■海外論潮短評(9)

-「グローバルな企業市民」-政府や市民社会と共に活動する

                              初岡 昌一郎
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  アメリカの国際問題専門誌として定評のある隔月刊誌『フォーリン・アフェア
ーズ』2008年1/2月号に、表題の論文が掲載されている。これは、ダボス会議
として知られる「世界経済フォーラム」開催責任者のクラウス・シュワッブが筆
者である。このフォーラムは、1971年以降、スイスのスキーリゾート地として
有名なダボスで開催されてきた。

世界経済フォーラムは、企業が株主の利益を越えた、広い責任を社会にたいし
て負っていることを議論するために、経済界のリーダー達の議論の場として出発
した。この議論の中から、ステークホールダーという概念が広まっていった。そ
れは、企業の利害関係者(ステークホールダー)は、単に経営者、株主と従業員
などの構成員を指すだけではなく、消費者、市民社会全体を含んでおり、さらに
は環境や資源の保全などにいたるまでの広い利害関係を認識して行動すべきだ
という考え方である。そこから、企業の社会的責任(CSR)という、現在広く受
容されている思想が生まれてきた。
  企業の社会的責任が拡がるにつれて、それにたいする過大な期待や批判も強ま
っている。ダボス会議責任者として、あらためてその意義を論じたのが本稿であ
る。その要旨を以下に紹介する。


◇企業の社会的責任論


  僅か10年前に較べ、企業が一般的に社会的責任を語るようになっており、良
き企業市民であることの重要性が広く受け入れられている。このような拡張され
た任務に対応する多様な活動が、「企業の社会的責任」という、キャッチオール
(すべてを捕捉する)表現が広く用いられている。この指すものには、適切な企
業統治構造、職場の安全基準順守、環境的に持続可能な企業活動、社会貢献など
が包含されている。
  このように多様な責任を「企業の社会的責任(CSR)」という言葉で一括する
ことは行き過ぎた単純化であり、大いなる混乱につながる。異なるタイプの企業
活動を区別することが必要であり、それによって社会的に正当に認められ、評価
されている活動に企業が従事するべきである。行うべき活動をより良く理解する
ためには、企業統治(コーポレート・ガバナンス)、企業の社会貢献(コーポレー
ト・フィランソロピー)、企業の社会的責任について、個別的に区分して定義す
る必要がある。新しく登場してきた「社会的企業性」(社会的責任の原則とアイ
デアを商業的価値に転化させること)についても同様なことがいえる。

  企業にとっての新しい至上義務は「グローバルな企業市民」であることを認識
しなければならない。企業がステークホールダーと共に活動するだけではなく、
政府や市民社会と共に企業自体がステークホールダーとなっている。国際的な経
済界リーダー達は持続的に可能な発展を全面的に実行すべきであり、気候変動、
市民全体へのヘルスケアの提供、エネルギー保全と水をはじめとする資源管理な
ど、グローバルな規模の巨大なチャレンジに取り組まねばならない。
  これらのグローバルな問題はビジネスにますますインパクトを与えており、そ
れらを無視することは企業の存在自体を脅かす。グローバルな市民となることは、
開明的な企業自体にとっての利益になる。


◇縮小する国家の肩代り


  今日、企業が社会参加することはいくつかの要因からみて不可避的な結果であ
る。第一が、国家の役割が減少していることだ。近代初期のヨーロッパでは、人々
にたいする教会の力が国家の登場によって弱体化したが、現代では企業の拡大に
よって国家が弱体化している。現代世界において、国家が単独ですべての事を行
うことはできなくなっている。軍事力でさえ、ほとんどの国で民間産業に依存し
ている。
  技術革新によるグローバリゼーションの加速化が、国家の影響力を弱めた最も
重要な要因である。高速運輸網と情報の迅速なフローが国境を無関係なものとし
ている。
  政治権力の限界がますます明白になっている。グローバルなリーダーシップの
欠如は目を覆うばかりである。既存のグローバルな機関は、第二次大戦後に制定
された時代遅れのルールによって身動きできなくなっている。地方、国内、地域、
国際のあらゆるレベルで公的な統治が弱体化している。最良の指導者であっても、
うまくいかなくなったシステムの中で成功をおさめることはできない。

  国家のパワーが縮小する一方で、企業の影響力の範囲が拡大している。企業は、
労働者の健康、従業員とその子女の教育、退職後の年金などにますます関与して
いる。企業は、国家の存続と地域の安定に不可分なものとなっている。
  グローバルな力関係の根本的なシフトによって、社会と市民は国家に回答と指
導力を求めるにとどまらず、その目を企業に向け、それに助けを求めたり、企業
の悪しき行動に批判を浴びせるようになった。企業の社会参加にはまた、より能
動的な市民社会の登場が背景にあることを理解しなければならない。
  企業のガバナンスは法の順守としてのみ、狭く理解すべきことではない。グロ
ーバルな市場の必要条件と市民の期待に継続的に対応して、その基準と慣行を発
展させるように企業は積極的に関与すべきである。


◇企業の社会参加の意義


  企業による社会貢献が、多くの国で近年発展している。給与からの醵金、商品
の寄付、奉仕活動、投資などを通じて、様々な活動が展開されてきた。
  過去においては、企業の社会的貢献は社会にたいする利益還元とみなされてい
た。今日では、企業の社会的責任が拡大しており、企業活動のより広い経済的環
境的社会的なインパクトに対処することを意味するようになった。
  たとえば、商品やサービスが安全に使用されるために、顧客にたいして必要な
情報、教育および訓練を起業は提供しなければならない。
  グローバルな企業市民は、企業の社会的貢献という概念を超えるものである。
グローバルな企業は、政府や市民社会と協力して、世界の福祉と環境を維持する
ことに貢献する義務を負っている。企業が取り組む責任を負う課題の中には、気
候変動、水不足、伝染性疫病、テロリズムなどがある。その他にも受けて立つべ
き挑戦として、食糧供給、教育、情報技術、貧困、国際犯罪、腐敗、国家の崩壊、
災害救援などがある。

  これらのグローバルな課題に対応する主たる責任は政府と国際機関にあるが、
企業は公的部門や市民団体と共に、企業はそれ相応のパートナーとして貢献でき
る。
  多くの政府はその限界を認識しており、民間とのパートナーシップを熱心に推
進している。その参加しようとするイニシアティブが適切かつ効果的なものであ
るならば、企業は政府や市民団体とのパートナーになるのに躊躇してはならない。
このためには企業のトップが積極的に関与する必要がある。企業は世界的な宣言
やアピールに名を連ねることにではなく、具体的な成果をあげる活動によってそ
の正当性を立証することが求められている。


◇コメント


  筆者の指摘するように企業の役割が拡大しているのは事実である。しかし、こ
れに本来国家が果たすべき役割までも任せるのが主流になってゆくのを当然と
見るかどうかは問題だ。今日の民営化論が、国家の失敗を民間が救い、民間の失
敗を国家が救済するという、従来の経済理論をはるかに越えたところで生まれて
いることが、シュワブ論文を読むだけでよくわかる。

  ダボス会議が日本で知られるようになったのは、政界や財界の指導者が出席し、
その発言を随行記者が新聞、テレビ等で報道するからである。しかし、ここに紹
介したような企業の社会的責任やグローバルな企業市民という、主催者の意図が
紹介されたことはほとんどない。日本の出席者達がこのような観点から討論に参
加した形跡は寡聞にして知らない。
  市場経済の社会性が重視されているヨーロッパ大陸諸国、特に北欧やドイツな
ど中欧の諸国においては、企業の社会的責任について従来から重視されており、
これを当然と受け止める傾向が強い。アメリカでも企業のフィランソロピー(社
会貢献)としては一定の伝統が定着している。
  しかしながら、英米などの企業の自由な活動が重視され、強調されているアン
グロサクソン系諸国においては、企業の社会的責任はあまり定着してはいない。
その流れを踏襲する日本においてはなおさらである。

  おなじみのロンドン『エノコミスト』誌は、本年1月19日号の論説欄で「倫
理資本主義」のタイトルでダボス会議をとりあげ、企業の社会的責任の限界を指
摘している。そして、企業の社会的責任論(CSR)は、せいぜいのところ、功罪
相反しているという。現在では悪いレッテルを貼られることが企業にとって死活
問題なので、企業市民論はPR活動の一種である。企業市民論や企業の社会的責
任論にとって「不都合な真実」は、それが企業に役立つものか、社会に役立つも
のかを立証できないことである。
  確実なことは、企業がグローバルな社会的諸問題を解決するために存在してい
るのではないことだ。したがって、この面での企業の努力を評価するのは吝かで
はないが、それに過大な期待をかけてはならない。まして、政治家や労働組合が、
企業の社会的責任論に寄りかかって自らの責任を企業に転化するようなことに
なることを警戒する必要がある。 また、日本財界が政府の各種審議会に多くの
代表を送り込むことを、社会的責任論でカモフラージュするのはあまりにも虫が
良すぎる。
               (筆者はソーシアル・アジア研究会代表)

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