「安倍音頭戦寝刃(あべおんどいくさのねたば)」と「伊勢音頭恋寝刃」

【コラム】大原雄の『流儀』

「安倍音頭戦寝刃(あべおんどいくさのねたば)」と「伊勢音頭恋寝刃」

大原 雄


 国立劇場では、9月(小劇場)と10月(大劇場)に同じ演目を上演した。芝居小屋としての演出のコンセプトは、同じ演目を人形浄瑠璃と歌舞伎でそれぞれ演じ分ける、という試みだ。演目の外題は、「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」。人殺しが、お咎めの場面もなく閉幕となる、江戸時代ならではの、そういう芝居だ。「寝刃」とは、切れ味の鈍くなった刀の刃を研ぐ、という意味から転じて、こっそりと悪事を企む、という意味がある。

 この夏、全国を燃え立たせたのが、いわゆる「戦争法案」(安保法制化)という、「人殺し許容」法案。この法案が、国会外での国民の反対デモ・集会の輪の広がりを呼び込み、各種世論での反対が多数を占める声と「ねじれ」現象を起こしている国会内の議席数の与党多数派が、衆院、参院とも「強行採決」という代議制民主主義を形骸化する方法で、堂々と通過した。こういう今の世相を見ると「伊勢音頭恋寝刃」という芝居から醸し出された「二重視」を感じてしまうのは、私だけではないかもしれない。そこで、安倍劇場の演目にも外題を付けてみた。

 今回は、この「大原雄の『流儀』」という連戴コラムとは別に戦争法案報道を巡る「NHK報道論」について本編の方でも書いているので、そちらも読んでいただきたい(【オルタの視点】)。要するに、大原にとって、本編の論評も「伊勢音頭恋寝刃」の劇評も、通奏低音する2015年を暴走する車の両輪のように思われてならないので、こちらにも、お付き合いの程をお願いしたい。

 戦争法案を衆議院、参議院ともきちんとした説明をせずに、本音を隠した上、時間だけを稼ぎ、こっそりと悪事を企むような、だまし討ちの「強行採決」で突破した状況から、題して、「安倍音頭戦寝刃(あべおんどいくさのねたば)」としてみたが、稚拙ながら、いかがなものか。以下、そのため、解題。チョーン。

 まず、国立劇場では、小劇場で人形浄瑠璃の「伊勢音頭恋寝刃」が9月に上演された。「伊勢音頭恋寝刃」は、歌舞伎とほぼ同じ内容。今回の段の構成は、次の通り。「古市油屋の段」、「奥庭十人斬りの段」。合わせて、通称「油屋」という。

 「古市油屋の段」は、遊廓の場面だ。遊女(女郎)・お紺(首=「かしら」は、娘)。仲居・万野(まんの)は、歌舞伎より、人形浄瑠璃の方が、より一層憎まれ役で、「さあ、お斬り」などと、女が肩で男を押し戻すなど、福岡貢(みつぎ)に悪たれをつく場面は、人形浄瑠璃の方が歌舞伎より圧巻だ。万野の首(かしら)は、「八汐」という。「伽羅先代萩」の悪女「八汐」をそのまま使っている。福岡貢の首は、「源太」で二枚目。

 万野に騙されて貢に手紙を書く遊女・お鹿の首は「お福」。人の良い、いわゆる、お多福顔である。原作は、類型ばかりが目立つ、典型的な筋の展開、人物造型の弱い、というやっつけ仕事の「伊勢音頭恋寝刃」の中で、歌舞伎では、お鹿という人物は、この類型外の人物として登場する。傍役ながら難しい役柄。貢への秘めた思いを滑稽味で隠しながらの演技。それだけに、熟成の中堅やベテラン役者を配役する。

 人形浄瑠璃では、お鹿には、それがない。料理人・喜助の首は、「検非違使」。傍役ながら、貢の味方であることを観客に判らせながらの演技という、いわば「機嫌良い」役どころ。これは,歌舞伎と同じだ。「奥庭十人斬りの段」は、竹本の大夫も、三味線方も、人形遣いも、重厚で、安定感がある。音楽的にも優れている。それでいて、典型的な下世話噺という「伊勢音頭恋寝刃」の妙味を、たっぷり堪能した。アンバランスの妙味だろう。

 「伊勢音頭恋寝刃」は、実際に伊勢の古市(ふるいち)遊廓で起きた地元の医師による殺人事件を題材にしている。1796(寛政8)年5月、伊勢国(現在の三重県東部)古市の遊廓「油屋」で、地元の医師が事件を引き起こした。医師の相手をしていた遊女がほかの座敷に移動したのを怒り、医師は遊廓にいた9人を殺したという。事件の2日後、本人も自害した。そういう事件である。この狂言を書いた作者は、3日間で書き上げたと伝えられている。事件後、およそ2ヶ月、急ごしらえで作り上げられ、1796(寛政8)年7月、大坂・藤川八蔵座(角の芝居)で初演された。ばたばたと上演された歌舞伎だけに、戯曲としては無理がある。まさに江戸時代のテレビのワイドショー的な演出である。

 原作者は、並木五瓶が江戸に下った後、京大坂で活躍した上方歌舞伎の作者・近松徳三ほか。近松徳三という人は、筆名から見て、近松門左衛門の門下と思われるが、詳しい人物像は判らない。世話物で初演時は四幕七場、という構成。筆の勢いのままに、いわば、ラフなコンテの様に書きなぐったような作品だが、狂言作者が書く芝居には、「憑依」という、神憑かりのような状況になるときがあり、それが「名作」を生み、後世の演者たちの工夫魂胆の心に火を付ける。実際、「伊勢音頭恋寝刃」は、そんな「やっつけ仕事」の演目ながら、初演以来、220年も生き延びて上演され続けてきたし、まだまだ、生き延びるのだろう。

 人形浄瑠璃の方は、歌舞伎の初演から42年後の1838(天保9)年、大坂・稲荷社内東芝居で初演された。全3巻に再構成脚色された。現在では、1885(明治18)年大坂・稲荷彦六座で三味線方の二世豊澤團平夫妻の改訂版で上演された、通称「油屋」の場面のみが上演される。二世豊澤團平による精緻な節付けが秀逸と評判になった。特に、通称「十人斬り(殺し)」と呼ばれる場面の演奏は、音楽的には歌舞伎を凌駕するものがあると評価されている。

 9月の国立劇場では、「古市油屋の段」の竹本は、咲大夫の代役で文字久大夫、三味線方は、燕三。「奥庭十人斬りの段」の竹本は、咲甫大夫、三味線方は、錦糸。

 連続殺人という、人を殺し回るだけの馬鹿馬鹿しい場面ながら、汲めども尽きぬ、俗なおもしろさを盛り込む。そういう工夫魂胆の蓄積が飛躍を生んだという、典型的な作品が、この「伊勢音頭恋寝刃」だろう。最後に、お家騒動の元になった重宝の刀「青江下坂(あおえしもさか)」と「折紙(刀の鑑定書)」が、揃って、十人殺しの殺人鬼と化していた貢が、正気に返り、「公務」の主家筋へふたつの重宝が見つかったことを届けに行く、「めでたし、めでたし」(?)という俗っぽさがある。

 長い間上演され続ける人気狂言として残った理由は、芝居でお馴染みのお家騒動をベースに、主役の福岡貢へのお紺の本心ではない愛想尽かしから始まって、ひょんなことから家宝の名刀、実は、妖刀「青江下坂」による連続殺人(十人殺し)へというパターン。伊勢音頭というリズムに乗せた殺し場の様式美の巧さ。殺しの演出の工夫。

 歌舞伎の丸窓の障子を壊して貢が出て来る場面は、上方型。人形浄瑠璃にはなかった。歌舞伎の演出の方が、洗練されていると、感じた。ただし、どちらも無惨絵の絵葉書を見るような美しさがある反面、「紋切り型の安心感」がある。そういう紋切り型を好む庶民大衆の受けが、いまも続いている作品といえそう。この芝居は、もともと説明的な筋の展開で、ドラマツルーギーとしては、決して高いレベルの作品ではない。ドラマツルーギーの悪さをビジュアルな演出や音楽で補ったということだろう。

 今回の人形浄瑠璃では、お紺と万野の対決の場面が見応えがあった。簑助が操る女郎のお紺。勘十郎が操る仲居の万野。簑助の女形人形は、きめ細かな動きで生きているように見える。勘十郎の操る技術よりも、熟成していることが判る。人形同士の対決の後ろに見える人形遣いの表情。その神々しいまでの見守りの表情。人形と人形遣いの「交情」のようなものが感じられて、どちらも目が離せない。

 10月の国立劇場では、同じ演目の「伊勢音頭恋寝刃」が歌舞伎で上演された。人形ではなく生身の役者が演じると同じ芝居が、どう変わるか、というのも、興味深い視点だろう。9月の国立劇場、人形浄瑠璃上演での場の構成を思い出して欲しい。「古市油屋の段」、「奥庭十人斬りの段」であった。2つの場面。10月の国立劇場では、53年ぶりの通し上演となる。国立劇場でのこうした通し上演は、今回が初めてである。今回の場の構成は、次の通り。8つの場面で、構成される。

 序幕第一場「伊勢街道相の山の場」、第二場「妙見町宿屋の場」、第三場「野道追駆けの場」、第四場「野原地蔵前の場」、第五場「二見ケ浦の場」、二幕目「御師福岡孫太夫内太々講(だいだいこう)の場」、大詰第一場「古市油屋店先の場」、第二場「同 奥庭の場」。つまり、通常「みどり」で上演されるのは、「大詰」だけということがわかる。

 相の山、妙見町、二見ケ浦など伊勢の名所をいくつも舞台としていることから、伊勢という土地や当時の世相が、タイムカプセルに入ったまま時空を超えて現代に届けられてくるような気がする。そもそも、伊勢参りは、江戸時代の庶民にとって、ディズニーランドのように(?)、生涯で一度は行ってみたいと願った憧れの場所であったから、この外題は、現在から想像する以上にインパクトがあったかもしれない。ただし、9月の国立劇場・人形浄瑠璃での上演も場面としては、普段の歌舞伎上演同様に「大詰」しか上演しなかった、ということだ。

 今回の歌舞伎のように通しで見ると、まずこの物語が、典型的なお家騒動ものであることが判る。阿波国家老職・今田家の家宝の「青江下坂(あおえしもさか)」という名刀が、お家への謀叛を企てる一味の陰謀に引っかかった今田家の嫡男・今田万次郎の手を経て質入れされてしまう。さらに同じ一味の計略で、刀の「折紙(鑑定書)」も、偽物にすり替えられてしまう。家宝は、刀と折紙がセットになって初めて価値を生む。

 伊勢の御師(通常「おし」、または、「おんし」。特定の寺社に所属して、その寺社へ参詣客を案内したり、宿泊の世話をしたり、祈祷をしたりする者。伊勢神宮の場合は、「おんし」と呼んだ。御師たちは寺社近くの街道沿いに集住し、御師町を形成した)である福岡孫太夫の養子・貢(みつぎ)は、実家が今田家の家来筋という縁で刀と折紙の探索を引き受ける。

 孫太夫の弟・猿田彦太夫は、甥の正直正太夫に太々講(伊勢参宮のために結成された信仰団体)の積立金百両を盗ませて、その罪を福岡貢に背負わせる。貢の叔母・おみねの機知で彦太夫と正太夫の悪事が露見する。ここまでが、今回初見となる場面。残りの大詰第一場「古市油屋店先の場」、第二場「同 奥庭の場」は、馴染みの場面となる。ここは人形浄瑠璃よりも歌舞伎の方が華やかな殺し場となる。歌舞伎の様式美を織り込んだビジュアルな場面である。

 序幕では、「だんまり」などの歌舞伎独特の演出を交えながら5つの場面をスピーディな場面展開で、十人殺しの殺人鬼の発生までの背景を描いて行く(ここまでの上演時間は、5場で1時間)。二幕目は、残虐な連続殺人という悲劇の前の喜劇という演出の常套手段の場面となる。

 今回の配役は、福岡貢が、梅玉。正直正太夫と油屋の料理人で貢に協力する喜助の二役を鴈治郎が演じる。油屋の仲居・万野が、魁春。油屋お抱えの遊女・お紺が、壱(かず)太郎(鴈治郎の長男)。油屋お抱えの遊女・お鹿が、松江。貢の叔母・おみねが、東蔵。今田家の嫡男・万次郎が、高麗蔵ほか。

贅言;この芝居は、上方歌舞伎の典型的な人物造型が、実は、見どころなのだ。それを象徴的に言おうとすれば、「つっころばし」と「ぴんとこな」ということになる。今回の芝居に登場する「つっころばし」は、今田家の嫡男・今田万次郎である。一方、「ぴんとこな」は、伊勢の御師・福岡貢である。

 「つっころばし」と「ぴんとこな」は、いずれも上方味の和事の立役の人物造型。「つっころばし」は、「ちょっと肩などを突つくと転んでしまいそうな、柔弱な容姿からついた名称。立ち姿、歩き方、科白廻しなどにも男ながら女形のような色気が要求される。痴呆的なほど、遊女との恋にぼうっとはまり込んでいるような、いかにも生活力とは無縁なような、年若い優男。濡事(官能的な演技)師、女たらし、と言えば判り易いか。「伊勢音頭恋寝刃」の今田万次郎、「野崎村」の久松、「夏祭浪花鑑」の磯之丞、「双蝶々曲輪日記」の与五郎などが、「上方」和事の典型的な「つっころばし」となる。

 これに対して、「ぴんとこな」は、同じ濡事師、女たらしの要素を残しながら、一種の強さを持っている。「ぴんとこな」の「ぴん」は、「ひんとする(きっとなる)」ではないか、という説がある。元禄期には、「手強さのある若女形」が、「ひんとこな」と呼ばれたことがあるというが、次第に、立役の和事系統の人物類型として定着してきた、という。柔らかな色気を滲ませながら、「つっころばし」のような女方っぽい色気にならずに、立役的な手強さを感じさせなければならない、という。優男とは違う二枚目、ということだろう。役づくりは、「江戸」和事の中で洗練されてきた。「伊勢音頭恋寝刃」の福岡貢、「心中天の網島」の治兵衛などが、「ぴんとこな」である。

 「江戸」型として、静止画的な絵姿の美しさ(残酷美も含めて)を強調した、いまのような演出に洗練したのが、幕末から明治にかけて活躍し、「團・菊・左」として、九代目團十郎、初代左團次と並び称された五代目菊五郎だという。粋な江戸っ子の粋を凝縮したような、この立役の大物役者は、上方に残った型として、「和事」の遊蕩児の生態を強調して、福岡貢という役柄に磨きをかけた。

●序 幕  第一場「伊勢街道相(あい)の山の場」。伊勢神宮の外宮と内宮の間にある「間(あい)の山」では、女芸人のお杉、お玉が三味線を弾き評判を取っていた。多くの旅人が行き会う「伊勢街道相の山」の場面にも女芸人が登場する。そこへ、廓遊びに夢中の阿波国の家老職・今田家の嫡男・万次郎が遊女らを連れて、遊山を楽しみながらやってきた。お休み処でたまたま出会った悪人の徳島岩次一味によって、今田万次郎が所持していた今田家家宝の刀「青江下坂」の「折紙(鑑定書)」が偽ものとすり替えられてしまう。万次郎の一行に加わっていた家臣のふたり杉山大蔵、桑原丈四郎も、実は、徳島岩次の一味だったが、万次郎は知らずにふたりを連れ回していた。「つっころばし」の今田万次郎の脇の甘さや鷹揚な若君ぶりが描かれる。

 同 第二場「妙見町宿屋の場」。「ぴんとこな」の福岡貢が叔父の藤浪左膳の指示に従って、紛失した「青江下坂」の詮議を引き受けて、妙見町宿屋「勢州屋」で、叔父立ち会いの下、「つっころばし」の今田万次郎と対面する。上方和事の典型的なふたつの人物造形を対比的に観ることが出来る場面だ。

 同 第三場「野道追駆けの場」。徳島岩次らは、お家乗っ取りを企てる蜂須賀大学の一派。万次郎の一行に加わっていた家臣の杉山大蔵、桑原丈四郎は、乗っ取り派の手の者。大学からの密書を所持していた。岩次にそれを届けるらしい。それを窺い知った万次郎派の奴・林平が密書を奪おうとふたりを追いかける。本舞台から客席に降り、江戸時代の芝居小屋では、「中の歩み」と呼ばれた真ん中の通路で追いかけっこをする。林平(亀鶴)は、客席の観客にふたりがここを通ったかどうかを聴いたりして、客席を笑わせる。その間に、本舞台は場面転換。書割りが天井に引揚げられて、収納となり、「野原地蔵前の場」が現れる。

 同 第四場「野原地蔵前の場」。役者たちは客席から花道へ上がり、本舞台に戻って来る。必死で逃げる杉山大蔵は、逃げ場に窮して、釣瓶井戸の中に潜り込む。桑原丈四郎も、野原の地蔵の笠を奪って自分で被り、地蔵を移動させ、代わりに自分が立ち尽くして、追いかけてきた林平をやり過ごそうとするが、見つかってしまい、さらに逃亡劇は続く。

 同 第五場「二見ケ浦の場」。伊勢の名所、夫婦岩で知られる二見ケ浦。杉山大蔵、桑原丈四郎に追いついた林平は、貢、萬次郎と合流。密書を奪い取る場面が歌舞伎独特の演出の「だんまり」(暗闘の沈黙劇)で描かれる。千切れた密書もひとつになったが、夜明け前の暗闇では字が読めない。手元に明りもない。やがて、注連縄で結ばれた夫婦岩の向こう二見ケ浦に朝日が昇る。貢は密書を読むことが出来た。

●二幕目  「御師福岡孫太夫内太々講の場」。福岡貢の養子先の伊勢御師・福岡孫太夫の家、ということで御師の生活ぶりが覗ける場面。「太々講(だいだいこう)」は、伊勢参宮のための集まり。「伊勢講」とも言われる。福岡孫太夫が留守のため、弟の猿田彦太夫が太々講の講中の前で神楽を奉納し、祈祷を上げている。神楽が終わると、甥の正直正太夫が現れ、孫太夫の娘の榊を口説き始める。名前に違って、なんともうさん臭い奴だ、と思ったら、案の定、嘘つきの、どうしようもない男だ。太々講が積立てた奉納金百両を盗んできて、福岡貢に濡れ衣を着せようと企んでいる。孫太夫の娘の榊と結婚し、孫太夫の後継者になりたいのだ。貢が邪魔になるので、追い落としを謀っている。

 貢の叔母のおみねが孫太夫を訪ねてきて、正直正太夫が盗んだ金を隠そうとしている場面を目撃する。祭壇の「一万度祓(いちまんどはらい)」という箱に金包みを隠す。おみねは紛失していた刀の「青江下坂」を見つけて、買い戻して来たのだ。

 正直正太夫と組んで貢追い落としの片棒を担ぐ猿田彦太夫が、講中の奉納金が紛失していると騒ぎ立てる。正直正太夫は現場に貢の紙入れが落ちていたと言い立てて、貢を犯人に仕立てようとする。おみねが正太夫の悪事を暴き、貢の窮地を救う。悲劇の前の笑劇。いつものパターンの芝居の流れ。

●大 詰  第一場「古市油屋店先の場」。ここからは、度々演じられる、馴染みの場面。古市の遊廓「油屋」を訪れた福岡貢が、岩次一味と気脈を通じた仲居の万野の嫌がらせを受ける。岩次が隠し持っている「折紙(刀の鑑定書)」を取り上げるために、嘘の縁切り場面を演じる貢の恋人・お紺との絡みなどを経て、家宝の刀が、いつの間にか、人殺しの妖刀になっている、という荒唐無稽さ。狂気の果てに十人殺しへなだれ込んで行く貢の姿を描く。

 同 第二場「同 奥庭の場」。上手の座敷と下手の離れを繋ぎ、奥庭を大きく跨ぐ渡り廊下。そこで伊勢音頭を踊る14人の女たち。華やかな場面。上手の丸い障子を蹴破って、殺人鬼が斬りつけた遊廓の客たちを追って登場する。殺しの場面は、渡り廊下、階段を下りて庭へ、本舞台から花道へ、と執拗に続く。上手から逃げてきた寝間着姿のお紺に突き当たり、水を飲み、正気に返る貢。人殺しの刀が、家宝の「青江下坂」だと駆けつけた奴・林平に教えられる。お紺が盗み取った「折紙」も手に入った。今野万次郎に届けに行かなければならない、と考える冷静さを取り戻した貢は、お咎めもなく、主家の若君の下へと花道を急ぎ行く。

贅言;「安倍音頭戦寝刃(あべおんどいくさのねたば)」は、大原の戯れ言だが、いわゆる戦争法案は、7月から9月に掛けて、衆議院・参議院でそれぞれ、まさに「安倍」の「音頭」取り(強引な掛け声)で与党による議席の多数決で強行採決されてしまった。「寝刃」を研ぐように、国会では、「嘘」とも言えるような説明を積み重ねて、また、こっそりと悪事を企むようにして、真相を隠したまま、法案を成立させてしまった、ように見える。

 しかし、国会内の「過去」(つまり、選挙当時の小選挙区投票結果というズレ)を引きずった議席数を錦の御旗としているが、国会外の「現在」は、半年後の来夏の参議院という「未来」を先取りする新たな議席数を予兆させるような世論の多数決では、強行採決に引続き「ノー」を言い続けており、10月2日の日比谷野外音楽堂周辺や銀座などへのデモの参加者は、法案成立前の8月30日に国会周辺に集まった12万人には及ばないものの9月30日の法案公布後にも関わらず、2万人が集まった。こっそりと企まれた「戦」構想に対する国民の「ノー」の声は、鎮まることなく声高に響(とよも)すことだろう、と思っている。よって、付けた外題が、「安倍音頭戦寝刃(あべおんどいくさのねたば)」であった。

 歌舞伎では、女が男に愛想尽かしをする名場面がいくつかある。「伊勢音頭恋寝刃」のお紺、「籠釣瓶花街酔醒」の八ッ橋、「名月八幡祭」の美代吉、「御所五郎蔵」の皐月など。国民が独断的な政治家に下す愛想尽かしを観てみたい。私が観た「伊勢音頭恋寝刃」は、今回で8回目。私が観た福岡貢は、仁左衛門(3)、團十郎(2)、三津五郎、当代の勘九郎、そして、今回が梅玉。上方型は、仁左衛門と梅玉の2人。江戸型は、亡くなった團十郎と三津五郎。去年観た当代の勘九郎の3人。颯爽とした二枚目ぶりを強調した仁左衛門の貢が印象に残る。

 (筆者は、ジャーナリスト、日本ペンクラブ理事。元NHK社会部記者)


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