「併呑力」と政治
〜加藤宣幸さんを偲んで〜

菱山 郁朗

 「清濁併せ呑む」という言葉がある。善・悪の分け隔てをせず、来るがままに受け入れることを意味し、一筋縄では行かない政治の世界でよく使われている作法だ。理念や原則は大事だが、時には互いに歩み寄って譲歩しなければ合意は成立しないので、多少濁った水を飲んででも、物事を前に進めることが肝心だという考え方だろう。「綺麗ごとだけでは、中々問題は解決しないのだ」という諦念であり、「異なった価値観も受け入れる度量の大きさ」を示している。

 この言わば「併呑力」のようなものは、権力闘争を戦い抜いてきた、自民党や社会党の派閥の領袖が持ち合わせていた必須の技量であった。田中角栄、福田赳夫、中曽根康弘などの首相経験者を初め、野党でも江田三郎、佐々木更三、春日一幸らもその巧みな技の持ち主であった。情報力、人心収攬術や政治力とも重なる。一歩間違えれば「無原則・無節操」と言われかねないが、筋を通しながら臨機応変に大胆に「併呑力」を発揮させることが、政治の高度な技とも言えよう。

 その「併呑力」を存分に発揮して、「オルタ」代表として活躍して来られたのが、加藤宣幸さんであったと思う。加藤さんは聞き上手の度量の大きな方で、どんな人とも胸襟を開いて突っ込んだ政治談議に花を咲かせておられた。私の青臭い意見を微笑み返しで受け入れて下さった。芯は強く信念を持ちながら幅広くいろいろな意見や主張に耳を傾け、大局的に物事を判断しておられる方だったと思う。

 加藤さんとの出会いは、かなり前だったが、親しく言葉を交わしたのは、7〜8年前のことで「江田三郎を偲ぶ会」がきっかけである。1966年、大学の卒業論文に「構造改革論」を書いたことが出発点で、10年後に政治記者となり、「江田三郎番」を担当し、氏の離党・非業の死にも直面した。その流れで加藤さんと出会うことは宿命であった。

 江田さんの名前は、ジャーナリストであった父が昵懇の間柄にあったために、中学生の頃から聞いていたが、本人を目の当りにしたのは、見学した社会党大会だった。その頃読んだ週刊朝日の特集「江田ヴィジョンの敗走」という記事の影響が大きかった。当たり前のことを言っているのに、それが葬り去られるのは何故か、社会党とはどんな政党か、「構造改革論」とは何か、江田三郎は何故敗れたのか…学生ながら政治に関心を持っていたので、これらの疑問を解いてみたいというのが、「構造改革論」を卒論に選んだ理由である。

 イタリア共産党の歴史や社会党の路線論争・派閥抗争などを調べるうちに、論文はどんどんと膨らんで行く。ノンポリ学生であった私に左翼用語は難解だったが、書き終えた時の達成感は大きかった。それから江田三郎番、加藤さんとの出会い、「オルタ」への出稿という運命的な因縁へと「赤い糸」のようなもので繋がれて行く。だから加藤さんの訃報を聞いて直ぐ脳裏には、卒論や江田氏、その息子五月氏、「江田さんを偲ぶ会」のことなどが、走馬灯のように駆け巡った。

 加藤さんという巨大な方が亡くなり、その喪失感はあまりにも大きい。江田さんが急死した時、「江田三郎という大黒柱を失った社会市民連合は…」という原稿を書いた。まさしくその時とダブってくる。だが、加藤さんの遺徳を偲びながら、つくづく実感するのは、「赤い糸」は絶対に切れることはないということだ。私のような若輩者の意見を最後まで聞いてくれた、「併呑力」豊かな加藤さんの御冥福を心よりお祈りする。 合掌

 (日本大学客員教授、元日本テレビ政治部長)

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