「オルハン・パムク」を読む

■回想のライブラリー(17)

「オルハン・パムク」を読む 初岡昌一郎

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(1)


 暮から正月にかけて何冊かの本を読んだ。一番の収穫は、何といってもトルコ
の作家、オルハン・パムクが書いた二編の小説だった。2006年のノーベル文学賞
を受賞したことや、アルメニア人虐殺問題にたいする発言によりこの作家が国家
反逆罪に問われたことから、日本でもパルクの名は知られるようになってきた。
彼の訳書はいずれも藤原書店から出版されている。訳者は、パムクがノーベル
賞を受賞する前から翻訳をいくつかの出版社に持ち込んだが、いずれも断られた
という。そして、ついに藤原書店にたどりついた。さすがは、フェルナン・ブロ
ーデルの大歴史書『地中海』全5巻を世に問うたこの出版社だ。

 昨秋出版されたばかりの『雪』はトルコの一地方都市カルスを舞台に、カフカ
的な不条理な世界が展開されている。小説の主人公であるKaをはじめ、都市名
も『雪』もすべてカフカのカという、韻を踏んでいるのに作者の意図がはっきり
とみてとれる。この小説は政治的社会的な色彩が濃い。背景となるイスラム世界
が一枚岩とはほど遠く、複合的な社会であることが生き生きと描写されていて、
私にとってはストーリー以上に興味深かった。
 二冊目の『わたしの名は紅(アカ)』は、2004年に出版されていたが、昨年の
ノーベル賞受賞以後に日本でも注目されるようになった。これは600ページにの
ぼる長編小説だ。読みはじめるとその世界に惹きこまれ、一気呵成に読了した。
小説の舞台はイスタンブル。時代は16世紀末で、オスマントルコが全盛期に
あった。得意先であるムスレム王朝の宮廷と下町の庶民社会にはさまれて暮らす、
細密画職人達が主人公だ。物語は『雪』よりもはるかにドラマティックで、ミス
テリー仕立となっている。

 冒頭から「私は屍」と、細密画家の一人“優美さん”が仲間に殺された時の語り
が始まる。それに続いて「私の名はカラ」、「人殺しとよぶだろう、俺のことを」
わしはおまえたちのエニシテだ」「ぼくはオルハン」「人はわたしを“蝶”とよ
ぶ」などと、次々と登場人物が、一人称で物語を展開する。
 同じ情景や状況が、異なる視点から切り取って見せつけられる。羅生門的な筋
書きだが、それよりもはるかに複雑かつ社会史的文化史的な背景が色彩豊かに書
き込まれている。読者はいつの間にか、16世紀のイスタンブル社会に迷い込み、
その庶民達の生活を追体験させられる。当時のイスラム社会の住居とその内装、
食材と料理、ペルシャや中国に起源をたどる細密画とそのあざやかな色を生み出
す技法など、われわれの日常的体験と異質な世界に踏み入れる興奮をこの小説は
味合わせてくれる。
 小説の中で、一人称で登場するのは人物だけではない。「わたしは犬」「わた
しは一本の木だ」「わたしは金貨」「わたしは馬」と、人間以外のモノや動物の
視角からの語りがストーリーの倍音となっている。さらには「わたしの名は死」
とか「わたしは悪魔」という章もある。
 ラテンアメリカのノーベル文学賞受賞作家、ガルシア・マルケスが描いた熱帯
の極彩色風景とどろどろとした人間関係の世界にかつて私は魅了された。パムク
の世界はそれよりも広く、深く歴史につながっている。今年に日本語版の発行が
予告されている『イスタンブル』(2003年)という、彼の最新作を心待ちにして
いる。
 10年ばかり前、2週間ばかりトルコに行き、駆け足旅行の中でも、イスタンブ
ルには5日ばかりいた。この街はとても印象深かった。このツアーは買い物など
には案内せず、歴史と文化に徹するというポリシーを持つユーラシア旅行社が組
織したものだった。その翌年には、やはりこの旅行社のツアーでギリシャを回っ
た。

 かつてヨーロッパとは、ギリシャ世界の最東に位置するビザンチンまでを指し
ていた。ボスポラス海峡とマルマラ海をへだてた現在のイスタンブル市ガラタ地
区は“アジア”のはじまりであった。今のトルコは“小アジア”と名付けられて
いた。ヨーロッパ中心の地理感覚から、イランなどは中東、中国、日本は極東と
呼ばれることになった。そもそもアジアとは、所詮、ユーラシア大陸の非ヨーロ
ッパ世界の総称で、一定の共通性に結ばれた地理的区分ではなかった。
 日本人、特に日本の知識人は、昔は中国人の目を通じてモンゴルや他の世界を
みていたように、近代においては西欧的知識と教養を通じて、非ヨーロッパ世界
を軽くみてきた。

 私の場合も、どっぷりとヨーロッパ的な見方につかってきた。まずキリスト教
とその周辺の諸思想を通じて、次いで社会主義思想を通じて世界や歴史をみてき
たのであった。意識するとせざるとにかかわらず、私の世界観と精神世界はこの
ヨーロッパに起源を持つものの見方に支配されてきたように思う。
 今になって気づくのは、キリスト教とマルクス主義、キリスト教とイスラム教
という、一見、鋭く対立し、絶対に相容れないとみられている思想と信仰が共通
する核を持っていることだ。
 それは「真理は一つ」という一元的世界観である。自分の信仰なり、信念や思
想が唯一の真理に立脚していると考えるならば、他の原理を全的に否定する立場
を容易にとることになる。
 「真理は一つ」という絶対主義的な観念と、多元的な立場を容認しなければ成
立し難い民主々義、そして社会民主々義とどのような調和ないし共存がありうる
のだろうか。自らを全的に否定する他者を容認することは“寛容”と“赦し”だ
けなのだろうか。
 オルハン・パムクに刺激されて、新年の想いは、久しく離れていた抽象と哲学
的な世界にいざなわれることになってしまった。


(2)


 トルコには旅行者の眼でしか接していなかったが、複合的な魅力を持つ国とし
て印象に強く残っている。地中海沿岸部はギリシャ・ローマ世界の歴史を色濃く
残しているし、内陸部のアナトリアやカッパドキアに行くと中央アジアの様相を
呈する。住んでいる人達もアジア系の顔つきを持つもの、金髪碧眼で西欧人と区
別がつかないもの、アラブ人らしい相貌など、まことに雑多である。宗教的にみ
るとオスマントルコの進出によって回教国となったが、アタチュルクの軍事力を
背景とした近代革命によって、国家と宗教は分離された。回教色の強い政党が現
在は政権を握っているにもかかわらず、この原則はこれまでのところ維持されて
きた。

 近代的民主々義の原則の一つは政教分離である。しかし、政教分離それ自体は
民主々義の保障ではなく、トルコも王制を廃止して近代国家になってからも、独
裁下にあった期間が長い。トルコの政教分離を支えてきたのは軍部である。この
軍部が未熟な政党にとって代わり、政権を再三掌握してきた。それは、クーデタ
という非民主的手段を通じてである。政教分離という近代国家のファサードが軍
によって守られているところが、トルコのジレンマであろう。
 現在のトルコを形成している地方には、初期キリスト教が広く根を張っていた
し、中世では、ビザンチウム(イスタンブル)が一千年にわたって東方教会の拠
点であった。この頃、ヴェネチアは東方と西欧を結ぶ交易国として大きな勢力を
地中海で持っていた。ルネッサンスによってフィレンツェなど中部イタリアの諸
都市が興隆するまでは、ヴェネチアこそが最も富裕な都市国家であった。それは、
歴史的に長期間にわたり先進地域であった地中海東方世界の富を背景としていた
からである。

 地中海は歴史的には諸民族の共同の海で、その沿岸では国家の歴史は比較的浅
い。近代になるまで国境は確立されたものでなく、きわめて流動的であった。
 トルコ地方は、オスマントルコが支配権を確立する16世紀までは、「ノーマン
ズ・ランド」(主なき地)であったといえよう。紀元前にアレキサンダーがマケド
ニアから出て、この地方を席巻した時代、この地域の大半がペルシャの支配下に
あった。ギリシャが繁栄した時代には、沿岸部は圧倒的にヘレニズムの影響を受
けていたが、内陸部はアジア系騎馬民族が力を持っていた。「南船北馬」的な様相
がここでもあった。
 オスマントルコが16世紀から力をのばすと東はエジプトに至るアラブ世界を
支配し、西はヨーロッパを侵略してブルガリア、ルーマニア、アルバニア、ギリ
シャをはじめ、旧ユーゴスラビアの大半に勢力を拡大した。第一次世界大戦頃に
は「病める巨人」といわれたものの、トルコはまぎれもない帝国であった。すべて
の帝国は多文化的多人種的にならざるをえないが、トルコもその例にもれなかっ
た。

 このトルコは、EU加盟を指向しているものの、その道はますます険しくなっ
ている。その社会的状況や国民の意識からみて、EU加盟が強いアピールを持っ
ているとは思えない。潜在的にはキリスト世界とイスラム社会が同居できるかと
いう問題があるとの見方が強いが、しかし今日の西欧社会は、すでに内部に定住
した移民によるイスラム社会を抱え込んでいる。
 EU側がトルコにつきつけている主たる問題は、少数民族であるクルド族にた
いする抑圧と、人権および民主的な法の支配に関連している。クルド民族はトル
コだけではなく、イラクとイラン等の地続きの一帯に約4000万人が居住してお
り、それらの国すべてで少数民族として存在している。クルドは自らの国家を持
たない世界最大の民族である。近代的国際政治の原則の一つ、民族の自決はこの
民族に関する限り適用されてこなかった。

 もう一つの人権問題は、クルド問題とも密接に関連している。トルコの人権と
結社の自由問題が、私がILOに深く関係していた70年代から80年代に国際的に大き
くとりあげられていた。しかも、現在は民政移行と民主々義の回復は改善された
ものの、まだ根強く残っている。
 私がクルド人問題に目を開かれ、関心を寄せる大きな契機となったのは、トル
コ出身のクルド人監督ギュネィの映画だった。彼の代表作「道」から強い感銘を受
けた。もう一度ぜひ見たいと思いながらその機会がない。国外に亡命を余儀なく
された時に作られ、国際的に大きな評価を受けた点で、この作品は台湾の監督、
候孝賢の「非情都市」と共通性がある。


(3)


 ここまで書いて、あとをどうつないでいこうかと思案しているうちに、前から
予定していた韓国行きの日が来てしまった。帰国した直後なので、別の方向に書
き進むことにしてしまった。
 1月22日にソウル下町のホテルに現地集合したのは、私が勝手に名付けて提
唱した「安東自由大学準備会」に参加することになった7人のサムライ達であっ
た。この自由大学構想なるものはやや発作的な思いつきで、また何ら中身はなか
った。しかし、それは「面白い」と6名の仲間が同行してくれることになったの
だから「ひょうたん」から駒を出すような成行となったしまった。

 同行者を年の順に紹介すると、まず私と同年輩の小島正剛。彼は大学卒業後す
ぐに国際金属労連(IMF)に入り、その東アジア事務所長を定年退職した後は、
同国際労連書記長アドバイザーとして非常勤ながら今でも東奔西走している。政
労使の国際関係担当者仲間に同年代者が多いことから生まれた「イノシシ会」を
共に創立するなど、彼とは同業者としての長いつきあいで、波長も良くあう。
 元全電通労組国際部出身の大西正一はわれわれ世代の仲間には珍しく、新技術、
新製品に強く、また韓国語も含め、多言語をかじっている多能者。最近では労働
ペンクラブの世話役としても活躍している。旅行中はみんなに「ジョンイル」と
呼ばれることになってしまったが、彼には独裁者的素質は皆無であって、サービ
ス精神にあふれている。
 中嶋滋は早稲田大学在学中に全共闘新左翼のリーダーとして活躍していたが、
自治労本部書記局に入り、持前の政治的センスの良さと行動力で頭角を現した。
私とは一世代違うのだが、早くから注目していた。自治労国際局長、連合国際局
長を経て、今はILO労働側理事となっている。
山中正和についてはこの回想記に前回に書いたので紹介は省くが、体調の良く
ないのをおして参加した。常に冷静に物事を見て、具体的な処理を考える能力を
もっている。
 姫路から参加した大西龍一は姫路市職員で、唯一人の現役公務員だ。私が大学
に行った初年から、当時の須田勇学長より国際センター長に任命されてしまった。
そこで思いついた活動の一つが、市職員組合委員長だった石飛猛(現在は美作大
学教員)と相談して始めた「地方からの国際化研究会」だった。中心は市役所の
中堅職員だった。これは私がセンター長をやめてからもかなり長く続いた。しま
いにはおりおりの飲み会となってしまったが、姫路での私の活動にとって貴重な
ネットワークであった。大西龍一はこの最年少メンバーだった。旅行中は彼は
「ヨン様」と呼ばれた。

 最後は、紅一点の藤沢初江だ。この人がいないと、新しい企画はたてられない。
大西龍一を除く全員に共通していることは、ソーシャル・アジア研究会のメンバ
ーという点だ。
 ソウルで合流したのが、権重東と梁世勲という、畑は違うが、二人の親しい韓
国の仲間。
 権さんは韓国ILO協会会長で、75才になるのに矍鑠としている。梁さんは外
交官として、神戸総領事、ノルウェイ大使を務めた人だが、今は著作と旅行でゆ
うゆうたる人生を送っている。彼はスケールの大きなマルチ人間で、抜群のコミ
ュニケーターとして出色の人である。
 権さんは年とともに大人の風格と古武士的品格にますますみがきがかかってき
た。この人は私が労働組合に入ってはじめて会った韓国人で、当時、総評や社会
党から白い目でみられていた独裁下の韓国労働組合運動と密接に付き合う契機を
与えてくれた人だ。若くして韓国逓信労組委員長となり、その後アップダウンの
はげしい人生を歩んできた権さんは、友人というよりも先輩というべきであろう。
何をいっても「まかしてください」の一言で片付けられてしまう。

 ソウルから高速路線バスで、慶尚北道安東市まで約3時間。途中のサービスエ
リアで5分程度のトイレ休憩があるだけの直行。大型バスは縦3列のゆったりと
した座席で、すべて指定席。しかも、料金はウォン高にもかかわらず、2000円弱
と安い。韓国の物価は次第に日本水準に接近しているが、公共の料金がまだ格段
に安い。賃金は上昇しているので、これで維持できるかと心配になる。
安東に着くと市役所からの出迎えがあり、市のミニバスが待機していた。この
ミニバスを3泊4日の滞在中に市から提供されたのが有難かった。日本人として
始めて韓国の地方公務員に採用された緒方恵子の姿も出迎えの人達の中にあった。
 昨年10月、この緒方さんが毎日新聞の「ひと」欄にとりあげられて紹介された
ことが、この訪問を思いついた直接の契機だった。もちろん、安東が権大人の故
郷であり、盟友だった朴栄基西江大学教授(故人)とかつて一緒にその地を訪れ
たことがなければ、それなりに読み過ごす記事であったろう。

 市役所を訪問すると、市長室に通され、金暉東市長の歓迎を受けた。市長自ら
が市紹介の熱弁をふるって、歴史と伝統はあるが、産業の乏しい安東市を文化と
ツーリズムの中心地にしようとしていることを力説された。この人はもとは内務
官僚出身だが、すでに公選市長を三期、大衆的政治家となっている、安東高校で
権さんの後輩とのことで「先輩」とか「長官」(権さんはかつて労働長官)と権
さんにしきりに気をつかっていた。権さんは安東中学校が戦後安東高校になった
時の初代卒業生で、同窓会長を長くつとめてきただけに、まことに顔が広い。ど
こに行っても「先輩」とか「長官」と声がかかった。この権さんと一緒の訪問だ
ったために、われわれ一同も権一族の人たちから毎食招待されることになったの
には、ただ参ってしまった。権一族は安東きっての名家であるが、わが権さんは
その分家の末流にすぎない。しかし彼は幼少より秀才の誉れが高く、ソウル大卒
エリートコースを行く人として郷党の期待を一身に担っていたのであろう。

 次の夜は市長の招宴で、有名な安東牛肉をご馳走になった。それだけならよい
のだが、例のバクダン酒を飲まざるをえない状況に陥った。
 バクダン酒にはウィスキーを通常用いるが、これはバイオで作った有名な安東
焼酎(これも韓国随一と自慢されている)だから、それとは違うとのこと。しか
し、飲む側からすればこの差は、白猫と黒猫の相違というたぐいのものだ。バク
ダン酒なるものは、グラスになみなみ注いだ強い酒(40度)をそのまま大きいジ
ョッキの中に入れ、それにビールを注いで満杯にしたものだ。それを乾杯のかけ
声とともに一気飲みする。飲んだ人がすぐに倒れるからバクダン酒と命名された。

 過去の韓国訪問時には、この危険を注意深く回避してきた。まず二次会は、は
じめから固辞して絶対に行かなかった。宴会においては、若い頃は、飲めないと
いう口実を使って最初から酒に口をつけない逃げの一手だった。そのうちに、韓
国でも飲み方が次第に近代化し、若い世代では献杯の応酬もすたれてきたので助
かったし、近頃では、権さんのようにかつての酒豪達はみなドクターストップを
かけられて自重しているので、安心して韓国に行けると思っていた。

 市長が自らバクダン酒を作り、自分もそれを手にしたままで、次に目の前の主
賓に一杯をすすめる。その席に座ってしまったものとしては、もはや絶体絶命、
意を決して空にするほかない。盃洗係を事前に依頼していた「ヨン様」は遠く末
席のほうに座っている。生まれてはじめてのバクダン酒の一気のみに、周辺の仲
間が驚いて心配してくれた。すぐに、その両側にあるグラスの水を数杯も飲んで
うすめた。緊張していた故もあって、それほどのダメージは受けなかった。受け
たのかもしれないが、本当に「記憶にございません」
 次々にバクダン酒が消化されている。節酒中の権元長官殿も三杯まで飲んだの
は覚えていると翌朝言っていた。あとは無礼講。
 救われたのは、その夜の宿が車で1時間以上もかかる山中にある知礼芸術村だ
ったことだ。早く招宴を終了してもらう、正当な理由があった。安東は韓国で一
番面積が大きい市で、ソウルの1.5倍もある。中心から1時間以上走っても市を
通り抜けるのは困難。
 安東に行ったら多くまだ残っている「古い民家に滞在したい」という希望を権さ
んに事前に伝えてあった。この希望が増幅されて、3泊とも、両班旧家の文化財
的家屋に泊まることになってしまった。

 安東は「科挙」によく似た高級官吏(両班)選抜制で最も多くの合格者を出した
ところとして名高いが、その中心は、金と権の二大一族が突出した位置を占めて
いた。そのほかに文禄の役(秀吉による二度の朝鮮侵略)当時に総理大臣として
評価の高い柳成龍を出した柳一族がある。両班の一族は街より離れたところに本
貫を構えているので、それぞれの村は都市化されず、かなり良く残され、独自性
を維持してきた。

 その中でも柳一族の村は河回と呼ばれる、埼玉県高麗の巾着田のような地形、
つまり川がUターンしたために凸出したところに形成されている。この村全体が
文化財として指定され、観光名所となっている。その柳本家に最初の夜は泊めて
もらった。見事な木造りの旧家で、一般的には客を泊めていないという。しかし、
客間は狭く、3、4人ずつの相部屋だった。オンドルによって部屋は温かく、私
は快眠できた。しかし、難点はトイレが家屋の外にあることだ。それをあらかじ
め予想していたので、東急ハンズで使い捨てトイレを買っていった。だが、権さ
んにそれを見つかって大笑いされ、あげくのはては家にもって帰って奥さんにみ
せるからと、とりあげられたので使用不能。

 二泊目の知礼芸術村も旧両班家屋を移築したものだったし、三泊目の安東文化
村では金氏の旧本宅を移築したところに泊った。条件は似たり寄ったりであった
が、田舎の旧家で育った私でも不便だと思うバリアーだらけ(階段が多く、高い
ためエリザベス女王訪問時には特別な補助階段を設けたという)。しかし、百戦錬
磨の旅行者であるわが仲間だけに、多少の不満はあっても反乱はおきなかった。
むしろ、異なる環境を一行は楽しんでいたが、3泊が限界だったろう。

 李朝時代に学問の都といわれた安東には、約50の書院(学校)があった。今
も、いくつかの代表的な書院が大事に保存されている。その中でも最も有名なの
は、李退渓の陶山書院で、ここから柳成龍をはじめ名だたる俊秀が排出した。李
退渓は朱子学を確立、発展させた人で、江戸時代の日本の知識人に大きな影響を
与えているのだが、今の日本では無視ないし過小評価されてきた。韓国の知識人
で彼を知らない人はいないが、10年ほど前に安東に初めて行くまで、私は不覚に
も名前すら聞いたことがなかった。
 権さんの安東中学同級生で、朝鮮戦争時代に日本に密入国し、後に法政大学教
授となった尹学準によると、「歴史まみれの韓国」だが、他の韓国人にいわせると
「歴史まみれの典型は安東」ということになる。韓国で80年代に歴史最大のベス
トセラーとなった『太白山脈』全10巻の日本語訳を監訳した尹学準には、ほか
にも著訳書が多い。残念ながら、数年前に彼は急逝した。

 安東大学安東文化研究所『安東歴史文化紀行』(韓国国学振興院、2003年)は、
その冒頭で、安東の歴史と文化を次のように要約している。
 「古代には三国文化に接する境界の接境でありながら緩衝地で、統一新羅時代
には華厳宗の前進基地だった。安東は高麗王室の支持勢力でもあった。また、紅
巾賊の侵入時に恭愍王が安東に避難したことにより中央の文化が流入されたとこ
ろであり、朝鮮時代には嶺南学派の中心地でもあった。
 なお、日本の植民統治期間の著しい抗争と社会主義運動もこのような精神的土
台の上で行われたものである」
 安東からは支配層となる両班知識人だけではなく、抗日や社会主義運動の先覚
者が出ている。われわれは、権氏の村の前にある社会主義烈士の記念碑にも行っ
た。

 最後の一夜、安東文化院金俊植院長と彼の旧宅で歴史談義を行った。私がE.H.
カーの歴史論にふれると、「過去と現在の対話ですね」と打てば響く返事があった。
「過去と未来の対話」こそが今一番の課題だということに、私達の結論は落ち着
いた。
 国家中心的歴史観から脱却した、東アジア地域社会共通の歴史認識なしには、
東アジア共同体も存在しないだろう。私達の「安東自由大学」は、そのような方
向を目指す小さなローカル・イニシアティブのささやかな実験であり、まだその
入り口がみえてきただけだ。
 今年8月下旬に、短期間滞在による体験的第一回「安東自由大学」を計画中な
ので、年齢を問わず参加を歓迎する。

              (筆者は姫路獨協大学名誉教授)

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