■集団的自衛権行使容認の不気味さについて

集団的自衛権行使容認の不気味さについて

三上 治


 「軍隊の本当の辛さは、可測性がない見透しがないということにあると思う。自由の時間がない。勝手なことができないということよりも、見透しがきかないということ、なぜ見透しがきかないかというと、あなたが言われたけれど、要するにルールは上級者と不可分に結合しているということなのです。上級者に対して、こういうル—ルがあるのではありませんかということはいえない。そいうものがあれば上級者に対しする反逆ということになるから…、それで、結局、上になると非常にかつて苦しかったことを忘れてしまう。実にうまいシステムだと思う。」(『日本の軍隊』飯塚浩二)。

 これはこの本の一部の討議に加わっていた丸山真男の発言である。一般に軍隊の内部関係が封建的で前近代的であること、そして殴る蹴るなどの非人間的な関係に軍隊の辛さがあると言われていた。これについて別の角度からの視点をだしているのである。他にも丸山は日本の軍隊の疑似デモクラティックな面も指摘している。

 日本の旧軍隊は社会的な階級関係[身分的あるいは階級的関係]とは別の疑似デモクラティックな関係にあったといわれる。(ヨーロッパの軍隊では将校が貴族に占められるように軍隊の階級関係に社会的関係が反映されていたのに、日本の軍隊の階級関係は軍の関係であり、社会的関係は切り離されていた。社会的階級関係、あるいは身分関係からみれば平等な関係だったとされる)。こういう指摘もしているのだが、ここで丸山が語っているのはルールが上級者に結合しているということであり、軍隊の成員は自己意志による自由な行動ができない構造にあったと指摘している。

 「初年兵が一番下だから辛いのではない。軍隊全体の組織が可測性のないという問題になるんじゃないかと思う。昔、徳川時代の御殿女中がそうであって、御殿女中というものは狭いところにゴチャゴチャいて、誰がいったい今日は殿のお気にいるのだろうか、叱責を蒙るのは誰か、お気に召すかということについては全く見透しがきかない。あれと同じだ。そこになんとも言えない雰囲気が生まれる。」(前同)

 「ルールは戦闘目的というか、非常に明確な目的があって、その目的に適応するルールなんであって、そのルールをある程度引用してプロテストすることはできる。しかし、こういうル—ルの背後には一種の自然法みたいなものがないと思う。つまり、軍隊というものにはその背後に人間性の尊厳というか、人間人格の平等というものによって支えられた地盤がないから、対戦闘目的とかいう合目的なものに規定されたル—ルはあっても、それは反人間的なものを防ぐ保証にはならない。だから、そのようなものに対しては反人間的だという批判すら下すことは許されない」(前同)

 日本の軍隊について僕らは様々なイメージを持っている。けれどもなかなか納得の行く見解に出会ってこなかったと言ってよい。戦争について書かれた文学作品も映画も少なくはない。すぐに記憶にのぼるものだっていろいろある。映画でいえば『人間の条件』、『赤い天使』、『暁の脱走』、『兵隊やくざ』等をあげることはできる。その中で展開されている軍のイメージは封建的で前近代的で野蛮なものが基本になっていて、それは人間性(ヒュマン)に反するものだということが強調されている。

 この抑圧性と非人間性はイメージの根幹になっており、初年兵いじめはその象徴のように描かれてきた。これは事実という一面を持っているのだが、それを誇張し過ぎると重要な本質に気づきにくいということにもなる。連合赤軍事件という僕らの身近なところで存在したものも、残虐な殺戮にいたるところがクローズアップされている。これも事実にちがいないが、これだけでこの事件の本質を析出することは難しい。僕がここで丸山真男の見解を取り上げたのは、今、戦争が話題になるが、それに僕らが認識の手を延しにくい状況を考えているからである。

 少し回りくどくこういう口上を語ってきたのは、今回の安倍内閣の集団的自衛権行使容認の閣議決定が何故、戦争への歩を一歩進めることか、ということに理解を発展させることが難しいためだ。安倍が海外での戦争を決意したことは間違いないし、そのように評することは間違いではない。これは正しい認識であり、直観である。憲法をないがしろにし、それを骨抜きにしようとしていることは疑いない。

 この危惧感を持つ一方で安倍に戦争担当能力はあるのか、自衛隊に戦争遂行能力はあるのか、という疑問もある。この疑問は、それはないのではないかという僕の希望的観測でもある。他方で、戦争への道に近づいたという認識とこの希望的観測は矛盾的な意識としてあるのだが、これが今回の閣議決定から受けた感想だが、ここのところで自問してきた。

 集団的自衛権行使容認をめぐる論議のなかでいつも去来していたのは一体政府は「戦争担当能力」はあるのか、自衛隊は「戦争遂行能力」はあるのかということだったと語ったが、もちろん、僕はそれに否定的だったし、今もそうだ。これは僕の願望でもあって、実際はどうなのだろうという不安もかつてよりは強くなっている。政府の戦争という行為を阻止し、自衛隊を機能させないためにも、軍隊と戦争についての僕らの理解というか認識を一歩でも、二歩でも深めなければならない。きちんとした抵抗を可能にするためにも。

 今度の閣議決定に至る過程の中で、あるいはその反対の声をあげる人ごみの中で考えさせられたのは、いくら「自衛のための集団的自衛権行使である」「そのための要件」、つまりそのルールを示されてもそれを根本のところで信頼できないということだった。この不信は不安でもある。これは勝手に憲法解釈を変更したことでもある。丸山が先に語っていたことと関連させれば、「自衛のためのルール」と言ったところでこのルールは政府の独占的な決定と結び付いているのであり、国民の意志や意向は反映の余地がない。

 日本の政治システムはいくら制度的に自由であっても、ルールは上級者(権力者)と結び付き専制的に振舞えることを示したといえる。安倍の今回の決定はそれを示している。そのことに安倍首相はなんらの疑問を持っていないということがある。民主的な、あるいは国家的なルールがあっても、そのルールは権力者に結びついている。そういう政治というか、国家のあり方は「日本の軍隊」が象徴していたことと実質的に変わらないのである。

 日本の軍隊は国家の意志を戦争という形で遂行したし、それを先導したが、そこでの権力のあり方はルール(法)が権力者の存在と結び付き、独占的(専制的)に振舞えたということである。丸山が軍隊内の関係として提起したことは、軍隊と国民、あるいは国家と国民の関係に広げて考えられる。もし、この日本の軍隊に日本の近代国家を象徴させれば、日本の近代国家は制度的にはどんな近代的、民主的な形態をとろうとも、専制的な振舞いが可能な存在だったと言える。法治国家ということがよく語られるが実質的には法治国家ではなかったということなのだ。擬似的法治国家にすぎなかったのである。

 戦後憲法がその前文において「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあることの重要さもわかる。政府の行為によって、ということは政府の専制的なという意味である。それは国家目的やル—ルにいかに国民的、民主的なことが規定されようが、その決定が上級者(政府や権力)と結び付き独占されることで、目的やルールに反することの批判さえできない事態の反省が込められていた。

 主権という言葉がこれに続くのは政府の行為が政治的主体であることへの批判であり、そうした政治構造(権力構造)の批判でもあったのだ。この言葉が日本の戦争や軍隊への反省としてあったことは明瞭だが、こうした文脈で理解しなければならない。この前文と憲法九条とが密接に結びついていることは疑いない。ここでこと改めて述べないが、憲法第九条という先進的な規定は国家と戦争の未来を先取りしたものである。第九条は前文と密接な関係にあるが、今回の安倍内閣の閣議決定による憲法解釈の変更は「政府の行為によって」と規定したことの否定であり、いうなら批判の対象になった以前への回帰である。このことに安倍や周囲の面々がどこまで気がついているのかは、ともかくここ(前文)の解釈を変更したことでもあるのだ。

 丸山は軍隊の構造の指摘から、こうしたルールが上級者に結びつき、ルールの違反さえ申し立てできない構造を、「しかし、こういうルールの背後には一種の自然みたいなものがないと思う。つまり、軍隊というものにはその背後に人間性の尊厳というか、人間人格の平等というようなものによって支えられた地盤がないから…」と指摘している。これは政治にはとか、国家にはとか言い換えてもいいわけである。この地盤という問題は、国民の自由な、あるいは自立的な基盤の問題であり、自己の意志を実現して行くことと言ってもよい。戦争は、ある国家なり共同体なりが、他の国家や共同体から追い詰められたところに発生する。共同の心理が「恐怖の共同性」にまで高められて起こる。

 このことは現在でも発生する。そのことの多くは、国家や共同体の支配者あるいは支配階級が存続し、自己の基盤強化のためにこうした幻想(共同的意識)を造りだすからだ。国家間の対立が不可避であるのではなく、それが不可避であるとする意識が不断に再生産されるからだ。戦争の原因や存在についてはいろいろあるが、これが現実的に可能になるのは、国家目的やルールを独断できる権力構造と結び付いていると言える。逆にいえば、自由で民主的な国家、あるいは共同体は戦争を遠ざけえる存在だ。
 自由で民主的な国家は永続的な理念としてのみ現在的であり、それはどこにも現実的には存在しない。憲法第九条の理念や思想が世界的に孤立を強いられているように。この孤立は自由で民主的な存在の孤立でもある。何故に自由や民主制は戦争を否定して行くのだろうか。それは他国の恐怖を解除していくからであって、それがナショナルなものとして現れても、他国の恐怖やその裏がえしとしての優越意識としてのナショナリズムにはならないからだ。

 他国との関係で発生する恐怖や恐怖の共同意識が解体されて行く一番の近道は国家権力の形態を開かれたものにすることであり、それは言葉の真の意味での自由で民主的な国家にしていくことである。先の丸山の言葉でいえば、人間の尊厳とか、人間人格の平等とかの自由で民主的な基盤を生成して行くことであり、これは不断の権力への抵抗としてある。この生成は永続的に展開される中にある。

 集団的自衛権行使の閣議決定に抗議する人ごみの中で人々の口から戦争反対とか、憲法を守れ、あるいは九条を守れという声を聞いた。これは1960年安保闘争の時から聞いたものであり、ある意味では変わらないものだと思った。そして、これは当たり前と言えばそれまでだが、とても大事なことに思えた。

 それに比して、かつてはこうした運動の中に大きな位置を占めていた政治党派が見当たらないことに気付いた。政治党派は戦争を分析し、認識して、その上に理念を持ち競い合っていた。今、政治党派は理念の解体と言葉を失う状態にあるのだと思う。理由は明瞭だ。マルクスの戦争論も、レーニン、あるいは毛沢東の戦争論も戦後の日本の戦争の問題には役立たなかったのであり、それを示しているのだと思えてならない。このことを戦争の問題をそれへの抵抗も含めて主体的に受け止めて行く困難さの原因にもなっていると思えた。

 かつて(戦前)の戦争への抵抗が敗北した原因はその闘いが国民から孤立したことだが、抵抗運動が自由で自立的な基盤の生成に敗北したことでもあった。果たして戦後の運動はそうだったのだろうか。権力や国家の戦争への抵抗には自由や民主制の基盤的な生成がなければならない。社会的な権力との関係を含め、ここのところで僕らは前進し、自らの不安も解消してきたのか。戦争に抵抗する理念、言葉の喪失状態の中でも、この自問を繰り返していけば道は見えてくると思える。

 (筆者は政治評論家)


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