「三笠宮と日中戦争」

■歴史資料

□「三笠宮と日中戦争」

◆三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より
   (聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員) 
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最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題 が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこ の問題についてどのように受け止められておられますか。 三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題 になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いて あります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、 ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をする のがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸 軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。

 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。  それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、 そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目 を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。  しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将 (陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪 (強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行っ て、直接聞いたことがあります。  日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと 聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の 時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されて いましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を 始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんが ありますね。

(「THIS IS 読売」1994年8月号 P54~P56) **インタビュー記事の紹介より 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)   一九一五(大正四)年十二月二日生まれ、七八歳。皇位継承順位は皇太子、秋篠 宮、常陸宮についで第四位。オリエント学者。(略)昭和天皇の弟。(以下略)