■ ハンセン病問題などについて             江田 五月

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<編集部>
 今回、超党派議員立法で「ハンセン病問題基本法案」が成立しま
した。これを機会にこの法律成立の背景と 江田さんが、江田三郎・五月と国会
議員二代にわたってハンセン病問題に深くかかわってこられた、ことなどについ
てお話下さい。

●<江田>
 立法をめぐることについては、議長ということもあって立ち入って
なかなかものが言いにくいのですが、ただ背景をいいますと日本はハンセン病に
ついて隔離政策で対処してきたのですが、この強制隔離政策というのは実はまち
がっていて、強制隔離の必要はありませんでした。有名になった熊本地裁の判決
によると、昭和30年代の半ば以降にはもう確実に隔離する必要はないとわかって
いました。本当は昭和20年代に特効薬ができていて、少なくとも遺伝ではないし
、感染力も弱いし、かかっても治るし、というようなことがはっきりしていて、
社会内で処遇することに何の障害もなく、外貌に障害があるだけで病気としては
結核などと何も変わることがないということがわかっていたのに、戦前から続け
ていた隔離政策をそのまま継続しました。 

  「無らい県運動」、県の中にらいの患者は一人いないようにしようという、そ
ういう国民運動をおこして、ハンセン病の患者を探し出して強制的に連行して療
養所にぶちこんだ。また家族の中にハンセン病の患者が出たら、その家族全体が
村八分になるという状態で、ハンセン病の患者は、病気もさることながら社会的
にも大変な苦痛を味わされてきました。そういう歴史があって、偏見が本当に深
く植え付けられている状態が続いてきました。
  平成8年、菅直人厚生大臣の時に「らい予防法廃止法」をつくって廃止をしま
した。
平成13年には熊本地裁で、ここまで旧法を放置していた立法不作為は違憲だとい
う画期的な判決が出て、小泉首相が控訴を断念し、「ハンセン病補償法」をつく
りました。

  その後、地裁の判決が確定したことを受けてつくった協議会で、被害者の救済
と偏見の除去のためにいろいろな手立てをしているのですが、判決確定の時に国
は、療養所にいる元患者のみなさんに、最後の一人までめんどうをみるという約
束をした。約束はしたが現実にどうするのか。今、患者の平均年齢が79・5歳
になり、だんだん療養所にいる患者の数が減っている。最後の一人までと言って
も現実に、職員や、医師・看護士を置き、目が見えなくなった人もいる、寝たき
りになった人もいる、いろんな人がいる、それを面倒をみるといっても大変です
。偏見を完全になくすためにも、元患者の皆さんの面倒を最後までちゃんと国が
見るためにも、ハンセン病療養所を社会に開放しなくてはいけないのです。

隔離政策はやめましたが、現実にはハンセン病療養所の内と外というのがあり
ます。内はハンセン病元患者の皆さんが住んでいて、医療措置などがずっとある
。そこと外とは、完全に隔離している。行き来はできます。できますが、意識の
上で、感情の面で、大きな壁がある。それを取り払ってハンセン病療養所という
ものを社会に開放し、そこを医療施設としてそのまま残し、その施設は地域社会
の医療施設にして、近隣の住民も使えるようにする。あるいは療養所でなくて別
のいろんな施設にするなどして、療養所を開放していかなくてはなりません。

  「らい予防法廃止法」をつくった時に、最後の一人まで面倒を見るという約束
のもとで、今まであったハンセン病療養所をそのままハンセン病の元患者の皆さ
んの施設として残しました。療養所の存在理由をこのように決定するとどうした
って、内と外という区別ができてしまう。元療養所の皆さんの施設であり、外部
の者は利用できない。これを変えて、その利用形態は完全に開放するというよう
にしなければいけないが、厚生労働省は、それはできないと言います。厚生労働
省はあくまでも法律のもとで療養所を運営していて、法律でしばられているから
開放はできないと言う。私はそんなことはないと思うのですが、法律をたてにそ
う言われる以上、立法的手立てをしなくてはならない。ハンセン病療養所を社会
に開放し、そしてハンセン病に対する社会の差別偏見を完全になくすための基本
方針を立法で打ちたてましょうと。そういう背景・経緯で「ハンセン病問題基本
法」が出来たのです。

<編集部>
  「ハンセン病問題基本法」の背景は良くわかりましたが、江田さんのかかわり
についても、お話ください。

●<江田>
  ハンセン病関係の議員の集まりは二つあります。
昭和20年代に予防法闘争がありました。政府は当時、昔からあった「らい予防法
」を変えるけれども、昔から続いていた強制隔離政策はそのまま存続させようと
しました。たしか文化勲章をもらった光田健輔さんなどが、ハンセン病の実態は
わかっているのに、やはり隔離は必要だということを強硬に主張してこの「らい
予防法」をつくり、それに反対する患者のみなさんを中心とした大闘争があった
。今でも憶えていますが、当時社会党の藤原道子さんなどが参議院厚生委員会の
中心になって闘われ、私の父や、岡山で言えば秋山長造さんなど、全国の関係議
員さんが、らい予防法反対闘争の先頭にたって頑張ったが、「らい予防法」はで
きてしまった。

しかし、療養所の中にいる皆さんの大変な、悲惨な運命、過酷な人生、これを
支援していこうということで、療養所がある選挙区の議員の皆さんに集まって貰
い、「ハンセン病対策議員懇談会」をつくりました。はじめて出来たのは、昭和
20年代でしょう。「議懇」と言って、ずっと続いていて今もあります。今から30
年ほど前、私が議員に当選した時には、どちらかというと与党の議員は格好だけ
で、野党が中心になって運営していて、社会党の山口鶴男さんが事務局長でした
。しばらくしてから私は、事務局次長という役をいただきました。この「議懇」
はどちらかというと療養所の予算の獲得、人員の獲保ということをずっとやっ
てきました。今は自民党の津島雄二さんが会長です。これが一つ。

  もう一つは、熊本地裁判決の直前に、一般的に予算を獲得しましょうという話
ではなく、闘争をやっている皆さんを具体的に支援しようと「ハンセン病問題の
最終解決を進める国会議員懇談会」というのをつくりました。僕が会長になり、
運良く与党の皆さんにも入って貰いました。政府を支えている与党が、政府を相
手に訴訟をやっている連中の運動を応援するというのだから、可笑しいと言えば
可笑しいけれど、まぁそんなものは乗り越えて応援しなければいかんというので
、野中広務さんなどにも入って貰いやってきました。参議院の議長になり、会長
を続けるというわけにはいかず顧問にしていただいたもので、今は民主党の藤井
裕久さんが会長です。この二つの議員懇談会が、基本法をつくろうということで
合意し成立したのです。

  <編集部>
 長い「ハンセン病」とのかかわりの中で 江田さんの個人的な思
い出などございますか。

●<江田>
  ハンセン病の皆さんがどんな悲劇にあわれたかというのは、いろいろな書物が
ありますし、東京だったら多磨全生園の資料館などへ行っていただければ、もう
一目瞭然です。
  父のことで記憶しているのは、小学校高学年か中学に入った頃くらいに、父に
連れられて療養所へ行ったことです。岡山県に長島という島があり、その中に歴
史的な経過が違って邑久光明園と長島愛生園の二つの園があるのです。その長島
愛生園の方に父が行くというのでついて行きました。当時は予防法ができた直後
で、外から来た者はここから入っちゃいかん。患者はそこから向こうで、その線
を越えてこっちへ来ちゃいかん。ということで入れられます。入った訪問者は、
白衣を着てクレゾール石鹸で手を洗って中に入らなければいけないというのを私
の父は、「そんなものはいらん!そんな白衣なんかいらん!」と言って、どんど
ん線を越えて患者の中へ入って行く。つまり当時から、いわゆる権威ある医者は
だめだと言うけれども、現実の医学の客観的知識として、これは危険な病気じゃ
ない。感染力も弱く、母子濃厚接触感染、つまりお母さんが日々子供を抱いてお
っぱいを飲ませるというような濃い接触でなければ感染しない病気だということ
を、父はわかっていたのだと思います。

<編集部> それは何年頃ですか?

●<江田>
 昭和30年前後くらいでしょう。それで私も目をぱちくりしながら子
供心になるほどと思って一緒についていったのですが、後に資料を見るとそれが
ちょうど大闘争の直後くらいでした。
  当時は、断種というのをやっていて男は精管を切るわけです。それをどうする
のと言ったら、保存しておいて、時代が変わって特効薬なんかができたらまたつ
なぐのだと。そんなことができるのかどうかわからないけれど、そんなことをや
っていた時代です。断種もあるし、堕胎もあるし、それよりさらに堕胎どころじ
ゃなく、後でこれも記録を見れば訴訟の中で明らかになるのですが、子供が生ま
れるとお母さんにしばらく泣き声を聞かせて、もういいだろうと言い、そのうち
声が聞こえなくなる。何をしたかというと、赤ちゃんの顔に濡れたガーゼをぱっ
とかけて窒息させている。それを今度ホルマリンづけにして標本でずっととって
いる。当然、これでは誰の子かわからなくなります。何のためにとっているのだ
と言ったら、医学的な標本だって言いますが、医学的にどう活用するかもわから
ないし、現に活用されないまま今までずっと残っています。胎児だけでなく、お
そらく嬰児殺しの子供の標本までが、今日まで残っていたわけです。

  そういう悲惨な歴史のなかで強制的に連れてくる時は、さわっちゃいけない人
間を強制的に連れて行くのですから、どんなことをして連れて行ったか大体想像
できます。逃げ出そうとしたら、独房に入れて逃がさないようにする。岡山の島
の場合は、一番近いところで、おそらく40~50メートルくらいしか離れてい
ません。けれども島ですから、そこへ隠してしまう。どのくらいの偏見があった
かというと、その島から、船に乗って本土に渡って、うどん屋に入ってうどんを
食べたらそのうどん屋はもう客がよりつかないとか、どこかへ泊まろうと思って
も泊めてもらえない。それどころか、あの島の周辺へ行って漁をしてはいけない
、あそこで捕れたカレイは危ない、そういうむちゃくちゃな偏見があったわけで
す。

  今から20年以上前、人間解放のあかしだというので長島に橋をつくろうとした
ら、これが大変難しかった。橋は建設省の所管だが、建設省は、そんな経済的効
果がまるでない橋なんかつくる予算はないと言う。じゃあ厚生省はどうかと言っ
たら、厚生省は、橋なんて自分のところの所管じゃないと言う。橋をつくること
の必要性はみな正面きってノーということはできない。しかし、どうやっても橋
ができない。これを園田直さんが厚生大臣の時に、橋をつくると約束し、その後
、「園田直は男だ」と居直って、橋をつくらせました。
その人間解放の橋が今年20年を迎えるのですが、建設より5年くらい前でしょう
か、私は本会議でこの橋の質問をしました。私は、今は参議院の3期目ですけど
、1期目は小さな政党でしたから、本会議の質問は6年間で1回だけ、10分間しか
ありませんでした。その10分間の質問の中に橋をつくろうというのを入れ、橋が
できるようになった。そんな時代を経て今日に至っています。

<編集部>
 最後に、ハンセン病問題の本質やこれからの課題ということについ
て江田さんはどのようにお考えですか。

●<江田>
 今はもうハンセン病と言うのは差別と偏見の典型みたいなものだと
いうのは、皆が頭ではわかっていますが現実はなかなか難しいのです。
  外から見て、手がゆがんだり鼻がもげたり、そりゃあ、おせいじにも美しいと
は言えないです。だけど考えてみたらそんなの別にハンセン病でなくても交通事
故の被害者だって火傷の痕だっていっぱいあるわけです。

おためごかしのハンセン病への同情をかけるような政策っていうのがあって、
例えば、胎児や体の一部を切り取った標本がありますが、これを誰の胎児かとい
うのを探し出して古傷をえぐりだすと、それは逆に彼女たちに可哀想だから全部
まとめて、こっそりと慰霊をしてしまおうということを厚生労働省になってから
やりかけたことがあります。もっとひどいのは全部まとめて焼いて、それをコン
クリートの中に混ぜ込んで全部一緒にした慰霊碑をつくろうなんていうのは感情
がこもってないというか、そんなことをされて嬉しいわけがない。極力、誰の胎
児かわかる限りは探す努力をして、それぞれにその人の想いというのを聞いて、
納得いくような弔い方をしなくてはいけないのだろうと思います。

  差別や偏見をうけている当事者の話を一番よく聞いて、当事者の気持ちを一番
大事にしなければいけないのですが、どうもこれまで国というのはそうではなく
て、霞ヶ関でお役人が、こうするのが一番いいのだ、あなた方はいろいろ言うけ
れどもこれが一番いいのだと言って押し付けるところがある。そこをいっぺん考
え直さなければいけない。堕胎の問題なんかは、厚生労働省はそんなつもりはな
いと言うかもしれませんが、少なくとも元患者の皆さんはそういうふうに思った
時期がある。国は自分がやったことを悪いとはなかなか言いにくいので、国がつ
くった資料館の中に書いてあるものが、どうもいまいち患者の気持ちにぴたっと
こないものがあります。やっぱり、そこはまちがった。悪かったということは、
はっきりさせる。そういう展示内容に変えていくということも必要です。

  私としても、なるべく多くの療養所に行きたいのですが、元々が隔離施設だか
ら、ひょいと行けばすぐ行けるようなところにはないのです。岡山でもそういう
島にしかないし、近所だと香川に大島青松園というのがありますが、そこもまだ
行けていません。去年議長になってから熊本で育樹祭があったので、その時に熊
本の菊池恵楓園に行ったり、その前に沖縄の本島の療養所に行ったりしました。
この6月には沖縄の戦没者追悼式に参議院議長として行くので、その機会に日本
で一番南の療養所(宮古南静園)が宮古にあるので行ってきたいと思っています

  療養所を基本法で社会にオープンにするのはいいのですが、開放した後、実際
どうするか。たとえば地域の国立医療施設にするとしても、周辺の人口があまり
にも少なく、その地域の医療施設は過剰になっていないか。そのような場合は記
念の資料館をつくるとか、あるいは素晴らしい観光の施設にするとかなど検討し
なくてはならない。
  ハンセン病というのは、日本ではもうほぼ終息にむかっているけれども、世界
中をみたらまだまだ猖獗を極めている地域というのが東南アジアにしてもあるの
だから、そういったところに医療の提供のための特別な研究施設として療養所を
残していくとか。そういう将来構想というのがこれからの課題になってきます。

  ハンセン病問題も被差別部落の問題も、みんなが忘れてしまえば解決つくかと
いうと、そうではなく、差別の構造というのは、人間社会の中に繰り返しでてく
る。その差別をなくそうと思ったら個別の差別事象を、一個一個もそうだけれど
、グループとしての差別の構造なんかをちゃんと意識して、きっちり対策をたて
て、人間の心の中からそういう差別の構造をとりのぞいていく努力をしなければ
いけない。未解放部落だって、政治のグループの中にはもうあんなものは取り上
げないほうがいいのだと言う人もいるけれど、そうじゃない。そういう差別をあ
る種愉快に思うような気持ちというのがどこかに残っていると必ずまたおきる。
例えば子供の学校の中での差別にしたってずっとおきている。やっぱりハンセン
病のことでも、忘れるのではなく、こういう歴史があった、それはこういうまち
がいで、こういうところに起因しているのだということをえぐりだして後世に残
していく必要があるんだろうと思います。

<編集部>
  参議院議長として国会のお忙しい中、長時間有難うございました。
(なお、このインタービューの文責一切は「オルタ」編集部加藤宣幸にあります。)

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