■警鐘を鳴らす戦無世代の思い

警鐘を鳴らす戦無世代の思い

林 郁


 戦没学徒の遺稿集『きけ わだつみのこえ』を代表する京大生元陸軍上等兵・木村久夫の遺書がもう一通残されており、遺族が保存していたその遺書の全文が東京新聞(2014/4/29)に紹介された。「若き命よ さらば」「軍人 正直に反省せよ」の見出しで。

 1918年大阪で生まれ、旧制高知高等学校から42年京都帝大経済学部入学、1学年10月学徒出陣、陸軍一兵卒として翌年9月インド洋カーニコバル島へ。激闘苦戦、敗戦。シンガポール戦犯裁判で死刑判決、46年5月23日絞首刑執行。
 個人として公明正大を訴えたがBC級戦犯として死刑宣告。独房で哲学書の余白に記した遺書には、若い命を断たれる無念と陸軍批判が記されていた。戦争実行の日本軍人は表向き大言壮語して国を滅ぼした我欲のもの、最もいやしい世俗の権化であったと。
 父母と家族と故郷を想い、原爆犠牲者・戦死者を悼み、戦後の新しい青年が(死ぬ者に代わって)自由な社会で自由な進歩を、と願い、処刑半時間前擱筆の遺書に辞世の歌2首。最後の歌。
「心なき風な吹きこそ沈みたる こころの塵の立つぞ悲しき」

 戦争の非道を伝えるため、私はこの遺書全文を若い人に送り、「戦争する国」への転換を荒言する今の衆愚政体に憤った。人類の英知「平和憲法」を熟議せずに捨てようという「安保陀羅アホダラミクス」政権への怒りメールが急増し、「戦争をさせない1000人委員会」など反撃運動も進んでいる。しかしテレビでの政治批判は急減し、政府の大衆情報操作はNHKを先頭に進行している。
 負けられないこの岐路に立ち、耳を澄ます。反戦の思い深まる。

 5月17日土曜の宵、触発されるアクションがあった。それは東京アートミュージアムでのイスラエル芸術家の(パレスチナとの)平和と創造の会。小中陽太郎氏(作家)が理事長、伊東乾氏(作曲=指揮者、東大准教授、1965年生まれ)が理事を務めるプラザ財団主催。伊東乾の新しい作曲「囁きの国境」を驚嘆のバイオリニスト土岐裕奈(桐朋学園大学音楽部2年)が演奏する響きの深さに私は感動し、超現代アートに引き込まれ、平和創り論議に触発された。

 伊東乾氏は両親の戦争の痛みを発信し続けている。戦争体験のない若い世代こそ非戦を主張せねばならないのだ。過日、講座「ワグナー」(淑徳大学)でも母上の空襲を真摯に伝えた。戦後の高度成長期生まれが親たちの戦争の痛みを実感で受けとめ、反戦の思いを次々世代にじかに伝えるその行動に私は打たれた。苦難は希望に変わりうる、という「打たれ」であった。

 焼夷弾絨毯爆撃の大牟田空襲、19歳だった母は直撃弾で全身炭化の深い火傷を負い複雑骨折もして瀕死に。長年寝たきりで苦しみ、再起して38歳で一児を生んだ。父は東京帝大1年のとき「満洲」の関東軍二等兵として徴兵され、敗戦でソ連抑留、捕虜収容所を転々とし、弱った身体で帰還、39歳で父となったが6歳の子・乾を残してガンで帰天。母は小中学校の教師をして子を養育し、帰天した。

 「全身ケロイドの母の体を私は忘れません」
 「米軍リポートを読む。戦果の数字のみ。犠牲者への顧慮まったくなし。マグネシウム焼夷弾は水では消火できず、長く燃え続ける強力兵器」。ナパーム弾などなど兵器はエスカレートし続ける。
 「残酷な兵器を開発し投下した責任者を私は静かに憎む。戦争犯罪人のほとんどが没した今、修復正義の貫徹を私は考える」
 「広島、長崎への原爆投下は人類史上もっとも残酷な犯罪なのに、勝者の連合軍は反省なく戦争を続ける。二度とくり返さぬために勝者も明確な倫理のけじめをつけるべきです」

 (日本は先進国の後追いをしてアジアを植民地にし、植民地・占領地からも徴兵し、負けると判っている戦争を続行した、その日本軍の罪と愚をあいまいにしないこと。今後、戦争〈殺し合い〉にうかうかと加担しないこと、絶対に。日本政府は被爆者の苦しみ、放射能被害さえ世界に発信しえていないのだ。安倍首相は収束できない福島原発を隠蔽し原発再稼動を宣言した。東京裁判に反対だと言いながらその中心のアメリカに追随し、一方で靖国神社参拝をして自立不能に陥っている)

 靖国参拝はEUや米国で批判されている。伊東乾氏は述べる。
 「ドイツはナチスと決別した。日本はあいまいのまま。海外からみれば靖国参拝はナチスの墓に参拝するという意味なのです」 

 『加藤周一』海老坂武著(岩波新書)の警告を私は改めて噛みしめる。—戦争犯罪の条件は存続している。「メディアを通しての大衆操作」「大勢順応主義」「人権意識の欠如・差別意識」、〈平和のための戦争〉〈自衛戦争〉〈積極的平和主義〉といった欺瞞の「言葉に対する鈍感さ」
☆若者よ、疑うことを習え。わが身に迫る危険を止めよ。

 同じ日の午後、スターリン体制30年代ラーゲリ被害の報告会が早大で開催された。勝野金政(1901〜84年)は長野県木曽のひと。親戚筋の島崎藤村の勧めで早大ロシア文学科から1924年パリ大学に留学、フランス共産党で活動し国外退去。ベルリンを経てモスクワへ。片山潜の私設秘書になったが、冤罪のスパイ容疑で極北の白海収容所に収監される。粛清や過労死の多いなか勝野は奇跡的に生き延び、34年8月満洲里経由で生還。ソ連収容所の非道な実態を力作記録文学『凍土地帯』にしたが、同じ時期にモスクワで厚遇された宮本百合子と共産党から誹謗攻撃された。
 戦後は郷里で木曽銘木を商って8人の子を養育し『白海に怒号する』を書いて他界した。ソ連崩壊後、遺子たちの努力によって97年ロシア政府から名誉回復証を勝ち取り、加藤哲郎、藤井一行、山口昌男諸氏の尽力で勝野金政著作がノーベル賞作家ソルジェニーツィンの『収容所群島』より38年も早く書かれた収容所文学であることも証された。

 今年の4月29日、モスクワのソルジェ二ーツィン記念館で「スターリン体制告発の世界先駆者・勝野金政写真展」が開催され、長女明子さんと加藤哲郎氏たちがロシアを訪ねて講演した。明子さんからいただいた資料を保存している私は、勝野金政の警告を思い出す。ソ連は満洲に攻め込むから「開拓団」送出をやめよ、と勝野は警告したが、東条英機はその分析を蹴り、日本上部はソ満国境に民間「開拓団」を敗戦直前まで送出し続けた。
 45年8月9日未明ソ連軍攻撃開始、婦女子の逃避行や自決の地獄と「残留孤児・婦人」、ソ連抑留者の大悲劇となったのだ。

 ソ連抑留邦人60万人の収容所の幾か所かが秘密の原爆開発所、核実験場と重なるのでは、と加藤哲郎氏は朝日新聞5/9付で指摘している。この記事の主題は抑留犠牲者の遺子(父を知らぬ)渡辺祥子さんが現地に墓碑を建立するまでの長き苦労と碑の文字は〈生存の権利〉であること。命の尊厳の碑の刻字はこの地の次々世代にも非戦平和をつなぎたい思いの証し。

 (筆者は作家)

※本稿は植民地文化学会 2014/7/15 発行「植民地文化研究」に掲載されたものを著者が校閲したものです。


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧