「新段階の日中友好運動」

■「新段階の日中友好運動」

日中友好協会理事長  村岡 久平     聞き手 加藤宣幸
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加藤 戦後社会党出身の総理大臣は片山哲・村山富市両氏ですが、その二人に 同行して訪中したという珍しい記録を持つのが村岡さんだと聞いたことがある のですが、そもそも、村岡さんが日中友好運動にかかわられた契機などから御 話し下さい。

村岡 1955年11月に初めて護憲連合代表団として訪問したのです。団長は片山 哲・副団長藤田藤太郎(総評議長兼私鉄総連議長)氏で、社会党国会議員では 猪俣浩三・中崎敏氏、他には後の法政大学総長中村哲・俳優座の千田是也・元 陸軍中将遠藤三郎氏などでした。ですから来年で50年になります。

 中国語がわかるのでもなかったのですが、片山団長の秘書役のような立場だ ったと思います。代表団が訪中してしばらくたった時、周恩来総理と片山代表 団の会談がありました。その席で周総理が「東北地方の無順の収容所に収容さ れている1068名の日本人戦犯を3年以内に無条件釈放することを昨日決定した ので片山先生にお伝えします」と発言された。

   そこで、一刻も早くこの朗報を獄中の人たちに知らせようと翌日、特別列車 で無順に行ったのです。戦犯の人達は、敗戦から丁度10年間も、日本との文通 もなく、戦後日本の状況は風の便りに聞くだけで、自分たちはどうなるのかも わからない不安に包まれて暗い毎日を送っていたのですが、私たちが収容所に 行くと、その人たちが、寒い、暗いところで全員待っていた。拍手するでもな く、沈黙のままの異様な雰囲気で迎えられた。  その衝撃が、いつまでも脳裏から消えずに、私が日中友好運動に携わる原点 のようなものになったように思います。ですから、中国の古典を読んで、中国 に憧れたとか、何か中国とのかかわりがあったから友好運動に入ったとかいう のではありません。

   この代表団が帰国する間際に北京で片山さんと中国側の対外友好協会とが 「文化体育交流に関する申し合わせ」というのを結び、これから新しく日中交 流をやりましょうということになった。国交正常化というより、まず国民の間 の往来・交流、なかんずく文化・スポーツの交流をやることになった。

 翌年(1956年4月)第23回世界卓球選手権大会というのが東京体育館のこけら落しを兼ねてありました。そのとき、日本の卓球協会は「中共を呼ぶと右翼が ガタガタする」というのですが、中国は国際卓球連盟のメンバーで台湾はメン バーではないのです。そこで私たちが加盟メンバーを呼ばないのはおかしいの ではないかと言った結果、中国が来日することになった。

   当時、中国チームのレベルは低かったのですが、そのチームが新中国として 一番始めて海外に出たチームだったのです。さらに、その年6月、京劇の「梅 蘭芳」を朝日新聞と組んで日本に呼びました。こういうかたちで徐々に民間 交流が始まって行きましたが、1958年に長崎国旗事件というのがあって頓挫し てしまいました。しかし、スポーツ交流はわりとやっていたのです。 そのころ、ブランテージIOC(国際オリンピック委員会)会長がIOCに台湾を 入れ、中国も入れると言い出したところ、中国は二つの中国に反対と言うこと でIOCを脱退した。そして主要な国際競技連盟、たとえば陸上とか水泳などか らも抜けたのですが、そのなかで卓球とバレーとスケートだけは国際連盟の執 行部がわりと政治的に賢明だったので交流はできたのです。 卓球の場合、日中交流を含めてピンポン外交が活発に行われたのは、当時、世界平和評議会のメンバーで非常に進歩的な哲学者で文芸評論家のモンターギュ 氏というイギリス人が会長だったからだと思います。 そういうこともあって国際卓球連盟は今日まで政治的に「ブレ」なくてきたの です。    話を前に戻しますと、片山訪中から日本に帰っても金が全然ないので、仕事 はできない。そこで、朝日・毎日・読売の編集局次長が3社連合という懇談会 を作っているというので片山先生に名刺を書いてもらった。そして、当時の金 で各社10万円ずつ30万円出して貰い、さらに月1万円の会費を出しましょうと いうことになり、「日中文化交流協会」が出来たのです。そして初代の会長に 片山さん、理事長に中島健蔵さんがなった。当時、「日中友好協会」というも のがありましたけれど、その組織にたいしては日本共産党が強い政治的影響力 をもっていました。ところが1966年の段階で中国に文化大革命が勃発して、日共は中国に反発し、やがて政治的に断絶する。 日中友好協会はこのようにどちらかといえば反安保など政治的大衆運動に熱心 な傾向があったけれど、日中文化交流協会は文字どうり、文化・スポーツなど で実務的交流を重ねたのです。 今から見ると、お互いに話し合ったわけではないのですが住み分けになってい たことになります。

 私が友好協会に直接関係するのは、ここ15・6年くらいですが、両方の団体に 関係しまして、交流活動をやってきたわけです。ところが1966年後半からずっ と33年近く、日共が中国と断絶状態になりました。中国は友好には後先ないと いう言い方で、今は日共も中国との交流が始まっております。日共系の組織も 「日中友好協会」という同じ名前なので、これについては、いろいろ議論も あったのですが、今は皆さんが理解してくれて、こちらは「社団法人日中友好 協会」として2000年に外務省の許可をとり、各地方自治体とも連携しながら やっていこうという方針でおります。

 向こうの組織も友好運動をやっておりますが、なんといっても33年間の溝と いうものがあり、無理して一緒になる必要もなく、それぞれの場でやっていけ ばよいということになっています。中国側も分かっていて、一緒になれとか、 連合したらとかの誘いもありません。

加藤 日中文化交流協会は日中友好協会と合併したのですか。

村岡 いや、一応あります。

加藤 名前だけで活動はしてないのですか。

村岡 そうでもありませんが昔のような活動はしていません。

加藤 村岡さんは交流協会のほうは完全に離れて日中友好協会の理事長を やっていらっしゃるのですね。

村岡 そうです。いろいろ、組織内の問題もあって私は離れたのですが、個人と してもスポーツ交流はあらゆるものをやってきました。    1972年に国交正常化して以後、73年9月に神戸市と天津市で第1号の友好都市 というのが結ばれましたが、なぜ結ばれたかと言うと契機は72年の国交正常化 した後、11月に当時の宮崎神戸市長を団長に日本の水泳チームが中国に行きま した。しかし、日本水泳連盟は国際水泳連盟のメンバーで中国はメンバーでな かった。当時、加盟国が非加盟国と交流することに対して非常に厳しくペナル テーを科していました。 当時、古橋と一緒に泳いだ橋爪四郎・タレントになった木原美智子・藤沢市 長になった葉山氏の奥さんなどが中国に行ったことで日本水連から全部除名さ れてしまったのです。勿論、そういうことを中国は全部知っている。 宮崎市長も帰ってから知ったのですが、現職の市長が団長で行ってそんなこと になり真に申し訳ないと謝まられたのですが、いかんせん市長では救いようも ありません。中国側では何かできることはありますかというのですが、まさか メンバーでもない国に復活してくれと言っても、もっとややこしくなるだけだ ということになってしまった。

 その時、市長がそれはそれとして神戸は戦前から中国との港の窓口であっ た。国交も正常化したことでもあるし、何か友好の誼を表すようなことが出来 ないでしょうかと言われたのです。そこで、それについて書簡を送ったら向こ うの政府が天津市と姉妹都市になることではどうかという返事がきて、姉妹都 市第1号になったのです。ですから、日本水連関係者の犠牲の上に、いわばス ポーツが結んだ姉妹都市とも言えるわけです。

加藤 そうですか。面白いですね。他にもスポーツと政治がからむエピソート があると思いますが。

村岡 国交正常化の1年前の71年に、イチローの出身校の愛工大付属名電工の 校長をやっていた後藤孝治さんは日本卓球連盟の会長で同時に台湾が入ったア ジア卓球連盟の会長でもあった。その彼が第31回世界卓球選手権大会を名古屋 でやることを決めたのですが、中国は文化大革命で3回も世界大会に出ていな いのです。トヨタも中日新聞もお金を出してくれるというのに、中国が来ない 世界選手権は「臥竜点睛を欠く」というわけで、皆で相談したのです。 当時、中国側に交流についての三原則というものがあり、スポーツ団体がそれ をのんだとかいって体育協会も袋叩きに合いました。 私も中国に一緒に行って71年1月末に卓球の協定を結び、それによって3月末に 選手団が来たのです。そして最終日の園遊会で、中国のキャプテンがアメリカ の選手に中国に来ませんかと言うと行きたいということになってバーット動き だしたのがピンポン外交なのです。 それからキッシンジャーがパキスタンからお忍びで北京に行き、翌年2月には ニクソンが現職大統領として中国を訪問し、まだ国交正常化していないけれど 周総理との間で「上海コミニケ」を結び、やがて国交正常化になるわけです。  これが俗にピンポン外交と言われているものです。勿論、名古屋が舞台でな くても世界のどこかでであったかも分りませんが、スポーツというのを足場に しながら日本でそういうきっかけが作られたのも歴史的事実です。 当時、日本は頭越しにやられたというので、バタバタして私なども外務大臣 に会ったりしました。そのころは福田、田中の争いがあって、田中さんが勝 ち、流れが国交正常化の方向に行ったのです。

加藤  スポーツ交流が政治を動かした典型的な例ですね。

村岡  そうです。文化交流というものは政治・経済が「動脈」とすれば 「静脈」だと思います。静脈は1本や2本切れてもいいとは言いませんが何千本 というものが色々な形で組んでやっていけば、点が線になり、面になって大き な力になると思います。そういう意味で私は文化の交流というものは大事で政 治・経済というものは結局、文化の流れ、人類の平和をもたらす手段だと確信 しています。

加藤  友好運動も2国間から地域間協力の運動にも発展するべきだという意 見がありますが。

村岡  私は日本武術太極拳連盟専務理事、アジア武術連盟事務総長として各 国をまわるのですが、東アジアには華人が3,4千万人います。国籍はシンガ ポールなどであっても根はチャイニーズです。そういう人が日本と中国とは近 代の100年に、戦争とかいろいろなことがあったけれど2000年かそれ以上の平 和的な交わりがあり、発音が違うけれど漢字は同じ、箸ももつ、そういう点で は共通性があって、2国間の多彩な長い歴史がある。わりと平和的環境のもと で漢字を教えたり、中国も日本の文明を受け入れたりして相互に依存しあった 関係は世界的にも珍しいと言うのです。 そういうことは当たり前と思い勝ちですが東南アジアと中国との関係はごく近 代の関係だというのです。 ヨーロッパだって、例えばトルコとの関係を見ても、あるいは宗教対立でも戦 乱に明け暮れ、お互いに長い憎しみの歴史そのものです。 そういう点でいくと、日中の交流というのは世界の歴史でも珍しいと思います。  今年、空海=弘法大師の入唐1200年でこの10日に西安で公事をやるのですが、 日本に仏教が渡来し、唐招提寺、鑑真さんなど多くの人や文化が入ってきた。 そして、われわれは学んできたし、中国も明治維新以来の日本の近代化につい て開明的な人が留学したりして学んだ。その最たるものが孫中山=孫文であ り、非常に感謝されている。 日中両国はお互いに感謝し合ったりして2000年以上の歴史を持ち、深い関係に あるのです。

加藤 「政冷」「経熱」といわれる現在の日中関係について、どう思われますか。

村岡  日中2国間の関係は中国が13億の人口を持っていますし、政治的に重要 ですから日本の政治の軸足をアメリカに置くと同時に、もっとアジア、なかん ずく中国におきながら、社会体制は違いますが、2000年の付き合いの上に立っ て交流を強めていくべきだと考えます。 今、中国も日本との関係を求めておりますし、日本もこれから経済的には年 ごとに関係が濃厚になっていますので日本の政治指導者・各政党がもっと中国 問題を重視するというよりも、もっと踏み込んで対応して貰いたいと思いま す。

 国交正常化して30年以上たちまして、政府間の問題というのは、さっき御話 しした「動脈」の関係ですから重要ですし、経済も大きな相互依存関係になっ ています。  民間は「静脈」だと思うので、「動脈」が確りして「静脈」がいろいろ複雑 に対応しながら「健康」は保たれると思うのです。そういうようなバランスの とれた国際外交関係なり政治関係、経済関係を結んでいくのが日中だけでなく 外交の根本だと考えます。そういう点でお互いに日中関係というものを深めて いくために、もう一度、頑張らなくてはと思っています。 中国も、この20年来、改革開放路線が定着して社会主義市場経済という体制で すが、社会主義体制というものは堅持しつつ、俗に言う「特殊な国」から脱皮 ・脱却して「普通の国」になりつつある。その最たるものがWTO加盟であり、 2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博です。最近、F1も上海で始まり ました。

 13億の人口と55ー6の少数民族を擁する国が、いろいろな困難や問題があっても頑張っている姿は、中国の歴史始まって以来のことだと思います。 私が、その象徴的なものとして注目しているのは2007年7月1日の開通を目標 に世界の孤島といわれるチベットのラサから貴州省まで1500KMを一番高いとこ ろは海抜5600Mを走る鉄道を基本的には中国の技術だけでトンネルなども建設 していることです。大体予定どうり進んでいるようですが、中国が問題を提起 し、実行していく力というものは大したものだと考えます。これをやり遂げ て、オリンピックをやり、万博をやって世界の中国になっていくと思います。  そういう中で、日本は国が隣りで、長い交わりもあり、工業的にも発展を遂 げているだけに協力・依存関係というものは、ますます深まる筈です。 この点から見れば、私たち日本国民が選んだ形になりますが、小泉総理が勝 手な理屈をつけてやっていることは、本当に国益からも、中国・朝鮮半島・ア ジア各国との友好・平和・発展にとっても、まったく時代錯誤というほかあり ません。  それだけに、民間の交流を地道にやっていくことが大事だと思っております。

加藤   最近は自治体が交流活動を活発化しているように思いますが。

村岡   今、日本と中国との間に230くらいの都市の姉妹都市があり、友好 交流をやっています。ごく最近の話ですが、島根県の松江市と、まだまだ発展 途上の最たる寧夏改造自治区の銀川市とが農業技術交流をきっかけとして8月 に友好姉妹都市協定を結びました。 また、宮崎市が、戦後満州から日本人が引揚げる時、一番最初に集結したコロ 島というところがありますが、そこと友好都市になりました。 そういうように非常に地味な交流が増えてきたのです。 また、自治体の行政・首長がイニシアチ-ブをとってやることも多いのですが その場合、一番先に考えるのは私立高校の修学旅行、それから高校生のサッカ ー・卓球などのスポーツ交流です。それから読んだ本を贈ろうとか、身近な交 流ですね。高校生が行けば父母もついていく、そして太極拳でも憶えてくれば 地域でやるということになり、人の交流が出来てくる。 いま、日本と中国の人の往来は1日1万人くらいに増えていますが、8月に は松山空港と上海、9月には小松空港と上海に空路ができました。現在、7つの 都市で中国との航空路開設のために自治体・商工会議所など地元が一体になって動いています。人間の往来が基礎であり、一番大事なことですが日に日に増 えていますし、日本への観光旅行も増えてきています。 なんと言っても「百聞は一見にしかず」ではありませんが人事交流は大切で す。 私は、友好運動が2国間交流からさらに地域の多国間交流に発展するこ とに賛成しますが、そのためにも2国間交流をもっと充実拡大しなくてはなら ないと考えています。

加藤  村岡さんは「日本武術太極拳連盟」副会長専務理事・アジア武術連盟 事務総長・JOCメンバーとして国際的に太極拳の普及活動に取り組んでおられま すが、北京大会での競技種目になる見込みなど太極拳についての御話は別の機 会にお伺いしたいと思います。本日は海外出張を控え、御忙しい時間を有難う ございました。

※ 村岡久平略歴;
1934年生まれ、早稲田大学文学部卒 社団法人 日中友好協会 理事長。 社団法人 日本武術太極拳連盟 副会長 専務理事。 アジア武術連盟 事務総長。  国際武術連盟 理事。 財団法人 日本オリンピック委員会 評議員 国際委員 財団法人 佐川国際経済協力会 理事長