「回想のライブラリー」

■「回想のライブラリー」       初岡 昌一郎

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 かなり以前のことだが、『芸術新潮』に「気紛れ美術館」という連載が州之内徹によって続けられその後単行本にまとめられている。主として地方美術館のために比較的世間に知られていないがすぐれた、または異色の画家を画商として発掘してきた経緯を、自分の人生観や交友関係をふんだんにまじえながら、旅行風あるいは随想風に書かれたもので、それを読むのが楽しみでこの雑誌を購読していた。州之内ほどの目利きではないが、そのひそみに倣って、気紛れ的にとりあげる本を枕として、おもいつくままの回想を書きつづってみたい。

 権五琦・若宮敬文『韓国と日本国』(朝日新聞社、2004年)をまず最初にとりあげることになったのは、偶然の契機によるものだ。この春、このマガジンのドンである加藤宣幸さんが花見に姫路に来訪した際、大学の私の机上にこの本があったのをみつけ、その書評を書くようにとのすすめを受けたことによる。それを安請け合いして放置しているうちに締め切りがせまり、苦し紛れにこういう非書評的形式によるこのコーナーを思いついた。

 余談だが、40年前に私の大学卒業式に加藤さんに父兄代わりに来てもらったことを想い出し、来年大学を再卒業(定年退職)する前に、一度姫路に来てもらいたいと希望していたことから、この来訪となった。同行したのは、私の大学の後輩で、当時社青同仲間だった吉竹康弘君である。

吉竹は、あらゆるマイナーな言語による翻訳と編集出版を行う、日本に二つとないユニークな会社を組織して、在日外国人の広範なネットワークを作っている。今年は桜が遅くて加藤さんの来訪には間に合わなかった。だが、同僚の中久保邦夫姫路獨協大経済情報部長が御自慢のハイブリッドエンジンの新車プリウスで案内してくれたので、姫路だけではなく、竜野、赤穂、室津と周辺の名所を回ってもらうことができた。

 話をもとに戻すが、加藤さんの関心を惹いたのは韓国もさることながら、この対談集の主役、若宮敬文朝日新聞論説主幹の名前にあることは即座に理解できた。つまり、若宮敬文の父、若宮小太郎は朝日新聞の政治記者として、加藤さん達が戦後いちはやく日本社会党青年部を立ち上げた頃の社会党担当で、加藤さん達、江田三郎の周囲にいた人々との交わりは、特に深かったと聞いている。

 私が加藤さんと知り合うことになったのも、その時代とそれほど離れてはいない、1950代の中頃であった。この当時のことについてはいずれまた回をあらためて書きたい。

 『韓国と日本国』と題するこの対談は、それぞれがお互いの国を良く知る最も知的なジャーナリストによるもので、面白くないはずがない。現在の日韓関係を理解するために良質のガイドであるだけでなく、懸案の諸問題を打開するための指針と方向性が示唆されている。

 対談相手の権五琦は1932年の戦前生まれで、48年生まれの若宮よりはるかに年長者である。彼は韓国の代表的新聞で、日本の「朝日」に匹敵する「東亜日報」の戦後初代特派員として63年に来日、当時中心的政治課題であった日韓条約をめぐる交渉をつぶさに取材した、戦後知日派第一世代である。

その後、同紙編集局長、論説主幹を歴任して社長となり、さらにその後、政党政治家としてはじめて大統領に選出された金泳三に乞われて、1995年から98年まで副総理兼統一部長官(大臣)としてその政権の中枢にあった。

 この対談集で権五琦が慶尚北道安東の出身であることを知った。慶尚北道は朴正煕以来の軍事政権中枢の出身地である。それに対して金泳三と現在の盧武鉉大統領は慶尚南道、金大中元大統領は全羅南道の出身である。地域性は次第に政治面では薄れつつあるものの、依然として韓国社会から切り離せない要因としてまだ色濃く残っている。

 他方で、朝鮮半島における学問の分野と官僚制の歴史で「安東」は特別の位置を占める。朝鮮儒学の最高峰として日本にも大きな影響を及ぼした李退渓の拠点として、安東は学問の中心地だったし、その地から両班といわれるエリートを多数輩出したことを韓国人なら誰でも知っている。

 安東の両班社会の中でもひときわ高い位置にあるのが権氏の一族である。私の数多い韓国の友人の中で最も親しく、かつつきあいの最も長い畏友権重東も「安東権氏」の一員である。その縁によって、地の利のあまり良くない同市にも足を運んだことがある。

 安東が学問知によってだけではなく、“アンドン・ショウチュウ”“アンドン・マッコリ”(白濁酒)によって韓国人の間で知られていることも身をもって学んだ。

 わが権重東兄は権五琦氏と同年生まれだが、異なる道を歩んできた。ソウル大学卒業後は逓信部(郵政省)に入ったものの、エリート・コースを歩まず、韓国逓信労組を結成して初代書記長となった。私が知り合った1965年当時、彼は委員長となっていた。

 権さんに初めて会ったのは、ニュージーランドのウェリントンにおける国際郵便電信電話労連(PTTI)第3回アジア地域会議の時だった。

 その頃私は全逓信労働組合の共闘部(政治国際部)書記で、宝樹文彦委員長に随行しての初仕事としてこの会議に行ったので、この出会いを良く憶えている。その後、67年の全逓大会に来賓出席したことで、権さんはこともあろうに「反共法」に触れて投獄の憂目に遭い、組合からも追われてしまう。

当時の韓国では、総評は反共法の対象であり、全逓はその加盟組合だからという理由だった。

 しかし、それは彼を追放する口実として使われたというのが真相だろう。そしてはるか後に初代労働部長官としてカムバックするまで、彼は長い雌伏の時を送ることになる。現在、権重東は韓国ILO協会会長として健在で、私が韓国に行くたびに真っ先に会う人である。

 権五琦には会ったことはないが、若宮敬文には一度だけ会ったことを記憶している。それは、矢野絢也元公明党委員長が最近まで主催していた「21世紀クラブ」の例会だった。おそらく若宮氏が論説主幹になりたての頃だったと思う。

 政治関係のトップジャーナリストとそのOBが多かったメンバーの中で、若々しい(他の出席者に比較して)印象のはじめて見る人がいたので、幹事役の仲井富さんにそっと聞いたところ「若宮小太郎の息子で、朝日の記者だよ」との一言。

 彼の署名入り記事には刮目していたので、私もこの本をその名前をみて注文したもので、加藤さんの目にとまった時にはまだ「積んどく」状態にあった。あわてて読んでみて、若宮が朝日に入って間もない時代にソウルの有名私立、延世大学に留学していたことを知った。

 日本のトップジャーナリストとしては珍しい留学経験だろう。先輩にあたる権五琦とはその時以降の永いつきあいに裏打ちされているだけに、この対談は実に息のあったものとなっている。韓国では知られていても、日本ではほとんど知られていないエピソードのひとつが、日韓ワールドカップ共催の構想の実現に果たした若宮の役割である。もともとこの構想を思いついたのは、日本国際交流センター理事長の山本正さんらしい。

 彼の見識と活躍には、私も一目も二目も置いている。当時の外相河野洋平に山本さんが進言したことから、この共催の実現に向けて歯車が回りだした。しかし、韓国が動き出したのは「朝日」の社説が出てからだった。この辺のいきさつも対談の中でさりげなく語られている。

 日韓関係についての発言で、私が注目しているもう一人は、最近若手の学者としてとみに頭角をあらわしてきた木宮正史東大助教授だ。彼も、ソウルの高麗大学に留学し、そこで博士号を取得している。私は、17年間在職した姫路獨協大学を今年度で去る予定だが、外国語学部長在任中に日本でも数少ない韓国語学科を開設することができたのには、木宮先生の力添えが大きかった。その人柄にもすっかりほれ込んでいる。

 話を元に少し戻して、この際ついでに21世紀クラブに少し言及しておく。これは仲井富さんのいくつかのブレイン・チャイルドの一つである。かつて社会党江田派の組合活動家だった草川昭三(元名古屋造船委員長)が非創価学会員で初めての公明党推薦で当選したことから、仲井さんが矢野絢也書記長(当時)にかけあった創設したものだ。

その当時、21世紀クラブは市民派学者と市民運動活動家や組合幹部のサロン的な意見交換の場であった。私の働いていたPTTI東京事務所が全電通会館に開設されて間もないころで、私は政治運動とは比較的距離を置いていたが、仲井さんにすすめられて発足時から事務局メンバーに入ることになった。

 それから昨年末にこのクラブが幕を降ろすまで、約30年の長きにわたり、仲井さんにつれられこれに関係してきた。

 草川さんは、現在は、公明党国民会議参議院議員団長として、70を過ぎても老いを感じさせない活躍ぶりだ。彼は現役の国会議員中、唯一人の現場のブルーカラー労働者出身で、その感覚を失っていないことに敬服している。彼は、小野沢、斉藤という二人の優秀な秘書に支えられており、このチームの迅速かつ適確な仕事振りにはいつも感心している。

               (筆者は姫路独協大学外国語学部長)