【海峡両岸論】

「一帯一路」が拓く関係改善の道~習訪日に向け日中ともに本腰

岡田 充
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 足踏み状態が続いてきた日中関係に、ようやく改善への展望が見え始めてきた。その転機は、中国のユーラシア経済圏構想「一帯一路」に安倍政権が初めて積極姿勢を見せたこと。両国政府とも、習近平国家主席の来年の初来日実現をターゲットに本腰を入れており、改善が軌道に乗れば、停滞が続く日中経済関係にも弾みが付くだろう。

◆◆ 改善は内政の利益に

 ドイツ・ハンブルクでの20カ国・地域(G20)首脳会合に合わせ、7月8日開かれた日中首脳会談。中国側の宿舎となったホテルで、カメラを前に握手する安倍晋三首相と習近平国家主席のバックには、日本と中国の大きな国旗(写真1)。昨年9月の杭州G20では、国旗がカメラに映らぬよう演出されたのとは一変した。中国側も改善に本腰を入れている姿勢の表れである。会談のテーマは、北朝鮮の大陸間弾道ミサイル実験をはじめ東シナ海、台湾、歴史問題と懸案が並んだが、最大の焦点は関係改善だった。

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  (写真1 日中首脳会談/ANNニュースから)

 日本外務省のブリーフによると、安部は「一帯一路」について「国際社会共通の考え方を十分取り入れ、地域と世界の繁栄に前向きに貢献していくことを期待している」と評価、「条件付きで協力する姿勢」(外務省発表)を明らかにした。新華社通信は安倍の協力発言を速報した。「一帯一路」を北京がいかに重視しているかが分かる。ただ新華社は、安部が「一帯一路の枠組み下の協力を検討したと発言」と伝え、日本側が強調したい「条件付き」については触れなかった。

 関係改善について両首脳は「首脳間対話を強化し関係改善を進めるほか、国際会議の機会や将来的な2国間訪問を念頭に対話を進める方針で一致した。1972年の日中共同声明など過去の合意を基礎に、関係改善を進めることを確認した」(外務省ブリーフ)。一方、新華社は習が「今年は中日国交正常化45周年、来年は中日平和友好条約締結40周年にあたる。双方は責任感と使命感を強め、歴史を鑑とし未来に向かう精神にのっとり、妨害を排して、両国関係を正しい方向へ改善し、発展させるべき」と伝えた。双方の受け止めに、大差はない。
 中国側からみれば、一帯一路を批判してきた安倍政権の軌道を修正させ、その下で関係改善を進めれば、秋の第19回党大会を目前に習近平の権威に弾みがつく。一方、支持率が急落した安倍にとっても、関係改善はイメージ好転につながるだけでなく、経済、環境問題で孤立を深めるトランプ政権との「心中態勢」からの転換も印象付けられる。関係改善が内政上の利益になる点で、双方の思惑は一致したとみていいだろう。 

◆◆ AIIBにも踏み込んだ二階

 「転機」の動きを振り返る。二階俊博・自民党幹事長は5月16日、北京で習近平と会談し日中首脳のシャトル外交を提案する安倍の親書を手渡した。習はこれに対し「検討したい」と、積極的に応じた。在京中国外交筋はこれを「日本政府のメッセージが込められており、中日関係好転の契機」と高く評価した。

 二階は、北京の「一帯一路」国際フォーラムで、日本のアジアインフラ投資銀行(AIIB)参加を促す発言すらした。北京はそのサインを見逃さなかった。前出の中国筋は「二階は習会談の冒頭『日本政府を代表して』とあえて発言している。今井尚哉・政務秘書官も会議に参加しており、われわれはAIIBへの前向き発言を安倍首相の意向と受け止めている。日本がAIIBに将来参加する可能性も出てきた」とみる。

 二階訪中に続いて、5月末から6月初めにかけ中国政府の外交トップ楊潔篪国務委員が来日し安部、岸田文雄外相と相次いで会談。岸田は日中関係の改善に意欲を示し、両者は首脳レベルも含めた対話を強化する方針で一致したとされる。楊は、日本側パートナーの谷内正太郎・国家安全会議室長と、初夏の箱根で5時間半も話し合った。想像だが、習の初来日に向けた感触と、改善に向けたスケジュールをすり合わせたのではないか。

 楊来日を受け安倍は6月5日、東京での講演で「一帯一路」構想について、条件付きながら「日本も協力していきたい」と述べたのである。安倍政権は、これまで「中国の経済覇権につながる」と同構想を批判していた。「条件付き」とはいえ軌道修正は明らかだ。
 北京が、軌道修正を歓迎しているのは言うまでもない。孤立するトランプ政権と共に、「日米基軸」という冷戦時代の幻影にしがみつくしかない安倍政権を「屈服させた」という理由をつければ、対日強硬ナショナリズムを抑え、関係改善を堂々と進めることができるからである。

◆◆ 対日批判を抑えた中国側

 ことしは国交正常化45周年にあたり、日中戦争が始まる1937年の「盧溝橋事件」から80年でもある。そんな折、上海で45周年の国際シンポジウムが開かれた。昼食をはさみ8時間に及ぶシンポでは、中国側は台湾・歴史問題、南シナ海などマイナス面への批判を極力避けたのが目立った。正常化を記念する場だから、批判を抑制するのは当然かもしれない。しかし日中戦争開始80年の節目なのだから、歴史問題を提起しても不思議はない。一つのシンポジウムだけから中国の姿勢を判断するのは無理があるが、北京の現段階の対日ポジションの表れとみている。

 シンポジウムは、上海国際問題研究院、上海市人民対外友好協会などが主催、6月24日上海国際問題研究院の大会議室で開かれた。中国側は趙啓正・元国務院新聞弁公室主任(写真2)をはじめ22名の日本専門家や国際問題の研究者、日本側も宮本雄二・元中国大使や11名の研究者、国会議員、ジャーナリストが参加した。

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  (写真2 趙啓正・元国務院新聞弁公室主任/写真中央)

◆◆ トランプ・ショックが引き寄せた

 安倍政権の軌道修正の背景として中国側の多くが強調したのは、「トランプ・ショック」。シンポジウムで日本側との調整役をした呉寄南・上海市日本学会会長は、関係変化の内外要因を三点にまとめ、その第一に「トランプ・ショック」を挙げた。呉は「米中関係が安定し、米国の『頭越し外交』への不安が、日本に対中関係を緩和させる外部条件になった」と分析した。第二点として「経済協力は両国の戦略的利益の最大のポイントであり、関係悪化のブレーキでもある」と指摘、ことし2月のダボス会議で習近平が、中国は世界の自由貿易の旗振り役になると強調したことを挙げ、「中国特需」(中国での日本車の好調な販売、中国観光客の増加)が、対中接近の誘因にもなったとみる。呉奇南は第三に、日中双方とも「関係改善のため安定した外部環境を求める声が朝野で高まっている」とし、双方の「戦略的猜疑を戦略的緩和に変えなければならない」と結んだ。

 米中関係が安定しているかどうかについては異論があるだろう。4月の首脳会談で、双方は経済と外交・安保、法執行・サイバーセキュリティと社会文化の4分野での「米中包括対話」に合意。さらに貿易の不均衡を是正するための「100日計画」の策定や、北朝鮮問題での連携でも一致した。中国側が言う「新たな大国関係」の大枠で合意したとみてもいい。
 だがこの間、ミサイル開発と実験を加速させた北朝鮮問題で、トランプは影響力を行使できない中国に苛立ちを強め、一時の融和ムードはどこかに吹き飛んだ。
 いま世界で起きている緊張や危機の多くは「パワーシフト」(大国間の勢力移動)によってもたらされた。北の核・ミサイル危機も、米一極支配の終結後の「米中協調新秩序」が試されるケースになった。

 しかし、米ソ両国が「衛星国」を完全にコントロールすることで成立した冷戦型の国際秩序は、そのまま米中関係に当てはめることはできない。北朝鮮は、かつてのキューバとは異なり中国、ロシアの同盟国ではないし、「衛星国家」でもない。米中関係は、経済相互依存が深まり「敵対」はできないが、だからといって「安定」には程遠い。発言が一貫しないトランプ政権が続く限り、不確実な関係が続くだろう。

◆◆ 乗り越えるべき障害は?

 シンポジウムで、中国側が注目したのはやはり二階訪中だった。解放軍出身の張沱生・中国国際戦略研究基金会学術委員会主任(写真3)は「困難をいかにして克服し、健全で安定発展の道を歩むか」という報告で「(日中関係は)ことし前半は比較的静かに推移し、習・二階会談で双方は関係改善の意思を表明した」と、二階が「一帯一路」とAIIBに肯定姿勢を見せたことを歓迎した。

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  (写真3 張沱生・中国国際戦略研究基金会学術委員会主任)

 張沱生は解放軍出身だが、だからといって「対日強硬派」と見るのは誤りである。彼は、知日派外交官として国交正常化交渉に当たった張香山・元中国共産党対外連絡部副部長の息子であり、目鼻立ちは父親をほうふつとさせる。日中関係が悪化した2000年代初めから、故胡耀邦総書記の息子、胡徳平とともに何度も来日し、日本政府関係者とも意見交換してきた。知日派と言っていい。

 彼は、関係改善を促している環境変化について、①来年は平和友好条約40周年。双方はこの機会に安定化と関係改善を希望 ②両国ともにグローバル化を支持、保護主義に反対 ③トランプ登場後、中米関係は基本的に安定。安保上の摩擦は緩和され中日関係に肯定的影響 ④北朝鮮の核危機が中日協力を促進する可能性 ⑤党大会を前に、北京も安定した環境が必要。主要な任務は経済改革と発展――と5点にまとめた。第2点は「トランプの保護主義政策が実行に移されれば、日中は共に被害を受ける」ことを言外に匂わせる内容だ。張は、改善が軌道に乗るためのポイントを何点か挙げた。要点だけを紹介しよう。

 1、衝突防止のための空海連絡メカニズムの合意を加速し、東シナ海情勢を安定化。その基礎の下で共同開発と境界問題の協議を回復
 2、南シナ海問題でコンセンサスを形成
 3、防衛対話交流を回復し信頼醸成措置を強化。解放軍と自衛隊は非伝統安保面で協力を
 4、保護主義の逆流下で、グローバル化と貿易自由化をともに推進。中日韓自由貿易協(FTA)、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の早期調印。AIIBと一帯一路を経済、金融協力の新動力に
 5、歴史問題と台湾問題が、改善と発展の障害にならぬよう常に高度な警戒を
 6、ハイレベルの経済対話復活。最高指導者の対話と相互訪問の復活を通じ、関係正常化のメルクマールにし、(習訪日での)第5の政治文書調印を検討

 張は特に「このうち1、2、4が最も緊要」と指摘していたことを挙げておく。この6点の指摘を裏返せば、両国間の矛盾と障害が安全保障問題をはじめいかに多いかが分かる。

 障害については、在京の中国筋のコメントを挙げておく。彼は「台湾問題や海の問題では年初から不愉快な事があった」と指摘する一方、「これらの問題は表面的な問題。対中政策の基本的発想に問題がある。新たな対中政策の発想を示してもらいたい」と語る。台湾、南シナ海問題を「表面的」と位置付けたことを見逃してはならない。北京が関係改善の潮流を「主」とし、対立と障害を「従」と見なしていることを示しており、改善への「本気度」がうかがえるからである。

◆◆ 周恩来通訳が明かした秘話

 シンポジウムでは、基調報告をした趙啓正・元国務院新聞弁公室主任が、用意したペーパーはすっ飛ばし、1992年の天皇訪中の際、上海副市長としてその準備に追われた体験を披歴した。さらに、毛沢東、周恩来など中国首脳の日本語通訳を務めた上海在住の周斌氏(82)(写真4)も国交正常化の際の秘話を明らかにし、会場を沸かせた。多くは既に公開されている話だが、この機会に詳しく紹介したい。

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  (写真4 周斌氏)

 「いざ、会談を始めようとすると、田中角栄はグーグーいびきをかいて座席で爆睡している。周恩来に『起こしましょうか』と尋ねると、周は『いや、休んでもらおう。大平外相と話をする』と答えるんです」

 72年9月29日、日中共同声明に調印した後、田中角栄首相が北京から上海に向けて飛び立った周恩来専用機でのひとこまである。この日朝、田中は周恩来との25日から4回にわたる交渉を終え、歴史的な日中国交正常化の共同声明に調印したばかり。交渉では「戦争状態の終結」をはじめ、台湾、賠償問題、戦争の反省をめぐり激しいやり取りがあっただけに、大仕事を終えた疲れがどっと出たのだろう。

 上海訪問について周首相は当初「私の専用機は乗り心地が悪い。DC(ダグラス)8を用意したいが間に合いそうにありません」と伝えると、田中は「周総理とできるだけ長くいたい。専用機で結構です」と答えた。このため周恩来は、機内で想定される田中との会談では、日中航空協定や経済協力問題について突っ込んだやり取りが行われるだろうと踏んで、その準備をしていたという。

 田中の爆睡ですっかりあてが外れたが、周恩来は大平正芳外相と飛行中、雑談に興じた。大平は、「田中とは16、7年の付き合いがあるが欠点もある人です。例えば、このようにどこでもグーグーと寝てしまう。また人が話し終わらないうちに『わかった、わかった』というのも悪い癖です」と語って、周恩来を笑わせた。

 大平はまた、正常化交渉を振り返り「田中・周合意は、自民党が与党である限り実行する。約束したことは必ず実行します」と強調した。大平が、敢えてこう述べたのは伏線がある。首脳会談の締め括りとなった前日の第4回会談で、周恩来は「言必信、行必果」の六文字を毛筆で書いて田中に手渡したのだ。論語が出典で「約束したことは必ず守ってくださいよ。やりかけた仕事は必ず最後までやり通してくださいよ、と読めることばだ。~中略~この程度のことができなかったら、そのへんのカスみたいな政治家と同じにみなしますぞという意味が、言外にこめられている」(守屋洋『中国古典 一日一言』)。
 大平が敢えてこう言ったのは、周の六文字への回答だったのだ。

◆◆ 命かけた二人のリーダー

 日中国交正常化というとテレビが必ず流す場面がある。それは人民大会堂で開かれた歓迎宴で、周恩来と田中角栄が貴州の名酒「茅台酒」でグラスを交わすシーンだ。周斌によると、周恩来は元来酒には強く、アルコール度53度の茅台酒なら15、6杯飲んでも酔わない「酒豪」だった。

 しかし72年5月、膀胱がんの宣告を受け、医師から酒は控えるように厳命された。周はこの時期「痛みに耐えながら激務を続けていました。やがて腫瘍からの出血で、尿道に血の塊が詰まって排尿が難しくなった」(元中国共産党中央文献研究室 高文謙)。
 このため外国賓客と宴会する際は、酒とみせて実は水で乾杯していた。また中国外交部儀典長は、当時74歳と高齢で病身の周を気遣い上海行をやめるよう進言したが、周恩来は「ニクソン米大統領に同行して上海に行ったのに、止めるわけにはいかない」と、強行したのだった。

 一方の田中。北京に発つ前日、晩酌のオールドパーを飲みながら「日中国交回復を成し遂げたら殺されるかもしれない」と、家族に告げたといわれる。国交正常化を巡って、自民党の中川一郎や石原慎太郎など「青嵐会」が、正常化阻止に向け実力行使も辞さない構えを見せていた。目白の田中邸には殺害を予告する電話もあり、不穏な空気の中での訪中。台湾断交を視野に入れた日中国交正常化は、田中にとっても命がけの外交だったのだ。

◆◆ 「天皇陛下によろしく」

 専用機が午後2時、上海空港に到着すると、タラップの下では張春橋が出迎えに来ていた。張春橋は文化大革命中の当時、毛沢東夫人の江青と並ぶ「四人組」のリーダーで、上海は四人組の牙城だった。田中は張の案内で郊外の人民公社に案内された。「私は田舎生まれの田舎育ちだから」と、上機嫌で農村を見学し回ったという。この間、周恩来は別行動をとった。

 上海訪問については日本側にも反対論があった。北京は中央のコントロールが効くものの、上海では日中戦争の犠牲者の遺族らが、田中の訪問への抗議行動をするという情報があったからである。しかしそれは杞憂に終わった。18時間の上海滞在を終え帰国のため田中が空港に向かうと、約1万人の市民が空港への沿道を埋め尽くし一行を見送ったのだ。
 午前10時前、専用機のタラップ下まで見送りに来た周恩来は、田中の目をみつめ大きく腕を振りながら熱い握手を交わす。テレビでも繰り返し放送されたシーン。タラップを登ろうとする田中に周が「お帰りになったら天皇陛下によろしく」と語りかけた。

 周斌は「当時はまだ終戦後27年しかたっておらず、しかも文革の最中。天皇によろしくと言ったことが公表されれば批判される。それを承知で敢えて発言したのは、彼が日本留学経験を持ち、天皇陛下に対する庶民感情を理解していたからだと思う」と結んだ。周恩来はこの2年後の74年初め、四人組による「批林批孔」運動で批判を浴び、76年1月死去した。

 周斌氏は1959年、北京大学文学部日本語科卒業後、外交部に入り約25年間にわたって中国指導者の日本語通訳を務めてきた。84年「人民日報」国際部記者、87年中国光大集団香港本社、92年香港晨興集団高級顧問を歴任後、2004年に退職。2015年に岩波書店から『私は中国の指導者の通訳だった――中日外交 最後の証言』を上梓している。

 (共同通信客員論説委員・オルタ編集委員)

※この記事は「海峡両岸論」(第80号2017.07)から著者の許諾を得て転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。

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