―憲法研究会の「憲法草案要綱」をめぐって―

■<<特集・憲法>>
<河上民雄氏に聞く>「日本国憲法」をいま新しく考える

―憲法研究会の「憲法草案要綱」をめぐって―

                              オルタ編集部
             【出席】河上民雄(東海大学名誉教授)
                 加藤宣幸(オルタ共同代表)
                 工藤邦彦(オルタ編集部/聞き手)
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≪第一回≫ 
「押しつけ憲法論」を駁す


――毎年5月3日の憲法記念日あたりになると、改憲、護憲双方の動きがクローズ
アップされ、新聞やテレビでの報道も多くなりますが、今年はとくに「憲法改正」
を旗印に掲げた安倍首相の下で、教育基本法の改定が行われたり、国民投票法案の
成立がはかられるなど、煮詰まった情勢の中で「日本国憲法誕生60周年」を迎え
たということもあって、例年にも増して憲法問題が日本政治の焦点になっています。
 オルタでは、2005年5月の第15号で、歴史資料として「第90回帝国議会貴族
院における宮沢俊義の質疑(速記録)」を載せ、昨年2006年5月の第29号では、
第75回帝国議会における斎藤隆夫の「支那事変処理に関する質問演説」を掲載す
るなど、毎年の<憲法月間>に当たって、いわば「日本国憲法なき時代」にポイン
トを当てて編集を企画してきましたが、今回は、敗戦直後に発表された日本の民間
人による優れた憲法草案として、最近特に注目されている憲法研究会の「憲法草案
要綱」をとり上げ、その成立過程、内容、今日的意義などについて、河上民雄先生
に多方面から語ってもらうことにしました。

 この憲法研究会の草案要綱については、今年は目についただけでも、NHKが新
憲法誕生のプロセスを詳細に跡づけた番組を二本(「焼け跡から生まれた憲法草案」
「日本国憲法の誕生」)放映し、そのなかで詳しくとり上げています。また、草案
の執筆者とされる鈴木安蔵を主人公にしたという劇映画(『日本の青空』)も制作さ
れ、各地の「九条の会」などを中心に上映活動が進んでいるようです。 

 じつはこの憲法研究会の草案要綱については、オルタでは創刊直後の第3号
(2004年5月)に、「1946年日本政府の『憲法改正要綱』と憲法研究会の『憲法
草案要綱』」と題して、その一部を抜粋・掲載して比較しているのですが、今回こ
れを新しくとり上げたのは、最近とくに大げさに叫ばれている「日本国憲法押しつ
け論」に対し、改めて「市民の憲法草案」の存在を、事実をもって対置するととも
に、これを日本の近現代史の中に位置づけ直して、その政治的‐歴史的意義を考え
てみたいと考えたからです。


●敗戦直後から憲法改定の動き


――そこでまず、お話をうかがう予備知識として、少し長くなりますが、「日本国
憲法」制定までの過程を年表的に振り返っておきますと、だいたい大体次のように
なります。

<1945年>
 8月14日:日本政府がポツダム宣言の受諾を最終決定
 8月15日:「終戦の詔勅」を放送
 9月22日:アメリカ政府が「対日初期方針」を公表
 9月27日:昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
 10月4日:マ元帥が近衛元首相と会見。明治憲法の改正を示唆。
これより近衛案の作成作業開始。
10月11日:マ元帥が幣原首相と会談。同じく憲法改正を示唆
10月25日:日本政府が憲法調査委員会(松本丞治委員長)を設置。
草案作成作業を開始
12月26日:民間の憲法調査会が「憲法草案要綱」を発表
(その直後に高野岩三郎「共和国憲法私案要綱」発表)
<1946年>
 1月1日:昭和天皇「人間宣言」の詔書発表 
 1月19日:マッカーサーが極東国際軍事裁判所の設置を命令(5月3日開廷)
 1月21日:日本自由党が「憲法改正要綱」を発表
 2月1日:毎日新聞が政府の憲法調査委員会の試案をスクープ
 2月3日:GHQが「マッカーサー三原則」による新憲法草案の起草を指示。
同時にGHQ内で憲法起草作業を開始
 2月8日:政府「憲法改正要綱」(松本案)をGHQに提出
 2月13日:GHQが松本案を拒否し、「マッカーサー草案」(GHQ案)
を手交
 2月14日:日本進歩党が「憲法改正案要綱」を発表。
 2月22日:閣議でGHQ草案の受け入れを決定
 2月24日:日本社会党が「新憲法要綱」を発表
 2月26日:ワシントンで第一回「極東委員会」開会
 3月6日:政府「憲法改正草案要綱」を発表。
同時に昭和天皇が「草案要綱発表」の勅語を発する
 4月10日:新選挙法による初の衆議院議員総選挙
(自由141、進歩94、社会93など。うち女性議員39)
 4月17日:政府「改正憲法草案」正文(平仮名、口語体)を発表
 6月20日:第90帝国議会に憲法改正案提出。審議開始
 6月29日:日本共産党「日本人民共和国憲法草案」発表
 7月3日:極東委員会が「日本の新憲法についての基本原則」を決定
 10月7日:衆議院が貴族院回付の「修正帝国憲法改正案」を可決
 10月29日:枢密院が天皇臨席の下で同案を可決
 11月3日:日本国憲法公布(1947年5月3日施行)

――ざっと、こんなプロセスですが、敗戦直後における日本の憲法にかかわる動き
というのは、実際にはどのようなものだったのでしょうか。

河上> オルタ共同代表の加藤宣幸さんも私と同世代の青年だったので、あの当時
のことはよく記憶されていると思うのですが、敗戦直後の9月22日に米政府の「対
日初期方針」というのが発表されまして、「民主化」が占領の目的であるというこ
と、そして天皇および日本政府は連合国軍の支配下に置かれることが告げられまし
た。その中で特に重要なのは、「天皇および日本国政府の権限(オーソリティ)は、
連合国軍の最高司令官に従属する」(The authority of the Emperor and the
Japanese Government will be subject to the Supreme Commander)という部分
で、そこには明確に“subject to”すなわち「服従する、従属する」という言葉が
使われておりました。ところが、あの当時の日本側の空気の中では、この「対日初
期方針」というものが、ほとんど理解されないまま、「とにかく戦争が終わったん
だ」ということで、まさか全部変えられるという切迫感はなかったんだと思います。
したがって昭和20年(1945年)の敗戦の年と、その翌年の初めのころには、まだ
日本政府あるいは各政党は、戦前・戦中と地続きの感じで活動していたんです。

 ですから非常に不思議なことなんですが、憲法についても、日本政府とは別に近
衛文麿公がマッカーサーと会見し、その示唆を受けて、「内大臣府御用掛」という
肩書で、明治憲法改正案の起草作業に入っています。内大臣府というのは、天皇の
下に置かれた旧体制下での重要な政治的ポストです。近衛さんとしては錯覚かもし
れませんが、その内大臣府の人間として、自分がマッカーサーから直接憲法改正の
作業を委託されたようにと思ったんでしょう。しかし、やがて巣鴨に出頭しろとい
うことになって、近衛氏としてはマッカーサーに裏切られたというように思って、
有名な「運命の子」という言葉を洩らし、『失われし政治』という手記を残して
(死後に出版)、青酸カリを飲んで死を選ぶわけです。

 これはちょっと余談になりますが、その時になぜ青酸カリを彼が持っていたのか。
近衛文麿のお嬢さんの証言によると、近衛さんが天皇から頼まれてモスクワに行っ
て、ソ連の仲介で「名誉ある講和」をするという企てがあった。しかしスターリン
はすでに参戦を決めていますから、結局行かずに終わってしまって、そのとき持っ
ていくつもりだった青酸カリも使う機会がなかったので、そのまま持っていた。そ
れを飲んだのではないかというんです。その青酸カリというのは、ソ連で何かあっ
たときに使おうということで、それだけの覚悟があったわけです

加藤> そういえば、僕の親父もモスクワへ行くことになっていたと言っていまし
たね。

河上> それは加藤勘十が無産党だから。

加藤> 無産党でモスクワに近いだろうから、向こうで役に立つんじゃないかと言
われて、ミッションの随員か何かになって行くことになっていた。それは親父が僕
に直接に言ったんです。言ったのは、結局ソ連参戦で、その工作が潰れたあとのこ
とですが。

河上> それは面白いエピソードですね。

――無条件降伏ではない形での終戦には、いろいろ動きがあったようですね。清沢
洌の『暗黒日記』の中に出てくるんですが、尾崎秀実を派遣するという噂も、一部
にはあったようです。結局尾崎は死刑にされましたから、そういうことにはならな
かったけれど、噂はあったと書いてあります。


●二つのルートで改憲作業を開始


河上> 話を戻しますが、そういうことで今から振り返ると、昭和20年の8月15
日以前と以後とは、いろんな意味で、意識の上でつながっていた。そういう状況な
ので、当時の政府だけでなく、戦後できたばかりの各政党も、自由党にせよ、進歩
党にせよ、社会党にせよ――その中で社会党は一番進歩的なんですけど、その社会
党にしても、「ポツダム宣言」および「対日初期方針」というものを十分理解でき
ていたとは思われない。
 そういう中で、いま言った近衛公の動きが先行する一方、発足したばかりの幣原
内閣も、松本丞治国務大臣(貴族院議員、元東京帝国大学教授)を憲法改正担当に
して、10月下旬に憲法調査委員会というものを設置し、活動を開始している。近
衛公のほうの憲法改正作業は、近衛さんは京大で勉強したこともあるので、佐々木
惣一博士(憲法学者・元京都帝国大学教授)を起用した。この佐々木さんもそんな
に進歩的ではないんだけども、やや京都学派的な色合いが出ていたと言われていま
す。

*編集部注:近衛文麿、佐々木惣一の草案は国立国会図書館のホームページ
「日本国憲法の誕生」で見 ることができる。佐々木惣一案では、「天皇ハ神
聖ニシテ侵スヘカラス」をはじめ、明治憲法における天皇大憲を定めた部分
はそのまま維持されており、改定も明治憲法の基本的枠組みの中での改定とい
う形になっている。近衛文麿案は簡単な覚書のようなものだが、より進歩
的で、(1)天皇大憲の制限(2)軍の統帥の国務化(3)臣民の自由の尊重(4)貴族院の改
組・改称と枢密院の廃止、等が盛られている。両者とも天皇に対する「奉答」
または「捧呈」の形式になっていて、それぞれ天皇から松本国務大臣(佐々木
案)、幣原総理大臣(近衛案)に昭和20年末ごろに下付されたという。

河上> 一方の幣原内閣の憲法改正の作業は、いま言った松本丞治が中心で、こち
らの方ははっきり言うと明治憲法そのままを通すという考え方だった。これはあと
の話ですが、松本に言わせれば、「<天皇は神聖にして侵すべからず>という条文
がないのは、もう憲法じゃないんだ」ということで、「GHQは無知だからその根本
を変えようとしている。怪しからん」と、怒っている。――そんな感覚の持ち主で
す。そのほか、今日残っているものは各政党の案も、明治憲法の引き写しか、少な
くともその枠の中で考えているようなものばかりだった。こういうことが昭和20
年の後半から21年の前半――2月あたりにかけて展開されるわけです。
 そんな状況の中で、政府案の原案の原案ともいうべき、「松本丞治案」が2月の
初めに毎日新聞のスクープで新聞に出ちゃうんです。それがあまりに保守的で、い
ま言ったように明治憲法の手直しのようなものだったので、マッカーサー司令部と
しては、「これはひどいんじゃないか」ということになり、結局GHQがつくった
案を突きつけるということになる。そういうことが、いま自民党などから「押しつ
け」といわれているGHQの憲法草案が出てくる背景にあったんです。


●「亡国」の危機意識がなかった指導層


河上> ですから今になって「日本国憲法は押しつけ憲法だった」などと言っても、
そもそもその憲法草案作成の前段階で、当時の日本が置かれていた状況に対する日
本の指導層の受け止め方の中に、「本当に日本は亡国の淵に立たされたんだ」とい
う認識があったかどうか。口では「国家存亡の危機」だとか言っているけれど、実
感としてはほとんどなかったような気がします。特に、先ほど言った「対日初期方
針」の中の非常に重要な部分である、「天皇および日本政府は最高司令官であるマ
ッカーサーに従属する」というくだりが、ちゃんと理解できていなかった。
 
 これは遡ると、終戦の前提となる「ポツダム宣言の受諾」の意味をしっかり
と受け止めていなかったことと関係する。じつは8月9日から10日の御前会議、
戦戦争最高会議で、「ポツダム宣言」を受諾するかどうかということが議論さ
れたとき、「ポツダム宣言を読んだだけでは、国体が護持できるかどうか分か
らないから、もう一
度問い合わせろ」ということになった。問い合わせをした結果、アメリカのバーン
ズ国務長官からの返答は、その質問には直接答えずに、「日本の天皇と政府は、占
領する連合国軍のオーソリティのもとに“subject to”、――つまり従属する」とい
うことが、既にはっきりと言われていたんです。のちに明らかになった昭和天皇の
『独白録』を読みますと、「あれはヤブヘビだった。あんなことは聞かなければよ
かったのに」と天皇自身が言っています。そういう状況であるにもかかわらず、そ
の時は、一方でGHQの権威を惧れながら、実際には、自分たちがそういう事態に
本当に置かれているんだという切迫感が、最後までなかった。

 当時はまだ、私はそういうことを理解できる立場にいなかったけれど、いろいろ
読んでみますと、そういう結論に達してもいいのじゃないかと思います。その間の
詳しい経緯については、古関彰一氏の『新憲法の誕生』(中公文庫)を読まれると、
一般の人にも理解できるように書かれています。それから、その中核である「占領
軍が天皇制をどう扱ったか」という結論に至るまでの経過については、武田清子さ
んの『天皇観の相克』(岩波現代文庫)に詳しく書かれている。

 その中にはいろいろ細かいことが書いてあるんですけど、連合軍の議論を大別す
ると、「天皇制をどうするか」ということでは、オーエン・ラティモアなどの中国
研究家たちは天皇制廃止論が中心。一方、ライシャワー博士などの日本研究家、国
務省の日本課の連中は、天皇制を残したほうが占領はうまくいくということだった。
しかしそのためには、「民主化が絶対条件だ」ということだったんです。そのうえ、
連合国各国による極東委員会をひかえて(極東委員会の第1回会議は46年2月26
日)、ソ連、中国、オーストラリアなどには、天皇制廃止を求める、より急進的な
要求があった。――こういう連合国側の動きを背景において見ると、当時の日本が
体制的にどんなに危機にあったか、そしてそれを日本の指導層がどれほど理解して
いなかったが、非常によく分かる。


●「明治憲法」の精神そのままだった政府の改正要綱


河上> そういう中で政府の憲法調査委員会の松本丞治委員長が、超保守的な自ら
の案を日本政府案として出したものだから、当然はねつけられた。明治憲法以外に
憲法という姿が思い浮かばなかった当時の日本政府・日本の指導者たちにとっては、
それは本当にもう驚天動地のことで、まさに驚愕するわけです。そんなわけで、担
当責任者の松本丞治は、GHQからの要求で「全部書き直せ」と言われてパニック
になり、さっきも言いましたように「あいつらは無知だ」とかなんだとか、さんざ
んに罵倒して、いっさいの任務を放棄してしまうんです。時の法制局長官とかその
下の若い連中に、いっさい任せてしまうわけですね。その上に乗って、アメリカの
意向を踏まえ、あるいはアメリカと折衝しながら、日本国憲法の草案づくりを進め
たのが幣原さんだったんです。

――その松本丞治が自分の改正私案を要綱化して、4 6年2月8日にGHQにを提
出した問題の「憲法改正要綱」のうち、彼の考えの特徴がよく出ている条項を抜粋
してみると、こんな内容が盛り込まれているんですね。


■憲法改正要綱(1946.2.8)


第一章 天皇


一 第三条ニ「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」トアルヲ「天皇ハ至尊ニシテ侵ス
ヘカラス」ト改ムルコト
五 第十一条中ニ「陸海軍」トアルヲ「軍」ト改メ且第十二条ノ規定ヲ改メ軍ノ編
制及常備兵額ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムルモノトスルコト
七 第十五条ニ「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」トアルヲ「天皇ハ栄典
ヲ授与ス」ト改ムルコト


第二章 臣民権利義務


八 第二十条中ニ「兵役ノ義務」トアルヲ「公益ノ為必要ナル役務ニ服スル義務」
ト改ムルコト
九 第二十八条ノ規定ヲ改メ日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ
有スルモノトスルコト
十 日本臣民ハ本章各条ニ掲ケタル場合ノ外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及
権利ヲ侵サルルコトナキ旨ノ規定ヲ設クルコト


第三章 帝国議会


十三 第三十三条以下ニ「貴族院」トアルヲ「参議院」ト改ムルコト
十四 第三十四条ノ規定ヲ改メ参議院ハ参議院法ノ定ムル所ニ依ル選挙又ハ勅任セ
ラレタル議員ヲ以テ組織スルモノトスルコト


第四章 国務大臣及枢密顧問


二十 第五十五条第一項ノ規定ヲ改メ国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ帝国議会ニ対シテ
其ノ責ニ任スルモノトシ且軍ノ統帥ニ付亦同シキ旨ヲ明記スルコト
二十三 枢密院ノ官制ハ法律ヲ以テ之ヲ定ムル旨ノ規定ヲ設クルコト


第六章 会計


二十六 第六十六条ノ規定ヲ改メ皇室経費中其ノ内廷ノ経費ニ限リ定額ニ依リ毎年
国庫ヨリ之ヲ支出シ増額ヲ要スル場合ヲ除ク外帝国議会ノ協賛ヲ要セサ
ルモノトスルコト
      (国立国会図書館のホームページ「日本国憲法の誕生」による)


河上> 結局、そのように松本案というのは、明治憲法の精神そのものだったわけ
ですから、GHQの方も、「ポツダム宣言」を受諾した日本政府の案としては、当然
そのまま受け入れるわけがない。しかし、日本側から出された改正案というのは、
この憲法調査会の案だけでなく、先ほど言ったように、ほかの各政党案などを見て
もしっかりしたものはなかった。社会党の案はその中で一番進歩的なんだけれど、
それでも「天皇を含む国民共同体に主権がある」ということだった。しかしGHQ
がその「対日初期方針」にもとづいて突きつけてきたのは、その中心が戦争放棄で
あり、また国民主権だったわけです。そのうえで、象徴天皇を残すという形で天皇
制が残っていた。

――ちなみに共産党も敗戦後早い時期(45年11月11日)に「新憲法の骨子」と
いうのを出していますね。

河上> それは「主権は人民にあり」というような、スローガン的なごく短いもの
はあったけれども、第一条が何々とかいう形の整ったものができたのは、ずっと後
の46年6月になってからです。

*編集部注:「日本共産党の新憲法の骨子」(1945.11.11発表)は次のとおり。
一、主権は人民に在り
二、民主議会は主権を管理す民主議会は一八歳以上の選挙権被選挙権の基礎に
立つ、民主議会は政府を構成する人々を選挙する
三、政府は民主議会に責任を負ふ議会の決定を遂行しないか又はその遂行が不
十分であるかは或は曲げた場合その他不正の行為あるものに対しては即時
止めさせる
四、人民は政治的、経済的、社会的に自由であり且つ議会及び政府を監視し批
判する自由を確保する
五、人民の生活権、労働権、教育される権利を具体的設備を以て保証する
六、階級的並びに民族的差別の根本的廃止
(国立国会図書館のホームページ「日本国憲法の誕生」による)


● GHQが憲法研究会の「改正草案要綱」を参考


――いま言われたことを年表的に振り返りますと、46年2月1日に、この政府案
の大本になっている超保守的な試案が、毎日新聞によってスクープされた。そして
その二日あとの2月3日に、GHQはいわゆる憲法改正についての「マッカーサー
三原則」(マッカーサーノート)を提示すると同時に、直ちに内部でも憲法起草作
業を開始した。――こういうプロセスになるのは、そもそも憲法制定作業というも
のが、「ポツダム宣言」の受諾と「対日初期方針」の公表、という大前提のうえに
立っているわけだから、当然の成り行きと言えますね。
 その「マッカーサー三原則」の内容は、(1)天皇は国の首位(head)にある、(2)国
家の主権的権利としての戦争の廃止、(3)封建制度の終了ですが、とくに戦争の放棄
は、自衛のための戦争も認めず、いかなる陸海空軍も決して許さず、いかなる交戦
権も軍に与えられないという、徹底的なものでした。

河上> そのGHQによる憲法草案作成の時に参考にした日本人による憲法改正
案が、本日のテーマである憲法研究会の「憲法改正草案要綱」であると言われてい
るんですね。事実、よく検討して見ると、GHQの憲法草案には、憲法研究会の案
を踏み台にしたものとしか思われないところがいくつもあります。彼らがどこでそ
れを知ったのかは、具体的な回想録や証言としては、私も見ていないので分からな
いのですが、この要綱案は新聞でも大きく報道されましたし、また、あの当時は政
治的な行動・発言はすべて英語に翻訳しなければ、秘密にやっていると看做される
時代ですから、この憲法研究会の草案要綱も、あるいはこっち側から翻訳して出し
ているかもしれません。

――憲法研究会の草案要綱とGHQ案の関係については、初めにふれたNHKの憲
法に関する放送番組でも大きく採りあげていましたが、GHQ側で翻訳したという
話もあるようです。

河上> いずれにしても、この草案要綱をGHQ案の作業グループの中心人物の一
人だった民生局のマイロ・ラウエル陸軍中佐が詳細に検討して覚書を書いており、
そこでこの憲法研究会案を、「民主的で受け入れられる」(democratic and
acceptable)と結論しています。
*編集部注:GHQラウエル中佐の「私的グループによる憲法改正草案(憲法研究会案)に対す
る所見」(Memorandum for Chief of Staff. Subject:Comments on Constitutional
Revision proposed by Private Group/46.1.11)は、国会図書館のホームページ「日本
国憲法の誕生」で見ることができる。

――NHKの番組「日本国憲法の誕生」では、アメリカ・ミズーリ州のトルーマン・
ライブラリーに保管されているラウエル中佐の録音テープが再生されていました。
番組の字幕をそのとおり再録しますと、こうなっています。――「私は民間グルー
プから提出された憲法に感心しました。これで(憲法改正が)大きく進展すると思
いました」「私はこの民間草案を使って、若干の修正を加えれば、マッカーサー最
高司令官が満足しうる憲法ができると考えました。それで私も民生局の仲間も安心
したのです。『これで憲法ができる』と」。――さらにインタビューアーの「民間
の『憲法研究会』草案について、ケーディス(陸軍大佐・民生局次長)たちと話し
合ったことはありますか」という質問に対して、ラウエルは、「たしかに話しまし
た。憲法研究会の草案に関する私のリポートをケーディスと議論しホイットニー准
将(民生局長)に提出する前に彼の承認を受けたはずです。私たちは確かにそれを
使いました。私は使いました。意識的あるいは無意識的に影響を受けたことは確か
です」と答えています。


●憲法研究会の結成と高野岩三郎のイニシアチブ


――この憲法研究会の「憲法草案要綱」がどのようにしてつくられたのか、その経
緯をご説明ください。実際に執筆したのは鈴木安蔵氏とされていますが。

河上> 大内兵衛、森戸辰男、久留間鮫造監修、大島清著『高野岩三郎伝』(岩波
書店)という本と、高野岩三郎著『かっぱの屁』(法政大学出版会)という本が出
版されていまして、これが草案作成過程についての、一応オーソドックスな証言な
んです。それによりますと、憲法研究会ができるまえ、45年の10月末ごろに日本
文化人連盟創立準備会というのが開かれるんですが、その席上で高野岩三郎さんが、
鈴木安蔵氏のところへ近寄っていって、「新憲法を政府の手ではなく、われわれの
手でつくろうじゃないか」と呼びかけた。「はっきり言うと、老人からけしかけら
れたことに、自分はたいへん驚いた」と鈴木安蔵が言っているんです。自分は最初、
そういうものを作成するつもりはなかったが、高野先生から「やれ」と言われた、
と。

 それで、この『高野岩三郎伝』によりますと、当時、天皇に対する考え方はだい
たい三つに分かれていたんですね。一つは、天皇機関説に近い立場で、天皇を行政
の長として認めるという案。第二は、「主権は天皇をふくむ国民共同体にある」と
いう案で、これは社会党案に取り入れられている。そして三つ目は、いかなる意味
でも天皇を認めず、共和国にして大統領を国の長とする。――こういう三つの案が
当時の日本にはあった。それが当然研究会にも反映されて、第二と第三の間と言っ
ていいのかもしれませんが、基本的には「主権在民+象徴天皇制」で行くんだとい
うことで、憲法研究会の改正要綱案づくりが進められていったようです。
 そういうわけで、この憲法研究会の案は、最初から終わりまで高野岩三郎のイニ
シアチブで進められていたのであって、鈴木安蔵のイニシアチブではないんです。
それを実際に成文化して、草案要綱にまとめていったのが鈴木安蔵です。しかしこ
こで大事なことは、研究会のメンバー全体の統一的な考えとして、のちの日本国憲
法の柱になる、「主権在民」「象徴天皇制」という考え方、それが早くもここで、研
究会の草案要綱として明確に打ち出されていたということです。また、「平和主義」
の原則についても、「国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民
族トノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス」というように、はっきりと記されています。
 ただ、その時に高野さんは、同時に共和国案――第三の案も自分では構想してお
られ、この憲法研究会の草案要綱が発表された後、それを独自に発表されることに
なります。これについては、後で別個にふれることにします。


●研究会のメンバー構成は意外と穏健


――いま残されている「憲法草案要綱」原本には、憲法研究会の構成メンバーとし
て、いま名前の出た高野岩三郎、鈴木安蔵をふくめて、次の7人が記載されていま
す(肩書は編集部による)。

 高野岩三郎(元東京帝国大学教授・大原社会問題研究所初代所長、
のちにNHK会長)
 馬場恒吾(評論家、戦後一時読売新聞社長)
 杉森孝次郎(評論家、元早稲田大学教授) 
 森戸辰男(元東京帝国大学助教授、46年4月に衆議院議員、
のちに片山内閣の文部大臣) 
 岩淵達雄(評論家、元読売新聞政治記者) 
 室伏高信(評論家、雑誌発行者、元朝日新聞記者) 
 鈴木安蔵(憲法学者、後に静岡大学教授)

 この中で鈴木安蔵氏の話は比較的あちこちに出てきますが、いま実質的なリーダ
ーとおっしゃった高野岩三郎という人は、どういう人だったんですか。

河上> 高野さんについては、彼の自伝の『かっぱの屁』を読むとよく分かるんで
すが、お兄さんに高野房太郎という人がいるんです。この人は日本では高等小学校
までしか行かず、アメリカに渡って向こうで労働しながら勉強した人ですが、日本
の労働組合運動史の草分け的な人の一人です。そのお兄さんの影響を高野岩三郎は
受けている。また、本人もドイツに留学したりしていますから、日本というものを
中からしか見られない人とは大分違うものがありました。彼は大原社会問題研究所
の責任者として戦前から長く活動し、同研究所の礎となってきた人です。安倍磯雄、
賀川豊彦と並んで、戦後社会党の結党呼びかけ人の一人になっています。

――森戸辰男は日本国憲法の条文の中に、例の「すべて国民は、健康で文化的な最
低限度の生活を営む権利を有する」(第25条)という、生存権の条項を入れさせた
人だとされていますが、このメンバーの中では、どういう位置にあるんですか。

河上> 森戸辰男氏は、もと高野岩三郎の教え子で、東京帝国大学の助教授として
社会政策を教えていたんですが、大正9年(1920年)に、ロシアの無政府主義者
クロポトキンに関する論文で東大を追われました(森戸事件)。高野さんもその前
後に東大教授をやめており、それから二人でずっと大原社会問題研究所で研究活動
をしていたんです。森戸さんはその間、ドイツなどヨーロッパへの留学もしていま
す。太原社研は、初めは事実上、この二人しかいない研究所だったんですが、その
後陣容が充実し、またここを基盤にして労働者教育の運動が広まっていくにつれ、
森戸氏もその活動に力を入れています。そういう経歴からも分かるように、思想的
にはアナキズムにも目配りしながらマルクスも勉強しているという人だったので
しょう。ただ、森戸さんにマルクス主義があるとしても、レーニン主義には早い段
階から反対し拒絶していましたから、ドイツのワイマール時代の社民主義のオーソ
ドックスなものを受け継いでいる人と言っていい。このワイマール共和国について
の研究成果などが、憲法研究会の草案づくりや、その後の国会活動に生かされてい
るんです。戦後の片山内閣に文部大臣として入るけども、ワイマール時代のドイツ
社民党のことを考えれば、ちっとも違和感はなかったと思います。

――メンバーをざっと見ての印象としては、その高野、森戸両氏と、マルキストの
憲法学者とされている鈴木安蔵氏のほかは、岩淵、室伏、馬場と、みなジャーナリ
ストないし評論家ですね。しかもどちらかといえば、意外と保守的な人たちのよう
に思いますが。

河上> そのへんをちょっと後世の人たちは勘違いしているんです。それは、研究
会の中で要綱案を執筆した鈴木安蔵がマルキストとされていたために、全体にラジ
カルな人たちだと思われている。しかし室伏氏などは少なくとも左翼じゃないし、
むしろ保守の人ですね。当時のリベラルというカテゴリーにはぴったりあうけれど、
後に考えられるような本格的なリベラルではありません。

――この人たちはみな、先ほど言った清沢洌の『暗黒日記』によく名前が出てくる
んです。馬場恒吾、杉森孝次郎、室伏高信…みな大体同じサークルですね。清沢な
ども東条的なエキセントリック軍国主義や徳富蘇峰のような過激な日本主義には
反対だけど、天皇に対するスタンスは意外と親和的です。

河上> 岩淵さんは、当時たいへん売れていた『新生』などの執筆者ですね。そし
て室伏さんはその雑誌の発行責任者です。

加藤> 『新生』という雑誌は、戦後に爆発的に売れましたね。月刊でしたか。司
令部から紙の割り当てをもらえなければ、あんなには出版できない。桁外れの売れ
行きだった。そこの主宰者が室伏さん。岩淵さんは今でいうコラムニストのような
人ですね。みな戦時中、翼賛会の先頭を切ったような人たちではないが、しかし厳
しく弾圧されていたというわけではないと記憶している。

――ちょっと余談ですが、清沢の日記には、のちに憲法制定作業に中心的に関係す
る芦田、幣原、松本などもよく出てきて、なかでも興味深いのは昭和20年の4月
に、清沢宅に来た松本丞治とこんな話をしているんです。――「松本氏は戦争終結
として日支事変以前の状態に復帰する程度でよからんといった。僕は、とてもそん
な程度ですむまいといった」「憲法に手を触れなくてはなるまいが、宣戦講和につ
いて議会の協賛を経ることを必要とする項目を加えるを以て足れりとするだろう
といった。これまた楽観的である」。

河上> そういう意味では、この憲法研究会のメンバーは、松本丞治や佐々木惣一
とは違って、「象徴天皇制」にぴったりあっていたんですね。さっき言った三つの
グループ分けの中では、だいたい第二と第三との中間に位置していた。だから、憲
法改正草案の結論も、ある意味で初めから決まっていたと言っていいかもしれない。


●日本国憲法と比較した「憲法研究会案」の特徴


――それでは、この憲法研究会の草案要綱の特徴的な点を、日本国憲法との対比で
説明していただきたいのですが(憲法研究会「憲法草案要綱」の全文は資料として
本号のこの記事のあとに掲載)。

河上> いくつかのことを指摘できますが、まず一番大きな点は、構成から見ても
分かるように、「国民主権」を真っ向から打ち出していることです。日本国憲法は
第1章が「天皇」ですが、憲法研究会のほうは、まず「根本原則(統治権)」とし
て、次のような条項をあげています。
一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス
一、天皇ハ国政ヲ親ラセス国政ノ一切ノ最高責任者ハ内閣トス
一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル
一、天皇ノ即位ハ議会ノ承認ヲ経ルモノトス
一、摂政ヲ置クハ議会ノ議決ニヨル

 これは憲法研究会の案が、「主権在民」をほかの何よりも重視している現われ
だと思います。
 天皇に関わることでもう一つ指摘しておきますと、日本国憲法では、栄典の授与
というのを認めていて、それを第7条の「天皇の国事行為」の一つ挙げているんで
すが(第7条‐7「栄典を授与すること」)、この研究会案では、「爵位勲章其ノ他ノ
栄典は総テ廃止ス」となっている。これも日本国憲法より徹底した考え方の一つで
すね。
 それから、もう一つ大きな点は、「国民権利義務」のところで、研究会の草案要
綱には、「民族人種ニヨル差別を禁ス」という条項があります。しかし日本国憲法
のこれに該当する章では、そのようになっていない。

――日本国憲法には、「民族差別の禁止」という語はないですが、第14条に「すべ
て国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という条項がありますが。

河上> 「人種」という語は、第14条にたしかに残っていますね。しかし基本的
なのは、日本国憲法第3章「国民の権利及び義務」の初めの部分の第11条に「国
民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とありますね。この「国民」は、
GHQ案が示された時は “people”と書いてあったんです。対応する英文は“The
people of Japan are entitled to the enjoyment without interference of all
fundamental human rights.”です。その“people”というところを、日本の法制
局で「国民」と訳した。そして、政府の日本国憲法草案では、その条文の前に、あ
らたに第10条として「日本国民たるの要件は、法律でこれを定める」と入れた。
この条文は英文のGHQ草案にはありません。政府の草案が、このように「国民の
定義は法律で定める」としたことによって、社会的権利から何から、外国人には拒
否するような仕組みになってしまったんです。そして実際に、それまで日本臣民と
されていた朝鮮半島や台湾から来た人たちは、日本国籍にならない限り、いろいろ
な社会的権利から全部排除されることになってしまった(1950年5月に新国籍法
制定)。

――しかも、その第10条の「日本国民たるの要件は、法律でこれを定める」とい
うのは、おそらく明治憲法の「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」の援
用じゃないでしょうか。文字どおり同じですから。

河上> それから、議会の構成に関して気がつくことは、日本国憲法で規定された
現在の議会制度は二院制で、その第一院である衆議院は、いまは小選挙区比例代表
制を採用しているけれども、憲法研究会の案は、二院制ではあるが、第一院は全国
一区の大選挙区制で、しかも比例代表制です。つまり国民の政治的意見が選挙シス
テムによるバイアスをうけず、よりストレートに代表されるわけです。これが制度
面では非常に目立っているけれども、GHQ案をもとにした日本国憲法には、こう
いう制度は採り入れられなかった。また研究会案では第二院が職能別・階層別にな
っているけれど、これもちょっと特別ですね。

 この議会構成については、GHQが出した最初の案は一院制だったが、「日本では
二院制でないと馴染まない」と日本側が言ったら、GHQはあっさり認めた。GHQ
は初めから日本が異議を唱えそうなものをつくっておいて、「押しつけ」でないと
いう印象を与えるために、あえてこうしたんだ、という説があります。

――日本国憲法との大きな違いとして、もう一つ、生存権あるいは社会的基本権の
問題がありますね。たしかに日本国憲法でも、国会での憲法質疑の中で、森戸氏な
ど社会党議員の働きで、第25条に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」
という一項が入った。また、第26条から第28条まで、いわゆる教育権、勤労権、
団結権が明記されていますけれども、この研究会草案のほうは、「国民権利義務」
の章に、より充実した条文が入っているだけでなく、わざわざ「経済」という章を
設けて、経済社会的な国民の権利の平等をうたっています。こういうところに高野
岩三郎や森戸辰男という人たちの役割があったのじゃないかと推測するんですが。

河上> それは一般に「ワイマール時代の憲法の影響」と言うんだけど、やっぱり、
あそこで達せられなかった夢というか、二度とワイマールの悲劇を起さないように
ということで、高野さんや森戸さんが強調したんでしょうね。しかし残念なことに、
戦後この60年の間、そういう意識のもとに護憲運動が展開されたかというと、必
ずしもそうではない。いわゆる階級論に立った社会権というのものは、戦いの対象
になったかもしれないけど、憲法と結びつけてやった活動というのは、何があるだ
ろうかと思いますね。


●日本国憲法で目立つ「人権」への細かい配慮


――いままでの話では、憲法研究会の憲法草案要綱と日本国憲法の比較で、研究会
案の、より進んでいる点、今の憲法以上だという点を指摘されてきたわけですが、
今度はその逆なんですけど、今回、日本国憲法を読み直して気がついたことは、日
本国憲法には、いわゆる「刑事訴訟法」的な要素がものすごくあるんですね。裁判
を受ける権利だとか、捕まったときどうするとかいう部分が、第31条の「法の正
当な手続き」以下、逮捕の要件、抑留・拘禁の要件、住居の不侵入、拷問の禁止、
刑事被告人の権利、黙秘権と続いて、第40条の「刑事補償」まで、ずうっと、非
常に細かく書いてある。ところが憲法研究会の草案には、そのような細かい人権条
項がほとんどなく、さらっとしているんです。これはなぜなんだろうか。日本国憲
法のほうが非常に詳しいです。

河上> たしかに研究会案では、労働の権利義務などは非常に強くうたっているの
に、そういう人権部分があまり書いていないですね。日本国憲法のほうには、やっ
ぱりこの問題に対するGHQ側の、アメリカの強い意志が入っているのでしょうね。

――憲法にしてはものすごく細かい歯止めを、「日本国憲法」のほうは掛けていま
す。もしこれをGHQが書き入れているとすれば、戦前・戦中の日本研究でつくづ
くそう思ったのかもしれない。こういう状況だから、こういう戦争に突っ走っちゃ
うんだと…。

河上> それは憲法20条の信教の自由のところも、非常に細かく規定しているん
です。それに対して旧憲法の第28条では、「臣民タルノ義務ニに背カサル限ニ於テ
信教の自由ヲ有ス」となっているだけ。だからおっしゃるとおり、弊害があったと
ころについては細かく歯止めをかけているのでしょうね。

――それとこれも今回気がついたんですけど、第10章「最高法規」というところ
の第97条で、わざわざ基本的人権についてもう一回とり上げて、念を押すように
「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であって、「侵すこ
とのできない永久の権利」だと繰り返している。相当念を押しています。その点は、
ちょっと研究会のほうは意識が軽かったのかなと思うんです。

河上> ですから、「憲法研究会の草案があったから日本国憲法ができた」と言う
のは言いすぎなんですね。もちろん参考にはしている。GHQが気がつかなかった
点を取り入れたということはあるかもしれないが、逆にこれを下敷きにしたと言い
切ってしまうのには、すこし無理があると思います。社会的基本権のように、GHQ
草案を超えている部分もあるが、いまの人権条項のように、それに及ばない部分も
ある。

――それを誰が書いたかにかかわりなく、そういう「人間の普遍的権利」の精神が
憲法の基本に入っているということにこそ、大きな意味があるということですね。


●米国の徹底した日本研究が背景に


――先ほども出たように、GHQの草案づくりとの関係について、GHQのラウエル
中佐は、この研究会の草案要綱を参考にしたと証言しています。その際、研究会の
方から、これが日本国憲法の条文として実現されるように、GHQ側に積極的に働
きかけたということはなかったのでしょうか。

河上> 研究会案ができたあと、GHQに研究会メンバーが働きかけたということ
はないみたいですね。それは一つおさえて置かないといけない。しかし私の考える
ところでは、先ほども言いましたように、占領下6年間に、何か政治的な動きをし
た場合に、翻訳を提出することは事実上義務づけられていたと思っているんです。

――GHQ側にもスタッフがたくさんいて、翻訳作業などをやっていたようですが。

加藤> GHQ側のスタッフはたいへんな人数だったですね。それも二世の軍人や
単なる文書の翻訳者だけでなく、戦前に来日あるいは日本に住んだ経験のある人、
日本研究者が集められていたらしい。あのGHQ側のベアテ・シロタ・ゴードンと
いう若い女性などが、憲法草案の女性の人権についての項目を、意欲的に書き加え
たという事実がある。
それから、日本の情報を得るためにGHQは非常に積極的で、共産党の志賀義雄
なんかも釈放されたあと連日総司令部に日参していたという証言があるんだけど、
僕が個人的によく覚えているのでは、占領軍が厚木へ来た直後に、もうその翌日く
らいに、僕の家の前にジープがバーッとやって来た。加藤勘十、加藤シズエは向こ
うのリストに載っていたわけですから、占領政策と民主化に協力してくれというこ
とで、いろんな事情聴取をやっていったらしい。その後も、加藤シズエなんかはよ
く接触していた。憲法研究会についてはよく分からないけど、政府や各政党のほう
でも、総司令部の情報を得るために、いろんなチャンネルで接触していたのは確か
だと思う。

河上> そういうことが当然ありうると思うのは、恵泉女学院の創立者の河井道
(みち)の場合ですね。マッカーサーが厚木に来てすぐに、臨時の総司令部が横浜
のグランドホテルにおかれたとき、ホテル側も、占領軍が来てもすぐ対応できるよ
うにと、あわててアメリカ経験のある、英語のできる人をマネージャーに採用した。
そこへマッカーサーの副官のボナ・フェラーズ准将がやって来て、いきなり「お前
は河井道を知らないか。知っているならすぐ呼んでほしい」と言って連絡を頼んで
いる。河井道は最初GHQに呼び出されるのをしぶるんだけど、結局フェラーズに
会うんです。すると「これから1週間のうちに、マッカーサーに天皇をどう処遇す
るかについてレポートを出さなければいけない。あなたは日本人としてどう思う
か」と聞いたというんですね。着いた途端にもう、そういう動きをやっている。加
藤勘十先生ご夫妻は有名人だから、リストになっていて直ぐに分かったわけだけど、
河井道の場合はフェラーズがたまたま河井道の名前を知っていた。このフェラーズ
はラフカジオ・ハーンの研究者で、戦前に日本に来ているんです。それがその時は
マッカーサーの副官だった。そういうことで、天皇を救うという考えはGHQ内部
で早い段階から決まっていたけれども、自分の考えが間違っているといけないとい
うので、河井道を呼んで意見を聞いたというんですね。

加藤> 米軍の方はそういうように、早い段階からいろいろ研究しているのに、日
本人の方はアメリカの政策や占領軍の方針をまったくと言っていいほど知らなか
った。アメリカが数百人のスタッフで、日本についてあれだけ徹底的に何年かかけ
て調査・研究して、占領政策の構想を立てているのに、日本側はさっきの近衛さん
の派遣についてもそうだけど、軍にしても、政府にしても、政治家にしても、知識
人にしても、あまりにも相手を知らなすぎたという感じがする。共産党も占領軍を
解放軍にしちゃったり、社会党の結成の際も8月、9月、10月と、治安維持法の廃
止命令が出るまで、アメリカがどう出るか全然わからなかった。さっきの松本丞治
だって知識人なんだから、国体の問題なんかについても、もう少し世界の見方やア
メリカ考え方というものがわからなかったのかと言いたい。

河上> いま防衛大学の学長になっている五百旗頭真氏の『日米戦争と戦後日本』
(大阪書籍)によると、ルーズベルト大統領が1941年12月7日(日本では12
月8日)の日本のハワイ真珠湾奇襲攻撃の翌日の議会で、「リメンバー・パールハ
ーバー」の演説(議会への宣戦布告決議の要請)をしてから、数週間後には、もう
戦後対日政策を研究する委員会が発足しているんですね。にもかかわらず45年の
8月まで天皇制をどうするか、二つのグループで検討していて結論が出なかった。
ただ、戦前に駐日大使をやったグルーが、1944年の暮れに国務次官に起用されて
国務省に帰ってきたことで、戦後の対日政策の方針が日本に有利に展開した。彼は
戦前の自分の経験から、天皇およびその周辺の側近に対する期待が非常に強く、そ
の線で政策をやろうとしていた。それを叩いたら何も残らないという考えだったん
です。だから、あそこでグルーが国務次官に復活しなかったら、天皇制だってどう
なっていたか分からない。

――マッカーサーは最初から天皇を利用しようと思っていたようですね。

河上> マッカーサーは初めからそうしたかったのだが、そのうえ極東委員会あた
りで、ソ連や中国が「そんな生ぬるいことを」と言うので、彼は天皇を軸にした占
領政策の確立を急いでいた。そういう背景があって、GHQは日本の戦後の新しい
憲法秩序を早くつくろうと、憲法草案づくりをわずか1週間で行うということをや
ってのけたんです。武田清子さんの『天皇観の相克』を読むと、まさに天皇制は日
本にとってたいへんな問題だったけれども、アメリカにとっても、まさにたいへん
な関心事だったことがわかる。GHQの最短時間での草案づくりは、それを反映し
ているんです。

●天皇がポツダム宣言受諾を踏まえた「勅語」

――そうして出来上がった憲法草案は、交渉を通して政府に受け入れられ、最終的
には、昭和天皇自身の同意と決済のもとに日本国政府の成案として発表されたわけ
ですね。当時はまだ明治憲法体制が続いていたわけですから。

河上> そうです。これまで一般にはあまり注目されてこなかったのですが、昭和
天皇は、政府が46年3月6日に、戦争放棄、天皇象徴、基本的人権などを盛り込
んだ「憲法改正草案要綱」を発表したとき、同時に勅語を出しているんです。これ
は短いものですが、非常に重要なものなので、全文を引用しておきます。

■勅語
朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本
国民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本国民ガ
正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄
シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格の基本
的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ
定メムコトヲ庶幾フ(こいねがう)政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ其ノ目
的ヲ達成セムコトヲ期セヨ(官報号外)

河上> 昭和天皇が、はっきりと「ポツダム宣言の受諾」という言葉を使ったのは
これだけですが、ここには国民主権の原則も戦争放棄も基本的人権の尊重も明記さ
れ、それが「朕の意思」であると宣言している。

――「日本国憲法」の核心部分がすべて表現されているんですね。これをみると日
本国憲法草案というものは、「ポツダム宣言の受諾」によって法的根拠を与えられ
た最高権力者・GHQが起案し、それに政府が交渉の中で合意し、日本の憲法とし
て作成したものを、当時の明治憲法上の主権者である天皇が公式に認めて国民の前
に発表したという形になっている。――ということは、基本的には、これは日本と
GHQ(実質的にはアメリカ合衆国)の間の基本的な合意によって成立した文書で
あるということにもなる。

河上> その意味では、象徴天皇制の「日本国憲法」に至る過程は、まさに日米の
阿吽の呼吸だったのでしょう。したがって、「戦争放棄」と「主権在民」に加えて、
「象徴天皇」を掲げた日本国憲法は、単なる一方的な押しつけなどではなく、戦後
の出発点における日米のギリギリの利害の一致による、協同の制作物と言っていい
のではないか。もちろん、その根底には、盧溝橋事件から敗戦までの8年間の軍人・
軍属230万人の戦死と、昭和20年の僅か半年間で空襲、沖縄戦、原爆によって失
われた一般市民80万人の生命という厳粛なる現実の上に立った、「日本人の選択」
があったことを忘れてはならないと思います。

――あの長い戦争に傷つき疲れて残された日本人全体の「もう戦争はいやだ」とい
う実感と、文字どおり「新生」への願いが日本国憲法(草案)の根底にあった。そ
してその背景には、他国の人々に大きな犠牲を強いたアジア太平洋への侵略戦争の
破綻というものがあった。そういう中で作成された憲法草案を、今度は国会審議を
通じてさらに練り上げていったわけですね。――こうして見てくると、確信犯の復
古主義者たちや、当時を知らない今の若い学者や政治家たちの「押しつけ憲法論」
が、いかに「戦争から敗戦へ」という歴史の事実とかけ離れたものであるか、明ら
かだと思います。(以下次号)
(構成/文責=工藤邦彦)

◆この記事に出てくる憲法関係資料は、下記のホームページにより見ることができ
ます。
国立国会図書館「日本国憲法の誕生」
http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html
憲法研究会案=http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052/052tx.html
高野岩三郎案=http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/045shoshi.html
GHQラウエル中佐の所見
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/060/060tx.html
政府「憲法改正要綱46.2.8)」
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/074a/074atx.html
マッカーサー三原則
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/072shoshi.html
帝国憲法改正案(46.6.20)
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/117/117tx.html
映画「日本の青空」=http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/
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