「今井素牛之日記」刊行の記

【コラム】落穂拾記(45)

「今井素牛之日記」刊行の記

羽原 清雅


 妙なことからこの一年間、1冊の本の出版を手伝うことになり、やっと猛暑のなかで完了した。門外漢が手掛けたのは、幕末から維新期にかけての日記の解読的復刻で、知らない土地の150年前の事象であり、苦労はあったが、思わぬ勉強をさせてもらった。

◆日記の概要◆ 残された日記は維新前の1859年から、没年である1878年まで20年間のうちの14年分。おそらくもっと以前から日記をつけ、欠落もなかったのだろうが、火事も多く、水害も多い地域だったことから損なわれたのではあるまいか。惜しいことではある。
 和紙に毛筆で綴られ、漢字中心の読みにくいものをパソコンに打ち込んだのは郷土史家の金井清敏さん。高齢にもかかわらず、50万字を3か月半で仕上げている。この作業がなかったなら、筆者の立ち入るスキなどはなかった。また、出版に踏み切ったのは小布施在住で、素牛の4代あとを継ぐ建築・宅建業を営む今井重人さん。筆者が担当したのは、120余項目の解説、日記の見どころ約230項の語註など。
 大判のB5版、445ページに及ぶ上製クロース装のもので、文藝春秋社から出版された。頒価は8,000円と高い。

◆素牛のこと◆ 書名は『今井素牛之日記 — 幕末維新期・信州小布施の庶民生活』。素牛(1805<文化2>−78<明治11>)は、信州小布施に生まれ育った修験者で、金胎寺の住職だったが、維新初期の廃仏毀釈政策によって在家の神官、つまり神主となった人物。
 素牛は、小布施界隈の知識人のひとりで、高井鴻山はじめ儒者、詩歌人、書家、僧侶たちと交流があり、漢詩の会などを定期的に開くなど、地域文化に寄与していた。豪商・豪農・酒造業の鴻山は、江戸にも住み、吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内ら幕末の志士たちを支援したり、小布施に葛飾北斎を3、4回招いたりした。いまも小布施に記念館を残し、彼自身の妖怪画や書、北斎の浮世絵などを見せて、小布施観光の一翼になっている。

 素牛の日常は、宗教人として地元の人たちの相談にのり、卜占を扱い、葬祭や四季折々の行事や祈願追悼の式を主宰する一方、私塾を開いて子女の教育に当たり、明治初年には小学校開設に力を入れ、また罪人たちの教誨に取り組むなど、社会活動にも活躍していた。いまのように情報や教育に接することも容易でない時代に、片田舎の庶民の間に、このようななんらかの目標を持ち、自ら機会を探り、学ぶ努力を重ねる教養人がいたことが、地域の文化や子どもらの教育熱を高めて、地域の文化を支えていたのだ、と日記を見ることで改めて気づくのだ。
 また日記には、酒や食べ物の記述も多く、愛酒家であったことがわかる。「大酔」「グデングデンにて」など、なんとなく人柄に親しみを覚える表記もある。また、小鳥や盆栽、花を愛し楽しむ様子から、穏やかな性格だったことも読み取れる。

◆幕末から維新へ◆ 日記を見て、歴史的価値に耐えるほどのニュース性はないが、当時の民衆が幕末や新政府の政策への受け止め方はじわっとわかってくる。結論的にいえば、庶民は強し、の感がある。それに、庶民のごく当たり前というか、どのような日常であったかがよくわかる。
 たとえば、天皇の使者が小布施を通過したり、衰退幕府を支持する長岡藩に迫る岩村精一郎(土佐)の一群が大砲と兵士を連れて通過したりする戦乱期の記録があるが、こうした点は部分的なことにとどまり、必ずしも歴史の解明には役立たない。しかし、戦場にもなりかねない地域の不安はよく伝わってくる。もっとも、この落ち着くことのない世相ながら、素牛たちの生活はびくともせず、相変わらずに「喫茶」「快眠」と書く。

 孝明天皇逝去の報は3週間後、明治改元の報も1ヵ月後など、中央の動きが小布施に届くまでにはかなりの時間がかかっている。だが、従来の高札が取りはずされたあと、明治初年に五箇条の誓文が出され、五榜の掲示が町中に掲示されたのは翌日、という速さだった。当時も、庶民向けに徹底する必要があった事柄では、それなりの「行政力」があったのだろう。
 新政府が1870(明治3)年に採用した「日章旗」は、明治7年の神武祭、天長節、翌年の孝明天皇祭、神武天皇祭には「村々幟揚家別旭章旗揚」などと記録されている。幕府から朝廷・天皇の時代へ、の象徴として徹底されたのだろう。素牛が病逝する直前の1878(同11)年には、明治天皇の巡幸があり、善光寺から新潟に向かっている。
 地方自治の制度は、1871(明治4)年に戸籍法が制定されて以来、従来の村々の庄屋、名主、年寄などの統治から、戸長、副戸長に替わり、地域は大区・小区に分けられたが、上からの指令は実態にそぐわなかったのか、なんども地割を変える必要に迫られ、1889(同22)年の町村制になって、やっと落ち着くことになった。そんな状況も記録されている。伊那、中野、長野各県が合併された経緯もそのような一例だろう。

 廃仏毀釈政策によって、素牛は僧侶から神職に変わるが、相次いだ廃寺、その荒廃のためか連発した寺院の火災、修験者の圧迫と減少、神道重視の中教院設置や教導職設置などの変化に翻弄される様子、あるいは「菩薩」が「神」の名に変えられるなど、宗教界の変革のむずかしさも読み取れる。
 名字の採用、徴兵制度の導入、「邏卒(巡査)」の配置、増やしすぎた小学校の統合、洋算の授業での指導、地租改正をめぐる動向、陰暦から太陽暦への切り替えなど、新時代への制度改革の動きも示されている。ただ、素牛はそうした変動を比較的穏やかに受け止めているのだが、その評価や問題点などにはあまり触れておらず、その点は惜しまれる。

◆徴兵制と一揆◆ 新時代になって徴兵制導入前の戊辰戦争で、小布施第一号の戦死者を出した。「善平 戦死一周忌」とある。「小布施町史」には記述はなく、日記が初めての記録となった。その後、素牛の女婿が徴兵されて上京したり、最初の対外戦となる台湾出兵に凱旋したとして日の丸の旗を立てたり、西南の役にまたも素牛の娘婿が出かけるなど、戦争への波紋は広がっていった。小布施からの戦没者は西南戦争1、日清戦争2、日露戦争の出征100人余のなかの20人、上高井郡全体での死者99人と、この地域の死者は第2次世界大戦に向けて次第に増大した。
 維新期に、この地域でも大きな農民一揆が発生している。松代、須坂、中野、六川をはじめ、さすが「信濃の一揆は全国一」とされる土地柄である。餓死寸前の農民ら203人のいた中野では、約2000人が蜂起、中野県庁はじめ周辺を含めると600戸近くが焼かれたが、一方で一揆参加者は約600人が逮捕され、28人が死刑、124人が徒刑10年、ほかに数百人が処罰を受けた。日記にはもちろん、数字や経緯などは出ていないが、騒擾の様子などが記されている。社会的混迷期の貧富の格差、あるいは格差の蓄積が蜂起を招き、さらなる悲惨を生む様子が改めてわかってくる。

◆日常の暮らし◆ コレラ、天然痘、赤痢などの流行病が隔年のように波状的に襲い、子どもを中心に多数の犠牲者を生んでいた様子がわかる。薬に頼れず、素牛によるような宗教的祈願に依存せざるを得ない。病気は最大の懸念材料であったことがわかる。
 火災、水害、老熊の襲撃、博打、泥棒、脱獄、水死などの事故、出奔、駆け落ち、贋金作り、離婚騒ぎなど、今日的な犯罪や社会面的な事象も多く述べられており、当時としては深刻だっただろうが、読み進むとつい親しみを誘われるところもある。
 また、牛肉食べ始め、人力車の流入、当時収入源として普及し始めた養蚕の取り組み、新たに稼働し始めた製糸工場見学、郵便のお目見え、道路普請などの公共事業への住民の参加など、社会の動向にも興味がわく。
 江戸時代の庶民の悩みは、天候不順や洪水などの天災、害虫などの発生などにより生産物、食糧の供給が不足だったことだった。そこに人為的な苛斂誅求が加わると、さらに生命の危険にもいたる。
 維新期には、そうした年々の天災型の悩みのうえに、租税改正や秩禄処分、地券、金券の発行など、制度改革に伴う厳しさが加わっている。養蚕用の桑の価格、銭相場の不安定ぶり、金札発行に伴う詐欺的な風評などが日記に取り上げられ、また神仏への奉賀金寄付を依頼に歩くと、断られて「金詰り」「古今未曾有の不形勢言語に演難し」と書く。

 宗教者である素牛らは、幕末に修験者にとっての霊山・秩父三峰山に登り、また雨乞いのために志賀高原・琵琶池、須坂・瀧山不動、野尻湖、戸隠山などに出かけている。
 とくに日記でおもしろいのは、1862(文久2)年の50日間に及ぶ熊野・高野山への関西方面への長旅である。これには、息子の税も同行している。中津川沿いに岐阜、滋賀に出て京都入りし、さらに大坂、紀伊を経て高野山へ、多武峰、天理、大津、草津から二見が浦、熱田宮、名古屋、高山から信濃路を経て帰郷している。高野山苅萱堂に参り、その落書きぶりに驚いて、「堂守の馬鹿坊主」に「信心の念を失ひあきれ果て」開帳料など「たとひ一銭たり共此様成気違坊主の腹を肥やして遣すも余り残念」「たわけ坊主のあたまへ」石ころを打ち付けてほしい、としたためて小石とともに包み、水引をかけ「奉納」と書いて寺の庭に放り込んだ、と日記にある。素牛はこのような正義感や誇りを述べたり、ばかばかしいとか、呆れ果てたとか、率直な思いを書いたりしている。そこに、素牛の素朴な人柄が読み取れよう。

◆素牛日記の意義と価値◆ 庶民の生活を描いた素牛の日記は、当時の生活状況を描出しているところに価値がある。幕末維新期の日記はほかにも残されており、これまでも大きな歴史解明のためのデータを提供している。そうした知識はないので、「日記に読む近代日本」(井上勲編・吉川弘文館)を参考にさせてもらう。
たとえば、蛮社の獄を招き、天保の改革を推進したが失脚した鳥居耀蔵(1796−1873)の日記、幕臣で日露交渉の全権使節としてプチャーチンとの交渉に当たった川路聖謨(1801−68)の長崎、下田をはじめとする日記、咸臨丸で太平洋を横断、また江戸無血開城に導いた勝海舟(1823−99)の海舟日誌などの記録がある。
 薩摩の大久保利通(1830−78)には簡潔なメモ程度のものがあり、長州出身の
木戸孝允(桂小五郎、1833−77)には岩倉欧米使節団の一員として外遊した時の日記がある。
 また、幕末の志士で長州の久坂玄瑞(1840−64)と高杉晋作(1839−67)、土佐の坂本龍馬(1835−67)と中岡慎太郎(1838−67)もそれぞれの日記を残している。さらに、公卿の中山忠能(1809−88)、大名の伊達宗城(1818−92)、長岡藩士の河井継之助(1827−68)などの日記がある。

 素牛とほぼ同時代の人物によるものだが、これらの日録はいずれも中央や幹部としての活動に関わるもので、素牛日記の日常や表出対象とはかなり異なっている。
 市井の人のものでは、神田の町名主・斎藤月岑、京都の商人・高木在中、大坂商人・難波武兵衛らの日記があるというが、小布施・素牛の日常とはかなり違うので、それぞれの味わいや資料としての価値も異なるだろう。

 つまり、庶民生活をつぶさに描いた点で、この素牛の日記は新たな記録を提供したのではあるまいか。
 そのような視点から、研究者の目から検討するとともに、誤りも正していただければ、編著に努めた喜びも倍加するに違いない。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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