「三国人」と多文化共生社会へ

「三国人」と多文化共生社会へ-ヘイトスピーチ断想

                          李 鋼哲


 その一:「吠える犬」
 私が小さいとき、お父さんから聞いた話を思い出す。「吠える犬は怖くない」。「なぜですか」、と聞くと、「犬は人などを見て怖いから吠えるのだよ」と教えてくれた。確かに、田舎での体験から見ると、人をかむ犬は吠えない場合が多かった。
 人を犬にたとえることは若干失礼なことかも知れないが、他人を罵ったりする人は実は怖がりの人かも知れない。なぜかというと、弱い人間は他人を罵ることをする場合が多い。強い人、賢い人、成熟した人は他人を罵らない、または簡単に他人を口で攻撃しない。
このことは私の人生を振り返るとまさにその通りだと思う。私は生まれてから身体が弱い子で身体障害も持っていたので、人に虐められることも多かったので、人に見下ろされるのではないかといつも思い、ついに人に対して強気で出るような習性があった。それが今は全くなくなった。心強い自信たっぷりの人間になったからだ。
 有名なあの元東京都知事であった石原慎太郎氏が、10年くらい前に「三国人」発言をして大きな波紋を呼んだことがある。そのとき、「三国人」発言に対して私はエッセイを書いたことがある。「一匹の蛙が井戸水を汚す」という朝鮮古代の諺を引用し、アジアに対する差別意識を持っているのは極一部の人々に過ぎない、その人達が日本人や日本のイメージを悪くするのだ、と思っていた。ところが、当時インターネットでアンケート調査結果を見ると、なんと石原氏の発言を支持する人が反対する人の数を上回っていたのではないか。アジアに対して差別意識を持っているのは石原一人だけではないことに驚きを隠せなかったのである。石原発言を支持した人は必ずしも差別意識を持っているとは限らないが。
 その石原氏が2008年北京オリンピック開会式に招待されたが、怖くていけないとコメントした。「中国人の巧妙な毒薬を飲ませて、日本に帰ってからゆっくり死んでいくかも知れない」と言っていたのだ。やはり吠える犬は相手を怖がっていることが、この話からもよくわかる。東京と北京は友好都市であり、その意味で北京市長が招待したのに。
他人や他国の悪口ばっかり言っている人は、いくら偉そうに振る舞う政治家であっても作家であっても心は細いのだと私は思った。しかし、日本人の多くは彼を英雄だと思っているようである。なぜかというと「ノーと言える日本人」を謳っているから。東京都知事に選ばれつつあることがそれを物語っている。
 夫婦関係や男女関係でも似たような構図が見える。長い歴史の中で、女和弱い、男は強いという観念が人間社会で支配的であった。それで生まれた男尊女卑社会または男中心の社会。今も女性の社会的な地位を世界で比べると日本は105位くらい、韓国は106位くらいという統計が出ている。「先進国」と言われながらもこの面では「後進国」の日本と韓国。しかし、中国は10位台で「先進国」に並ぶ。
約100年前までは、儒教社会の影響で東アジア三国はそんなに違わなかったのに。しかし、なぜ現代社会になっても男が強がる社会風土が変わらないのか。これは良く研究する必要がある課題である。ここでは、その課題を解くものではなく、なぜ男は強がりなのか、を考えるきっかけを提供したい。
 先般、「憲法デモクラシーの会」が都内で開催された(『朝日新聞』「天声人語」12.11.09)。そこで「戦争と女性」をテーマに女性だけのパネル・ディスカッションがあったが、経済学者の浜矩子氏は「女性は戦争に対する最大の防波堤になりうる。なぜか。女性は強い。どこにでも移動し、環境に適応し、耐久力もある。強くゆとりがある者は他者に対し攻撃的になる必要がない。戦争とは[弱虫の凶暴性]が引き起こすものだ」と指摘したことにすごく感銘を受けた。浜さんは、人が人を差別するのはその対象を恐れるからであるとさらに指摘。どうも私の犬に対する考えと似たようだ。
 どの国でも右翼的な人、またはナショナリスト達は、攻撃的な言論で、相手国の悪口をよく言う。それは結局相手国に恐怖心を持っているからではないか、と私は思っている。心に余裕を持たず、自信感が足りず、自分たちが犯した悪事や罪悪を反省したがらず、そして相手が強くなったら報復されるとの恐怖心をもっているように見受けられる。実は戦々恐々の弱虫達にすぎない。
 
その二:「三国人」新釈
 先に話した「三国人」発言は差別用語として解釈されるが、私がここで言う「三国人」というのは、そうした差別用語とは全く反対の意味である。日本・中国・韓国(朝鮮)3カ国の文化を持ち合わせる人のこと、つまり私自身のことを言う。
我々が暮らしているこの東アジア地域では、歴史的に共通の思想(儒教)と文化(漢字)をもっており、現在ではこの3カ国を中核とする「東アジア共同体」(または「北東アジア共同体」という未来の夢を見はじめている。共同体を目指すには共通アイデンティティが必要であり、そのアイデンティティが形成されやすい人は国境や文化を跨る人々かもしれない。「アジア人」というアイデンティティを育てる意味で、私は喜んで「三国人」と自称し、また「アジア人」と自称する。
私自身の受けた朝鮮(韓国)、中国、日本の文化というマルチカルチャーの視点から、日本人、韓国人(朝鮮人)、中国人の共通点やそれぞれの違いが何であるかについて常に考えている。この「三国人」は、地理的に隣接し、歴史的に・文化的に数千年にわたる交流をしながら文化・思想などを共有しながら暮らしてきた。それが体制やイデオロギーの相違によりお互いに遠くなったのは過去の約100年である。
日本はかつて単一民族の国ではなかったし、朝鮮半島もそうであった。中国は昔から多民族国家であり、今もそうである。つまり、もともとは多文化が共生する社会であったのである。日本や朝鮮半島が単一民族国家という虚像を作り上げたのは、近代化に邁進し、「国民国家」を造り上げる過程であった。
実際は、日本にはアイヌ民族や琉球民族が存在しているが、国はそれを認めようとしない。日本では元外国人だった人が日本国籍を取得するのを「帰化」というが、私はその言葉は可笑しいと考え、「帰化」ではなく「国籍取得」と言っている。なぜかというと、「帰化」という言葉はその国に帰属し、精神的にもその国民になるという意味で使われている。私は中国で生まれ育ったが中国に「帰化」しているわけではなく、「朝鮮人」または「朝鮮族」として生きてきており、同時に中国の文化を部分的に受け入れているのである。こともの時から「中国人」という意識はほとんどなかった。そして隣の町に行くと、中国人から「高麗邦子」(コリバンズ=朝鮮人に対する差別用語)と言われながら追われ回され、虐められたことがある。二十歳まで中国語もほとんど話したことがなく(中国語の勉強は日本での英語教育程度受けたが)、中華料理もほとんど食べたことがない「中国人」であった。
北京で大学に通うとき、初めて自分は中国籍であり、「中国人」だと=中国の少数民族の一人だと分かった。田舎での差別言論や行為は北京ではほとんど感じたことがない。なるほど北京市民は教育水準や文明水準は高い、少数民族を尊重し民族平等を重視していた。1980年代まで食糧を配分する時代に、朝鮮族が配分される食糧には米の比率が他の学生より多く、助学金も少数民族が漢民族よりプラス@でもらう、就職も国が全部斡旋してくれる。中国はいろいろな民族問題はあるが、生活体験から観た中国は民族平等の社会なのである。
ところが、韓国や日本ではそのような体験がなかなかできないのが「アジア人」である私の率直な悩みである。日本で24年暮らし、韓国にも数十回言ったことがあるが、明らかに差別とかはあまり受けたことはないにしろ「よそ者」扱いされたことは常にある。つまり、「違い」を重視する考え方が日本や韓国では一般的だが、中国では「同じ」を重視する「大同小異」の考え方が一般的であった。
中国では漢民族が少数民族と婚姻することにあまり抵抗がない(少なくとも朝鮮族の場合)が、逆に少数民族が漢民族と婚姻するのに抵抗感を感じる。私の知り合いの朝鮮族で中国人(漢民族)と恋愛したり結婚したりすることで親の猛烈な反対にあったケースがたくさんある。つまり、漢民族はそれほど民族の違いに気づかない(ウィグル族やチベット族に対してはちょっと違いかもしれない)
韓国には華僑に対する差別構造が長い間続いていた。だから韓国での華僑の数は戦後段々減っていくのである。この二十年間、同じ同胞である中国から出稼ぎに来ている「朝鮮族」同胞に対しても、差別化し蔑視する事件が大勢発生し、一時社会問題になっていたという。最近では韓国でも多文化共生社会を目指す方向で少しずつ変化はあるが。
冷戦が終わり、国境の壁が低くなりつつある現在において、お互いに多様性を認め、共存・共栄するという価値観が求められているのではないか。ある学者は、東アジアの文化の中に共通しているのは「中華思想」を共有していることと指摘した。ここで言う「中華思想」というのは、中国の文明という意味とは違う、周辺の他の国や民族に対して、自己優越感や自己中心の考え方を表す言葉である。中国の歴史に「中華思想」があったのは当然のことであり発源地であるが、韓国にも「小中華思想」というのがある。かつて、中国で明朝が滅びて清朝が支配すると、朝鮮の人々は、満州族は野蛮民族(オランケー)であり、中国の儒教思想を受け継いだのは朝鮮(当時)であるといい、朝鮮こそ「中華思想」の正統性をもつという考え方で清朝に対立しようとした。さらに、日本に対しては、朝鮮は日本に大陸から学んだ文化を教えたので日本は朝鮮の弟分であると考えがあり、今もなおそのように考える人がいる。そして、朝鮮民族は東アジアで(世界で)もっとも優れた民族(ユダヤ人と同じだ)だとの自覚を持っている人も少なからずいるようである。
近代に入ってからの日本も同様の「中華思想」の持ち主になってしまった。そして近代化に成功した日本人は、自分たちこそ「アジアの盟主」になると考え、「大東亜共栄圏」を作ろうとしたのだ。その背後には「大和民族」の優越感があるようだ。
このような「中華思想」は、東アジアでいつまでも存続する基盤が現在ではなくなりつつあり、また克服すべき自己中心、自己優越感の思想である。「三国人」たちは、時代の変化に伴って自己意識を変革し、多様性を尊重する社会を目指さなくてはならない時代にきている。

その三:多文化・多民族共生の社会を目指せ!
「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議、国会両院で採択」をきっかけに、日本における多文化社会、多民族社会を一歩進めることをここで提案する。
日本の国会衆参両議院は、かつて2008年6月6日、それぞれ「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を全員一致で採択しました。「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」によってまとめられた決議案は、アイヌの人びとが、「法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない」とし、政府に、「先住民族の権利に関する国連宣言」を踏まえてアイヌの人びとを独自の言語、宗教、文化をもつ先住民族として認めること、「国連宣言」を参照しながら、有識者の意見を取り入れ、総合的な施策の確立に取組むことを求めていた。
 実は、1996年、内閣官房長官の私的懇談会である「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が作成した報告は、アイヌの人びとの先住性を認めていたが、格差や差別是正、権利回復に向けた措置はとられず、文化の振興を趣旨とする「アイヌ文化振興法」が制定されるにとどまっている。また札幌地裁は1997年に、二風谷ダム事件において、アイヌの人びとを先住民族にあたると判断している。
国連の自由権規約委員会、人種差別撤廃委員会など人権条約機関の報告審議においても、政府はアイヌの人びとを先住民族とは認めていない。2001年の人種差別撤廃委員会における日本の報告審議においても、「先住民族」に関する具体的な国際的な定義がないため、判断することができないと述べていた。一方、人種差別撤廃委員会が、「先住民としてのアイヌの権利を更に促進するための措置を講ずることを勧告する」など、条約機関からアイヌの人びとに対する差別の懸念や権利確保のための措置の勧告などが出されている。その年の5月に行われた、人権理事会の定期的普遍的審査においても、複数の国から「国連宣言」実施に向けて政策をとるなどの勧告があげられている。
国会両院の決議も、前文で「国連宣言」の採択に言及し、その趣旨に沿って具体的な行動をとることが「国連人権条約監視機関から我が国に求められている」と述べている。「先住民族の権利に関する国連宣言」は、20年以上の起草作業を経て06年6月、第1回人権理事会において採択され、07年9月の国連総会で決議されました。46条から構成され、先住民族の自決権と、それに伴う政治的地位を決定し、自由に経済的、社会的、文化的発展を追求する権利、強制的な同化や文化の破壊にさらされない権利、自分たちの土地から立ち退きを強いられない権利などを含まれ手いる。ほかにも、伝統的に所有、占有などをしていた土地や資源に対する権利を認め、自由でかつ情報に基づく事前の同意なしに収用、占有などされた場合には、原状回復や公正な補償を得る権利をも規定している。人権理事会での採択の際、日本は、集団の権利や財産権に関する規定について解釈を付しながらも賛成している。
政府は、国会においても、アイヌの人びとが北海道などに先住していたことを歴史的事実と認めているが、先住民族かどうかは「答えることができない」と答弁していた。決議を受け、官房長官は6日、「政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとの認識の下に、『先住民族の権利に関する国際連合宣言』における関連条項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む所存」と、アイヌの人びとが先住民族であることを認め、施策確立のための有識者懇談会の設置を検討する談話を発表した。
 しかしながら、日本では未だに民族差別が深刻であると、国連人権委は指摘し、新しい法律を成立し、改善するよう求めている。以下は、国連人権委員会特別報告について紹介する。

 2005年7月国連人権委員会特別報告者(人種差別・外国人恐怖症担当)のドゥドゥ・ディエン(セネガル)及び国連人権高等弁務官事務所人権担当官が訪日し、宇治市の在日朝鮮人集落であるウトロ地区を始め、被差別部落、各行政当局を訪問した。

 9日間の滞在で、「日本では被差別部落や在日韓国・朝鮮人などに対し深刻な差別があり、政府は(包括的な反差別法などの)対応措置を講じる必要がある」との報告書をまとめ、またその報告書の中で、法務省入国管理局の実施している不法滞在の電子メール通報制度を「外国人排斥の風土を助長」しているから撤廃するよう勧告した。
 さらに、アイヌ民族や朝鮮半島出身者への差別解消策として、歴史教科書を改善するよう提案、国連総会に提示する考えを示した。また、取材に対し「日本政府は今回の訪問に協力的だったが、当局者の多くは民族主義と人種差別の深刻さを理解していない。政治家が民族主義的な態度で民衆の感情を煽っていることを憂慮する」と述べ、石原慎太郎都知事の所謂「三国人発言」に対して政府が何らの態度表明もしないことに懸念を示した。2005年11月には、同・ドゥドゥ・ディエン特別報告書は国連総会第3委員会(人権)で日本における人種差別を問題にし、包括的な人種差別禁止法の制定を訴えた。
 以上は、私は6年前の2008年に読んで、記録として残した記事のまとめである。
 グローバル化の時代は、日本人や日本国民だけで生きる時代ではないことを自覚すべき。大勢の日本人は海外に移住・永住などをしているのと同じように、大勢の外国人も日本に移住・永住している。それらの人々に差別的な待遇や目線で対応するような社会に、日本はなってはならない。そのためには、日本にいる元外国人(日本国籍取得者)にも、自分の民族の言語や文化を利用できるような、いわゆる「多文化共生」の社会環境を整備しなければならない。と同時に、日本に現実的にいるいろんな少数民族を法律的に認めるような法整備も必要である。

 実際に、日本にはアイヌ民族(北海道・千島の先住民)以外にも、ウィルタ民族(樺太先住民)、ニブフ民族(樺太先住民)、琉球民族(沖縄先住民)、在日華人、在日朝鮮・韓国人(帰化者)、日系ブラジル人、など、民族集団として存在している。それらの人々は、日本国籍を取っている以上、日本国民であり、それぞれの文化を持つ民族であることを日本の政府や日本国民は認めるべきである。それをしてこそ、日本は世界に開かれた品格がある国になる。

 
最後に、安倍首相はヘイトスピーチに対して、「非常に残念なこと」とコメントを発表した。私はその言葉を聞いてがっかりした。「美しい日本」を目指す首相が「残念」ということばでお茶を濁すようであれば、日本は多文化共生の社会にほど遠い感じがしてならない。
「美しい国」ではヘイトスピーチのような民族・人種差別は「絶対許せない!」「誇りと品格をもつ日本!」でなければならないというべきなのに。首相の口からこの言葉から出てくるかと思ったのに。それこそ「残念」。  以上   2014.11.15

               (筆者は北陸大学教授) 


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