【書評】

『国家神道と日本人』

  島薗 進/著  岩波新書

藤生 健
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 昨今、日本会議の反動性とともに、安倍政権と神道政治連盟の一体性が指摘されている。実際、安倍政権における自民党閣僚の殆どが「日本会議国会議員懇談会」と「神道政治連盟国会議員懇談会」の両方に加盟しているという。また、一部報道は、日本会議が進める「憲法改正を目指す一千万人署名」を、神社が氏子を動員して協力させていたと報じている。それによって今年5月までに集められた署名は700万筆を超えたとされ、その影響力の大きさは驚異と言える。

 この神道政治連盟の綱領には、「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」「神意を奉じて経済繁栄、社会公共福祉の発展をはかり、安国の建設を期す」とあり、国政選挙における推薦基準には「皇室の伝統を尊重する者」「改憲論議を推進する者」「安全保障体制の確立・領土問題の解決に取り組む者」「戦没者追悼のための新施設構想に反対する者」「夫婦別姓や男女共同参画社会の推進に反対する者」などが並んでいる。つまり、ほぼほぼ「大日本帝国の復興」をめざしていると見て良い。

 第二次世界大戦の敗戦を経て、後に続くGHQ改革によって大日本帝国の根幹をなした国家神道は解体された、というのが今日では定説になっているが、果たしてそうなのだろうか。そもそも国家神道とは何であったのか、我々は正確に理解しているのか、というのが著者の問題意識であり、信教の自由や政教分離を考える基盤にしたいという願いがある。

 明治から敗戦まで、国家神道は神社と学校を中心に広められ、祝祭日は天皇の神事が行われる日だった。神道は「神社と神職とその崇敬者の宗教」と言われるが、これは狭い理解で、本来は日本の土地に根差した神々への信仰を広く含むものだ。神社参拝以外の形でも、例えば天皇崇敬という形で信仰が鼓舞される。民間の神道は民俗宗教の延長にあり、その起源を求めるのは難しいが、皇室神道は7世紀の終わりから8世紀の初め頃、天武・持統天皇らの時代に唐の国家体制に倣って儀礼や法体系が整備され、基礎を確立した。だが、中世では仏教が優勢であり、江戸時代を経て明治国家の理念となった。第二次世界大戦の敗戦を経て、「GHQの指導下で国家神道は解体された」との理解があるが、皇室祭祀は大方維持され、その後、神社神道の関係を回復し、国家行事的側面の強化に向けた運動が続けられている。

 「国家神道とは何か」を理解することで、日本人がどのような自己定位の転変を経て現在に至っているのかが見えやすくなる。多くの日本人論が、単純化して他国民との違いを強調するものになっているが、日本人論や日本文化論を相対化して、近代日本の宗教構造について的確な理解に近づく必要があろう。

 本書の構成は、第一章で明治期につくられた「祭政一致」と明治憲法の「信教の自由」がどのように両立し、併存し得たのかを明らかにし、第二章では、国家神道とは何から何までを指すのかという定義付けを試みる。第三章では、幕末から明治維新を迎え、幕藩体制に替わる新たな国民統合の原理としての国家神道の成立過程を追う。そして、第四章では、教育勅語や祝祭日などを通じて国家神道が国民に浸透してゆく過程を見、第五章でGHQ改革が行った「国家神道の解体」の実相を確認する。

 従来の研究は、歴史学や政治学からの視点が強く、政治や行政の制度の側面が強調される一方で、宗教としての実践や祝祭などの儀礼を軽視することが甚だしかったため、明治国家・大日本帝国の国民統合の原理として、当時の国民にどれだけ浸透していたかということが伝わりづらかった。現実には、1940年に大々的に開催された「紀元二千六百祝賀式典」は、官製祝祭であるにもかかわらず、国民から熱狂的に支持され、それがそのまま侵略戦争の動員手段へと繋がっていった。ソ連やナチス・ドイツも、この手の祝祭をたびたび開催しているが、全体主義における国民の高揚感と、それがもたらす一体性は軽視できないが、従来の研究では説明できない指摘である。

 マルクス史観は、確かに天皇制の政治的側面を強調しすぎるが、現実のソ連も「国際女性デー」「メーデー」「革命記念日」などの祝祭を重視し、「労働者が持ちたる国」としての権力の正統性を国民に広く知らしめ、共産党に対する忠誠を鼓舞する仕組みを擁していた。天皇制に限らず、権力と祝祭の関係は常に緊密なもので、それは権威主義的傾向に正比例する。今日の安倍政権が、東京五輪や「明治の日」創設に邁進するのも同じ理由から説明される。

 ただ一方で、立憲君主制の下では、君主への崇敬を禁じることができない以上、これを再利用しようとする動きが出てくるのは不可避であり、現に旧社会党出身の国会議員が叙勲・位階制度に賛成し、こぞって受章する有様を見るにつけ、「自分は叙勲を受けるし、園遊会にも出席するが、帝政復活はダメだ」という議論が成立しうるのかという疑問を禁じ得ない。

 そして、帝政復活への動きを最も警戒する一人が今上帝であるというのは、あまりにも大きな皮肉である。

 (評論家・プログレス研究会代表・オルタ編集委員)


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