【オルタの視点】

「北朝鮮・核・ミサイル・憲法」を考える

柳澤 協二


 去年一年を振り返ると北朝鮮のニュースで持ちきりでした。その中でアメリカや中国の動きも入っているけれど、日本のメディアや日本人は特に北朝鮮を中心に関心を持っていたと思います。清水寺の住職がお書きになっている今年の漢字が「北」という字で、わからないでもないけれども、私の印象はむしろ年明けとともにトランプ政権が発足し、中東ではまたISISは掃討したけれどもいろんな形で民族間の分断は進んでいるとか、南スーダンも部族間の対立がますます激化しているという形で、どうも私の去年一番の印象は、差別と分断の方向に世界が進んでいるというような印象が強いです。

 日本人は北だけしか見てないけれども、実はその背景にあるのはもっと大きな流れ、寛容と和解ではなくてむしろ対決と分断のような流れの方が今の世界の特徴を表していると思います。そういう中でとっさに思うのは、トランプが言ってきたアメリカ第一主義、アメリカから奪われた富をアメリカが取り返して、アメリカが再び偉大な国になるのだという。そして時々軍事力も使ったりして気に入らない奴を武力でやっつける姿勢を示している。これは何かと言えば、古代ギリシャのトゥキディデスが言っているところの戦争の三つの要因である、富と、名誉と、恐怖、これを全部アメリカが独り占めしようという発想なんです。これで世界が平和になるわけはない。むしろ世界に広がっている分断の動きの中でアメリカのトランプがそういう姿勢をとることの中に、世界を不安にしている一番大きな流れがあると思っています。

 日本の安倍さんは二月の頭にアメリカを訪問してトランプさんとお会いになっているわけですが、その首脳会談の前段階、マティス国防長官が日本に来たりしてそこで話し合っていたことは、どちらかというと中国の封じ込めだったんです。それがマイアミでゴルフをしている時に北朝鮮のミサイルがあった。実は金正恩は年頭の挨拶から今年はもうアメリカに対する抑止力を完成させるとはっきり言っていて、韓国ルートからはその辺の動きが時々メディアにも載ってきていたのですが、当時日米は関心を持っていなかったのです。 

 二月のミサイル発射で急に北朝鮮にやられたような印象があるのですが、その時にもう一つ非常に印象的だったのは、北朝鮮がミサイルを発射して、トランプさんと安倍さんが共同記者会見をおやりになった時にトランプさんが、アメリカは常に100パーセント日本と共にある、とメッセージをお出しになった。しかしそれはどなたかが指摘していましたけれども英語で言うと「stand behind Japan」ということを言っている。誰が前にいるのかと言うと日本が前で、後ろにいるのがアメリカ。北朝鮮との対立構造の中でそういう構造が見えてきます。

 しかし、北朝鮮がなぜあれだけ核とミサイルに固執するかというと、それはアメリカに潰されない最後の手段として、それが良い悪いは別にして、アメリカに対する抑止力を持つため、北朝鮮の体制の存続をかけた一番大事な手段として、核ミサイルを造ろうとしている。その視線の先にあるのはアメリカです。ですが実際にミサイルが飛んでくるのは日本、こういう構図が見えてきます。

 防衛官僚として仕事をしていた時には、アメリカと仲良くしてアメリカの抑止力が機能することが日本にとって一番大事だと思っていたんだけれども、しかしその実態はどうなのか。北朝鮮がなぜ攻撃する意思を持つかというと、それは米軍が自分のところに爆弾を落として自分を倒しにくるのが怖いからです。そうすると米軍と一体化している日本に米軍がいるということ、それがアメリカの抑止力なり、核の傘の実態なのですが、そういうものに守られていると思っていたけれども、実はそういうものがあるために日本にミサイルが飛んでくるんだということになる。

 これは、今までのアメリカの抑止力に守られているという認識そのものが良いのか、というところから考え直さなくてはいけない。北朝鮮の核の脅威はそういうことを示唆しているのだと思います。これは有り体に言えばアメリカと北朝鮮の外交ゲームであり、戦争なので、そこに日本がどのように振る舞うのかが問われる。今日の政策は、アメリカと一体化することで抑止力を強化するということなんですが、そうするとそれが北朝鮮にとってはまさに脅威の源になるので、アメリカの抑止力に守られているということは必ずしも日本をミサイルから安全にするための政策ではないのではないかと言わざるを得ません。

 私は、北朝鮮に関してこういう問題提起をずっとしているのですが、中々メディアでも政治でも賛同する人はいません。なぜかというと、アメリカの存在に疑問を呈することになってしまうからです。今の日本が深刻な状況に置かれているのはアメリカを疑問に思わない発想の壁があるからなので、その根深さをひしひしと感じています。戦争が終わった時から米軍はずっと日本にいた訳ですから。疑問の余地のない現実としてそれを70年間受け入れてきていた。それによって日本のためになっていると思っていた。

 しかし実はそれがあるから日本にミサイルが飛んでくることになると北朝鮮が教えてくれた。これを調整しようとすればどうするか。手っ取り早くアメリカに出てってくれということもあるが、そんなことがすぐにできるとは誰も思っていません。そこでアメリカと仲良くしながら、しかしそれが元になって北朝鮮が日本を攻撃するような気持ちにならないような関係を作ることが今の課題です。

 安倍さんが去年2月のトランプさんとの会談から帰ってきた後の予算委員会で答弁しているのは、トランプと仲良くするのは問題じゃないか、という質問に対して、北朝鮮がミサイルを発射した時に万一撃ち漏らした場合に報復してくれるのはアメリカしかいないのだ、それが確実だと北朝鮮に思わせなくては北朝鮮が冒険主義に走るかもしれない、だからトランプと仲良くするのだ、という趣旨の答弁をした。

 つまり、アメリカの報復が怖いということが抑止力になっているということなんですが、万一撃ち漏らした場合というのは、日本にミサイルが落ちているということです。それが核だったらどうする、という問題もあるのだけれども、逆に、北朝鮮はアメリカに攻撃されればアメリカを攻撃できるICBMを持とうとしているわけです。そうなった時にそれでもアメリカが自分の所を危険にさらしてまで日本のために報復をするのだろうか。そこのところの不確かさが気になってきます。それがはっきりしないから、だからアメリカとさらに一体化しなければならないという発想になっていくのです。

 もう一つは相手が力を持っている以上はこっちも力を持たなければいけないという発想から来ているのですが、その、相手が怖いから、相手が力を持っているからこっちも同じだけの力を持たなければいけないという発想で行くと、ミサイル防衛というのはどんない良いシステムを入れても100パーセントという保証はないわけですから。そこで相手が撃つ前にそれを破壊しようという敵基地攻撃の発想が出てくるわけですが、しかし敵基地と言ったってミサイル発射台が今どこにあるのかなんて100パーセントわかることもないわけですから、そこも100パーセントの保証がないわけです。

 そこでどうするかと言ったら、万一攻撃されたらアメリカに報復してもらうという発想になってくる。しかしその時に日本にはもうミサイルが落ちている。この現実を我々がどう受け止めたら良いのかということが今、日本人に突きつけられている問題なんだと思います。だから日本人が感じている戦争の脅威というのは、実は日本人はそういうところを見ているのだと思うんです。
 しかしあまりに怖いと、単純に相手が悪いのだからやっつけてしまえば良いじゃないの、という非常に単純な答えにたどり着いて満足しようとする傾向がある。しかし、やっつけるということは戦争することです。日本は、70年間自分の意思で戦争をしていない国ですから、戦争になったらどうなるかというところに考えが及ばない。

 そこでアメリカの抑止力に頼っても、そこも100パーセントではない。アメリカは自分を犠牲にしてまで日本を守ろうとするのかという深刻な問題がある。あるいは日本としては仮に日本に核が落ちてもアメリカの核によって相手を滅ぼせば良いんだということになると思うのか、突き詰めていけばそういうことになるのです。アメリカが報復してくれる抑止力というのは。果たしてそこまで日本人は覚悟した上で、理解した上でアメリカに頼ろうとしているのかというところが、実はそこまで考えていないのだと思います。

 アメリカの抑止力があるから北朝鮮が撃ってこない、だから撃って来たときのことを考えなくても良い、ということで止まっちゃっているんだと思います。一番平和ボケと言われるところはそこにあるのだと思います。むしろ相手が軍備を持っていてもこちらも同等の軍備を持つのだという発想、まあそれは一つの発想としてあるのだけれど、それが自力ではできない、100パーセントできない、そうするとそれを人に頼ろうとするからどこまでいっても不安がつきないので、そこは自分の責任でどうするか考えなくてはならない。

 それはなにかというと、ミサイルが飛んでこないようにするということです。どうするのかというとそれは軍備で脅して圧力をかけるよりは、相手がミサイルを撃たなくても良い安心感を与えるという手法が必要になってくる。それは誰がやるのかというと、それは政治の責任なんです。そこのところに目をやらずに敵基地の攻撃だの軍備にだけ頼ろうとする、政治を軍備に丸投げしようとしている、交渉は意味がなくて今は圧力しかやらないという発想の中に日本人は不安を感じている。

 そういう不安というのを、実体がある不安なのですけれども、問題はその実体が何なのかということをしっかり解き明かしていかないと、不安から解放されることはない。私は北朝鮮の核の問題で言えば、北朝鮮が先に撃ってくる理由は何もないので、まして日本を滅ぼす理由は何もないので、アメリカが怖いというところに北朝鮮の動機があるとすれば、その恐怖をどう和らげるかというのが日本にミサイルが飛んでこないようにするためには一番大事なことだと思います。

 最近では北朝鮮もオリンピックに参加する話が出て来ていますが、私はそこには多大な期待は持っていない。そのまま交渉のプロセスに行くかというとそういうことでもないでしょう。アメリカと北朝鮮の対立の構造がそのままあって、それゆえに北朝鮮はアメリカを抑止するためにも核とICBMが必要だと思っているから、その構造がある限りはこの問題は中々解決しないと思っています。

 アメリカの抑止力にも頼れない、そこも100パーセントは信頼できないということになってくると、どうなるかというと、自分で核を持とう、という話になってくるわけです。それは力に頼ろうとする論理の、論理的に行き着く結末として当然出て来ますが、果たしてそれが本当に我々が望んでいる世界なのかということを考えなくてはいけない。日本が核を持ったら世界中の国が核を持つ正当性を与えるようなものです。むしろ日本が、核でやられたのは自分の国なのだから日本だけが持つんだ、他の国は持つな、というのも一つの主張だけれども、中々そうはいかない。

 日本が持つなら自分だって持つ、という流れになるはずなんです。結局力を持つことで安全になろうとする試みというのが、相手がそれに触発されて持つ力によって、却って不安なものになってくるということなのだと思います。そういうことを踏まえた上で、実はこれから問題になるであろう憲法の問題も考えなければいけないと思います。
 私は憲法の文言そのものを維持することが大事ではなくて、その背景にある考え方を維持することが大事だと思っています。敵基地攻撃とか空母保有論も一部に出ているようなものですが、今まで日本は他国を攻撃する力は持ってこなかったのです。それによって何をしようとしていたかというと、自分が他国に恐怖を与えないということは、自分自身が相手に対して戦争の引き金にならない、という自制につながっているのです。

 憲法9条があるからではなくて、安全保障戦略としては自らが軍事的な挑発要因にならないという戦略的な意味合いもあって、日本の安全もその方が守れるのだという思想があったのです。それが、他国に脅威を与えない、攻撃された時だけ反応する、という専守防衛の考え方になっていたわけで、それはその限りにおいて実は戦争には勝てないんです。本当に戦争に勝とうと思ったら攻めてくる相手の根っこをやっつけなければならない。そういうことはしません、ということでそれによって周りの国に安心感を与えることで、日本が攻撃されるような動機を相手に持たせない役割があったのです。

 今、北朝鮮の核が怖いからということで専守防衛を投げ捨てていくと、本当にそれで安全になるんですか? 憲法にどう書くかという議論以前に、それが戦後日本の安全保障の一番大事な戦略だったのです。それは同時に国家像の発信でもあったのです。そこを維持するのかが問われなくてはならないと思います。
 あれだけ頑張ってくれている自衛隊がいまだに憲法上認知されていないのは不本意じゃないかというのは、それはその通りなのかもしれないが、しかしそれは専守防衛に徹して他国に対して脅威を与えないようなそういう自衛隊を持っていても、自衛隊を使って日本が外国に対して大きな顔をしたり、軍事力を外交の手段として使おうとしてこなかったわけで、憲法が要求している精神はそういうところにあったのです。そしてそれは、何も戦争に負けたから無理やり押し付けられただけではなく、その方がかえって日本が幸せなのだという価値判断があったんです。

 今本当にそれを変えなければいけないのか、ということを考えていかなければいけないのだと思っています。この先憲法をめぐって色々な議論があると思う。私もそこは悩ましいのですが、国会の勢力図を見れば、やる気になれば数の力でやれてしまうかもしれない。しかし何を反対するのか、結論はそれでもいいのだけれど、憲法をいじることそのことに反対するのか、その背景にどういう国の姿を維持したいのかということがなければいけない。
 そしてそれによって、その方が日本にとってより安全なのかそうでないのか。そこをしっかり確立していかないと、中々こういう流れに対抗していくことは難しいと思っています。

 この間テレビ朝日の朝の番組で山尾志桜里議員が出て来て、いわゆる護憲的改憲論について議論していたのですが、それでは北朝鮮情勢が緊迫している中でアメリカの船を守るような集団的自衛権に関わる部分をやらなくてもいいのか、という問いに対して、そこは個別的自衛権の柔軟な運用によって必要なことはできる、と言っていた。
 私も防衛官僚の頃はそういう発想を持っていたけれども、今憲法論議の中で問われているのはそういうことではなくて、北朝鮮との関係で冒頭申し上げたように、力づくで北朝鮮や中国に対抗しようとしていく国であろうとしていくのか、そうではなくて争いの根っこになるようなところを軍事力ではなくて、理性と道理の力で解決して結果として戦争を防止する、動機を無くしていこう、とするのかということです。どっちの国を選択するのかということが問われているのであって、個別的自衛権でなんとかやれるという瑣末な問題ではない。

 国会の護憲勢力の中ではそういう安全保障の専門家がいないんです。一番大事なことは、ここの部分はこうやればできるじゃないかという技術論ではなくて、そもそも武力で勝ることで安全を確保するのかそれとも争いの根っこを和解して妥協して解決することで戦争問題を無くしていくのか、この大きな二つの選択であるはずです。私はアメリカとの関係をことさら悪くする必要があるとは思っていないけれど、あまり日米同盟基軸でアメリカには逆らえないという前提に立って、相手が強ければこっちも軍備を持たなければいけないという発想をそのままに、技術的な優劣を競い合っているような状況では本当の意味での憲法の対抗軸というのは出てこないだろうと思っています。

 見通しは暗いです。はっきり言って、私は明るい見通しを語れるような状況ではないと思っています。しかし、物事の本質は、最後の最後には戦争という選択があるのか、ということです。私はないと思っています。
 戦争というのはつまり、国のために命を投げ出すことですから。国のために命を投げ出す覚悟のある人間が改憲派の中にもどれだけいるのですか。それがないのに戦争ができるような法律を作っても、それは国家像としても意味のないことです。それが周りの国に与える反作用を考えると、かえって有害なことでもあるので、そのところをもう一度、せっかく北朝鮮の脅威が目の前にあって、憲法改正自体が安倍さんの最大の目的になってきている今日だからこそ、今までの惰性で考えるのではなく、今までの日本のとってきた平和史にはどういう意味があったのかを考えたいと思います。

 日本は本当に力づくで争っていく国であることをアピールしたいのか、それとも争いをなくしていく、そういう国であることをアピールしたいのか。70年前の戦争を経験した人たちは、それは問題なく戦争をしないということがコンセンサスにあったわけですが、私を含めて戦争を知らない世代がほとんどになっています。もう一度、自分の問題として考え直す機会にして行けたらいいんじゃないかなと思っています。楽に達成できることではないと思っていますが、そこに私は今年の希望を持ってやっていきたいところです。

 (元防衛庁官房長・元内閣官房副長官補・NPO国際地政学研究所理事長)

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