「信頼」を失う社会状況

【コラム】落穂拾記(46)

「信頼」を失う社会状況

羽原 清雅


 政治でも、経済でも、すべて法的なルールに適合すれば、なんでもできる、というわけではあるまい。根底には、人間関係やルール自体に「信用」「信頼」がなければ成り立たないだろう。
 最近の動きを見ていると、どうも信頼といった道義的な配慮が薄らいでいるのではないか、このような状況が続けば、「不信」「疑惑」が横行して、健全な社会は徐々に成り立たなくなるのではないか、といった素朴な感慨を覚えてならない。

 最たるものは、安保法制成立の前提になる集団的自衛権の行使容認に必要な憲法9条の解釈を変更するにあたっての閣議決定(2014年7月1日)の際、「法の番人」とされる内閣法制局がこの問題を検討する過程の公文書を残していない、という問題である。
 経過はこうである。この閣議の前日の6月30日、内閣官房の国家安全保障局が内閣法制局に対して、閣議に諮る決定文案の審査を求めた。これについて、法制局は翌日、電話で「意見なし」と伝えて、横畠裕介法制局長名義のごく形式的な決裁文書を送り、これに基づいて閣議決定されたのだ。

 まず、このプロセスだけでもおかしい。

 1)11もの法案を束ねた立法、かつ賛否の分かれる内容の検討がわずか1日、はおかしくないか。
 2)ごく簡単に「意見なし」という電話による回答だけで済ませられるのか。
 3)横畠裕介長官の国会での答弁は「局内で議論をした」「反対意見はなかった」と答弁したが、公文書もないし、時間的にも議論が  行われた形跡は見られないではないか。
 4)形式的な決裁文書だけで済ませる事例があるとはいえ、「議論」 「判断」の状況を説明せずに二分した世論を納得させられる、と考える姿勢でいいのか。
 さらにいえば、
 5)1972年の政府見解は「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」というもので、40余年ぶりの大転換に至る論拠を国民の前に示さなくていいのか。
 6)集団的自衛権行使容認の立場をとった小松一郎氏を前例にないような形で法制局長に据え、彼が亡くなると同じ立場の横畠氏を就任させるなど、方向を決めてから形式だけのために法的検討を進める政治姿勢、さらに検討もせずに、思いのままの方針を決定するための内閣の人事権行使はまさに権力の乱用ではないか。
 7)歴代法制局長官が「違憲」と判断し、従来の見解を正しいとするなかで、「合憲の解釈変更」という以上、現法制局は国民に対して、説明責任を果たすべきではないのか。
 8)安倍政権再登場のあと、首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を再開して、これが安保法制決定の論拠となっているが、「私的」に同調メンバー多数による論議によって「形式」を整えること自体、国論を二分する問題を取り上げる舞台にはなっておらず、「法の支配」を否定する権力者の恣意的、非民主的手口ではなかったか。

 つまり、安保法制化は終始、私的懇談会の決定 → ご都合主義の法制局長官人事 → 記録なしの法制局決済 →「お仲間」による閣議決定 →「数」による国会論議と採決、といった非民主的な手続きによって生まれた。

 今後、違憲訴訟が起こされても、閣議決定に至る公文書がなければ、政権の責任を特定しにくく、逃げ切りを許すことにもなりかねまい。あるいは今後、自衛隊が遠隔の地での戦闘に参加して、多くの被害者を出すようなことになった場合、遺族による法廷闘争になったとしても、法制局に議論の証拠がないとすれば、政府の責任を問うこともできないことになるだろう。

 このようなことが続けられ、野党もメディアもたいした追及ができなければ、権力は思いのままに社会を動かしていくことが可能になる。悪い前例を残したものである。安倍政権の怖さでもある。

 自民党政治ばかりではない。
 民主党政権時代でも、原子力災害対策本部や緊急災害対策本部など、いくつもの震災関係会議で会議録が残されていなかった。権力がその意思を決定する過程での記録を後世に残すのは当然であり、公文書管理法で義務付けられているはずだ。このような違法行為がまかり通ることは、どのような政権であれ、許されるものではない。

 つまり、国民の信託を受けたはずの政権の不法行為は、その後の政府への信頼を損ね、不信をばらまくことになる。一過性で済ませてはならない重要なことである。まさに、信なくば立たず、である。
 安保法制国会では、参院の特別委員会の終盤で与野党の激突によって、速記録は「議場騒然、聴取不能」となった。だが、鴻池祥肇委員長の判断で公式の会議録は「質疑を終局した後、いずれも可決すべきものと決定した」「なお、両案について附帯決議を行った」と直された。物理的な状況として、与党側がそのように図らなければならない事情は分からないではないが、重要法案だからこそ、こうした姑息な手口による「ウソ」は許されない。

 安倍首相は安保関連法案の成立時期を米国に行って、公言した。また、河野克俊統合幕僚長も米軍幹部との会談でこの法案の成立時期について発言、共産党の追及資料との一部の差異を理由に防衛省側資料を提出しなかった。対等的な対米関係とは思えない「おもねり」「迎合」の揉み手外交ではないか。属国や植民地でない以上、日本の国会での審議途上の事案についての公式発言は避けるのが当然である。沖縄・辺野古問題の処理にも見られるように、国民を重視した説明責任を果さないことはさらに不信を拡大し、民主主義の大前提を崩すことにもなりかねない。

 安倍首相は、山口繁元最高裁長官の違憲発言について「今や一私人の発言だ」とかわした。事実としては、その通りだろう。だが、最高裁長官の経験者のみならず、歴代の内閣法制局長官も違憲を指摘しているなかで、逃げを打つばかりでは「十分な説明をする」といった首相の言とは大きくかい離する。

 この「一私人」発言とは裏腹に、元最高裁長官だった三好達氏は、失脚後の安倍首相の再起に動き、自民党組織に見えない影響力を及ぼす「日本会議」の会長を務める。愛媛玉ぐし訴訟で「公費による玉ぐし料奉納は合憲」との少数意見を述べた御仁である。また、A級戦犯分祀論に反対して「国に殉じた人を分祀してはいけない」と述べてもいる。

 また元最高裁長官の石田和外氏は、安倍氏の立場と同じで、首相の靖国神社公式参拝を求める「英霊にこたえる会」の会長を務めた。ともに安倍氏と交流のあった「一私人」であったという。
 最高裁長官の言動はリタイアのあとも、社会的な影響は大きい。慎重であることが望ましい。とはいえ、同じ主張の者には近い関係を持ち、反する意見の持ち主は相手にしない姿勢は感心しない。

 このように、公的な舞台での、信を失うような言動が少なくない昨今である。
 「数」さえ抑えれば、なんでもできる、といった風潮が広がる。「お友達」はいろいろな意見の持ち主がいるが、同じ考えだけの一枚岩的なグループは「お仲間」というべきで、その狭い、同質の発想で物事を進めるから反発を招く。

 「多数決」は、単に「数」が多ければいいということではなく、少数意見にも耳を傾け、極力多数の納得のいく努力を果すことが前提だろう。そのような努力があればこそ、国民の比較多数の信頼を勝ちとることができる。

 だが、民間に目を向けると、信頼を失うような事態が進行しているように思えてならない。
 例えば、東芝。その粉飾決算で、現執行部が先輩にあたる3社長を提訴するという。信用と伝統のあるはずの大企業の出来事である。東洋ゴム工業はビルの耐震装置ばかりか、船舶や鉄道の防震製品のデータ改ざんなど3件ものインチキが暴かれた。事故が起きたら、どうするつもりなのか。

 さらには、旭化成、旭化成建材を実行グループに、三井住友建設、三井不動産グループも関与して、杭打ちの不正を長年にわたって行っていたことが明らかにされた。
 いずれも、その分野では名の知られた大企業ばかり。長年の信用に基づいて経営していたはずが、将来に禍根を残す仕事ぶりだった。生涯をかけて購入した家が、いつか傾き、地震に脅かされ、場合によっては生命の危険をも伴ってくる。これほど深刻な信用棄損はあるまい。

 「李下に冠をたださず」とまで言って、信用・信頼を守ろうとした謙虚さはどこに行ったのか。社会は豊かさに慣れ、時の流れに甘え、おのれよりも他に従い、力あるものに迎合し・・・そのような態度が続くと、疑惑や不信を招き、たがいに信頼せず、社会の規範といったものから遠ざかっていくことになる。

 昨今のあれこれの動向をながめていると、順調そうに見えながらも、社会崩壊の余兆ではあるまいか、と感じる。もちろん、杞憂であれば、と願ってはいるのだが。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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