「日記」

【エッセー】

「日記」          高沢 英子


 10年近く前になるが、友人のリンと京都の町を歩いていた。四条大橋を渡り
ながら、不意に彼女が訊いた「アナイス・ニンを知っている?」「日記・・・」
私は低く呟いた。彼女はうなづいた。「それで?」リンは黙って微笑んだ。それ
きり、2人とも何も云わずに歩いた。

 あの時リンは何を言いたかったのだろう。私はそのとき、もう何十年も本棚に
店晒しのようになっている河出書房新社出版、原真佐子訳で、赤味がかった黒い
背表紙に「アナイスニンの日記―ヘンリー・ミラーとパリで―」、と印字された
本を思いうかべていた。

 引越しするたびに持ち歩いていたものの、繰り返し愛読していたわけではない
アナイス・ニンの日記。1931年から1934年ころまでのもので、1974
年、原真佐子氏によって日本語に翻訳され、晶文社から発行された。本の裏扉の
余白に1975年2月20日購入、というメモ書きだけが残っている。おそらく
大阪の本屋で買ったものだろう。それから2002年と2003年に続けて2度
読んだとの記載があるが、感想らしいものはどこにも書いていない。

 リン・ダグラスは3年前、オーストラリアのメルボルンからやってきた。英語
の教師として働くためだった。独身で両親はすでに亡くなっており、遺された家
と、剛情な雄猫のアーノルドを、同じ町に住む従姉妹に委ね、日本にやってきた。

 メルボルン放送局で音楽ディレクターなどをつとめた父はスコットランド出身、
母親のルーツはピレネー山麓の村で、両親はパリで出会ったのだといっていた。
絵が好きで、美術に関心深く、精神分析を勉強したこともあったようだ。大学で
英語学を専攻、外国人に英語を教えるのを仕事にして、日本のある英会話教室と
契約を結んで来日した。

 そのころ大阪近郊の町のカルチャーセンターで、フランス語を教えていた私は、
ある日コーヒーカップを前にし、ひとり茫然と窓の外を眺めている彼女の後姿を
を見ていて、私は声をかける気になった。彼女は近くの英会話教室で英語を教え
ているといい、はるばるやってきた英語教育機関が彼女の期待に全くそぐわず、
話が違うことをしきりに訴えた。

 日本には、ほかに知人もなく、当時わたしは京都で気楽な独り暮らしをしてい
たので、以来毎日のように会い、週末には、京都のあちこちを、互いの時間の許
す限り出歩き、疲れるとカフェで話し込んだりしていた。同僚のレベルがお話に
ならないほど低いことや、英語教室の方針が、彼女の理念に余りにもかけ離れて
いることなどを彼女はしきりに零していた。

 やがて、いよいよ我慢できなくなった彼女は、なんとか新たな職場を見つけて
もらえないか、と言い出し、幸いなことに、やがて、西村徹さんのお口添えで、
桃山学院大の講師の職を得た。おおいに満足した様子で、日本で充実した教職生
活を送り、数年後帰国した。

 ところで、アナイス・ニンは1903年生まれ、日記」は1931年暮れから
1934年まで、アナイス・ニン28歳から31歳までのパリ時代のものである。
これまで公表された5巻のうち、その最後の巻らしい。彼女は小説や評論も多数
発表していてそのいくつかは日本でも翻訳されているが、わたしの手もとにある
のはこの翻訳された日記一冊きりで、1934年11月で終わっている。

 その年8月、彼女はパリで女の子を出産している。医師と看護師と妊婦との凄
絶な戦いが、克明に描かれるが、ようやく生まれた、黒くやせこけ、骨と皮の五
体健全な小さな女の子は死んでいた。母性挫折の最初で最後の体験を、彼女は冷
静に分析しつつ、その実、限りない哀切な筆致で書きしるしている。ベルリンで
は、はや、ユダヤ人迫害が始まっていた。

 原書は読んでいないので、訳だけを頼りに、かれこれ言うのもおこがましいが、
正直言って相当しんどい本である。原真佐子さんはよくこんな大変なものをこつ
こつ訳されたな、と感心した。

 手前勝手な言い方を許していただければ、よほど、当時の日本社会で、女性と
しての怒りのエネルギーを溜め込んでいられたのではないか、という気もし、み
づから省みておおいに納得できた。もちろん啓蒙的な意気込みや、さらに経済的
自立の要求なども絡んでいたかもしれないけれども、600字2段組で376ペ
ージ、1年がかりで訳されたという。

 今回久しぶりに、開いてみて、1970年代にこんな本を訳した原さんという
人はどんな人なのだろう、とあらためて興味が湧いた。あとがきの小論も秀逸で、
知性と才能に豊かに恵まれた女性であったらしい。

 それにつけても、近年日本の女性の中に、こうしたすぐれた人がぐんぐん力を
発揮されるようになってきた、とつくづく頼もしく思うのである。サートンの日
記その他、かずかずのすばらしい翻訳を手がけられ、最近はオルタにもすぐれた
レポートを連載しておられる武田尚子さんもその一人である。

 先月、アメリカから来日されたのを機会に、オルタ編集長の加藤宣幸氏のご配
慮で、オルタの有志の人たちとの交歓会が持たれ、わたしも列席することを得て、
楽しい宵を過ごしたばかりである。いまこれを、書きながら、そのこともしみじ
み思い出している。

 原真佐子さんも、これまで男性があまり手がけない分野での著書や訳書をほか
にもいろいろ残されている。もと柄谷行人夫人で、アメリカで「沖仲士の哲人」
と呼ばれた20世紀の社会哲学者、エリック・ホッフアーの「現代という時代の
気質」(晶文社)などが柄谷行人と共訳で出ている。その後離婚され、1995
年、アメリカ滞在中に惜しくも急逝された。

 さて「日記」の著者のアナイス・ニンは、1977年、74歳を目前に亡くな
ったが、翻訳が日本で出版された時は、まだ存命しておられ、日本語版への序文
を寄せている。冒頭にまず、「日本は女性の手になる世界最初の日記文学を生ん
でくれました」と書き、ムードや暗示に重きを置き、あからさまなものを避ける
日本人のやり方が大変気に入っている、とし、もし日本文学に精通していたら、
影響を受けたに違いないという。ここで言う日記文学とは、いうまでもなく、道
綱母の手になる「蜻蛉の日記」(推定974年)や更級日記〔1020~105
9〕、であろう。

 お世辞半分としても、彼女が、日本文学のもつ微妙な味わいが好き、というの
は頷ける。しかし「常によりいっそうの明白さを求められる西欧作家であるより
は、日本の作家であったほうが、わたしは幸福だったでしょう」というのは、言
い過ぎかもしれない。明白さを求められるのは辛い、と言いながら、その実、彼
女が求めたのは何よりもこの明白さ、だったのではないか、という気がするから
だ。

 実際その数行あとに続けて、最近「友人の日本女性と戦わせた議論」は「女と
してのわたしたちに課せられたたくさんの義務や役割、あらゆる美質のなかでも
とりわけ要求され、わたしたちの心に植えつけられている自己犠牲とか庇護の精
神、幾世代を通じてわたしたちのうちに組み込まれしまっている責任感などを考
えた場合、いかにして真の自己、隠れた才能、知識、経験、生を拡大する力を見
出したらよいか、ということ」であり「幾世紀にもわたってみごとに演じてきた
これらすべての役割の内に、いかに自分のアイデンテティを見出すか?」という
ことだった、などと書いているからである。

 そして「一歩一歩、自己発見を進めるしかありません」と結論づけ、日記が、
女性ばかりか男性にも女性をよりよく理解してくださる手立てとなるようひたす
ら願う、と結んでいるのである。

 外国人であり、語学教師であるということだけでなく、リンも孤独なひとりの
女性として、多くの問題を抱え、わたしの日本における境遇や、それまでの歩み
についても詳しく聞きたがり、日本の女性の地位や立場についての具体的な例証
を頻りに知りたがっていた。

 かつて、私は十代の頃から書きはじめた日記を、文字通り肌身離さず持ち歩い
ていた。愛読者は私自身であった。「わたしにとって日記は麻薬のようなもの」
とアナイス・ニンが言う時、それは、まさに当時のわたしそのものといえるかも
しれない。

 大学時代同じ文学部の哲学科志望だったルームメイトの女友達は、あるときわ
たしの日記を盗み読み、こんな日記を読んでしまったら、文学部にいる意味と自
信を失った、と言い出し、春休み中に、黙って法学部に転部してしまった。この
年、京都大学の入学時点数の下限は法学部より高かったとかで転部はすんなり受
け入れられた。彼女はのちに弁護士になり、女性の権利擁護にもいい働きをした
ようである。

 間もなく私は結核にかかり、郷里で療養中、大学ノートで十数冊あった日記を
焼き捨てた。ある日、病室にしていた離れの廊下から、庭に裸足で降りて、池の
傍の敷石の上にしゃがみ、積み上げた大学ノートに火をつけた。

 なぜそういうことをしたのか、今となっては、理解できない。やがて日記は再
び書き始められ、結婚する頃まで断続的に書いていたが、いつしか書かなくなっ
た。というより書けなくなった。それがなぜなのか、ということを、少し深く自
分に誠実に掘り下げてみるのが、今後のわたしの課題かもしれない。
         (筆者は東京都在住・エッセイスト)

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