■群馬県の朝鮮人慰霊碑撤去に反対する85歳の抵抗

群馬県の朝鮮人慰霊碑撤去に反対する85歳の抵抗
-猪上輝雄事務局長に聞く-

仲井 富


◆はじめに

 猪上輝雄さんとのつきあいは長い。わたしは1955年秋から、当時の日本社会党本部書記として青年部と軍事基地員会を担当した。砂川、百里、東富士などを米軍基地と自衛隊基地反対闘争のオルグとして駆けめぐった。そのなかで1950年3月、日本の米軍基地反対闘争で最初の完全勝利を勝ち取ったのが、群馬県妙義山の米軍山岳演習場反対闘争だった。その現地オルグとして、農民や婦人と寝食を共にして戦ったのが、当時25歳の猪上さんだった。猪上さんは社会党群馬県本部の書記長として、長年にわたって田辺誠、山口鶴男氏の地元を支えてきた。

 1989年、社会党県本部を退職した彼が人生最後の闘争として取り組んだのが、太平洋戦争末期の群馬県における朝鮮人労働者の強制連行の記録を掘り起こすことだった。苦節9年、2004年に県立公園「群馬の森」に追悼碑を建立した。
 だが、近年の日韓関係の悪化やヘイトスピーチに代表される、侵略の歴史はなかったとする政治的、社会的潮流のなかで、今年の7月22日、群馬県は『朝鮮人追悼碑』の撤去を猪上事務局長宛てに文書で通達してきた。朝日、産経、東京などの各紙も取り上げ、全国的な注目を浴びている。
 この朝鮮人追悼碑問題で中心的な役割を果たしてきた「追悼碑を守る会」事務局長としての猪上輝雄さんの話を聞きに行った。85歳の猪上さんは、週3回は自宅での点滴を必要とする重症の患者だが、いまも連日、10月に予定される、通達取り消しを求める裁判闘争の準備に奔走している。彼はいま死ぬ訳に行かないのだ。

◆100万人に上る強制連行の歴史

——追悼碑の撤去問題は以前からあったそうですが、背景には、朝鮮人強制連行や虐殺はなかったという、侵略の歴史を全面的に抹殺しようとする危険な潮流があります。そもそも群馬県やあるいは全国的に存在していた「強制連行」とはなんだったのか、その歴史的背景というか経緯を聞きたい。

【猪上】 強制連行は何故、どのように起きたのかが大切です。1895年、下関条約により台湾を植民地とした日本は、1910年、独立国大韓帝国を「併合」し、地図の上から抹消してしまいました。さらに1939年から敗戦にかけて、朝鮮人や中国人を無理やり日本国内に連行し、鉱山や土木工事、軍需工場などで働かせました。これを「強制連行」とよんでいます。突然、住み慣れた故郷から日本へ、家族と別れて連行され、苛酷な労働条件のもとで、監禁状態におかれて働かされた朝鮮人の数は100万人を超えるといわれています。
 日本政府と軍部は1938年4月に「国家総動員法」という法律を制定し、日本人の総動員を行うとともに、1939年9月には「朝鮮人労務者内地移送に関する件」を閣議で決定し、朝鮮から労働者の動員を開始しました。

 朝鮮人を動員するにあたっては、最初は「募集」と呼び、次には「官斡旋」となり、後には「徴用」という名称で、次々に強制力を強めていきました。「募集」であれ、「官斡旋」、「徴用」であれ、総てが朝鮮総督府(注)を通じての行政、警察、軍隊による、割り当て、指名、そして最後には「人狩り」といわれる強制連行でした。

(注)日本が朝鮮を植民地として支配していた頃(1910年以降)現在のソウルにおかれ、朝鮮総督という名称の長官を責任者とした朝鮮支配のための最高行政官庁。

——強制とか侵略はなかった、日本が支配したおかげで、朝鮮は中国やロシアに侵略されず、様々な教育、民生など飛躍的によくなったといういい方は、西村真悟代議士などが声を大にして叫んでいます。今の群馬における慰霊碑撤去問題の根幹もそこからきている。

◆拒否すれば刑務所行き、奴隷船に乗せられて

【猪上】 群馬県内にも、強制連行で連れてこられた朝鮮の人たちが今でも数人住んでいます。その人たちの証言を聞いてみましょう。大間々町に住むSさんは次のように証言しています。「私が連行されたのは1941年。出発の日、母親は『悲しくて見送れない』と言って家の中から出てこなかった。連れていかれればもう二度と帰ってこないと誰でもが思っていたし、拒否すれば刑務所行きだったから」と。

 1945年8月、日本の敗戦時、安中市磯部の地下軍需工場建設現場で働かされていた鄭雲模(チョン・ウンモ)さん(現在千葉市在住)の証言は次のようです。

 「昭和16年の2月、私が20歳の時ですよ。当時私の母は病気で、私が面倒を見なければならなかったのです。朝鮮の村役場から呼び出しがあったのです。役場に行くと『おまえ日本へ行って2、3年働いてこい』というのです。そこで「私はお母さんの面倒を見なくてはならないから駄目です」といったら、その場でいきなりビンタです。そして「コノヤロー、テメエ、なに寝言いってるんだ、お国のためじゃないか」という。逃げようとしても日本人の見張が朝鮮の役場の人と来て、家を包囲しているから逃げられない。泣く泣く日本に連れて来られた」

 このようにして集められた朝鮮人労働者は、釜山をはじめとする朝鮮の諸港から貨物船に乗せられて日本に向けて送られてきたのです。船の中では、逃亡を防ぐため船底の真暗な部屋に押し込められ、甲板に出ることも許されませんでした。上陸地はほとんどが下関港で、そこから貨物列車に押し込まれ、日本国内の400カ所におよぶ労働現場に移送されました。連行されてきた朝鮮人労働者は、全国の労働現場で、まさに奴隷のように苛酷で危険な労働と、非人間的な衣、食、住生活を強いられ、病や事故で倒れ、命を亡くした人もたくさんいました。

◆群馬県内に数千人の朝鮮人中国人が連行

 私たちの調査では、群馬県内にも約7,000人の朝鮮人、中国人の人たちが強制連行されてきたと思われます。中国人が約900人、朝鮮人は約6,000人に及びます。それだけでなく、1945年4月の群馬県内政部長事務引継書には、1944年12月末で12,356人の朝鮮人が県内に住んでいたと書かれています。これは、届けが出された分だけであり、たぶんこれに数倍する人数が無届けで県内各地の工場や土木の現場で働いていたと思われます。それらの人々の大半は、植民地下の朝鮮で、日本人によって土地を奪われ、職を奪われ、生活に困窮して日本に渡って来ざるを得なかった人々です。

 強制連行によって群馬県内に連れてこられた朝鮮人は、いま私たちの手元にある資料で確認できるだけでも次の通りです。

現場・工事名        所 在 地    人 数   出 典


群馬鉄山          吾妻郡六合村   480    鋼管鉱業社史
吾妻線工事、発電所工事   吾妻郡内     1,110   知事事務引継書
小串鉱山          吾妻郡嬬恋村   50    知事事務引継書
羽根沢鉱山         吾妻郡嬬恋村   人員不詳 知事事務引継書
陸軍長野原演習場      長野原町北軽井沢 195    長野原町誌
岩本発電所導水トンネルエ事 沼田市岩本    約1,000  間組百年史
中島飛行機後閑地ドエ場   利根郡月夜野町  約1,000  間組百年史
陸軍火薬工廠地 下工場   沼田市上川田   人員不詳 旧陸軍施設関係綴
中島飛行機薮塚地下工場   太田市西長岡   1,000〜2,840 太田市史
高崎駅操車場整備工事    高崎市下之城周辺 100    知事事務史引継書
中島飛行機多野地下工場   藤岡市金井    約500   多数の証言


——この歴史的事実が存在しているのに、強制連行はなかった、朝鮮人は皆自主的に日本にやってきて生活をしていたという人たちは、加害者としての歴史に目をつぶっているといわなければなりませんね。群馬県にとりわけ強制連行の労働者が多かったのはなぜでしょう。

【猪上】 それは何よりも群馬県には中島飛行機製作所という軍用機の製造工場があったことです。表で見ていただいても分かるように、中島飛行機工場関係で約2,500名から3,800名の朝鮮人、中国人が働かされていたことがわかります。

——そういう戦中の歴史を踏まえて猪上さんたちの、いわゆる「追悼碑運動」が始まるわけですが、きっかけはなんだったのですか。

◆追悼碑運動1995年から9年間の歩み

【猪上】 これは、1955年の「戦後50年を問う群馬の市民行動委員会」の結成(略称「アクション50」)が出発点でした。戦後の50年の歩みを振り返り、さらに戦前50年の日本政治の過ちを繰り返さないために、1人の市民としてやれることをしようということで、1995年3月25日群馬県女性会館で結成集会をやりました。このなかの記念講演「従軍慰安婦問題から見た日本の戦争責任」という講演を朴寿南(パク・スナム)さんにお願いした。そこで、市民行動委員会の目標を決めた。(1)政党や特定の宗教などに関係のない、平和と民主主義を求め、高めることを願う純粋な市民の集まり。(2)従って一つの思想、規約規範を押しつけない。(3)議論だけでなく、行動も展開する。(4)入会、脱退は自由である。

 行動としては(1)侵略戦争写真展(日本はアジアで何をしたか)[開催期間]1995年7月5日〜30日 前橋、高崎、太田、館林、沼田、富岡の6カ所で開催。明治以降の日本帝国主義のアジア侵略の実相を写真で訴えた。朝鮮侵略80枚、中国侵略70枚、台湾侵略40枚、その他東南アジア侵略、沖縄戦等の写真と資料。入場者は5,000人を超えました。

◆県内の中国人。朝鮮人強制連行の調査活動。

——群馬県内の中国人や朝鮮人の強制連行の実態を調査するというのは、言葉は簡単だが戦後40年以上経った1996年からの調査活動は、大変困難な作業だったと思う。具体的には、どういうやり方で強制労働の実態を掘り起こしていったのですか。

【猪上】 これが一番大変でした。しかしこれをやらなければ、強制労働問題は、絵に描いた餅に終わります。まず最初は、[講演会]1996年7月に群馬県勤労福祉センターでやりました。これは実際に強制労働の経験のある講師として、洪祥進(ホーン・サンジン)さんにお願いした。そして「朝鮮人の強制連行、強制労働」について歴史的事実を報告していただいた。つぎにやったのが「現地調査」です。1996年8月27日・群馬鉄山、ここは480人の朝鮮人労働者が働いていたところです。ここには強制連行されて群馬鉄山で働かされた美奉俊さんに案内してもらって現場を見たわけです。

 これを皮切りに各地の現場を回って現地調査をやりました。つぎに平和展の開催を各地でやりました。毎年8月、前橋・高崎・沼田・中之条等の公民館で、戦争の実相と群馬県内での中国人・朝鮮人強制連行、強制労働の実態の資料を展示した。さらに訪韓による韓国の独立記念館をはじめとする、日本の植民地支配時代の侵略の学習。韓国の平和市民団体との交流なども重要な取り組みでした。

——調査活動や平和展、韓国本土での交流などのうえに、ついに朝鮮人、韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会の結成というのが発足したわけですね。

【猪上】 やっと結成総会にこぎつけたのが、1998年9月6日の前橋市中央公民館ホールでした。戦後、これまで放置されてきた、群馬県内で犠牲になられた強制連行犠牲者を追悼し、強制連行の事実を広く国民に伝え、正しい歴史認識を確立するとともに、アジア諸国の民衆との友好連帯を進めるという目標です。記念講演として、「私の体験した強制連行、強制労働」と題して、鄭雲模(ムヨン・ウンモ)さんから体験報告をしていただいた。それを契機に、[賛同の呼びかけ]を「アクション50」が呼びかけ団体の中心となり、会員を中心に、各層の有志に呼びかけた。賛同金:個人1口1,000円以上、団体1口3,000円以上としました。目標:1,000万円として、募金の主体は侵略に責任をもつべき日本人が運動の主体となるということを明らかにしました。「消し去られた歴史をたどる」(群馬県内の朝鮮人強制連行)編集・発行に基づく県内強制連行・強制労働の実態を、読みやすいパンフレットにまとめ、連行場所や労働場所の地図・写真入りを1,000部、頒価500円で1999年2月に発行しました。

◆外国人強制連行犠牲者追悼碑建立運動と除幕式

——朝鮮人強制連行の最大の人数を占める、中島飛行機工場の跡地調査は難航をきわめたらしいですね。

【猪上】 最大の朝鮮人労働者を使っていた中島飛行機多野地下工場の建設跡地を発見しました。中島飛行機多野地下工場は、その場所が不明とされていましたが、賛同者の協力によって、当時の朝鮮人労働者の世話をしたという証人が見つかり、現地調査の結果、多くの証言と地下工場掘削現場を確認することができた。朝鮮人労働者の実体も明確になった。というような実績を積み重ねたうえで、私たちは群馬県に「追悼碑建設用地の提供を求める請願書」を提出したのです。請願者は運営委員を中心に14人。理解ある県議会議員の協力も得て、2003年6月12日県議会の全員賛成により趣旨採択された。この請願活動の成功により2003年11月13日建設用地の提供を決裁、私たちの願望どおりに県立公園「ぐんまの森」に追悼碑の建立ができることとなったのです。

 追悼碑建立、工事業者との契約、施工などずい分年月がかかりました。契約日が2004年1月で着工が2004年3月、竣工日=2004年4月。そしてようやく、2004年4月24日、県立公園「ぐんまの森」で「記憶 反省 そして友好の追悼碑」の除幕式を盛大に行ったわけです。約350人の賛同者が見守るなか、代表委員によって純白の布が切り落とされた。1万人の心がこもった犠牲者追悼碑がその全容を現わしました。

 群馬県知事(代読)の追悼の言葉が述べられ、沼田市長をはじめ多数の自治体代表、朝鮮聡聯代表、韓国民団代表の追悼の言葉につづき、韓国ソウルから馳せ参じた太平洋戦争犠牲者遺族会梁会長の涙に満ちた「アリランの歌」や、朝鮮初中級学校生徒たちの合唱が公園内に響き、参列者の涙をさそったのです。

 2004年4月、追悼碑が建立されると、群馬県内のみならず他県でも話題となり、各界各層の人々の追悼碑訪問が続いています。駐日韓国大使羅鍾一夫妻、韓国民団地方本部団長他役員、韓国民団川口支部役員会、人材育成技術研究所代表辛淑玉、高麗博物館館長宋富子、平和遣族会代表西川重則、参議院副議長角田義一、韓国京畿道キリスト教長老会、日本キリスト教団関東地区社会委員会、群馬地区社会委員会、日本バプテスト教会北関東地方連合社会委員会等。内外の心ある人々の訪問が行われています。

◆追悼碑の県立公園設置と碑文をめぐる県との対立

——期せずして、猪上さんたちの強制連行追悼碑は、日韓友好の基礎ともなるもので、多くの賛同が寄せられた大事業だった。反面、これを快しとしない動きも当初からあったわけでしょうね。

【猪上】 そういうことです。たしかに、大勢の人々が追悼碑の存在を知るためには、県立公園が最適であると考えたわけですが、一部からは、公有地では各種の制約があり建立にたいする干渉の恐れもあるから民有地にすべきだとの意見も出された。一方、自治体の参加の大切さも強調され、最終的に県立公園に決定したのです。当初から、碑文その他にたいする県との対立は激しく、双方が文案を出し合うなど厳しい議論を積み重ねた末、ようやく合意ができて、「ぐんまの森」での建立が決定しました。

 具体的には、碑文をめぐる論争が最後までありました。私たちの原案は要旨、
「20世紀の初頭、わが国は朝鮮を植民地として36年間支配してきた。この間、土地を奪い、ことばを奪い、名前も日本名に変えさせ、神社参拝を強制するなどの苦痛を強要した。アジア太平洋戦争の拡大に伴い、労働力不足を補うために多くの朝鮮人労働力補充のため、強制的に連行する政策を採用した。こうして日本に強制連行された人々は100万人をはるかに超えた。
 朝鮮人労働者は満足な食料も、衣服も与えられず、昼夜を分かたぬ過酷な労働と悲惨な生活環境による病気あるいは事故などにより、無念にも異郷に命を落とした。今に至るもその数は定かではない。群馬県内にも軍需工場、地下工場、飛行場、発電所、鉄道建設、諸鉱山などに数千人の強制連行労働者が投入され多数の犠牲者を生むにいたった。21世紀を迎えた今、私たちはかつて我が国が朝鮮人にたいし、損害を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、こころから反省し、二度と繰り返さない決意を表明する」
というものだった。

 この私たちの原案にたいして、群馬県は建立場所が県立公園であるので検討させてもらいたいとして、待つこと約6カ月、以下のような回答が送付されてきました。
 「「強制連行」という用語は日本政府として用いていないので、県としても認められない。碑の名称は、単純明快に「朝鮮人追悼碑」としてはどうか。「記憶 反省 そして友好」とした場合、反省という言葉が問題になる可能性がある。強制労働現場の地図はなくしてほしい」というものでした。
 その後、私たちと県との間で激しい議論を繰り返し、不本意な部分も多々あるが、県公園内に建立できることの意義を確認し合意に達しました。この間、苦渋の選択を余儀なくされた場面もあったことは否めません。

◆外部団体「そよ風」の請願可決から県の追悼碑撤去へ

——今回の「追悼碑撤去』問題の伏線は、10年前に県との碑文をめぐる対立の中にも存在していたわけですね。今回の県の猪上さんにたいする正式な「追悼碑撤去」の通達文は、問題点をはっきり指摘しないで、単に手続き上、10年の契約だったから契約更新をしないというものです。しかしそれに至る、撤去を求める外部団体などの請願行動があり、その請願を県議会が取り上げ可決した。2003年には県議会が、全会一致で追悼碑の県民の森設置を求める請願を可決しているにもかかわらず、今回は全く逆の撤去決議をしたというのも不可解です。その背景はなんでしょうか。

【猪上】 県には12年ごろから、在日外国人に厳しい姿勢をとる団体などから撤去を求める意見が寄せられていました。今年6月には許可更新を認めないよう求める請願3件を県議会が採択しました。東京にある「そよ風」という婦人団体が、群馬県を拠点にして追悼碑の撤去を求め、全国的に朝鮮人追悼碑などを公共施設から追放しようとしています。県議会の6月の撤去決議も、こういう団体の請願を採択することで成立したのです。

——「そよ風」という団体はネット上では、いわゆるネット右翼とは違った雰囲気で、静かに訴えるという形を取っていますね。例えば呼びかけの趣旨は「日本の歴史と誇りを護る為にはサイレントマジョリティだった一般人が立ち上がる事です。皇室に尊崇の念を持ち靖国に眠る英霊に感謝の誠を捧げる事を念頭にする事こそ必要なのではないでしょうか」と言っています。

【猪上】 その団体が群馬で活動しているわけです。県知事の撤去通知が来たのが7月22日ですが、その直後の24日に「群馬県知事へ断固支持の声を!」という見出しで、こういっています。

 「群馬の森の朝鮮人碑は設置許可を更新しない決定をしたことで一つの区切りがつきました。私たちが撤去運動を始めたころは群馬県民ですら群馬の森そのものを知らない方ばかりでした。手探りの連続だった上に、最初は群馬県民の私たちへのお手伝い感覚に憤慨したこともありました。
 女に何ができるのか、ヌルい、過激なことをやらないとだめだとの批判も受けましたが、相手が民主主義のルールにのっとってやった以上こちらも民主主義のルールを逸脱しては共感が得られないと私は言い続けてきました。残念ながら、実際に碑がいつ撤去をされるのかは不明です。あの場所が更地になって初めて本当の勝利宣言ができます。
 設置した団体の代表・角田義一氏は拉致問題に影響が出るだの日韓関係が悪化すると恫喝発言をしています。拉致問題にせよ、いわゆる従軍慰安婦問題せよ日本は南北朝鮮に何度もだまされた過去があります。さんざん規約違反を繰り返しながら今さら「慰霊に徹する」と言っても誰が信じるでしょうか。私たちは今回の群馬県の決定を断固支持します」というものです。

◆10月に追悼碑撤去取り消し訴訟を開始する

——このような団体の一番危険な傾向は、過去の朝鮮併合による属国化や、関東大震災の数千名の朝鮮人虐殺、あるいは強制連行などの歴史を封印して、戦後の拉致問題などに焦点を絞って反韓、反北朝、反中国を煽っていることです。まさに安倍政権の方向性と一致している。今後は法廷闘争などの準備をされているがどうなりますか。

【猪上】 これは全国的にも波及する問題で、日韓の新たな火種をつくるもので妥協できません。県が設置更新の不許可を決めた理由は設置時に定めた「政治的行事および管理を行わない」とする許可条件に違反しているという点です。碑が設置された平成16年から9年間、守る会が碑の前で毎年集会を行い、日本政府を非難するなどの発言を繰り返したことが違反に当たるという。

 これに対し私たちは、7月28日に出した声明で、「在日の人たちの抑えきれない思いを表出したものや、こうあってほしいという出席者の思いが語られたもので、それをもって許可条件違反とすることは行き過ぎと言わざるを得ない」というのです。「守る会」は7月28日、県に対し不許可の取り消しや無効などを求める行政訴訟を、10月中旬をめどに前橋地裁に起こす方針をきめました。これは28日、前橋市内で会合を開き、全会一致で提訴を決めたのです。この訴訟は県内のみならず全国的な弁護団などと連携したものにしたい。提訴に併せ、「守る会」11月に予定される県議会第3回定例会後期議会に、碑の設置許可を求める請願を提出することも決め、請願者を募る署名活動に取り組むことにしました。

◆終わりに

 猪上さんを前橋に訪ねた日、8月7日の上州は炎暑だった。別れ際に一言、朝鮮人慰霊碑に取り組むきっかけはなんだったのか問うた。「関東大震災時における群馬県藤岡町の民衆による朝鮮人殺害事件を知ったことだ」と答えた。これは猪上さんが書いた「藤岡での朝鮮人虐殺事件」(1995年刊行パンフ)に詳しい。この話も生きている間に、きちんと聞いておきたい。

 帰途、高崎市に下車し、群馬県民主党県議団(8名)の中で、慰霊碑撤去問題に中心的に取り組んでいる、旧知の門倉邦好県議に再会した。群馬県議会の一部が右翼的市民運動と連携して「慰霊碑撤去」に取り組んでいるが、中曽根弘文、山本太一などの国会議員らは、こういう動きに一歩距離を置いているという。門倉氏は今、民主、社民、生活者ネット、緑の党、無党派などの地方議員を結集した「自治体議員立憲ネットワーク」を立ち上げ、1000人の結集をめざした全国的呼びかけを行っている。1960年代、70年代生まれの若い世代の地方議員たちの動きに期待したい。元社会党委員長の田辺誠氏が、92歳にして、なお門倉氏ら民主党議員の先頭に立って、選挙活動の在り方を教えているという話も興味深かった。

 (筆者は公害研究会代表)


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