―三宅正一の思想と行動をめぐって

■無産政党政治家の戦争遂行協力責任

三宅正一の思想と行動をめぐって  飯田 洋

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◇始めに
 今回、オルタ編集部より三宅正一の戦時中における思想と行動を通じて無産政
党政治家の戦争遂行協力責任についての考察を書くようにという依頼を受けた。
 恐らく、4月に、私の「農民運動家としての三宅正一 その思想と行動」(新風
舎刊)が上梓されたのに関連しての依頼であったと思う。三宅の活動は、大別す
れば、
 1)農民運動を中心にする社会運動 
 2)無産政党、日本社会党における政党活動 
 3)衆議院議員としての国会議員活動に分類出来るが、

 当著は、表題が示す通り、三宅の農民運動家としての活動、特に新潟における

小作争議の指導を中心にしての三宅の活動とそれに関連した人達、とりわけ一般
民衆、農民がどのように反応し、評価したかを、私の手元にある未公開の資料や
生の証言を検証することによって三宅の実像を描くことを目的としたものである。
従って、編集部から与えられた課題の、戦中期における無産政党政治家の戦争遂
行協力責任については、今後の研究課題として僅かのスペースを割くにとどまっ
ている。
 確かに、戦前、戦中(本稿では、戦前、戦中、戦後という語句を使用する場合、
戦前とは1937年(昭和12年)7月の日中戦争勃発以前を、戦中とはそれ以後1945年
(昭和20年)8月第2次世界大戦終了までを、戦後とは、それ以後を示すものとす
る)における農民運動の指導者の戦争体験を分析することは、彼らが目指した改
革と戦争遂行の係わりを明らかにするために不可欠である。しかしながら、これ
らの研究は、最近やっと緒についたところで、具体的な検証は、まだまだ充分に
はなされていない。
 社会運動家として、また政治家として、戦前、戦中に三宅がくぐり抜けた試練
は、第2次世界大戦の暗い影であった。大戦中議席をもったことによる戦争遂行
協力責任については、同時代の政治家や思想家がそうであるように三宅も多くを
語っていないため、本人の考えを直接確かめるすべがないことも事実である。
 私にとっては、このテーマは、上述したように次の研究課題である。戦時中に
おける合法的無産政党の持つ役割と限界の中で、現実的政策の実現を第一義とし
た現実主義政治家三宅正一の行動の分析、評価を通して、当時の社会状況におけ
る無産政党政治家の戦争遂行責任問題についてこれから研究を進めたいと思って
いる。
 従って、本稿では、戦時中に三宅が関係したいくつかの運動の性格と三宅の係
わり方を挙げ、感想を述べるという問題提起の段階にとどまることになる。

◇三宅正一の経歴と研究対象としての意義
 まず読者の理解を深めるために三宅の略歴を紹介する。
 三宅正一 (1900~1982年)岐阜県の素封家に生まれ、
 1918年、早稲田大学政経学部卒。早稲田在学中から、和田巌、浅沼稲次郎らと
 共に建設者同盟を創って社会運動に入り、卒業後、新潟県各地で小作争議を指
 導する。
 1922年、日本農民組合の結成に参加、労働農民党、日本労働党などの無産政党
 の中央執行委員を歴任、
 1936年、社会大衆党から衆議院議員に当選,以来15期。1942年の翼賛選挙に
 非推薦で当選、
 1946年の戦後第1回の総選挙には、戦時中「護国同志会」の結成に加わったこ
 とから、追放令には該当せずとされながら立候補該当者の証明を得られず立候
 補を断念、
 1949年の総選挙で、日本社会党から政界に復帰した。党内では、河上丈太郎派
 に属し、一貫して党内右派・中間派としての道を歩み、1946年の分裂時は右派
 社会党国対委員長、
 1955年の左右両社会党統一の際は、準備委員長を務め統一に尽力した。晩年は
 党長老として社会党副委員長(1968~1970年)衆議院副議長(1976~1979年)
 となり、まとめ役としての本領を発揮した。

 このように三宅は、農民運動家としても、政党政治家としても、またその議会
活動に於いても、常に中心的存在であった。その意味で、農民運動指導者の動静
分析、戦時中の無産政党第一党であった社会大衆党の議会活動、農民運動指導者
の戦時下における政治行動の分析を行う際に最も対象として適した人物であると
いえる。
 しかしながら、これまでに公にされた三宅の自伝や伝記を見る限り、三宅の戦
中下における国家体制に対する姿勢、戦争遂行協力責任については、本人の口か
らも、伝記の著者からもほとんど語られていない。
 三宅著の自伝的社会運動史『幾山川を越えて 体で書いた社会運動史』(恒文社、
1966年)は、三宅と私が1963年から三年がかりでまとめたものであったが、三宅
から当時の運動の位置や個人の心境を聞きだすことは、殆ど出来なかった。
 その結果,当書における総力戦体制下における状況の叙述は「一時は三十六名
の盛大さを誇った無産政党は全く凋落し、右翼軍国勢力の跳梁する中に肩身の狭
い存在を続けるにすぎなくなった。かくして無産政党は戦後の再建に至るまで全
く時流の潮流の中に埋没してしまった。」(1)としか書けなかった。
 
 三宅個人としては、1943年、日本育英会の成立を成し遂げたことについての感
想として「私は、戦前、国会に議席を持った者として、多くの責任を感じなけれ
ばならないことがあったと思うが、ただ育英制度を作ったことだけは、国民に対
する大きな貢献だったと思い、敗戦の責任についてもいささか慰めるところがあ
る」〈2〉と述べている。
 
 また、三宅の追悼伝記『三宅正一の生涯』において、最も三宅を知る一人であ
る沼田政次は、太平洋戦争の試練について「これは、三宅正一ばかりではない。
戦争を生き抜いた全ての人々、特に、指導者として第一線にあった人々にとって、
夢魔にひとしい一時期であった。海外や刑務所の中にいて戦争反対を叫んだ人々
はいたが、大衆の中で公然と戦争反対を叫んで命を失った者のなかった日本にお
いて、ことさら戦争協力者を見つけ出すことは、およそ空しい業であろう」(3)
と述べて、真正面から三宅についての戦争遂行協力責任に触れることを避けてい
る。
 このように、自伝や伝記からは、直接三宅の心情を窺い知ることは不可能であ
るので、三宅が係わったいくつかの運動を分析することによって、戦争遂行協力
責任について、考えてみたい。

◇産業組合運動の遂行
 
三宅は、「農政の神様」とよばれた石黒忠篤を中心とする新官僚グル-プによっ
て推進された産業組合(現農協)運動に積極的に参加した。三宅の運動の中でも
最大の成果とされる1934年に完成をみた中越医療組合病院創立も産業組合運動の
一環として行われた。
 産業組合は、農民組合が,第1次世界大戦以後、小作争議の激発を背景にして
結成され社会問題化するのに対応して、地主・小作間の階級宥和機関として新た
な役割をもって農村に普及していった。産業組合運動は、その本務である農村へ
の資金供給と流通過程の合理化によって「農民の大本たる隣保共助」(産業組合五
ヶ年計画)の精神を基に、村を単位とした組織化を図るものであり、その組織網
をバックに「農村中心人物」を軸として、民衆を国家建て直しという同方向へ動
員することを目的とした。いわば、戦時体制を整える役割を担った地主・小作間
の階級宥和機関であったことは事実である。そこには、頻発する小作争議により
農民運動が高揚するのを避けると同時に、体制側の反動的対応によって農民運動
のエネルギーをより反体制側に追いやるのを防止するという危機感があった。
 
 新官僚が推進した農民経済推進運動、産業組合拡充運動への三宅の傾斜に対し
ては批判もある。当時も、「産業組合運動は、小作組合の立場を捨てるものだ」と
いう非難の声が左翼陣営から起こった。
 三宅が、産業組合運動と連携を深めた理由の一つは選挙事情である。三宅が始
めて衆院選に立候補した1935年は、すでに農民運動のピークは過ぎており、農民
組合員数も、漸減しつつあった。従って、小作農民の票数だけでは,当選圏内に
遠く及ばないことは明らかであり、当選するためには、小作農民一辺倒にこだわ
らず、中農層までの支持層の拡大は避けられない課題であった。しかしながら、
三宅の方針が選挙事情のみによって変化したとみるのは間違いで、やはり小作争
議の指導を通じての農民運動に原点があり、その上で従来の枠組みを越えて中農、
貧農を含めた幅広い運動を展開したと見るべきであろう。
 
 政策の実現のためには既成政党(無産政党)の枠を越えても推進するという三
宅の姿勢と、同じく既成政党(政友、民政党)に飽き足らず社会民主主義的な政
策をもって国家革新を目指した新官僚がいわば、両極から歩み寄り接点を見出し
たといえる。このように、三宅の産業組合による運動は、政策実現のための選択
でもあったが、彼の思想の中には、農本主義を基盤とする協同体による農村の自
立への志向があり、産業組合に対してもある種の共感を有していたと思われる。
 なお、三宅と新官僚との関係については、前褐拙書『農民運動家としての三宅
正一』を参照されたい。
 
 産業組合史の研究は農民運動史の研究にくらべて遅れている。したがって三宅
の医療組合、産業組合を推進する活動の意味についても充分に解明されていると
は言いがたい。石黒を中心とする新官僚の目指したものが何であったかも同様で
ある。農本思想をもった農政家といわれた石黒が、産業組合運動により、農村の
振興と自立を目指すことによって、当時の重化学工業の発達をもとに国家の威容
を高め、海外進出を目論んだ国策に対抗したということも充分考えられる。
 今後、研究が進み、産業組合の果たした役割が明らかになれば、おのずと三宅
に対する新しい評価と批判もなされることになろう。

◇護国同志会への参加 
 三宅は、1943年に結成された院内交渉団体である護国同志会に参加した。その
ことをもって三宅を戦争遂行協力者と看做す論がある。護国同志会は、しばしば
政党と誤解されているが、(例えば原彬久は『岸信介証言録』の中で「岸氏を
影の主役としてつくられた政党」としている)政治団体ではなく、院内交渉団体
として衆議院事務局に届けでた議員グループとして発足した。従って、綱領もな
ければ、政策も規約もなかった。
 
 旧社大党からは、三宅正一、川俣清音、杉山元次郎,前川正一などが参加,戦
後の保守有力者となる船田中、赤城宗徳等も参加した。構成分子もまちまちで、
もともと政治畑に育った人々のほか、軍人、官僚、翼賛壮年団、農協、町村長出
身者の寄り合い所帯であった。思想的には、国家主義者あり、民族主義者あり、
自由主義者あり、それに旧社大系の社会民主主義者が加わった。その中には、東
条内閣で商工大臣となり、東条と衝突してやめた岸信介をかついで岸新党を目論
む者もいた。共通していたのは、反政府的(反東条)、反翼賛会的性格である。議
員一人一人が、集団の枠にとらわれることなく、独自の立場で行動したといわれ
る。従って、参加した人々の思惑は異なっており、当然のことながら、それぞれ
の回顧録や伝記等にみられる護国同志会の性格づけも異なっている。研究者の見
解もまちまちで、護国同志会の統一的イメージを描くことはまだ困難である。
 
 戦後の追放指定においても護国同志会は、追放該当の国家主義団体(D項)に
指定されず、三宅も個人として国家主義者(G項)としての追放該当者ではなか
った。たたまたまこの会に、戦後A級戦犯の指定を受けた岸信介がいたことから、
この会を犠牲にして、他の多数議員を救済したともいわれている。
 三宅は自伝『幾山河を越えて』の中でも護国同志会については、全く触れてい
ない。その理由は明らかでないが、内心忸怩たるものがあったのは事実であろう。
ただ、参加の一つの理由が、東条の一党独裁による翼賛政治に対する反抗であっ
たことは想像出来る。
 
 護国同志会が結成された前年(1942年)東条首相は、戦争遂行のため、政府、
軍部に全面協力する議会を確立、議会を彼の独裁下に置く意図のもとに推薦候補
を選ぶいわゆる翼賛政治を実施した。推薦候補には選挙資金を与えるなどの全面
的援助を行う一方、非推薦候補には、警察の露骨な干渉を通じて徹底的弾圧が行
われた。「好まざるもの」として非推薦候補として闘った三宅はトップ当選を果
たした。この時の選挙について、三宅の長男新一は「翼賛選挙の際の人の集まり、
盛り上がりは、子供心にも興奮したもので、父の最も高揚した幸せな時代であっ
た」と述懐している。生涯を通しての貧乏選挙の中で、多額のカンパが集まり、
唯一経済的に楽な選挙であった。国民の反東条の感情がいかに大きなのもであっ
たかが分かる。保坂正康は、三宅の東条に対する感情を「左派社会党につながる
教条主義者が公式的に東条批判(帝国主義者とかファシストの親玉といった類の
言い方だが)を行うのとは質が全く異なっていた。むしろこうした公式的な東条
批判に欠けている"人間的な憎しみ“を三宅は代弁していた」として三宅を「真の
反東条派の歴史的存在」と書いている。(4)
 
 このような思想的立場にあった三宅の現実的な動きについて一つ一つここで検
討する余裕はないが、護国同志会に参加したことのみをもって戦争遂行協力者と
決め付ける論は拙速にすぎるといえよう。

◇農地制度改革同盟の結成
 戦局の進展に伴う当局の弾圧により、農業団体が次々に消滅していく中で、三
宅を中心として、1939年11月に農民団体最後の生き残りを賭けて農地制度
改革同盟が結成された。そのことが、ファッショ的戦争遂行運動に組みしたとし
ての批判がある。
 当時、政府は、食糧増産確保のため生産者である農民の地位を保証する必要に
迫られ、農地調整法や小作料統制令など戦時統制を実施した。これによって農民
組合が多年要望して運動してきた小作条件の改善と土地制度の改革に一歩前進す
る可能性が生じたとして農民組合議員を中心に「農地制度の合理的改革」を共同
の目的にした統一的政治運動を展開しようとして結成されたのが農地制度改革同
盟である。1940年に入り、農民組合は全て解散消滅したが、辛うじて政治活動を
許された農民運動関係議員を中心に結成された農地制度改革同盟のみが、唯一の
運動組織として残った。
 
 社会民主主義農民運動と右翼農民運動の統一戦線といわれ、最後の農民団体と
してその存在を続けたが、太平洋戦争の勃発によって、1942年、東条内閣により
解散させられた。「その根本思想は社会主義に発し、その性格並びに運動形態は
階級的闘争的」というのがその理由であった。当時の軍部政治が戦時下の農民組
織の存在を如何に敵視したかが窺い知れる。
 農地制度改革同盟については、研究者の間でも、ファッショ的戦争遂行団体で
あるとする一方で、時局を利用して、地主的土地所有解体を促進したとするもの
もあり、評価はまだ定まっていない。
 
 なお、三宅は、三輪壽壮とともに1940年12月、方針をめぐっての内部お意見
の違いを理由に同盟の解散を提唱し、その後自ら離脱している。三宅の発言によ
れば、「同盟の存在が、近衛新体制促進を阻害するものであれば、解散もやむを
得ない」とう理由からであった。三宅の近衛新体制に対する見方を示すもので、
興味があるが、ここでそれを分析する材料はまだ持ち合わせていない。
 
 以上、産業組合、護国同志会、農地制度改革同盟と三宅の係わりについて述べ
てきたが、それだけからも分かるように未だ運動の評価は定まっていない。更に、
運動における三宅の役割を検討するためには、資料を綿密に分析することが必要
であるが、それは今後の課題として、本稿では事実を羅列するにとどめたい。
 これらの運動については、多くの資料が残されている。その中には関係者に関
する著作や論調、大会などの声明書や発言の議事録の類や、特高なども含む当局
側の資料など多種にわたる。これ等の資料を丹念に分析することが必要であるこ
とは言うまでもないが,注意しなければならないのは、それらの資料が必ずしも
真実を伝えているとは限らないということである。
 
 特に戦時中の弾圧と言論統制の中で活動した運動当時者の発言や著作などには、
やむを得ず真意とは異なった表現をしているものも多い、例えば、三宅は、育英
制度の建議案提出の際の説明で「大東亜全域に指導者を送りだすために」と述べ
たが、これは、あくまで当時の情勢の中で法案を成立させるためのカモフラージ
ュで、真の狙いは、教育の機会均等の実現にあった。この事実は多くの関係者が
後に証言しており、三宅自身も、「こうした社会主義的な案を露骨に提出すること
は出来ない。そのために、戦争への協力のための動員計画として表面を粉飾した」
と述懐している。
 研究書の中には、資料の文言をそのまま根拠にして結論を導き出しているもの
も散見するが、その裏側に潜んでいる事実や真意を資料の紙背や行間から読み取
るという緻密な作業が必要であろう。

◇結び

 三宅は、すぐれて現実的な政治家であった。「政策を実現するのが本当の革新
なのだ」を口癖にした三宅は、既成政党の枠にとどまらず、時には、大胆な妥協
すら厭わなかった。このことが、軍部や保守政党との妥協のそしりを受け、時と
して戦争遂行協力責任を問われる一つの根拠となっているといえる。
 
 保坂正康は、三宅が1973年に著した『激動期の日本社会運動史』について「麻
生久、浅沼稲次郎、賀川豊彦など、いわゆる社会党右派者につらなる自からの同
志やその足跡を改めて検討しているのだが、それはとりもなおさず自らの政治的
立場を確認しようと試みている書ともいえる」と述べて、三宅の現実性を実証し
ている。この中で三宅は、麻生の「戦争反対をこのまま進めればわれわれは殺さ
れるであろう。殺されることは、すでに覚悟しているところだが、ただ、下手な
戦術を取って無為に殺されるのではなく、納得のいくやりかたで、出来るだけの
ことをやって死にたい」という言葉を引用した上で、「無産階級の解放と無産政
党の結集こそ麻生の生涯を貫く政治目標で、そのために麻生にとっては柔軟な現
実主義こそ必要だったのだ」と述べている。保坂は、三宅が麻生に託して語った
「権力のしめつけが厳しければ厳しいほど、それに対応する戦術は柔軟でなけれ
ばならない」という言葉は、三宅自らの考えであったのだろうとしている。(5)
 
 それを「仕方なしの協力」とみなすか、「ギリギリの抵抗」と見るかは、論が
分かれるところであろう。
 河上民雄は、「三宅を含む日労系の政治家は、麻生の影響もあり、多くが翼賛会
に走り、戦後追放で数年間のブランクを持った。そのことで、彼らには、他の左
翼指導者と異なって,悔恨と贖罪の意識が強く、戦後の時代を先取りする革新と
しての明るさの中に、何か暗い影のようなものをひきずっていたような気がする」
と述べている。
 
 三宅に限らず、戦争を生き抜いてきた人達、とりわけ指導者として政治の第一
線にあった政治家の戦争遂行責任を追及することは、非常に難しいといわざるを
得ない。
 坂野潤冶の「歴史を『結果』から後知恵的に解釈すると、国民的支持をある程
度得るのに成功した勢力は、すべて戦争協力者として糾弾されかねない。反対に、
左翼的言動に陶酔して国民的支持に失敗し、逮捕され投獄された人々のみが英雄
視されることになる」(6)という言葉は、この問題を考える重要な方向を示唆し
ているといえよう。その視点に立って坂野は、戦中における社会大衆党の躍進を
戦後日本社会党の歴史的基盤(日本における社会民主主義の伝統)として捉えそ
の意義を問い直す必要があると主張している。この問題については、いずれ稿を
改めて考察したいと思う。

(1)三宅正一『幾山河を越えて』(恒文社、1966年9月)p295
(2)日本育英会編『日本育英会二十年記念誌』(日本育英会、1964年3月)p192
(3)三宅正一追悼刊行会編『三宅正一の生涯』(三宅正一追悼刊行会、1983年10月)

    p333

(4)保坂正康『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社、2004年12月)p315
(5)同書 p316,318
(6)坂野潤冶『昭和史の決定的瞬間』(筑摩書房、2004年2月)p173
 
(筆者は元パラマウントベット(株)専務・立教大学大学院法学研究科政治学専攻在籍)

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