【オルタの視点】

「一強政治」と「弱小分断野党」の現実
――長期展望なき社会/笠信太郎70年前の分析――

羽原 清雅


 さらなる安倍晋三長期政権なのか、と思う昨今である。
 自民党とわずかな安倍側近などの一部の支持勢力による支持が、首相という権力の座を与え、国民はそれを受け入れざるを得ないという民主主義のルール。そうである以上、このルールは守らなければなるまい、と思う。

 その一方で感じるのは、「裸の王様」の寓話である。
 思うようになんでもできる王様は新しい服が大好き。おだてに乗って自覚なくハダカの服を着る。だれも、権力者には「オカシイ」とは言えない。だが、ひとりの子どもが「王様が裸だーい!」と事実を漏らす。この寓話だけなら、国民が将来的にマイナスを背負い込むことはない。だが、・・・である。

 7月に国会が幕を閉じて、炎天下の8月が終われば、やがて新政権が登場する。ただし、安倍晋三政権が2021年まで持続するという見通しが強く、これまでの「一強政治」のもとで、譲歩も、再検討も、反省もない政治が続きそうだ。せめて野党の頑張りが、との期待も次第に諦めに変わっていきそうだ。
 将来に夢やロマンが感じられない時代に生きていく若い世代は、政治への期待を失い、現実の中に囚われ、敷かれたレールの上を無味乾燥にその日を送る。狭い趣味や流行、娯楽に気を紛らわせ、現状を肯定するしかないような刹那的な思考で社会と付き合っていく。

 戦後の混乱期の様々な論争や闘争、60年安保の激論の広がり、派閥政治の華やかだった三角大福中の時代・・・その是非や可否はあっても、あのエネルギッシュな世論の喚起はどこに消えたのか。物量豊かに見える「今」を手にするために、白熱する問題提起や論議、大衆の決起、失敗を恐れない挑戦などはどこかに処分してしまったのか。

 今日の実態を踏まえて、約70年前に笠信太郎が書いた「日本の政党」を読んで頂きたい。

          《保守権力について》

 ◇「一強政治」の元凶 安倍自民党政治は強い。その強さの土台にあるのは、衆院の小選挙区制度で「数」を保証されていることだ。1選挙区1議員を基本とするこの制度は、多数党をさらに多数化させ、政権を安定させるため、と理想を掲げる。得票率5割以下の政党が、7割以上の議席を占め、思うがままに法律などを成立させ、政治を動かしていく。
 また建前として、2大政党による政権交代を可能にする、制度のメリットが言われる。たしかに、7回続いたこの選挙制度のうたい文句はそうだった。

 だが、長期政権を誇った自民党が腐敗、おごり、混乱などで、民主党政権に変わり、その政権担当能力を欠いた力量に国民は嫌気がさして、また自民党が政権を握った。政治の実態は変わったものの、選挙制度は変わらない。したがって、「数」を抑えた自民党が台頭、安倍政権のように長期化するにつれて、権力の形態が質量ともに巨大化し、一方の野党は議席数において細るうえに、活路を離合集散に求めるために、おのれの主張や存在価値をアピールできず、政権党をほしいままにさせる。
 問題化する法律案について、野党が一部でもしっかり世論を代弁しない限り、政権党は「数」に乗って、彼らの作った原案をそのまま押し通してしまう。その立法やシステムが、将来の社会にマイナスをもたらした場合、その責任は政権党ばかりにあると言い切れるだろうか。

 選挙制度がもたらすマイナスは大きく、国会審議の根幹に横たわるのだが、いったん「制度」ができると、そこには「うまみ」も享受できるので、野党もまた批判はしても改革しようとはしない。
 新聞などのメディアも、なぜか、ひとたび制度化されたものについては寛大で、ごくたまに問題点には触れるものの、改正を求めるまでの気迫は示せないでいる。本来、世論を背景にするはずのメディアは、7回もの選挙に示された選挙制度の矛盾を指摘すべきだが、悪法であっても制度として「構造化」されてしまうと、現状に飲み込まれてしまうのか。筆者は以前、現在報道にあたっている記者たちが、この選挙制度によって生まれた2、30年後の社会矛盾を見るとき、どのように反省し、責任を感じるのか、と問うたことがあるが、この疑問はいまも変わっていない。

 ついでに言えば、政権与党の一端にある公明党は、結党時の野党的資質から離脱して、自民党追随の姿勢を強めてしまった。カジノを含む統合型リゾート(IR)法案など、いくつもの立法で、ごくわずかな修正か文言の追加で妥協し、助っ人与党化してしまっている。与党の立場にあるからこそいうべきことが言えていない。権力のうまみに酔うかの姿である。

 ◇権力はおごり、腐敗する 安倍政権の自民党の支持率は、あまり下降しない。いい政治が行われているから、との説明もあろうが、政権交代できる政党や、とってかわる人材がいないのだから、という理由が強いのではないか。
 この1年以上続く、安倍首相周辺に生まれたおごりや腐敗の実態は、有権者を呆然とさせたのではないか。安倍首相の弁舌は歯切れよく、自信を示し、一見すれば優れた政治家風である。だが、その言葉と内容は極めてうらはらだった。誠実、真摯、謙虚、心からの反省…など、言はよくても、内容が伴わない。虚しさが残り、二度三度と聞くと、不快になる。

 モリカケ問題だけを見ても、財政上の支出や事務処理などこの事例独特の扱いのおかしさにとどまらず、多くの構造的で、歴史的に禍根を抱えるような課題を示し続けた。

 ・公的文書の扱いの「非」➡ 公文書の改ざん、隠ぺい、廃棄、不存在(虚偽)、わかりにくいタイトル表記などが相次ぐ。公的文書は官僚のものではなく、国民のものだという認識不足、対内・対外的に歴史を正しく残すべき義務違反、など後世への罪悪を犯しつつあるのだ。

 ・官僚群の誇り喪失➡ 官僚幹部らの不正行為、品位や常識外れの言動、下僚への責任転嫁、上司への阿りと追随、閣僚や幹部らの責任回避、などがめだつ。公僕ではない私僕化であり、税金使用をめぐる無責任化、幹部らの責任感覚の鈍さなど、職務への誇りを失っていないか。

 ・国会答弁の姿➡ 国会での発言をめぐる無責任、行政よりも優位にあるはずの国会の軽視、はぐらかし答弁などが横行する。恥を知らない野次が閣僚席からも飛び交う。有権者に対する国会を通じての説明は、政治への理解を誘うべきものであり、行政の客観性や優先順位の妥当性、あるべき将来への指針などを、直接説明し、理解を求める場であるはず。

 ・首相官邸の官僚人事をめぐる横暴➡ 官邸人事局の高級官僚の人事の扱いは09年の248人が今は1,196人に。政権の官僚支配の強化と、官僚の主体性の発揮よりも出世的妥協を優先させる風潮。官邸の影響力は与党内、国会、司法、さらにメディアにまで拡大している。

 ・議員の不穏当発言➡ 最近の杉田水脈「生産性」発言をはじめ、相当数の議員の問題発言が指摘された。「一強」の傘のもとで、強気に発言するが、狭隘で他者の立場への配慮や反省はなく、議員としての品位や常識すら欠如している。議員という立場が理解されていない。

 ・多数決の乱用➡ 多数決の前提として、少数意見の尊重がある。少なくとも、少数意見に発言の機会を与え、多少とも多数意見に取り入れ、ベストを目指す姿勢が求められる。だが、「一強」支配の現状では、少数意見は時間的に排除、その意見に配慮することもなく、採決する。こうなれば、「野党不要」「多数支配の権力の言いなり」となって、民主主義の理念は死ぬ。いや、殺されてしまう。現政権や与党には、この基本的な姿勢がない。
 参院の6議席増の立法成立も、論理を超えた無茶な多数決によるものだった。この手法が合法とされるなら、権力というものは「数」さえ握ればいかようにもできることになる。だからこそ、選挙制度で得票数以上に配分される議席数の在り方が問題になるのだ。

 ・「悪」の拡大➡ 国会や官僚らの風潮、つまり強者の独走、上層部の独断、上部への阿り、物言わぬ習性、不都合のごまかし、国民=税金への軽視といった傾向が、なんとなく常識化して、広がっていくことが怖い。トランプ大統領らの「自国ファースト」の姿勢にしても、自分や祖国を第一とする発想をさらに強調し、相手の立場を無視するかの態度であり、本来政治家をはじめ社会的な指導層が最も戒めるべきありようだ。権力者は、他者への配慮を優先しつつ、自己の主張を展開するべきなのだ。

 東京医大入試の性差別や浪人差別、その一方での水準以下の受験生への情実的合格、あるいはボクシング連盟の長年隠されてきた、いかがわしいジャッジや非民主的体質、さらには相次ぐ著名大手企業の製品の質のごまかし、などを見ると、社会の質的低下が広がる源流には、権力者はじめ政治や国会などの腐敗傾向があるのではないか、とすら思えてくる。

 ◇展望を描けない政治のみじめ 政権や多数与党の問題ある姿勢は当然、政策のありようにも影響する。その過ちは、当座はしのいだとしても、後世に禍根を残す。見えているはずの現実を見ず、厳しい論議を避け、同質の意見を持ち合う者たちで周囲を固め、そこでの論議で結論を出す。「排除の論議」であり、「慣れ合いの結論」であり、そこには賛否、懸念の議論はなく、狭隘な一部の者の意思が具現していく。安倍政権・首相官邸主導の政策には、こうした姿勢が目立つ。
 「閉鎖グループ」「お仲間チーム」が方向付けをし、日本の針路を固め、国会での形式的な多数支配によって、ごく単純に長期政権下の日常が進んでいく。

 ・改憲論議 安倍自民党は、長年の改憲論議を4点に絞り込んで、論議を進める。
 つまり、①自衛隊問題(9条の扱い) ②緊急事態対処(政権への権力集中、私権制限) ③衆参両院選挙区割り見直し(行政区画と選挙区割りの調整、1票の格差是正) ④教育の充実(教育無償化の拡大)である。この論議自体が不十分のままである。受け入れやすそうな「甘さ」と、先行きに不安を抱える「緊張」をはらむが、要は国民的な論議に至っていない。
 現行憲法本体の意義、評価、課題などの広範な総体の論議はなく、いつしか4点だけの論議に誘導されている。憲法を改正するには、政党や政権のリードによらず、多様な学者、有識層、老壮青などの論議の場を求めたい。「公正」の担保は難しいが、少なくとも「一強」の枠内で憲法改正が進められるべきではない。

 ・国債依存財政 2018年度末の国債の残高は883兆円で、国民一人当たりの借金は700万円ずつになる。地方債や長期債務を含めた残高は1,108兆円。一人1,000万円にのぼる。税収や国債発行を減らしても、将来長く負債を負い続けるため、これからの世代は、新規の事業や挑戦に取り組む余地がなくなっていく。18年度の国の予算は、新規発行による国債への依存は35%、国債費返済や利子は24%である。これが健全な財政だろうか。政府は若干の削減策を講じるが、総体としてはごく小規模な改善にとどまる。その日暮らしの財政を続ける長期政権だが、将来への若い芽を日々つぶしているのではないか。

 ・社会保障費増大 超高齢化社会に突入した以上、その種の予算が増大するのは当然だし、やむを得ない。一方で、働き手となる赤ちゃんや子どもたちが増えてこないことも深刻だ。社会保障関係の国の予算は33兆円で、予算の3分の1を占める。この額は、公債などの借金とほぼ同額で、つまり社会保障費はほぼすべて借金で賄っていることになる。簡単に打開できない大きな課題で、政権に突き付けられたきわめて深刻な問題である。

 政府は、その借金を減らすには、その関係の出費を抑えなければならないとして、生活保護費などの削減策をとった。最低生活の保障は厳しさを増した。比較的豊かな層は納得するだろうが、カツカツの生活を送る人々にはつらいことだ。財政運営上、社会保障のために社会保障費を削ることでいいのだろうか。
 財政総体の中で見直し、無駄の摘発や事業の先送りはできないのか。防衛費等個別のジャンルなどでの抑制の見直しはあり得ないのか。法人税引き下げという恩恵の見返り効果は社会に還元されず、大手企業の蓄財にとどまってはいないのか。

 さらに言えば、高齢人口の増加、出生率の低下は統計上でもっと早い時点で把握されていながら、長期的な政策がとられてこなかったのはなぜか。どこか目先ばかりに囚われ、早い時点から長期的に対応していく視点を失っていないか。硬直した財政状況に、硬直した取り組みでは、政権の果たすべき役割は果たされない。国民の生活を保障する政権とは言えない。 
 年金など社会保障制度の運用がまずく、事務的なミスも多く、制度への信頼が損なわれていないか、という問題もある。「赤坂自民亭」という取り巻きグループの飲み会もいいが、そのことが国民の目にどう映るか、といった気配りや配慮が働かなくなった権力集団は、困窮生活者たちの日々の生活についても、たまには考えた方がいい。

 ・科学技術論文の減少 2004年の日本の科学技術関係の論文は6万8,000本だったが、15年は6,000本も減った。中国は5倍に増えて24万7,000本。アメリカは23%増えて27万2,000本だった、という。これは、単なる比較では済まされない。
 予算上、学術関係費が削られている。この世界は失敗覚悟ででもやらなければ、後世への貢献はできない。ここにも、当面の利害のみにこだわる「目先主義」がある。研究費を削れば、新たな挑戦、長期の実験研究などが犠牲となり、研究者たちの望む試みはできず、若い研究者は生活や時間に追われ、十分な研究環境を持つことができない。

 政権が、将来に伸びる芽を摘み取る。その結果、将来への期待をもつぶす。明治の成功は、徹底的な教育の普及に力を入れたことではなかったか。私たちは今日、その成果を広く享受している。目先ばかりを追い、未来にロマンをかけることのできない権力は、歴史的な禍根を残し、その責任を問われるだろう。

 ・軍事か 外交か 安倍政権は北方領土返還にかけ、宣伝に努める。だが、対ロシアの客観情勢はそのようには動かない。対立の材料の多い中国に対して、安倍首相は非中国の包囲網外交に専心した。だが、その成果は極めて乏しく、今になって姿勢を変えて、日中間の首脳外交を持とうとする。アメリカとは、トランプ政権に接近、軍事増強などで追随するような唯唯諾諾の関係を続ける。
 言いたいことは、日本のありように主体性がないこと。アジアの視点が乏しいこと。世界を見る目が、軍事面の比重が大きく、和平的な外交への取り組みが弱いこと。

 中国が嫌いであっても、アジアの軸であることは間違いなく、中国包囲網政策に走る前に、首脳としての交流を重ね、本音に近い対話を求めるべきだった。尖閣列島問題にしても、対立を深める前に、また軍事的な防衛面の整備強化の前に、会話のできる関係を持ち、日本の立場や姿勢を率直に述べるべきだった。安倍政権の軍事面の強化はアメリカの期待に沿うことはできても、日中関係の改善には結びつかない。
 国民の間に嫌悪感を醸成するのではなく、交流を重ねて、相手との会話を通じて相互の理解を進め、異なる点を確かめつつ徐々に近づくことが必要で、これが最高の関係改善の道ではあるまいか。安倍政権の対外姿勢に感心できない点のひとつでもある。

 沖縄関係でも、アメリカに対して地位協定の改定を求め、新基地建設に伴う現地の要望を伝えるなど、基地の恒久化を認めるにしても、まずは現地の納得の上に打開を求めるくらいの姿勢が必要だ。トランプ大統領との協議の場に、これらの会話が一切ないことこそ問題視されるべきだろう。

 対北朝鮮問題も、拉致問題の打開を前面に出すばかりで、外交的なアプローチは進めない。拉致問題は戦後の新たな課題であり、国交のない北朝鮮との関係は基本的には戦前の植民地下で、戦争に巻き込んだところにある。
 日本の外交の辛さは、かつて戦争を仕掛け、多くの人的物的精神的な加害をもたらしたことの反省から始めざるを得ない点だ。政権はいつの時代になっても、この点を打開させない限り、決して対等な関係は築けない。この原点をもとに、戦後の歴代政権は徐々にアジアを中心とする各国との関係を打開してきた。そうせざるを得ない歴史的な事情は、70年以上たったとはいえ、歴史認識が変化したとはいえ、相手国とその国民の感情に怨念や被害の思いが色濃く残されている限り、真摯に取り組まざるを得ない。北朝鮮問題はいずれ手を付け、打開の道を求めなければならず、凍結とか回避とかは許されない。

 原爆開発の問題も、拉致の問題も、戦争についての話し合いと切り離して進めることは可能だろうか。まして、新たな軍事的な身構えを見せる中で、拉致された人々の解放を求めても、応じてくるものだろうか。迂遠でも、いつか取り組まなければならない課題である以上、外交姿勢を見直すべきだろう。もっとも、安倍政権下ではそのような転換はあり得ず、期待すること自体、おかしいのかもしれない。

         《野党の動向について》

 ◇小党のうごめき ここまで為政者らの問題を指摘してきたが、政治姿勢や退廃傾向に対してチェック機能を発揮できていない野党の実態にも触れざるを得ない。野党勢力が「数」において弱すぎ、チェック機能が果たせない、という一面は否定しない。
 しかし、野党勢力は地に足を付けた有権者へのアプローチを試みるなど、政党としての魅力ある取り組みが足りないことも指摘せざるを得ない。そうした努力が足りないからこそ、権力を握る階層の横暴を止められず、しかも世論調査にみられる通り、各種の不満が蓄積されながら、各野党の支持率はいつも1割以下にとどまっているのではないか。

 マトを得た批判や対応がなければ、権力は増長し、腐敗を重ねながら、長期の体制を持続する。一方で、批判し改革を求める有権者は、新たな潮流を築こうとしない野党の体たらくに諦めや侮蔑を感じて、次第にシニシズム(冷笑主義)に落ち込んで行く。それが、選挙不参加層を増やして、投票率をどんどん低下させ、民主主義の土台を崩す。そして、将来に引きずるような課題を生み出す政権を持続させる。
 政治の低迷を招く不合理な小選挙区制度は、野党にも比例代表制という、わずかばかりのメリットの配分があるため、制度の検討・改革すら提起しない。矛盾の責任は野党にもある。

 野党の国会での状況を見てみよう。
 衆院の与野党の勢力は、自民、公明の与党が67.1%(312議席)、日本維新の会、無所属を除く野党は26.8%(125議席)に過ぎない。いわば野党は4分の1勢力に過ぎない。
 参院を見ると、自公の与党が62.0%(150議席)、野党勢は日本維新の会、無所属を除き、「国民の声」「無所属クラブ」を含めても31.3%(76議席)と3分の1勢力にとどまる。
 しかも、これらの小政党は、小さい中での対立を繰り返し、政党としての大きな対立軸を立てることさえできない。また、大きな主張をまとめきれないから、政権党に対して強くものをいうこともできない。

 野党は、野党なりの機能を発揮してはじめて存在できる。しかし、これまで10年程度の間に結成された、太陽の党、みどりの風、減税日本、生活の党、新党大地、日本を元気にする会など、多くの新党が相次いで消えていった。だれが結党者だったか、その党是、継続時期などを思い出せないほどだ。記憶からすぐに消えていくような政党づくりは、なんのための結党だったのか、その社会的な意義すら理解されていない。

 ◇大きな対立 小さな結束 たとえば、鳴り物入りで小池百合子都知事にあやかろうとした希望の党は、今や衆参合わせて5議席。希望の党への便乗を主体性なく期待したものの、結果的に新党を結成せざるを得なかった国民民主党は衆院39、参院23。希望の党から追われて生まれた立憲民主党は衆院55、参院23。
 歴史ある共産党は、行動力はあっても衆院12、参院14。ひところ大野党だった社会党を継承したはずの社民党は衆参院各2で、いまや消滅の危機に立つ。

 まず各党内は、まとまりを欠く。
 当面の大きな課題である脱原発問題は、世論調査を見ても国民の多数が希望する野党結集の大テーマのはずである。だが、連合内部の電機労連などの反対で、政党としての方向が打ち出せない。改憲問題でも、自民党の組み立てたプロットに乗るばかりで、検討内容も狭く、護憲グループからも批判の目を向けられる。
 長時間労働、高プロ問題、非正規労働問題など、身近な生活的課題でも、活動の中心になるべき連合などは目立った支援もせず、擁護策も弱い。6,000万に近い雇用者のうち、組織加盟の労組員自体も少ないが、大手労組中心の連合は、組織率17.4%に過ぎない。中小労組への配慮、非正規をはじめ未組織労働者への対応など、視野が狭い。

 どちらかといえば、かつての革新系のジャンルから発生した各野党だが、原点を見失ったか、目先だけで動いているように見える。利害が複雑化すると、あまり深入りしない。したがって、党内での意思統一を避け、野党間の協議が持たれても、強い主張はしないし、イニシアチブもとらない。
 かつての国会事情に比べると、野党議員たちの出自や教育レベルは確かに上向いている。しかし、大状況に対する判断や取り組みが小さくなり、また取りまとめに当たれるような大型の人材が出てこない。小さなこだわり、大きな状況設定の不足、国民の思いへのアプローチ欠如、選挙支援母体への配慮優先・・・・そうした体質が、政党の存在感を狭め、大きな結束や団結の実現を阻む。
 議員の「数」の問題にとどまらず、「質」をも問われる現実になっている。
 このような実態から、果たして強硬な政権をチェックできるのだろうか。

 今の野党には、政権を語る力はなく、語っても有権者は相手にはしない。とすれば、せめて強引な「一強政治」にブレーキをかけてほしい、くらいの期待だろう。
 野党の共闘がすべて望ましいわけではない。政党である以上、基本的な姿勢は重要である。しかし、政権到達の道が遠い状況の中で、政権の横暴に臨むとき、小党なりに結束は必要だろう。昨今の党内の些事での対立は感心しない。原発廃止などの運動は、元政権を握った小泉、細川らに任せず、野党こそが連携して闘う課題だろう。

 ◇国会の審議ぶりを見る この1年ほどの国会での野党の追及ぶりを取り上げる。
 モリカケ問題は、新聞メディアの掘り起こしで火が付いた。野党の国会での追及も、たしかに多かった。だが、元新聞記者の経験からすると、新聞記事便乗型の質疑が圧倒的で、自前の掘り起こし作業が極めて乏しかった。
 かつて、ロッキード事件の際には、社会党も公明党も共産党も、精鋭の議員を直ちにアメリカに送り込み、それぞれに当事者や要人にアプローチして、問題を深め、国会の論議に持ち込んだ。内部告発を手に、行政の不正などをただすことも多かった。
 モリカケ問題は、まさに国内の、しかも行政府対象の身近なターゲットだった。首相官邸に顔を向ける官僚群のガードは、偽りを含めて極めて厚かったにしても、追及の材料すら集めきれない力量は野党として情けない。質問も同じことの繰り返しが多く、新しい角度や材料に乏しく、攻められているはずの首相、財務相らが開き直れるほどのレベルだった。

 ここで言いたいのは、個々の議員のことではない。追及すべきテーマについて、野党のバックアップ体制が微弱で、その整備や改革の努力が不十分に見えることだ。
 かつては、政党には書記局があり、それなりの書記たちが事務処理だけではなく、政策を作り出す専門性を備えていた。また、議員の秘書たちも大きな問題になると、チームを作り、議員の質問作りに当たっていた。さらに、総評時代には調査部があり、社会党などと連携して、政府追及の材料つくりに動いていた。是非は別として、社会党、民社党時代には学者グループが党の政策面などで協力していた。内部告発のルートもあった。
 また、政党系列による対立はありながらも、原水爆阻止、農民、労働、福祉関係などさまざまな団体との間に選挙での支援などばかりでなく、政策面での協力や各分野での情報提供があった。つまり、政党活動が国民の中に足場を持っていたことが、かつては国会活動に役立っていた。

 離合集散を続ける小野党の現状では、望むべくもないが、政党としての底の浅さが小政党に留め置く一因であることは間違いない。
 なぜ、野党がしっかりしなければならないか。結論は、簡単である。世論調査に現れた民意にも配慮しない一強の権力を、なんとか改めさせたいからだ。そのチェックは野党の最大の責務であり、その蓄積、実績のないところに政権など生まれるはずがない。
 ついでに言えば、安倍首相との国会での党首会談は、あまり思い出したくない場面だ。党首の迫力というか、テクニックも感心しない。党運営や丁々発止のキャリアが乏しく、思考し蓄積した力量が権力者よりも劣っている。追及の仕掛けも平板に過ぎる。有権者を納得させ、「その通り、よく言った!」という納得感が湧かない。この点だけでも、追及にあたる野党としての魅力を欠く。
 要は、「数」に負け続け、小党なりの目標やまとまりに欠け、支持されたい民意に頼もしさや未来への展望が伝わらず、まして「政権担当」への期待などは生まれてこない。

 ◇シニニズムが怖い! 長期政権の継続は民主主義の選択肢のひとつとして、自民党支持者以外でも受け入れざるを得ない。ただ、多数支配とはいえ、聞く耳を持とうとしない、聞き遂げるセンスがない、そうした権力者の存続については、なんとかしたいとの世論も強い。
 民主主義は定着した、制度は守らなくてはいけない、多数支持の権力は許容しなければいけない・・・・という遵法の気持ちが日本人には強い。その結果、強いものにはものが言いにくくなり、正面からは取り組まず、冷笑し、皮肉り、結果的に諦めて許容してしまう。
 しかし、「非」なる権力の台頭が、戦争の反省を曇らせたり、民意を顧みずに将来の道筋を進めたりして、それが「民主主義」であっていいのか。私たちは今、その判断に迫られている。

 政治への関心が弱まり、投票に出かける人も減っている。たしかに、政治への期待は年々減少傾向にある。投票率の低下が、その一つの表れだろう。そうした「政治離れ」の結果、シニシズム、つまり政治への冷笑が広がることが怖い。「政治家なんか、愚にもつかないことを言うだけだ」「選挙で数を握ったのだから、まあ仕方ないね」「どうせ、たいしたことはできないさ」といった空気が広がると、政治の危うい現実が容認され、将来につながる各方面での方向付けが「数」によって決められ、禍根をとどめていくことにもなっていく。

 ◇野党にほしい将来展望とロマン 政治にはロマンが必要だ。野党は、どのような社会を作りたい、外交、交流を通じてどのような対外関係を築きたい、といった大きな展望を示さなければ、国民、有権者を惹きつけることはない。当面、自ら政権を担当することはない実情からすれば、むしろ「かく あれかし」と言いやすい立場にある。
 憲法にしても、どこが良くて守るべきか、あるいはこの点は是正の余地があるかなど、大きなスタンスでものをいうべきだろう。
 しかし、実際の野党には目先ばかりの言動が多く、未来に思いを馳せたくなるような魅力がない。近々また離合集散か、と思わせるような目先主義では、これからの政党の拡大は不可能、と思わせる。

 かつての社会党の解体は、派閥抗争、労組支配、資金能力、イデオロギー対立など、目先のことに囚われ、大きな未来像を示しきれなかったところに一因があった。今は、さらに小型化した野党に、類似した面がある。政権追及の論理を高め、論争を仕掛け、自党の将来社会像を語らない限り、「一強政治」に打ち勝つことはできず、不本意でもその長期政権化を許していくことになるだろう。

          《笠信太郎の「日本の政党」論》

 ◇笠信太郎とは 若い世代には、この名前を知る人は少ないだろう。朝日新聞の論説主幹として欧米事情にも通じて、戦後の1940~60年代に活躍した著名な論客だった。筆者は入社時に彼の面接試験を受けたことしかなく、それ以外に話したこともない。60年安保時の「暴力を排し議会主義を守れ」という7社共同宣言の主導者の一人だったと後に知ったが、筆者は在学中、この宣言の在り方に激しく反発したレポートをゼミ誌に書いたことがあった(小著『落穂拾記』497頁)。
 笠は論説主幹として、1949年1月3日付の朝日新聞一面に、「日本の政党」「小さく弱く私党的」「根本問題で政策協定を」の見出しを付けた大型の署名記事を掲載している。

 この記事が書かれた1949年は、前年12月に吉田内閣下の「慣れ合い解散」があり、1月23日の開票で<民自264=吉田茂総裁・初の絶対多数党に/民主69=犬養健総裁/社会48=片山哲委員長/共産35=徳田球一書記長/国民協同14=三木武夫委員長>の結果、第3次吉田内閣がスタートするという時期だった。
 前年10月、芦田均内閣が昭電疑獄で倒れ、12月にA級戦犯の東条英機ら7人が絞首刑となる戦後の混乱期で、この選挙後に下山、三鷹、松川3事件が発生して左右・労使の対立が激化、シャウプ勧告が出され、中華人民共和国が生まれ、翌50年の朝鮮戦争に至る混乱の時代だった。

 まさに70年も前の記事だが、当時の政党についての指摘が今に通じて生きていた。これは、日本の政党が70年を経て、あまり進歩、改善されていなかった、ということではあるまいか。

 ◇その要旨は 「国会を運営する政党は、結局日本国民の生活をあらゆる面で左右する絶大な力を持っているはず」との前提で、「最近までの政党の動きを見ると、あの政党解消論がそれほど不思議な思いをさせなかった翼政会出現前の空気さえ想い出させる」という。
 「その日本の政党の特徴を一言に集約していうならば、何よりも、それが小さく、そして非常に『弱い』ということ」と指摘する。その『弱さ』として挙げているのは・・・・

1、 わが政党は、上からつり上げられ操られる人形のように軽く、その足は国民という地盤についていない。占領当局におんぶされ、その力をカサにきて鬼面人を驚かしている・・・・いゝかえると、独力で仕事をしていない。そのことを自分ではハッキリ意識していないところに一層の弱さが出てくる。
2、 それぞれの地盤に応じた政策らしいものをもたない。それは政党が急ごしらえであるから無理もないが、その政調会や調査部も名ばかりで常備のスタッフらしいものも持たず、資料ももたない貧弱さである。政策に伝統の強みをもつものなどはむろんない。
3、 いちばん重要な問題として、議員の質がわずかな例外をのぞいて劣悪である。長い政党生活で鍛えたというような一種の魅力をもつ議員がないのは終戦後としてやむを得ないにしても、清新で時代の識見をもつ人が出て来ていない。それは内閣という党員の精鋭を集めたはずのところが低調だということが動かせぬ印象を与えるわけで、色々批評はあったにしても高橋(是清)はもとより、井上(準之助)や浜口(雄幸)などが当時の日本の課題に対してもっていた解釈力だけを考えて見ても、終戦後もう問題の見通しもほゞついてきたこゝ一、二年間の大蔵大臣の顔ぶれは、全く比較にならない。
 今の問題の困難さが昔のそれと比較にならぬほど大きいだけに、この問題に対処してなんの構想ももたない、また何らの信頼感も起さしめない大臣のみすぼらしさが、政党をいよいよ小さく弱いものとして映ぜしめる。
4、 いわゆる小党分裂の姿。フランスは、この分裂が大体に思想と理論から来ていて、観念の国らしいところがある。日本の政党の分裂傾向はただ代議士群の離合集散であって、アイディアがこれを支配しているのは共産党と共産党寄りの一部であって、それから右へ至る大きな幅をとっている部分には、彼等自身が思っているほどの思想的な党派性は、実際のところは希薄である。・・・・日本の場合は思想的なけじめも薄いのに、その小党分裂的傾向が実際の看板以上に浸透していて、・・・・思想というよりも、個人的な利を追う人のつながりの方に、はるかに重みのかゝった分派運動であって、支持層とのつながりはほんの一部が一部の組合とのいきさつをもつ以外にはほとんど無関係に動いている。

 そして、さらに「日本の政党には、フランスのような理論的なするどい立場もないのに、しかも、その野党の態度のなかには、その批判が協力になるという面をも欠いているし、そればかりでなく、批判が専ら目先だけの党略から行われるという低い段階にある。それは公党よりは私党的な動きである」と、きわめて厳しく分析する。 
 そのうえで、政党間の保守合同、連立ができても「それだけで今の巨大な問題を荷負う力などはあり得ないのであるから、野党との間に少くとも根本問題での政策協定は必要」と述べている。

 筆者は、笠の分析を読んで、70年後の今も似たような体質を維持している政党の状態に、改めて失望を禁じ得ない。30年ほどの政治を現場近くで見てきた記者として、わびしい感がある。
 では、どう脱皮するのか。政党人に期待するしかないのだが、より深く考え、歴史を振り返り、より大きなロマンある展望を示してほしい、と思う。
 野党ばかりではなく、安倍政権の継続を望む人々も、権力の座にあぐらをかかずに、一度は見直してほしい。

 (元朝日新聞政治部長)

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