■「中国の最近の変化と中日関係について」 

中国対外文化交流協会 常務副会長   劉 徳 有
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日本で、中国は「資本主義」ではないかとよく質問されるのですが、私は 「社会主義市場経済」ですと答えます。勿論、資本主義か社会主義かの議論が あることは認めます。私は、この議論に深くかかわるつもりはありませんが、 権力を誰が握っているのか。ということを考えるのです。社会主義体制のもと で経済発展策として資本主義の手法を取り入れていると言えます。

今、中国は国家として「全面的な小康社会」を目指して建設をやっているの です。日本と違って、中国で「小康」というのは「ややゆとりのある状態」を 意味します。つまり、毎日の食事も着るものも一応間に合うだけでなく、やや ゆとりを持てる状態をさします。 こういう社会を目指して国の施策をやっているのです.

改革開放後20数年間の中国の姿を偏見もたずに見ていただければ、どなたで も、その大きな変化を認められると思います。 紀元2000年の中国のGDPは1970年のGDPに比べて4倍、経済の総量について言えば、世界で第6位を占めています。

しかし、GDPを一人当たりにしますと中国 は人口13億を持っていますので、百十何位となって問題になりません。日本と 比較した場合でも、日本は一人当たり35000$、中国は平均1000$ですが、こ れは平均であって奥地に行けば、もっともっと少ないのが中国の現状です。 しかし、文革時代と比較した場合、大きな変化が見られます。当時、物資は 極度に欠乏し、穀物・油はもとより食料品・布すべて切符制でした。そういう 時代は過去のもとなり、全国の大中都市ではどこにでもスーパーマーケットが あり、その数は次第に増え、商品も非常に豊かになりました。

冷蔵庫の普及率80数%、携帯電話の普及率30%以上、自動車も増えました。 たとえば、北京の自動車は1990年50万台でしたが2004年8月現在、2百30万台に なっています。もっとも、むかしは自転車の洪水で困りましたが、いまは自動 車の渋滞で大変です。なにしろ車はどんどん増えますから2008年のオリンピッ クまでに何か方策を講じなければならなくなっています。

絶対貧困人口も20数年の間に随分減りました。もともとは2億5千万人おりま したが、最近は3千数百万人に減少しました。これも大きな成果であります が、しかし、奥地にいけば、まだまだ貧困線以下の人は沢山いるのが現状です。 これを減らすにはもっと大きな努力が要ります。エンゲル係数で比較すると、 これも変化がみられます。都会の住民のエンゲル係数が1995年には51.7、それ が2003年には37・7に下がっています。農村も1995年の58.6から2003年の46.2に なっています。

もう一つ、中国には一年に4回ゴールデンウイークがございます。私は1960 年代から70年代に日本で記者活動をしておりまして、日本のゴールデンウイー クというのを大変うらやましく感じていました。中国にはそういう休みがなく て記事にする時どういうように訳してよいか困り、「黄金週間」と訳しまし た。今では、この訳で通っていますが、その「黄金週間」がいつの間にか日本 を追い越して一年に4回あるのです。

私は定年になり、毎日がゴールデンウ イークですが、新年、春節、メーデー、国慶節には土日を振り替えて大体1週 間くらい休みがつづきます。 観光も非常に盛んになり、このゴールデンウイークを利用して国内旅行は勿 論のこと、2万元か3万元出せばヨーロッパに行けるのです。 最近は、もっと安く行けるので日本旅行も増え、日本側も歓迎しています。 これも一般的に皆の懐が豊かになってきたことのあらわれだと思います。

私が70年代に日本で特派員をしていた頃には、こういうことは想像もできませ んでした。この20数年の間にこれだけの成果を上げたのは並々ならぬものが あったと考えます。 一時、それについて、二つの脅威論が持ち上がりました。一つは軍事的脅威 論、これは心配する必要がないと思います。と申しますのは今、中国は国内の 建設に全力で取り組んでおり、そのために必要なものは何よりもまず国内の安 定、そして世界の安定、とくに周辺諸国の安定を心から期待しているからで す。もし国内が安定せず動乱でも起きたら中国の経済はストップしてしまいま す。

勿論、周辺諸国あるいはアジアや世界に大きな問題がおきても中国経済は 大打撃を受けてしまいます。ですから、今、中国の為政者から人民大衆にいた るまで本当に戦争をしたくない。平和であって欲しい。動乱が起こらないよう にという気持ちを強く抱いているのです。 軍事費は、国が大きくなれば、自衛のための軍事費が増えるのも常識だと思 うのですが、中国の軍事費は、アメリカの19分の1、日本の2分の1でしかあり ません。しかし中国の国土は日本の26倍か27倍です.心配ありません。

それ ばかりでなく理念があります。それは平和を追求する理念です。一つエピソー トを御紹介します。 1962年に松村謙三先生が中国にお出でになりました。その後、松村先生は19 64年69年にもこられまして、いわゆるLT貿易を解決し、新聞記者の相互交換を 実現しました。 私は、この通訳を3回やりましたが、その時、松村先生は中国がこのように 経済を発展させていけば、そのうちに恐ろしく大きな国になるというように言 われました。私は外交の場での大事な通訳ですから、一字も余さず丁寧に忠実 に訳さないといけないと考えて、中国語でクーハータ、中国が発展していけば 「恐ろしい大きい国」になると訳したら、周総理がそれを聞いて「中国はいく ら発展しても決して他国を侵略するつもりはありません。

なぜならば私たちは あくまでも、『己の欲せざることは人に施すなかれ』を実行しますからどんな に大きくなっても侵略することはありませんと発言されました。結局、これは 私の通訳の不適切さが中国の平和政策を表明させるということになり、怪我の 功名みたいなものになり助かりました。ですから、中国はこれから平和の道を 歩みつづけます。日本もひきつづき平和の道を歩んでいただきたいと切に希望 いたします。

そして、もう一つの脅威論はいわゆる経済脅威論、これは中国が大きくなれ ば日本は空洞化され、日本の経済は脅かされるのではないかというものであり ますが、最近は下火になりました。なぜでしょうか。それは日本の企業がどん どん中国に行って投資したり、貿易も拡大し、それによって一時落ち込んだ日 本の経済がいくらか活気ずけられたからだと聞いております。日本の経済が少 しずつ上向いてきた、これは脅威でなく日本にとってもよいことで中国の経済 が発展することは日本の経済が発展することだと言うことになり両方ともウイ ンウインの勝ち組になる可能性が実践によって証明されたのです。

これからも ウインウインで行きたいと思います。 勿論、こういう変化のなかで文化建設の面でも大きな変化が見られます。そ れはあとでお話します。 さて、いま全般的に中日関係について関心が高まっておりますが、私も第一 線を引いてはおりますが、日本関係を50年間担当して来た者として関心があり ます。そして中国と日本の関係はこれからも末永く友好的に付き合って欲しい 気持ちが強いのです。

中国と日本は隣り合った二つの大きな国であり、影響力 を非常に持っております、この二つの国が敵視しあい、相対立することは良く ありません。おそらく、広範な日本の人民大衆も中国の大衆もそれを望んでい ません。 中日貿易を例にとって見ますと1972年国交回復の当時は10、4億ドルそれが 2003年は1336億ドルで百何十倍の伸びであります。日本の企業による中国投資 も大変な額に上り、いま世界のなかで3位を占めています。

日本との貿易も今 年は1500億ドルで、かって想像もできなかった数字です。ただ、最近の中国は アメリカ・ヨーロッパとの貿易が増えているのではないかという指摘がありま す。たしかにこの7月8月を見ますと日本を追い越しています。いろいろな理由 があると思いますが、一つにはヨーロッパ共同体の国数が増えたことによって 量も多くなった。アメリカとの貿易もやはり増えますが、それは構わない。日 本との貿易は有利な点が沢山あって絶対負けないと思いますし、総量から見て 増えると思います。

無償援助のことについては詳しくは申し上げませんが日本 から随分頂いております。それは中国の環境保護・教育・医療などいろんなプ ロジエクトに使用されております。そして無償援助・政府借款も世界で一番数 は多いのです。そして人的往来、これは1日1万人近い数です。1年350万人が行 き来しています。 こういう風に中日関係が発展している、これが主な一面です。しかし、それ と同時に両国の間に摩擦が生じていることも否定できません。

今、流行の言葉 で端的に言えば「政冷・経熱」、政治的には冷えこんでいるが経済は盛んに行 われている状態をさします。先日、ある人と話したのですが、その人の意見で は対日よりアメリカ・ヨーロッパとの貿易が伸びているのも「政冷」が響いて いるからではないかというのです。私はそれも一考に価いするのではないかと 考えます。

しかし、政治が冷え込んでいる最大の現われは、皆さん御承知のよ うに両国首脳の相互往来が中断されていることです。その原因はほかでもな く、小泉首相の度重なる靖国参拝にあることは言うまでもありません。 中日両国はともにアジアの大国であり、どちらも引越しできない隣人であり ます。その両国の首脳が正式に行き来しないのは、どう見てもノーマルな状態 とは言えません。

中国の首脳が若い人になったから、少し軟化するのではないかという新聞記 事があちこちにでていますが、私の考えでは中国の政策というのは独りで決め たのではなく集団で決めたのであり、しかも背後には13億の民の気持ちという ものがあるわけです。それを考えますと靖国参拝を首相としての小泉先生がつ づける限り、この問題の解決は難しいのではないかと思います。ネットや新聞 などを見ておりますと小泉首相は参拝のたびごとに中国に理解して貰えるに違 いないとおっしゃいます。

しかし、それを聞くたびに私が申し上げたいのは、 残念ながら中国の人は理解できませんとお答えしたいのです。 靖国の問題は被害者の中国の人から見れば、いわゆる文化の相違の次元でと らえるべきではないと考えます。それが国を代表する政治首脳のA級戦犯だっ たりすれば自分たちの心の傷に塩が振りかけられた気持ちです。感情が逆なで されたそんな感じです。

ですから広範な大衆からすれば、どうしても我慢ができない。皆さん考えて 見てください。日本の方もあの戦争で多くの人が命を落しました。自分の気持 ちで命を落したのでなくやむなく戦場に駆り立てられたのです。その家庭、ご 遺族はどんな気持であったか分かります。それと同じように中国のあれだけの 人が殺されてどれだけの家庭が不幸に陥ったか、それを考えていただければ、 「私は理解できます」などとは言え無いと思います。

いつも小泉先生は内政問題だと言いますが、しかし、私はあの戦争の張本人 であるA級戦犯、これは内政の問題でなくて、すでにアジア諸国の人民に被害 を与えた外交問題なのです。ですから、ああいう侵略戦争によって中国人民が 受けた塗炭の苦しみを日本の為政者はどう考えておられるのか。そこが知りた い。ですから、私は正直に言って、中国の人に理解してもらえるというのは小 泉さんが自分一人で決めておられるのではないかと思います。

その点について、ハーバード大学の入江彰教授が大論文を書いておられます。 『日中関係でいわゆる歴史認識問題が表面化して日本では一部の者がこの問 題を防衛・貿易問題とからめて中国政府が過去の戦争問題を持ち出すのは、日 本からより多くの援助をうる為であると言い、また一部のものは中国が日本の 教科書での戦争描写についてとやかく言うのを責めているがこれらの見解はす べて国際関係の中における文化の面を見落としている。

中国人から言えば、19 世紀以降の歴史は、いわば屈辱の歴史であり、この認識が中国人の建国の基本 をなしているのであって、もしこのことに無神経であるならば、日中関係は永 遠に飛躍的発展を遂げることはないであろう』と言われているのですが、これ は正論であると思います。 もっと平たく言えば中国の心を知っていただきたい。その心を知らなけれ ば、本当の日中友好を築き上げることはできないと考えます。

勿論、日本は所謂「脱亜入欧」から一時期「脱亜入米」になり、ついでアジ アを重視しなくてはならないという動きがございます、これは歓迎すべき動向 だと思います。しかし、私は日本がアジアに復帰するためには加害者であった という謙虚な態度が必要であると思います。過去の日本がアジアの国々にもた らした、あの目も覆いたくなるような災難について国内向けの奇麗事だけをい くら並べても、それは日本の一部に通用しても国際的には通用しないと思いま す。

中国を始め、アジアの諸国が問題にしているのは日本の内政でなくて、そ の国際的側面だと思います。残念ながら新聞を読みますと「この道は何時か来 た道」を思い起こさせる動きを心配する声が日本国内にも聞かれますが、日本 が戦後歩んできた平和発展の道、この道が日本を繁栄に導いたのです。

ですか らこの道を今後も歩みつづけることをせつに期待します。  ですから、私は、中日関係で二つの問題、一つは所謂、歴史認識問題、もう 一つは台湾問題です。この二つの問題で、たしかに日本が煮え切らないところ があります。私は簡単と言えば簡単だと言いたいのです。歴史問題で言えば、 アジアの国々の感情を傷つけないように、それを尊重すると言うこと、そし て、加害者であったことを認めると言う謙虚な態度をとること、もうひとつは そういうことがあってもお互いに友好を阻害しないように努力する。 台湾問題は簡単です。「一つの中国」と言う原則をあくまでも貫くというこ とだけでよいのです。今、台湾独立の動きがありますが絶対反対です。

なぜな ら国交回復の三つの原則、その原点をあくまでも守ることが大事だと思いま す。 以前そういう問題に触れた場合、私はいつも考えるのですが、両国はすでに 21世紀に向けて平和と発展のための友好協力パートナーシップを構築しましょ うという目標を掲げておりますので、その目標を実現するためにお互いに努力 する。

そして不安定で予測しがたい要素が加わるということ、これを警戒 しないといけない。こうした問題を解決して突発的あるいは偶発的な要素が中 日関係の大局に副次的な作用、あるいは破壊的な結果をもたらさないように避 けるために両国関係各分野でバランスのとれた協調性を保持する。そして両国 の共同繁栄を目指していくことをお互いに真剣に考えていくべき時にきている と思います。

そしてこの原点に立ち返るべき問題に戻った時に、やはり一部ですが日本でよ く聞かれます、中国はいつも日本に対して謝れ謝れと言っているではないか、 いつまでたったら終わるのか。というのです。

そのとき、私は思い出すことがあります、それは1960年安保の年、野間宏先 生を団長とする日本文化者代表団、そのなかには大江健三郎、開高健、といっ た方々がおられました。その代表団が 北京で陳毅副総理に会われたのです が、「自分は安保闘争で日本人民を見直した、かつての日本の侵略は過ぎたこ とにしよう」といいましたら、野間先生が「いいえ日本人としては忘れること はできません」と言ったのです。私が通訳したのですが、陳副総理はひざをた たいてそのとうり、日本人が忘れないといい、中国人が忘れようといって初め て真の友情が生まれるのだと言われました。あれから44年もたっているのです。

私の鮮明に記憶に残っている正論でありま す。日本人は忘れるなと言っているのではありません、正しく認識するとい うことであり、つまり正しく過去を見つめ、それから未来に目を向けることが 大事だと思うのであります。日本人が過去を忘れない、中国の人はおおらかに するとき真の友情が生まれる。今後この線で行けば仲良くなれるのではないで しょうか。

ただ、その際に中国の人は「よく理解して下さい」などと言われる と、13億の民の多くの人が、ああいう被害を受けておりますので、なにを言う のだという気持ちになってしまうのです。 勿論、私たちはそんな狭い民族主義はいけませんといっているのです。しか し皆を抑えるわけにはいきません。ときどき、いろんなところでそんな声が ブーイングとなって聞こえることがあります。

しかし、それは中国の政府がや りなさいと言っているわけではありません。中国の日本に対する政策は変わっ ていないのです。やはり中国でいう「前記を忘れず」、前のことを忘れず、そ して後事の戒めとする。そして歴史を鏡として未来を志向する。という精神と 一致していると思います。  それについて最近、中国の二・三の学者が「中日関係の新思考」ということ を打ち出しております、時代が変わってどんどん世の中は動いていきますから 新しい思考が必要であるということも分からんでもありませんが、しかし、あ れをよく読むと大事な点が抜けているように思うのです。

まず原点を忘れてお ります。原点を忘れては新しい中日関係などはありません。それに平和発展の ための友好関係・パートナーシップの構築もできなくなります。私は原点を忘 れない、そしてお互いに敵視せず、世世代代にわたって友好的に付き合うとい うこの方針、中国は変わっておりません。 鄧小平さんも言っているように第一歩は21世紀に置き、22世紀、23世紀へと発 展させていくため永遠に友好関係を保持していかなければならない。このこと はわれわれの間に存在しているすべての問題の重要性を超越している。

この意 味は深いと思います。私は原点を忘れず、中日関係の実際から遊離しないよう な新思考なら賛成です。そこから遊離したようなものなら、これは非科学的だ と思います。 それでは本当の友好は生まれないと思います。今後、共同発展・共同繁栄を図 るためには、中国の言葉にある「諍友関係」=(そうは言偏に争うという字) をつくりたいと思います。この諍は日本では「いさかい」といいますが、中国 ではいさかいという意味はありません。どういう意味かといいますと、お互い に何でも言える仲ということなのです。"そうゆう"中になりたいと思います。

そして、最後に私は1955年の12月郭沫若先生について通訳で日本を訪問しまし た。日本に着いて間もなく、先生は岩波書店の創始者の岩波茂雄先生のお墓参 りをしたいと言われました。  当時私は24歳でしたが、戦後初めて日本にきて日本の人の墓参りをするとは 郭先生おかしいなと感じました。とても革命をやった中国では考えられないこ とで、何ごとだらうと思いました。

そして北鎌倉にある東慶寺に行き先生は岩 波家の御遺族がおられるなかで日本式に桶から水を汲んで墓石に流して中国式 に3度礼をしました。私はそういう日本の墓参りは始めてでした。 そのあと、寺の座敷で歓談されたのですが、お坊さんが色紙を出されたので先 生は考えて、こういう詩を書かれました。

生前未だ遂げず識荊の願い 逝後空しく余す掛剣の情 和平を祈らんがために三たび脱帽す 望むらくは冥福をもって後昆を裕かならしめん。  (原文の日本語読み) (原文略)意味は、「生前いまだとげずしきけいの願い」、生前この人に会い たかった。 待望の人に会うことを「しきけい」といいますが、それが遂げられなかった、 「空しく余す掛剣の情」とは、剣を掛けたけれどむなしい。

これは故事です。 「和平を祈らんがために、 三たび脱帽す、望むらくは冥福でもって後昆を裕 かならしめん」の後昆(こうこん)とは子孫のこと)掛剣は春秋時代の故事で 呉の国の王子で「きさつ」という人がいて剣を下げて各国を歴訪する任務で除 の国に来ました。その王様は大変立派な人でしたがその王様が剣を欲しがって いるのはわかっていましたが、彼はまだ任務を終えてないので差し上げるわけ にはいかないとことわりました。帰りに渡そうと寄ったときには、王様は亡く なっていました。

そこで「きさつ」は除の王様のお墓に行き、欲しがっていた剣を松ノ木に掛け て自分の気持ちを表したのです。 郭先生もお礼を言いたかった。何故かというと、それは1937年、盧溝橋事変 が起こった後、先生は、ある朝、市川の住まいから脱出して中国に戻り、民族 解放闘争に身を投じたのですが残された日本人の奥さんと子供は迫害を受け た。それを知った岩波先生は生活と子供の学費をみますとわざわざ市川に行っ て上の子2人の面倒をみたのです。一度も会ったことのない恩人の岩波先生に お礼を言うために今日来たけれども、すでに亡くなっている。 私も「きさつ」と同じように剣を掛ける以外にお礼の言いようがない。そう いう意味です。

空しいけれどそういう形でお礼を申し上げたのです。ついで正座して改めて 遺族の方にお礼をされました。岩波先生のお陰で上の子は大連の化学の研究所 で研究員をしており、二番目は上海で仕事をしております。私はなんといって お礼をいってよいかわかりませんと言われました。これは余り知られていない 人の心を打つ日中友好のエピソートだと思います。

このなかに何があるのか。 「情」があると思います。私は、今後の中日関係は「利」は大事です。お互い に儲からないで貿易はしないでしょう。儲かってよいのです。お互いの国の民 が豊かになるのは良いことです。しかし、大事なことを忘れてはいけないと思 います。それは「情」です。やっぱり「情」があって始めて確りした友好の基 礎ができるのではないかと考えます。私は今後の中日関係をやはり、そうあっ て欲しい。両国の多くの先覚者のような人物がこれからも輩出するよう心から 願うものであります。

※ 劉徳有略歴;

1931年大連に生まれる。

1952年北京・外文出版社「人民中国」編集部 1954年始めて日本超党派国会議員団通訳。

1964年まで毛沢東・周恩来・朱徳・ 陳毅・鄧小平・王震など多くの幹部の通訳を勤める。

1964年中国記者団に加わり東京へ。以後、新華社主席記者などとして滞日取材活動。

1984年中日友好21世紀委員会中国側委員就任。中華人民共和国文化部(文部省)部長補 佐に任命さる。

1986年中華人民共和国文化部副部長就任。 1990年中華日本学会会長に選出。1992年天皇・皇后訪中時、故宮ご案内。 1996年文化部第一線引退。中国対外文化交流協会・中華日本学会などに専念。 2000年勲二等旭日重光章受賞。

※ 著書; 「日本探索15年」「日本語の面白さ」(サイマル出版社) 「時は流れて」上下(藤原書店) など多数。

※ この記事は2004年9月20日、評論出版訪中団・日本出版学会共催の劉氏歓迎 会が東京・学士会館で行われた際の講演速記です。

なお、日本側の植田康夫 (上智大学教授・出版学会会長)・渋谷裕久(講談社顧問)両氏の発言は省略 してあります。文責は「オルタ」編集部加藤宣幸にあります。

※なお、評論出版訪中団にはメールマガジン「オルタ」の関係者として加藤宣幸・ 鶴崎友亀・細島泉の3名が参加しております。