「国家の罠」

■書評

「国家の罠」佐藤 優 著  新潮社 ¥1600

                    棚橋 泰助
───────────────────────────────
◎1 本書と事件の概要

 著者佐藤氏は60年生まれ、同志社大学で神学を学び、85年、専門職(ノンキャリア)試験に合格して外務省に入り、ロシア問題の情報マンとして働いてきた。大使館勤務ののち本省に戻り「国際情報分析第一課」内の「ロシア情報・分析チーム」のチームリーダーをしている時に、東京地検特捜部に逮捕された。容疑は「背任」と「偽計業務妨害」であり、逮捕日時は02年5月である。

 この容疑は鈴木宗男衆議院議員との共犯ないし幇助というのだが、その少し前の外務省をめぐる、田中真紀子外務大臣と鈴木議員の抗争、田中外相と鈴木自民党国対委員長、野上外務事務次官の退任という「三方一両損」の決着で、世論の注視を集めていた。

 検察側のリーク(としか考えられない)によって、著者は外務省と鈴木議員の「癒着」のキーパーソンと目され、逮捕の数日前から、報道陣の張り込み攻勢にさらされていたが、逮捕時には、100名を超える報道陣に野次馬を交えて、縁日みたいな騒ぎだった、と本書にある。

 容疑の「背任」というのは、イスラエル・テルアビブ大学のゴロデッキー教授を中心にして、日本のロシア問題の学者、専門家、外務省関係者などでミーテイングを開くというものであった。検察はこれを物見遊山の催しとみて「背任罪」に問おうとしたのである。

 また「偽計業務妨害」というのは、日ロ外交最大の懸案である日ロ平和条約と北方4島生活支援に関し、発電機を贈る件について、入札に関与し、三井物産に落とすよう圧力をかけた、というものである。両方とも著者には何らやましいところはない。否認を続ける。

 拘留は512日という異例の長期にわたるのだが、独房で夜、横になると、「いったいオレはナンでこんなところにブチこまれなくてはならないんだ」という思いにくり返しおそわれる。ふつうなら理不尽という思いでの怒りとか、誤解を与えるような行動への後悔とかで感情がふくれ上がるところだが、そこは情報分析を仕事にしてきた著者である。

 冷静に事態を分析し、理解しようと全力をつくす。

 検事の取調べの初期段階で、検事は「国策捜査」という言葉を使う。これは、この事件の、また、この本の「キーワード」というべき言葉であるが、それについては後で述べるとして、著者が理解したこの“鈴木事件”(この後で鈴木宗男氏も逮捕される)の背景は日本の対ロシア外交をめぐる方針の対立、外務省内部の派閥抗争、自民党内部の政治抗争、などが複雑にからみ合ったものであり、それは、ひいては今後のわが国の方向にも大きな影響を持つものである。ということであった。

 本書の内容の半ば以上を占めるのは、この日ロ外交交渉の経緯、その中での著者の役割、外務省内部の派閥抗争、田中、鈴木の戦いの内幕も含めた経緯などである。残り半ば近くは、検事の取調べにおける問答、時間の経緯とともに変わっていく双方の態度、見解などが、拘置所生活におけるエピソートを交えて述べられている。

◎2 「国策捜査」について

 「国策捜査」という言葉には、評者はこの本ではじめて出会ったのではないかと思う。もっとも、その中身については、そういうこともあるだらう、とは想像していたけれど。(何しろ、史上いくつも例がある。)

 これは「検察のことについてはよく知らなかった」と述べている著者も同じ程度だったのではないか、と思う。その著者が独房で分析し、推定していった(それは自己の体験もその材料の大きな部分を占めているが)結論を以下に紹介しておこう。

 「国策捜査」は、国家権力のトップ、またはそれに近い人の要請に応じて、行われる検察の捜査活動である。したがって、それは普通の捜査の場合はまず犯罪があって、その犯人捜しという形になるのだが、国策捜査のばあいは、まず、ターゲットになる人物があって、つぎにその犯罪捜しという形になる。

 この鈴木宗男事件もそうである。ではどういう“手口”で犯罪捜しをやるのか。それは“悪かった”と“ジグソー・パズル”方式である。

 “悪かった”というのは“悪かった、悪かった、運が悪かった”と言わせるやつで、普通の人の場合でも、路上駐車とか酒気おび運転とかは時にやる。みんなやっているじゃないかと言っても、公式の場に出れば、これは立派な犯罪になる。

 議員の場合、秘書給与の流用など、その典型であった。やっている議員はほかにも多いといっても摘発されれば起訴され、犯罪として判決され議員の座を失う。どこにも隙がなくて“悪かった”が狙えない場合は“ジグソー・パズル”方式でいく。つまりパズルの紙片を周囲から埋めていって、最後に残った穴を「さあ、ここがお前の入る場所だ」と容疑者をはめ込む。その黒い穴は地獄に通ずる穴というわけだ。

 周辺には検察が見込んだ犯罪に関係したとする証言をとり、拒否する者には「貴方が否認しても裁判になれば検察のほうが勝つ。貴方が控訴すれば長期裁判になる。かりに貴方が裁判に勝っても検察としては控訴する。いずれにしても長期裁判になるが貴方はそれに耐えられるのか?それより軽微の罪だから執行猶予つきだ。認めて早く人生を出なおした方が貴方の為だよ」という。実際この事件の周囲の人々のうち、起訴された3人(外務省の役人および三井物産の社員)はみなこれに屈してしまう。

 検事の取調べの初期に、検事が「これは国策捜査だよ、貴方に勝ち目はないんだよ」と言ったのも、ターゲットは鈴木宗男だから、貴方も早く人生を出直したほうがいい、という意味で言ったわけである。

 こういう事態のなかで著者は今後の方針を立てる。まず、あくまでも否認を貫く。

 その理由は、こんな犯罪を認めるのは、日本の外交の恥であり、国際的な権威の失墜につながる。

 第2にあくまでも鈴木宗男を守る。これは鈴木宗男と一緒に長らく仕事をしてきた友情、信頼もさることながら、外務省の職員がみんな鈴木に不利な態度をとり、(裏切った)、鈴木がそれに絶望したり、怒ったりした場合鈴木はあまりにも外交の機微に通じすぎている。一人でもいいから鈴木に殉ずる外務省職員がいなければならない。という思いからである。

 これは、「国策捜査」に対する真っ向からの挑戦である。こうして1年半弱にわたる長期拘留がはじまる。

◎3 小泉政治に対する“告発状”

 本書は裁判における被告人最終陳述と判決文の一部をもって終わっている。この最終陳述は簡潔に4点について意見を述べている。

 それをさらに要約する。

第一点、私が逮捕されたのは、私が鈴木宗男議員と親しかったからである。

 検察は私の逮捕を突破口に外務省と鈴木氏を結びつける事件を作りたかった。何故に鈴木宗男氏が国策捜査の対象になったか?小泉政権成立後、日本は本格的な構造転換を遂げようとしている。内政的には、ケインズ型公平配分政策から、ハイエク型傾斜配分、新自由主義への途です。外交的にはナショナリズムの強化です。鈴木宗男氏は内政では公平配 分論者で、外交ではアメリカ、ロシア、中国との関係をバランスよく発展させるためには、排外的ナショナリズムに走ることは国益を毀損 すると考える国際協調主義的な日本の愛国者でした。鈴木宗男という政治家を断罪する中で、日本はハイエク型新自由主義と、排外主義的ナショナリズムへの転換を行っていったのです。

 第二点. 国策捜査とマスメデイアの関係についてです。国策捜査を展開する上ではマスメデイアの支援が決定的に重要です。しかし、あの熱気のなかで、メデイアスクラムが組まれ、「佐藤は鈴木の運転手をしている」「外務省に出勤せず、鈴木事務所に出勤している」「外務省の機密費を横領し、それが鈴木宗男に流れている」などの疑惑報道がなされ、全くの事実無根にもかかわらず、後で訂正もなされません。

大多数の国民には、自己増殖した報道による私や鈴木氏に関する「巨悪のイメージ」と、その「巨悪」を十分に摘発しなかった憤りだけが残ります.

 第三点. 今回の国策捜査で真の勝利者は誰だったのかということです。それは外務省の事務次官をはじめとする現外務省執行部です。外務官僚にとって都合のよい状況を作り出すために鈴木氏の政治力を最大限に活用しました。

しかし、ひとたび鈴木氏が外務省にとって厄介な存在になると、それをありとあらゆる方法を用いて排除しました。外務省は検察庁に対しては、背任にしても、偽計業務妨害にしても、私の個人犯罪として事態を収拾すべく全力を尽くして協力し、その工作は成功しました。

 しかし歴史の真実は、この事件をめぐる外交文書が公表される、今から26年後に明らかになります.

 第四点.今回の国策捜査が日本外交にどのような害をもたらしたか。ときの内閣総理大臣、外務省幹部の命に従い、組織の明示的な決済を受け、その時点では官邸、外務省が評価した業務が2年後には犯罪として摘発される ような状況が許されるならば、誰も少しでもリスクがあると思われる仕事はしません。

 また、国際政治のプロとして「こうしたらよい」と感じたとしても、 それを口に出すことがなくなります。この様な状況が数年続くと、日本外交の基礎体力が著しく低下します。

 以上4点を指摘した著者の被告人最終陳述は、そのまま本書で著者が述べたかった結論というべきであり、そしてまたそれは、小泉政治に対する渾身の“告発状”である。

◎ 4 いくつかの“感想”

 6月5日の付の日経新聞に、本書の書評が出ている。一読して違和感を覚えたので、その点を中心に感想を述べてみたい。

 「日経評」は「一読して、著者が優れた情報のプロであり、信念の人、愛国者であることは疑いをいれない」「本書は(事件の)過程を驚くべき記憶力で克明かつ挑発的に描いた渾身の回顧録である」と称揚しながら、3点について意見をのべている。

 第一点は「著者は自身の逮捕を“国策捜査”と呼んでいる。ただ、核心的な部分は国家機密に属するとして著者自身が固く口を閉ざす。外交文書の全面的な公開を待たなければ、真相は“藪の中”である」と言っているところである。この点は著者自身ものべていることであり、対ロ外交交渉に関連した事柄については、その通りである。しかし、この逮捕が「国策捜査」であるかどうか、という点では「藪の中」とはいえない。

 一つは、この言葉が検事から最初にに出てきたものだ、ということ、二つには田中外相と鈴木議員の抗争が外務事務次官も巻き込んで泥沼化の様相を呈しはじめたとき、これを決着させたのは鈴木氏の「切ったカード」であったが、それを知った時の感想がある。

 この「カード」について説明していると長くなるので、それは本書の116ページ前後をみていただきたいのだが、この「カード」が小泉総理に、警戒感と怒りを呼び起こしたのではないか。と言う著者の見方は的確な推定だと思う。著者はこの二つを主たる根拠にして

 「国策捜査」と判定したのではないか。そして私はその断定は正しいと思うのである。

  「日経評」が批判する第二点目は「著者は人物や現象を鮮やかに類型化してみせる。例えば、冷戦後の日本外交について狭義の“親米派”と中国重視の”アジア主義“、民主化したロシアとの関係回復を図る”地政学論“の三つの潮流があったという。

 ”アジア主義“の田中と”地政学論“の鈴木が政争で共倒れしたため、外務省は“親米派”一色になった、と著者は嗟嘆する。しかし、”アジア主義“も”地政学論“も“親米派”への牽制や補完になっても、対等の代替路線では決してありえない。

 外交という複雑な営みにとって、類型的な理解は時として有害である。また”地政学論“に立つ著者は、明らかにロシアの民主化を過大評価している。」ことである。

 しかし、著者は、狭義の“親米派”をアメリカべったりの外交を至上とし、下手に他の国と親密な関係をつくったりすることは危険だ、とすることは危険だとする考え方を類型化しているのであって、広義の“親米派”となれば外務省はみんなそうだ。といっている。

 当然、”アジア主義“も”地政学論“も補完牽制として提起されているのであって「代替路線たりえない」という指摘は、ちょっと見当外れではないか。むしろ外務省が狭義の“親米派”一色になってしまうことの方が、日本にとってはるかに「危険」だと思う。

 ロシアの民主化の過大評価については、具体的に何をさしているのか、指摘がないので(何しろ新聞の書評欄は字数が少ないので)わからないが、本書を読んだ限りでは、どうもそういう印象は受けなかった、と思う。

  「日経評」の批判の3点目。「“霞ヶ関”と永田町は隣町だが、その距離は実は一番遠い、と著者はいう。著者は二つの町の間の通訳能力を持っていた。けれども、外交を根底で支えるのは、国民の支持と理解である。そのための“通訳能力”は十分であったろうか。著者が陥ったのは、“国家の罠”というより、特殊地域の専門家としての独善を含んだ“愛国心の罠”ではなかったか。外交をめぐる説明責任とポピュリズム、守秘と公開の関係を深く考えさせる。」この指摘も説明不足でよくわからない。

「愛国心の罠」というのが外交上の機微に触れることがらも本書で書くべきではなかったか、という旨であれば、それは違うだろう、と言うしかない。 裁判係争中の者に、さらに国家機密漏洩の罪を犯せと要求することだから。むしろ、著者はこの本を書くことによって「説明責任」(もし著者にそういうものがあるとしても)を十二分に果たしたというべきではないだろうか。 

 むしろ(「むしろ」と言う言葉をあえて2度続けるが)「深く考えさせられる」のは著者が被告人最終陳述で2番目にあげている、マスメデイアの問題である。

 メデイアの真相と異なる報道、それにあおられる国民の感情的反応、その「世論」に迎合するメデイアの報道と取材攻勢、この相互に強め合いながら過熱してゆく“構図”は、昔からあった現象ではある。

 しかしその様相は大きく変わってきている。世論は「ワイドショウと中吊り」と言われるように、ジャーナリズムの商業的要素にますます大きく影響されるようになり、マスメデイアは視聴率と販売部数が最高・最大の関心事という、資本主義的企業としては当然ながら、ますます商業主義的傾向を強め、そのためますます世論迎合をつよめていく。

 この流れの前には、個々のジャーナリストの職業的良心など、グーの音も出せない、という状況が進行する。

 この問題を論じ出すとこの原稿の枚数が2倍になってしまうので、指摘するだけにとどめておく。

 堅苦しい話ばかり並べてきたが、最後に言っておきたいのは、この本に登場する人物は面白い人が多く、小説を読むような楽しさも本書はそなえている、という点である。著者の佐藤氏自身、最初に紹介したように、大学でキリスト神学を学んで外務省に入ったという、ちょっと変わった経歴、しかもその仕事は、情報マンといえばカッコウいいが、ありていに言えばスパイであろう。007は小説の話だが、ゾルゲがやったのも情報の収集・分析である。

 しかし、昔と違って今では、この世界も世界的ネットワークが出来て、そこで情報のやりとりをする。つまり、グローバリゼイションである。あからさまに書いているわけではないが、そう相察させる。ちょっと話が外れてしまったが、著者は検事に「そんなことをする容疑者は貴方がはじめてだ」と言わせるようなことも何度かやる。

 この検事もちょっと変わっていて、取調べを続けていくうちに、検事と容疑者、敵同士という関係をこえて、相互に相手を“人間として”理解し合い、信頼し合うという、一見奇妙な関係が生まれていく。「変な人を取り調べることになって」と嘆いているのか楽しんでいるのかわからないようなセリフを口にしながら、そして同僚検事からは「佐藤に洗脳されたんじゃないか。」などと冗談をいわれながら、取調べを続けていくが、最初“悪の巨魁”として「鈴木」と呼び捨てにしていたのが、そのうち「鈴木さん」になり、最後には「鈴木先生」という呼び方になる。この二人のやりとり、それにまつわる、いろんなエピソートは、まことに面白い。

 この二人のほか、独房で隣になった死刑確定囚(たぶん浅間山荘事件の)のエピソートは印象的だし、検察への警戒の心得を大声で「天の声だ」といって囚人に聞かせる看守なども面白い。改めて、人間というもののあり方について考えさせられる。

 なお、本書が出て間もなくのころ「面白いぞ」といってすすめてくれたのは竹中一雄さんであった。感謝の意を表させていただく。

               (筆者は元東京都議会議員)