底辺校」高校生の実態が教えるもの  山中 正和

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 皮肉にも教育がこのように広く国民的課題となったのは、子供の実態が徐々に
誰の目にも明らかになるにつれてであった。政府が毎年行っている国民の意識調
査(内閣府・社会意識に関する世論調査、平成19年2月調査)によれば、ここ
2年で『悪い方向に向かっている分野』は急カーブで上昇している福祉、地域格
差などを押さえて、No1は教育分野である。なんと36%の人が教育が一番悪く
なったと答えているのである。中でも昨今は、学力が落ちていることが大きな関
心を集めているが、学校だけでなく、ニート、フリーターなどの若者の職業問題、
ひいては社会問題にまで歪みが広がっているところに今日の教育が抱えている
深刻さがある。

 ここに興味深いレポートがある。「見捨てられた高校生たち」と題する公立高
校の実態だ。未来を担う青少年がどのように生きているのか、このレポートは私
たちの想像を超え、寒心に堪えない現場からの叫びに満ちている。
取り上げられているのは「底辺校」である。「無学力」という言葉さえ登場す
る。高校の校舎の内外での学力以前の実態が赤裸々に映し出されている。

 筆者、朝比奈なお氏は「底辺校」には3つのタイプの生徒がいるという。一つ
は、本来持っている能力は高いが、登校拒否とか、中学の内申書が悪かったため
に「底辺校」にしか来られなかった子たち。彼らは、高校に入った当初は学習意
欲に燃えている。しかし共通点はコミュニケ―シュンに苦手意識があることであ
る。
二番目のタイプは「ワル」タイプの生徒達。「ヤマンバ」とか「コギャル」
も多くはここにいる。授業への妨害、あらゆる種類の暴言。教師からは、「私た
ちに人権はあるのか」という悲痛な叫びが聞こえる。さらに昔のツッパリと違っ
ているのは、「義」に感じる、といったことはほとんどないことだ。本人も親も
こんな学校出たってどうしようもない、という失望感で凝り固まっている。卒業
後、「フリーター」になるケースも多い。
第三のタイプは、無気力で全く生気が感じられず、極端に学力が低い生徒群で
ある。人の話を聞いているようで理解しておらず、自分から積極的に行動を起
こすことは全くない。三年間で、単語以外の言葉を聞いたことがないという生
徒さえいる。この3つのタイプの混在が、「底辺校」の最大の問題であると首
都圏の公立高校の教師の経験のある筆者は言う。
 
  保護者にも3つのタイプがある。入学式を代表する儀式的行事にその特徴が表
れるようだ。式典にふさわしい控え目ながら華やかな装いの一群。第一のタイプ
の保護者である。目一杯きらびやかに着飾ってくる保護者がいる。「子供だけは
高校を出てほしい」という会話が聞こえる。式典を心から喜んでいる。かつての
「ツッパリ」であろうか。ほとんどは二番目のタイプの生徒の保護者である。人
目を避けるようにやってくる保護者がいる。応対する教師に何度も頭を下げる。
生気が感じられないのは第三のタイプの生徒と同じだ。
  「 
  底辺校」では、家庭での教育力はほとんど機能していない。
  学力低下の実態は「大学生でも分数ができない」話題が世上をにぎやかにした。
しかしここで挙げられている「無学力」の実態は、学力の高い低いといったレベ
ルではない。「私わ」「自転車お」といったようにひらがなの書けない高校生もい
る。アルファベットが書けない、簡単な日本語の意味が分からない、二桁の足し
算ができない.....。

 こうした生徒たちは勉強する意思がなく高校まで来てしまったとしか考えよ
うがない。勉強しないと自分が損をする、ということが今の日本社会では必ずし
も真実でなくなってきているに気づいているのではないか、と筆者は危惧してい
る。
  社会に出て行く、生きるための知識や技能、体験が全く足りない。その背景に
は貧困がある。東京の生活保護を受けている人の比率は、全国平均に比べて実は
高い。(先の世論調査。平成19年・人口千人あたりの受給者数)OECD(経済
協力開発機構)による「貧困」の定義では、貧困層に当たるのは、国民年収の半
分以下しかない人を指すという。年金をきちんと払っていた60歳代の20年後は、
貧困生活に陥ってしまうのが政府の試算なのだ。
  運転免許さえ取るのが困難な生徒も多い。一番の要因は、費用の点である。毎
月1万円の授業料さえ払えない家庭には運転免許のお金は出しようもない。彼ら
にとっては、あのディズニーランドにさえ行きたくても行けない憧れの場所なの
だ。

 こうした「底辺校」の生徒にとっては社会へのハードルが高すぎる。
  また、企業の人事課はこう言う。「新聞の見出しを読んでいれば分かる程度の
一般常識を。」
  ところが、家庭では新聞を取っていない。番組雑誌とワイドショーが彼らと社
会のつながりの大きな部分を占める。彼らには本当に夢の希望もないことに気づ
く。「一億総中流」時代にもその恩恵にあずかることなく、ひょっとすると近代
以前から連綿と続いている貧困の系譜が存在するのではないか、と筆者は日本の
社会の成熟度に疑問を投げかける。

 聖域なき構造改革と競争原理至上主義が、反省され始めている(?)とはいえ、
教育改革は、学力向上とエリート育成に重心がかけられすぎてはいないだろうか。
目先の国益や狭い自己体験に固執した発想からの教育改革はいずれも成果を挙
げず、現場を振り回してきたことを、行政をはじめとする教育関係者は反省すべ
きであろう。迷惑するのは子どもたちと教師、保護者だ。まず、教育は、市場原
理の枠に入らないことを国民的合意とすることが必要ではなかろうか。個人には
さまざまな個性や能力の違いがある。個々のニーズに合わせて、教育の機会が保
障されなくてはならない。しかし、生徒に影響を及ぼす社会的・経済的格差が極
力閉じ込められるように知恵をしぼるのが、政策立案者の役目ではないかと思う
のだが。
 
「競争―テスト―学力」というトライアングルの図式からは、実は学力の向上
も達成されないという、近年の世界からの教育レポートも続々明らかにされてい
る。ここにいる高校生たちが何故教育改革のテーマにならないのか。国家百年の
計と言うならば、未来は像(イメージ)から出発するのではなく、現実から出発
しなくてはならないのに。
(財団法人日本中国国際教育交流協会 常務理事)

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