけが宋神道さん
の活動だったわけではないのです。
 私たちの会は記録映画を作ってみなさんに広く知っていただこうとアン・ヒ
ロンさんという韓国の監督さんの協力を得て、今作り始めています。そのため
の、カンパや、上映会などにもご協力をぜひお願いします。
 今日は本当にこういう会に招いていただき、とてもうれしく思っています。
宋神道さんにも報告し、こういうふうに関心を持って、宋さんの活動を認めて
くれる人たちが日本や世界にいるということをちゃんと伝えたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)

◆◇司会者
 続いて高畑鈴代さんですが、お手元の資料「基地・軍隊を許さない行動する
女たちの会」にプロフィールと具体的な活動が載っています。1940年に台湾で
生まれて宮古に引揚げられ1961年沖縄キリスト教学院短大、東京都立社会実
業学校を卒業しました。主な職歴は東京都相談センター、那覇市相談員、那覇
市市会議員4期、最後は副議長で昨年は那覇市の市長選挙に立候補、落選され
ました。著書は「沖縄の女たち」「女性の人権特集?軍隊」などで懸命に沖縄で
反戦・平和・基地をなくそうと闘ってこられました。
 つぎに安藤由紀さんを御紹介します。(拍手)。

◆◇安藤由紀氏◆◇
 最初にノーベル平和賞にエントリーされているということを聞いたのは「生
活クラブ生協」の若松けい子さんからの電話でした。「まさかそんなことあるわ
けないわよ、実は同姓同名の、あたしじゃない人だからね。」と言ったのです。
本人は何も聞いていません。本来誰かが了承を取って、推薦者の方がいてエン
トリーするということになるのでしょうが、私ぜんぜん聞いていません。いま
だにどなたが推薦してくださったかわからず困惑しています。
 家族に話しても、滅相もないという感じで一笑に付されました。自分でもそ
んなたいそうなことをしてきたという実感はまったくないのです。ただ当たり
前のことで世の中を変えたいとか、もっと分かって欲しいということを自分で
やってきただけのことで、本当にいまだにそんなことがあったのという感じで、
他人事のような気がしています。
 
 ただ私が成長したのは、かれこれ50年前の南九州です。まだ大人たちは真
っ黒になって男尊女卑のムードの中で必死に働いていました。女性や子供の人
権がたいへんそこなわれていた。子供たちはしょっちゅう殴られ、学校に行く
と授業の最中でも先生からビンタを張られる。目の前で子供の身体をほっと置
くという光景を私は見てきていますし、自分も先生に拳骨を食らわされたとい
う経験もしている。
 今回エントリーされましたのは私が「子供の人権」というジャンルでエント
リーされたようですが、最初に人権運動に関わったのは1990年「婚姻外子差
別を許さない」これでスタートしました。私も未婚の母、子供を結婚しないで
産んでいる母です。そういう人権運動の中で子供の人権とか暴力防止の、なん
とかこういう活動に加わりたいと思って‘94年1月からCAP(キャップ)と
いう組織に身をゆだねました。‘94年からグループを作ってたくさんの小学
校・中学校・幼稚園・保育園、あらゆる教育の現場に出かけていって子供の人
権、暴力防止、誘拐未遂をどうやって防いでいくかということに従事しており
ます。現在は調布市にある小さい、つつましい事務所でだいたいスタッフ15
人ぐらいで活動しています。
         (以下実演)

  障害者差別運動とか、虐待防止運動にかかわってきて本当に切なくなります。
先ほどはシンさんのメッセージにもありましたが、子供・女性に対してはたく
さんの暴力・差別、それからさげすみとか、いまだにたくさんのものが世界中
に引き続き起こっています。
 「今回は賞が取れなくて残念でしたが、こういう日々の地味な運動が何十年
何百年経ったとき世の中が平和に変わっていくのだと思います。みなさん、運
動をあきらめないでいきましょう。
 私たちピースの事務所も貧乏で、毎日毎日お金がなく、どうやって家賃を払
うか苦心惨憺しております。どこかで安くて、デスクだけでも分けあってくれ
る事務所はありませんか。事務所と、そしてこの活動に加わっていただける人々
を募集しております。なにとぞこれからピースCAPプロジェクトをよろしく
お願いします。(拍手)

◆◇司会者
 つぎは相馬雪香さんですが、高齢のため欠席されました。ここに(資料日本
経済新聞夕刊10月3日から7日で5回連載)相馬さんがどのような活動をさ
れ、どういうことを訴えてこられたかが良く書かれています。とくに難民救援
運動、地雷廃絶運動、などとの取り組みはよく知られております。
 それでは横井久美子さんをご紹介します。
ご承知のように横井久美子さんは、ギターによる演奏、独白者の証言、ベトナ
ム戦争時の枯葉剤による被害の実状を訴えるなど一風変わった平和コンサート
を開くシンガーソングライターです。横井さんにはスピーチのあと、歌ってい
ただくよう、お願いしております。

◆◇横井久美子氏◆◇
 こんなすばらしい会にお呼びいただいて感激です。安藤さんも言われており
ましたが、私も、実際ノミネートされた時はびっくりしました。ただ、私の場
合は、この企画をどこかでみつけたファンの方が「横井さん、こういうことが
あるので、推薦をしたいですけど」と言われた。それはとてもおもしろいと思
いました。ブッシュにノーベル平和賞をというような声もある、そんな時に、
世界中の草の根で活躍する、女性たち千人にノーベル平和賞をという、こうい
う企画は日本では生まれない。ヨーロッパだったからかなぁと思ったりしまし
たが、それは運動としては、とても面白いので、やろうやろうと、といって言
ったのです。それがまさかノミネートされるとは思ってなくて、逆にびっくり
しました。
 
 野村かつ子さんは、皆さんのお力で、こういう立派な会をされて、いえ今日
は、私のファンというか、親衛隊もたくさんきていますけど、そうだ私たちも、
そんなことやってくれないわね、みたいな。それはもう、野村さんのキャリア
とわたしのキャリアは全然違うということを今日は思いました。でも、私を呼
んでくださって本当にありがとうございました。
 私は、大きなステージでバンドでも歌うことはありますが、1969年から一人
でずっと歌ってきました。それまではボーチェアンジェリカ女性コーラスです。
いわゆるテレビの芸能界でタレント生活をしていました。ボーチェアンジェリ
カ、お聴きになったことございますか?ちょっとご年配の方だったら、あるか
と思いますが「わかれても、わかれても」(口ずさむ)「忘れな草をあなたに」
そういうのを歌っていました。
 でも、芸能界の生活というか、暮らし、歌手というあり方がとても、自分に
合わないと思って、たった一人で歌を歌うことをスタートして、もう昨年で35
年がたちました。さきほど沢田さんの毎日新聞の記事の紹介がありましたが、
私のようにヒット曲が一曲もないのに、それでも35年間現役の歌手として、
ずっとステージでライブをできるというのは、日本では本当に数少ない、それ
はやはり日本の文化状況が、たいへん難しいからだと思います。それでも私は
沢山の日本中の方々に支えられて歌ってきました。

 私は民主派シンガーと言われますが、私はスモンとか、最近ではアスベスト
なんかで有名になっています。じん肺とか、そういう方々たちと出会って、歌
をつくってきました。そういう歌を歌う歌手というのは何かプロパガンダをす
るような、そういう歌手に見られてきました。でも私は今まで自分がそういう
歌を、数多く作ってきましたが、頼まれて作った歌は一切ありません。ですか
ら私は歌手としてはプロかもしれませんが、いわゆる作詞作曲家という点では、
ちょっとアマチュアっぽいということでしょうか。
 いろんな所に偶然、歌手で出かけて行って、横井さんが来るとみんなが明る
くなるから、歌をうたってよ、そういう呼びかけに答えて出かけて行って、そ
してそこで、この時代の、この日本の、この世界の、このあり様に、ノーと言
って立ち上がった勇気ある人々たち、先ほどの従軍慰安婦の裁判に訴えられた
方もそうなんですけれど、この時代の、この日本に生きている私たちの、この
あり方、日本のあり方にノーと言うのは、とても勇気がいります。
 
 けれども、そういう勇気のある人たちにいっぱい、私は歌手生活の中で出会
ってきました。そして、じゃ、私は何ができるだろう、私はビラをまくことが
できる。車イスを押すこともできる。でも、私はやっぱり音楽家だ、だったら
歌を作ろう、そういう人間に、勇気ある人間に出会うことで、私は、いくつか、
そういう種類の歌を作って、今までずっと歌ってきました。
 私は3月29日に原爆症認定の裁判の集会に、それも、横井さんが来ると楽
しくなるから来てぇっと、弁護士に頼まれて、そして出かけて行きました。そ
れまで、私も日本国民ですし、世界中で歌を歌ってきた者ですから、原爆のこ
とを、それなりには、知っているつもりでしたが、その裁判に出かけて行って、
日本の28万人いる原爆現存被害者の中で、たった0.9%しか原爆症として認め
られていないという実態を聞いて、びっくりしました。

 このノーベル平和賞の話がありますけれど、日本被爆者団体協議会、被団協
といいますが、この団体も何年かにわたって、ノーベル平和賞の候補になって
いました。今年は、特に被爆60年ということで、もう記者会見場も作って、
記者たちもたくさん集まって、それは、私たちの会とはずいぶん違いますが、
今か今か、外国通信社が今年は被団協が貰うのではないかっていう報道もしま
したし、私も今年は被団協がも貰うのではないかなと思っていました。ところ
がやっぱり今の日本の裁判の原爆症認定裁判をしている人たちの、その立場で
もわかりますように、日本とアメリカの関係がある限り、決してこの原爆症を
認めないという政府のもとでは、やっぱりだめでした。

 私は、今年、原爆症認定裁判の公演を始めて、日本国民として、何か知って
いたつもりなのに、本当に知らなかったという、なにか恥じるような思いです。
 ちょっと、ここで(ギターをつけて、奏でる)、広島で被爆したときに、峠三
吉の作った詩は、今60年たっても救われない被爆者の苦しみに耐えている、
というふうに思って、こういう歌を歌い始めました。峠三吉の「人間を返せ」
です。
(歌を歌う)
 今日は本当に、素敵な会にお呼びいただきまして、ありがとうございました。
(拍手)。

          (会の後半)
◆◇司会者
 野村さんのプロフィールをご紹介します。
 1910年京都西陣に生まれ、同志社女子専門学校、同志社大学文学部を卒業し、
44年、江東消費組合に入られ、45年、日本協同組合同盟に参加して主婦連合
会の創設に参画をされました。48年、婦人有権者同盟の常任中央委員になられ、
51年には、婦人職業協会を設立されました。1959年には、総評の全国オルグ
として、「総評主婦の会」で、活動、71年には、ラルフ・ネーダーさんを招聘
し、以後、日本消費者連盟、国際消費者機構IOCUの顧問として活躍されまし
た。1975年には、海外市民情報センターを大竹財団のサポートで立ち上げられ、
ずっと海外の消費者運動、市民運動の情報を紹介されてこられ、現在は、生活
クラブ生活協同組合東京と長野の顧問、そしてIOCUの名誉顧問として活躍さ
れており、今月96歳になられ、お元気で毎日かかさず散歩を、されておりま
す。
 それでは野村さんの人となりなどを埼玉国際大学の下葉友衛さんから、御話
頂きます。

◆◇下葉友衛氏◆◇
 私と野村さんとの出会いは私が1988年から89年に掛けて1年間キプロスに
行っておりまして、その間、僕はドイツなどヨーロッパをずっと回って、敗戦
国ドイツが、経済大国であり生活大国であるのに比べて日本は、経済大国であ
るが生活小国である。と感じ、「それは何故なのか」と1年間、ずっと考えてい
たのですが。その結論が、その市民社会が成熟しているかどうか?そして市民
社会の担い手の市民が育成されているかどうか?と。これが決定的な違いじゃ
ないかな、という結論でした。
 帰国してから「市民―女性の為の教育環境」というものに、こだわってきま
した。そのときに、野村かつ子さんとお会いし、1995年の大学祭の時にシンポ
ジウムをやり、パネリストとして、お呼びしたのです。それ以後3、4回、出
版記念パーティの時に御招待いただいたり、懇親会に参加していただいたりし
てきたのですが、その時に非常に驚いた事に、普段、無関心・無感動な若者が、
野村かつ子さんの語り口、野村節に酔うんです。心に火がともるのです。それ
で私は「なぜ野村さんにはそういうインパクトがあるのか!」を知るために野
村さんが歩んできた生い立ちを色々考えました。

 野村さんの生い立ちから、簡単に言えば、二つ重要なポイントがある。ひと
つは、京都の西陣で子供の頃体験された現場。もうひとつは、それ以後、社会
の矛盾に対していろいろ戦っていく過程で色んな人たちとの出会い。この二つ
の条件が大きいと思ったのです。
 私はその現場をアジア、特にフィリピンの現場においたのですが、すると、
その世界の矛盾が凝縮している所で、その社会の矛盾と戦っている色んな本物
の人が居るのです。そういう人たちと学生を接触させると、やはり同じように、
見ちがえる様に変わります。

 そういう意味で、私は「日本の市民」になるための学び方、市民を育てる教
育方法の中で、現場が、いかに重要なのか。そして現場で戦っている人たちと、
接触させると、自然とその矛盾に対して、やっぱりおかしいじゃないか。そこ
に居る人たちがかわいそうじゃないか。というような感情を持つようになるの
です。
 それで一生懸命勉強してこなかった無関心な学生たちが、大学へ戻って一生
懸命勉強するようになるのです。それで自分に何が出来るのか?ということで
自分に出来ることを働きかける様になる。そして、自分の生き方、その道の延
長線上に職業の選択が繋がって行く。という事を野村かつ子さんから学んだの
です。
 それを本にしたのが「地球市民に成る為の学び方」で、私流で言えば「市民
に成る為の野村学」ですね。(その本の案内は、外にあります。持っていただけ
ればと思います)
 それで、野村さんに学生が会って、多くの事が変わって行くのですが、幾つ
かの出来事として、1992年の「私が私を変える」という本があるのですが、確
かその時デイリーデモクラシィの事を、おっしゃったのです。そのひとつの例
として、アパルトヘイトの問題を挙げられた。例えば、南ア産の金でできてる
ネックレスやブレスレットとかイヤリング、これを買わない。これも1つの市
民運動なのだということを話された。そしたら、それが終わって懇親会の時に
私のゼミの中に、金のネックレスをして、ブレスレットをしている学生がいた。
その学生が、野村かつ子さんの所にツカツカと行って「どうもすみません。明
日からデイリーデモクラシィで、私もやりますから。」ということで、それをき
っかけに非常に変わって、現在、その彼がサウジアラビアへ行って文化交流を
やっています。         

 また、シンポジウムで野村さんの影響を受け、韓国へ行って、ホームステイ
しながら大学で勉強した。そこで歴史的な問題について激論をして、それから
彼は「日韓の架け橋になりたい」と帰ってきてから、ずっとハングルやり、そ
れで奨学生としてコリアン大学の大学院の政治外国語研究科を卒業して、今年
の7月15日にソウルの日本大使館の専門調査員となって、現在、2005年日韓
友情年を担当しています。
 そういう卒業生が何十人といますが、それは、私は野村かつ子さんの、社会
の矛盾に対する怒り、そして、その社会の矛盾に対して戦ってゆく姿勢。エネ
ルギーがひとつのオーラというものを創って、そのオーラが「無関心な若者の
心に火けるのではないか」と思います。
 今年2005年から2014年までが「国連持続可能な開発のための教育10年」
ですが。その中でメインテーマの1つが、「市民をどう育てるか?」なのですが、
そういう意味で、今後、野村かつ子さんに、長生きして頂いて、若者の心に火
を点け続けていただいたら、日本、アジア、世界が、変わって行くのではない
か。と思います。 今日はどうも、おめでとうございます。

◆◇司会者
 それでは、お隣の韓国から、金 鐘鎰先生、がお見えですよろしくお願いし
ます。

◆◇金 鐘鎰氏◆◇
 まことにおめでとうございます。実は、日本語が余り、上手でないのですが
「そのままで、良い」と言うことで、まずい日本語ですが、がんばります。こ
ういう所に私を招聘して下さって本当に光栄です。ありがとうございます。野
村さんは、この資料にあるように韓国のイルガ賞受賞者ですから、その事でお
話します。
 実は私は、野村かつ子さん、と言いません。韓国では、尊敬する方に対して
は、「先生」と、呼びます。それでいつも私は「野村かつ子先生」と呼びますか
ら、今からの話も、「野村さん」ではなく「野村かつ子先生」とお呼びいたしま
す。   
 私が、日本と係わりを持ったのは、1986年に、生活クラブ生活協同組合、折
戸さんが、会長の時に、私が所属している信用協同組合の京畿道連合会と姉妹
関係を結び、日本へ参りました。生活クラブ連合会で、いろいろお話する中で、
「顧問に野村かつ子先生という有名な方がおられる。」という話から先生を知っ
たのです。

 それとは別に、韓国で有名なイ.コンという人から「日本に行ったらぜひ、
野村かつ子先生に、お目にかかって、いろいろお話を聞いたほうが、韓国で民
間運動をするために為になる。」と、いわれておりました。日本へ来てお目にか
かって、ひと目で、まぁ、こう言うと、表現が可笑しいですが、惚れてしまい
ました。あっ、女性として、惚れたんじゃなくて(笑い)。指導者として、それ
から、こういう立派な運動をなさっている先生として惚れました。
 韓国ではイルガ賞が91年に設立されたんです。これは、独立運動家で韓国
ではそれなりに尊敬されているキム.ジョンヒという人を記念するために、そ
の人の号が、イルガ、だったのでイルガ賞が設立され、私は、その常務理事で
す。
 第3回目に、誰を受賞者にするか?という審査委員会から色々質問され、生
活クラブ生活協同組合から推薦された野村かつ子先生を私から推薦し第3回の
受賞者に決まりました。
 先生の受賞のご挨拶は非常に立派だったのですが、日本の法政大学の大学院
で日本語学を勉強した女の方がいて、通訳やってもらったのです、あまり巧く
なかったのです。今でも非常に残念です。そのとき集まった人は千人くらいで
すが、その中には日本語が判る人が相当いたのです。15分の予定が35分間の
講演になりました(笑い)。日本語がわからない人からは、時計を指しながら
制止され大変でした。それ以来野村先生とお付き合いがつづいております。
 
 イルガ賞委員会は、だいたい独立運動をした人が多く日本人には非常にアレ
ルギーがありますから、出来るだけこの賞は、日本人じゃ無くて、東南アジア
のフィリピンとかタイとか、こういうところの人の与えるべきだという意見で
した。しかし私の方から野村先生の話をした処、もう満場の拍手で決定してし
まいました。これは私としては神様のみむねであり、このご挨拶にもあるよう
に日本と韓国の非常にデリケートな関係が上手く行くような契機になったので
はないかと考えています。
 
 野村先生は、今年、95歳ですから、私の丁度20年の年上の方です。95歳に
なっても、たびたび、リーフレットとか「よき師よき友に導かれて」という立
派な本を贈って下さって、それを見ながら本当に人間的にも尊敬しております。
95歳になったら、もうお休みになり、子供たちに囲まれて、いろんな、人間的
幸福を味わうべきなのに、今も勉強し、考え、それを残すために、整理し、わ
れわれ後輩に対しても一生懸命発言されているのを見て、私は今75歳ですが、
95歳までは野村先生に負けないように一生懸命励みたいと思います。私は、私
なりに韓国でイルガ賞をアジア11ヵ国に委員会を設け、ずーっと廻りながら、
仕事をしておりますが野村先生の、ひたむきな姿と気迫を見習い、頑張ります。
 今日は、どうも有り難う御座いました。

◆◇司会者
 あたたかいメッセージありがとうございました。
 続きまして同じ韓国のジャーナリスト李 仁哲さん。宜しくお願いします。

◆◇李 仁哲氏◆◇
 今日は「野村先生のお祝いの会」に韓国から参りました李 仁哲という者で
す。こういう素晴らしい瞬間に参加出来て本当に光栄です。
 私が、先生に初めてお目にかかったのは、20年前です。あの当時韓国社会で
は、まだ独裁政治で、新聞記者という仕事がまともに出来ない状況でした。友
人の勧めで、「消費者運動をやったらどうか」と言う事で関心を持っていたとき
に、野村先生のお宅を尋ね話を伺いましたら、世界の消費者運動、市民運動に
ついて、いろんなことを語られ、そして「一番重要なのは、なぜ消費者運動が
必要か」ということを教えられました。さらに資本主義の矛盾、人間の問題、
企業の問題、と幅広い話を聞いただけでなく、そのあとも先生が送ってくださ
った、海外市民の活動、そして先生がお書きになった「アメリカの消費者運動」
など色んな本を読みながら世界の動きに関心を持ち始めたのです。

 当時、韓国の消費者運動では、欠陥商品を告発する程度で、海外に目を向け
ている人は、ほとんどおりませんでした。先生は、いろんな情報を得ながら「も
っと重要な事は世界に目を向けるという事」と強調されたのです。世界を知ら
ないと自分を知らない。自分はどういう立場で何をしたら良いのか。運動もそ
うですし、国もそうだと思います。韓国もそういう状況にありましたので、そ
れが僕には非常に教訓になり、今もあのときの感動を忘れることが出来ません。
 そして、ラルフ.ネーダーさんを先生が紹介して下さって、彼の書いた本も
読む事が出来ました。また、先生が戦前の消費者運動、戦後の労働運動、そし
て最近は、大企業の問題、WTO反対の活動。それから、社会的正義の実現に
向かって歩んでこられた先生の生涯というものは、本当にすばらしい。僕も、
その、金先生のように95歳までは、7年ありませんが(笑い)まあ、がんば
ってみたいと思います。
 そして、今日は同じ韓国人の一人として宋 神道さんが、お出でなら会いた
かったのですが、残念です。「宋 神道さんを支える会」のかたに「勝利の日
まで頑張ってほしい」。と伝えて下さい(拍手)どうも有り難う御座いました。
(拍手)。

◆◇司会者
 もうひとかたはパク・チャンヒさんが来日の御予定でしたが、直前に足を怪
我され急遽来日が不可能になってしまいました。メッセージを長沼節夫さんに、
ご披露頂きます。

◆◇長沼節夫氏◆◇
 パク・チャンヒさんは野村先生の友人で、最近このような「ホジュン」(本)
という、韓国の昔の医者の伝記を精力的に翻訳されました。ところが翻訳中に
彼は何処か消えちゃいまして、どうしたのかと思ったら、韓国の公安に捕まり、
長い事、獄中にいました。国家保安法で問われたのです。やっと途中で金大中
政権に変わり、特赦で名誉回復をしました。ところが特赦されても韓国の国家
保安法では、当人の心が改心するまでは、ずっと公安が見張るという法律が出
来ていて、その撤廃運動が続いています。
 彼は「見張りというのは不当だという」訴えをして、裁判がずっと続いてい
ましたが、やっと一昨日、最高裁判所で「パク・チャンヒさんに対する国家保
安法適用による保護観察処分は不当である」という判決が下った。という喜び
の電話があったのですが同時に、足に怪我をして外出不可能になったと知らせ
てきました。それでメッセージを代読させていただきます。

◆◇パク・チャンヒさんからのメッセージ◆◇
 野村さんの会の開催を熱烈にお喜び申し上げます。1000人の方のノミネート
自体が、世界的に、歴史的に、大きな意味があるからです。会の開催にご尽力
された日本の皆様に心から敬意を表します。
 先日、私はナガヌマ・セツオ様と一緒に、野村先生のお宅に伺い、国際消費
者運動を中心に先生から親しくお話を聞きました。そのときの先生の純粋で情
熱をたたえられた深い内面世界に触れた感銘は、生涯忘れる事が出来ません。

私の国は分断状態で、平和はまだ定着していません。日本とはまだ十分な歴史
的な清算(戦後処理など)が成されていません。韓日は共にWTOなどで見ら
れる世界化の問題を抱えています。このような背景により人々の安全保障は大
きく損なわれています。私は、これに対する解決のしかたは野村先生が先駆的
に体現してこられた実践主義を真理として実行する事にあると思います。
 先生は同志社大学生のとき戸坂潤先生より社会変革の教えを指針として受け
られました。この事は日本の国際消費者運動のために計り知れない意味がある
と思いますし、私たち韓国人にも、また大きな教えとなりました。

 ここで私ごとをひとつ申し上げたいと思います。十年ほどまえに韓国では国
民学校、名称廃止運動が起こりました。その時、私は先頭に立ちました。この
度は私に対する国家による保安観察期間行使に抗議して私は法廷にその撤回を
求めて、あえて提訴いたしました。前者は初等学校という名前にかわり、後者
は一昨日最高裁判所で私の勝訴になりました。これらの事例は生涯、実践主義
的に現実問題に対処された野村先生の、「実践こそ真理としてある」ことが、私
に於いても立証されたものだと思います。野村先生の終わりの無い戦い、そし
て実践主義の貴重な教えに従い、韓国に於いても、いつも一市民として熱心に
生きたいと思います。先生の厚いご信頼に深く感謝申し上げます。
 「野村かつ子先生、末永く御元気でご活躍下さい」。と韓国語で加えられてお
ります。        11月12日ソウルにて パク・チャンヒ 

 なお、この「許浚・ホチュン」という本が桐原書店から出版されております。
関心を持って頂ければ幸いかと思います。以上です。(拍手)。

◆◇司会者
 続きましてアメリカからロバート・レフラーさん。70年代に来日されラル
フ・ネーダーさんと一緒に色々仕事をされ、現在はアーカンソー州立大学法学
部教授で1年間、東京大学で研究されております。 ご挨拶をお願いします。
 そのあと、野村さんに対し、ルス・コートさんという方から、メッセージが
きておりますので、それをロバート・レフラーさんに読んでいただきます。(拍
手)。

◆◇ロバート・レフラー氏◆◇
 みじかいご挨拶をするように頼まれました (笑い) 。恐縮ですが自分と自分
自身の経験について、お話をさせていただきます。30年以上前に大学を出て、
奨学金を得て日本語、日本文化を勉強する目的で日本に来ました。
 22才の若者で、自分の将来はどうなるのか、どんな道を選ぶのか、さっぱり
解りませんでした。ただ、ハーバード大学でラルフ・ネーダーの講演を聴いた
経験があり、ネーダーさんのように、なんとか仕事をやりたい、という曖昧な
あこがれをもちました。
 
 ところで、日本に来て、早稲田大学で勉強しましたが、ふり返ってみると、
その東京の2年間の滞在で、一番重要な経験は、野村かつ子さんにお会いした
ことです。とても深い印象をうけて、たいへんな刺激になりました。そして、
野村さんのおかげで、日本の消費者運動に興味をもつようになって、日本の歴
史をもっと深く理解できるようになり、そして、自分自身がネーダーのような
仕事をやりきるぞ、というふうに、自信を持つようになりました。
 
 そして、ロースクールに行き、弁護士になって、ネーダーさんのチームの一
員となりました。情報公開法、医療問題を中心にして、市民サイドの弁護士に
なり、今、ロスの教授になって、日本との比較研究をしてますが、たえず市民
運動の味方になってやってきました。この道を選んだのに、ひとつの重要な影
響は、野村さんのインスピレーションがあります。
ネーダーさんも、「野村さんは日本のヒーローです」とよくおっしゃいます。
次に、30年以上ネーダーさんのアシスタントとして仕事をしてきたルス・コー
トさんのメッセージを読みます。メッセージを英語で読み、日本語で、その要
約をします。

ルス・コートさんのメッセージ
 徳座晃子さんが送ってくださった、野村かつ子さんについての資料を再読し
まして、野村さんは、すばらしい一生をおくられたと考えます。いま、世界に
は毎日の新聞で読んでわかりますように、経済的不公平がとてもあります。し
かし、野村さんは、日本でも、アジアの国々にも、その不公平が、緩和される
ように闘っています。すばらしいことです。お会いすることができ、友達にな
ったことは、たいへん光栄に思います。おめでとうございます。(拍手)。

◆◇司会者
 それではラルフ・ネーダーさんから、メッセージがきております。これを環
境・消費者問題研究家の元日本消費者連盟船瀬俊介さんに代読をお願いします。
(拍手)。

◆◇船瀬俊介氏◆◇ 
 野村さんおめでとうございます。私が日本消費者連盟のフルタイムスタッフ
になったのは1975年です。それから10年間消費者運動に携わり、そのときに
野村さんにお会いし、本当に圧倒されました。野村さんのくちぐせは「ソーシ
ャル ジャスティス!」。野村さんは、なにものも恐れず、ズバーッとやるので
す。まったくすごい。で、私は心のなかで野村さんのことを、ウォーキング・
ヴォルテージ(笑い)、歩く活火山と名ずけていました。野村さんの、その「ソ
ーシャル ジャスティス!」、なにものをも恐れず、ためらわず、思ったら必ず
発言し、行動するというのは、私の今のモットーでもあります。

 不肖の弟子で、まだ野村さんの域には達していませんが、私も最近「抗がん
剤で殺される」という本を書きましたが、病院に行くと80パーセントの人が、
抗がん剤で殺されているんです。病院に行く前に、私の本を読んでください。
(笑い)。「気象大異変」という本も書きましたが温暖化破局は2020年に、ペ
ンタゴンの報告で、数百万人死ぬそうです。ノーリタンポイントはあと10年
しかありません。深刻な事態が進んでいる。小泉政権は、何もやりません。小
泉政権はブッシュのポチで、平和のために靖国に参るという、もう無茶苦茶、
支離滅裂です。
 野村さんには、90年に二度アメリカに連れてって頂き、ネーダーさんの事務
所を訪ねました。そのとき野村さんが2メートルくらいあるネーダーさんを説
教するのです。私はものすごく、圧倒されました。ネーダーさんが、なんかこ
う、学校の先生に、説教されている小学生にみえました。そのネーダーさんか
らの、あたたかいメッセージを代読させていただきます。

◆◇ラルフネーダーさんからのメッセージ◆◇
 
 「今から20年以上前に、私は野村かつ子を世界市民と呼んだことがありま
す。彼女の構想力、ネットワークは世界の多くの地域に広がるものだったから
です。彼女は、名誉とか、延々と続く行動を伴わない会議、官僚的な地位、不
要不急の仕事といったものに、全く関心がありませんでした。常に焦点は企業
権力と金権政治に虐げられて困窮している人々への援助におかれていました。
欺瞞や怠惰、不誠実は、たちどころに見抜かれてしまいました。総じて、物事
を根本から捉える人だったのです。そんなふうに彼女は自分の人生、時間、エ
ネルギー、緊急性への特別なセンス、それに博識、正義を、19世紀初頭のアメ
リカの上院議員ダニエル・ウェブスターが「人類の大きな関心事」と呼んだも
のの追求にささげてきました。
 
 野村かつ子は物質的快適さや、官僚的で気楽な仕事は、抵抗の前線に立つべ
き者たちの意識を弱くすることに気づいていました。彼女は、この点多くを教
えてくれました。労働、消費者、環境、政治、なんであれ、傷つき、病み、だ
まされる貧しいものは、たよりとします。活性化した若い世代が、活動的な旧
世代の指導者に加わり、世代交代していかなければ、正義の追及の力を失いま
す。
 野村かつ子は、その生涯を通じて、生協運動、労働運動、情報公開、女性の
権利、現実的市民教育、企業の説明責任、政府の責任といった分野で、長年ど
れだけの活動をしてきたかは見てください。今日、誰が、これほど幅広い努力
をしていますか。彼女は今、洞察と決意にあふれた自伝を執筆しているそうで
す。すばらしいことです。私はかつて、自分の母親から「決意とは、夢を運ん
でくれるもの」と教わったことがあります。野村さんはこの意味で、決意の権
化です。日本の若者は、野村さんが企業支配された社会で、彼女が抱いている
正義への衝動について、もっと学ぶほうがよいでしょう。
 
 あなたも、あなたを推薦した方たちも、どうか正義の追及をつづけ、末永く
実社会に道を示してくれますように。2000年以上前に、古代ローマのマルスク
キケロが「自由とは権力への参加である」と書いてあります。中国には、「知っ
て行わざるは、知らずに同じ」という古いことわざがあります。これらは私の
親愛なる友人野村かつ子、あなたのことを云っているのです。あなたは私たち
皆を、鼓舞してくれています。どうもありがとう。
 皆さんに、どうか、たくさんの幸いがありますように。
         2005年11月4日 ラルフ・ネーダー」
どうもありがとうございました。(拍手)

◆◇司会者
 最後に野村かつ子さんのご挨拶をお願いします。(拍手)

◆◇野村かつ子氏◆◇
 今日は長野県からも大勢の人が来てくれて感謝します。私は、最近、朝4時
半か5時に起き、近くを歩きますが、とっても偉い人だなぁと思う方がここに
見えています。ポイポイ棄てられたタバコをバケツをもって、拾っておられる
のです。
 この会の呼びかけ人の細木さんも環境保護の地味な活動をつづけられている
立派な人ですが、とにかく、運動家というのは、人様に感銘をあたえる人だと
最近しみじみ考えています。
 私が大変お世話になりましたのは弁護士の神山美智子先生です。神山先生に
出会ったことが、私の消費者運動の姿勢を、ころっと変えてしまったのです。
私は幸いなことに、そういう友達をたくさん持っています。山谷のホームレス
に何年も、朝四時半ころ、惣菜とご飯を200円くらいで、出し続けている友人
もいます。私は立派だなぁと感心して、そこに、一日座らせて頂いたことがあ
ります。あそこに、その方がきています。
 
 小若くんも来てくれてますが、小若くんも立派です。だいぶ前に、日本の消
費者運動のリーダーとして、亡くなった竹内直一さんをみんなが褒め称えてい
たときがありましたが、私は、東大卒で、勉強ができて、頭がいいというだけ
では、真の指導者とは言えないと考えていました。その頃から小若君はコツコ
ツと運動に取り組んでいて、今でも下むいて歩いていますが、実力があります。
今日もこの会合に5万円もカンパしてくれました。(笑い)。血の出るようなお
金です。感謝しています。
 
 皆さん、本当の活動家と偽者とを見分ける目を持ちましょうよ。朝歩いて、
ゴミをひろっていらっしゃるのを、ありがたいなぁ、ご立派だなぁと、思うこ
とが、私にとっての勉強です。私はそういう勉強を最近しております。

 あそこには、国民生活センターで定年退職され、いいところに就職しないで、
障害をもった子供達の絵の展示会をなさっている方が見えています。私はその
絵を見てきましたが味のある絵です。そのよう活動をされている偉い人画世の
中にいるのです。
 この会の呼びかけ人のなかには、成瀬先生,伊佐山先生、など弁護士の偉い
先生。大橋照枝さんも大学の先生をなさっていますが、皆さん来て下さってい
ます。
 こんなばあさんの話を、つきあってくださいまして感謝しています。それか
ら、銀嶺食品工業の社長さんの大橋雄守さんが来ていらっしゃいます。この方
はね、片足がないのにその不自由をしのいで、安くて、おいしくて、混ぜ物の
ないパンを作っています。皆さんにも今日おみやげにあります。立派な人とい
うのは、こういう人です。地位や名誉や、あんまりそんなことは考えない人の
ことです。今日も長野県から10人以上の方が、朝はやくから、この会場に来
てくださったのは私が山梨県に住んでいる時に、長野県に毎日行って、わずか
な人たちのグループに、一年間以上、一生懸命、下手なスピーチをやったから
で私は本当にうれしいと思います。一生懸命がんばることが大切だと思ってい
ます。
 
 私は、もうあまり、エネルギーもなくなりましたが、必読の資料というのは、
ここにお見えの長沼さんのお兄さんが書いておられる社民党の新聞があります。
そのコラムを読みます。毎週月曜日にきます。そのコラムは、すばらしいコラ
ムです。私は、そのコラムを読んで、ははぁ、世の中のこれだけの大きな動き
を、こんな短い言葉でばさりと、しかも、誰にもわかりやすく、お書きになる
立派な人だなぁと思います。
 ロバート・レフラーさんのお父さんは一番南の方の貧乏州のアーカンソー州
で、州の法律で黒人は大学に入れなかったのですが、なんで色の黒い人は大学
に入ってはいけないんだと、平気で黒人をお入れになった立派な方です。立派
なお父さんをもったレフラーさんは幸せな人だと思います。そうですから、レ
フラーさんも、お父さんの血を引いて(笑い)ハーバード大学で、たいへんな
賞をもらった。

 わたしは、本当によいお友達にめぐまれて、感謝しております。おもだかさ
んもそうです。幸いなことに、私はこうして多くのよき友だちに支えられ、今
日生きていることを感謝して毎朝5時前に、小学校の前で体操するのです。体
操をしながら、お星さんを見ると、きらきら光っています。私は神様が在るの
か無いのか知りませんが、思わず、ありがとうございます。お星さん、また明
日会いましょうね、と言って、その場を去ります。私の生活は、そんなふうに
しております。
 どうぞ、皆さんはお元気なのですから、お体を大切にして、ひとつでもよい
ですから、人様の喜ばれることを、おたがい励ましあって、やって行こうでは
ありませんか。
 長くなりましたが、杖をついて歩かねばならない、ばあさんの話を聞いてい
ただき感謝して終わります。(拍手)。

◆◇司会者
皆様長時間ありがとうございました。これで閉会いたします。

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