「時の徴(しるし)について」

■ 「時の徴(しるべ)」               河上 民雄

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 間もなく64回目の終戦記念日を迎えますが、1945年当時私は20歳で7月1日に
召集され二等兵で長野県にあった陸軍の東部第11部隊に配属され、終戦まで1カ
月半ほど訓練を受け、帝都防衛のため湘南地区の逗子に移動していました。8月1
5日で思い出すのは、2000名ぐらいいた兵隊がラジオで敗戦の詔勅を始めて天皇
の生の声で聞いていて驚くほど冷静だったということです。中学の校庭に整列し
て聞いていたのですが、放送が終わって所属する班に戻るときに、将校を見ても
誰も「敬礼!」という声を出すものはいなかったのです。こんな事をすれば、ほ
んの30分ほど前であれば鉄拳で殴られてしまうのですが、将校のほうも動転して
いたのか怒るどころではなかったのを見て、組織というものは頑丈であればある
ほど逆に崩壊するのも早いものだという思いがしたものです。

 部屋に戻ったら、誰一人自分の意見を言うものはなく、ただ黙々と、これで今
日は訓練もない、空襲もないのだ、という安堵感と、わが祖国が滅びたのだとい
う悲しみが同時に交錯していたのです。そういう空気の中で、私一人班長に呼び
出されて、いきなり小声で「河上、お前は嬉しいだろう」と言われて、嬉しくて
しょうがないなどと言えば殴り殺されてしまうと思って、なんと答えるべきか頭
の中で、瞬間に考えて、「これからが大変だと思います」と答えたのが私の戦後
の始まりでした。

 今、振り返ってみると8月15日というのは、全国民の共通体験で、市民であろ
うが兵隊であろうが、外地にいるか内地にいたか別なく、この瞬間のことは皆が
共通の体験とし人生が終わるまでは忘れることのないものなのです。戦後60年以
上たっているのですがこういうことが他にあっただろうかと考えます。勿論1945
年と1960年とはそれの受け止め方はちがいますが、あえていえば1960年のときは
、ややそれに似た共通体験に近いものがあったと言えるかもしれません。

 8月15日がどういう日であったかというと、天皇の終戦の詔勅の玉音放送があ
った日です。法的には天皇が録音盤に吹き込んだ日は8月14日の日付であって、
副署も14日になっているので自決した阿南陸相も副署をしている。一人でもしな
いと法的に欠陥のある勅語という事になる。一般の方は、あれは15日に発せられ
たものだと思う人が多いのですが、それは正確ではない。一方この放送は正式に
言えばポツダム宣言(米英支三国首脳による)という言葉は使っていないが、4
国共同宣言(のちにソ連が参戦したので)を受諾したという国民に向けての通告
でしかなかったのです。正式には、降伏は9月2日ミズーリ号の艦上で降伏文書
の調印が行われた日になる。

 ここで、ドイツと比較するとドイツは4月30日にヒトラーが自決して、残った
軍人が正式の降伏をして、5月7日にフランスのランスで西欧諸国とソ連に降伏文
書に調印した。ところが、我々は諸国の中の一国として勝ったのではないという
ことでスターリンが非常に怒って、5月8日にベルリンでもう一度降伏文書をうけ
とった。ですから7日ないし8日というのが敗戦の日として思い入れが深い。とく
に東独(ソ連占領地区)では、このとき耳を覆いたくなるようなソ連軍による大
変なレイプ事件が発生し、一説によれば200万人にのぼる被害者が出たとも言わ
れている。同様の悲劇は日本でも旧満州その他でも起ったが200万という数字は
異常な数字です。このレイプ事件は東西ドイツ統一までは完全に隠されていたと
いうか、皆が語りたがらなかった。下手に申し立てすると社会主義の尊厳を傷つ
けるというようなことでもあったのです。このような大きな数字を隠蔽してしま
うのですからイデオロギーというものは怖いものです。
 
   ここで1945年は我々の終着点であるわけですが、だとすればどこかに出発点
があるはずです。一般にはドイツの場合には1933年1月にヒトラーが政権を確立
したときと考えられる。ただ、ヒトラーは若いときに暴力で反乱を起こし失敗し
ているけれど、その後は選挙で、勢力を拡大し、賠償の重圧と世界恐慌の中で伸
びてゆくのです。有名なケインズは『平和の経済的帰結』という本の中で、ドイ
ツにむちゃくちゃな賠償を押し付けたら仮に講和条約ができても本当の平和は来
ないという警告をしていたがまさにその通りで、ヒトラーという反対物を生み出
した。そして1932年に、2回選挙をやったのだが、当時はまだ社民党も共産党も
健在だったにもかかわらずナチ党が第一党になり、33年には遂に彼が総理大臣に
なり、やがて総統と称することになって、あっという間にユダヤ人排撃、社民党
・共産党に対する激しい弾圧をするのはご承知の通りです。
 
   この問題について「オルタ」66号の前島巌氏の論文は、教えられることが多
くありましたが、この出発点は果たして1933年であったのか、実はワイマール体
制自体が危険を内包していたのではないかと鋭く指摘をされているのです。ワイ
マール憲法というのは歴史上もっとも民主的なものといわれていますが、民主主
義というものを、成人に達した男女が制限されることなく投票することによって
国会を構成し、政権が民意を受けて形成、維持されるというものだとすると、ヒ
トラーが政権をとったことは、民主主義としてはなんの傷もないことになってし
まうことになる。これはワイマール体制の欠陥であると同時に民主主義というも
のの欠陥でもある。民主主義というものは、単に手続きだけで担保したのでは駄
目で、国民の間に個人の尊厳の自覚、あるいは他の意見の持ち主に対する寛容と
いうものがなければ、いつでも反対物に転化することを教えてくれたのが、まさ
に20世紀であったのではないか。私はそう思っているわけです。

 では日本の場合は終着点が1945年8月15日とした場合、出発点はいつにさかの
ぼるべきかというと、私は日清戦争までさかのぼらざるを得ないのだと思います
。司馬遼太郎氏の一連の小説は小説だから文句のつけようがないのですが、『坂
の上の雲』に代表されるように明治は素晴らしかった、しかし大正・昭和がそれ
を駄目にしたのだという所謂司馬史観ではなかなか収まりきれない条件が余りに
も多すぎると私は考えます。
  そういう意味で日清戦争直後に福沢諭吉が最晩年に世に問うた『福翁自伝』で
は涙を流して日清戦争の勝利を喜んで、これを見ないで死んだ仲間は気の毒だと
書いているが、勝海舟は「氷川清話」で、「俺はそもそも日清戦争に反対だった
」といい、日本が勝ったあとでも「戦争などは勝ったり負けたりはするもので、
日本が逆運に出会うのもそう遠くはあるまい」と。つまり次は日本が負ける番だ
と警告した。 

 出発点についてはいろいろ意見がありますが、私はこの対照的な二つの見方ま
でさかのぼらないといけないのではないかと考えます。勝はそう遠くはあるまい
と言ったのだけれど、日本はそれから鋭意努力して日露戦争まで勝って、第一次
世界大戦、第二次世界大戦と進み、同時に朝鮮半島(大韓帝国)を併合し満州国
をつくり支配圏を拡大してゆく。1945年8月は日清戦争の勝利からちょうど50年
後だったということを思いますと、50年が遠いのか遠くないのか問題はあるので
しょうが、日清戦争までさかのぼらないとよく分らないのではないかと私は思い
ます。

 たとえば森鴎外の小説「鶏」という短編がありますけれど、その中で日清戦争
のとき、すでに外地に侵攻した場合、食料は現地調達が原則だといって、結局こ
れを戦争が拡大するどの地域でも適用してしまった。それが結局その地域の民衆
の反感をかったのを考えますと、どうも日清戦争までさかのぼらざるを得ないと
考えます。

 二つ目には、20世紀を4分の3以上生きてきた私として、どうしても気になる
ことは、暦の上での20世紀と歴史としての20世紀との違いなのです。これは完全
に分離しているわけではなくて、重なってはいるのですが、単に時期がずれてい
るだけではなく本質的にまた違う意味を感じるのです。その事に気付いたのは、
渋谷の文化村で開かれた「世紀末作家展」でクリムトの作品を始めとして、皆さ
んご承知の有名な世紀末作家の絵の展覧会を見たとき、そこに出展されている有
名な作家に共通するテーマは「不安」でした。ただ私が驚いたのはクリムトの最
高傑作を始めとして、世に言われている世紀末を代表する作品がいずれも1910年
代に描かれているということです。暦の上ではすでに20世紀も10年以上たってい
るのですが、歴史としての20世紀は、実は1914年から18年のあたりに始まったの
ではないかということを思いつきました。

 と申しますのは、20世紀は「戦争と革命」の世紀と言われるように、このあた
りに相次いで王朝は滅亡して行きます。オーストリア-ハンガリーのハプスブル
グ家、ドイツのホーエンツォレルン家、それからロシアのロマノフ家、少し先立
つが清朝の王朝、ほぼ同じ頃、大韓帝国の王朝など皆、数百年つづいてきた王朝
があっという間に次々姿を消してしまった。日本も、大正天皇の重い病気の進行
もあって、摂政の宮(のちの昭和天皇)を立てねばならないほど、危機感を持っ
ていたのではないかと思われる。そして王朝が滅びたあとには多くの国で共和制
が誕生することになる。

 もう一つの20世紀の特徴として戦争の性格が19世紀とは一変していることだと
思います。19世紀までは、戦争は専門家の軍人集団(傭兵であるときも貴族によ
って構成される将校軍団のこともあった)によってなされたが、20世紀になって
からはおしなべて市民が全部動員されます。兵役に就いていない市民も巻き込ん
で戦争が行われ、いわゆる総力戦となる。    
 
したがって犠牲者の数も軍人だけでなく、一般市民も比率高く含むようになる
。そのなかで日本だけが靖国神社という形で、軍人軍属だけを国家が責任を持っ
て葬るということにして軍人軍属だけの名誉を顕彰すると同時にその遺族の補償
をする形をとって、一般市民たとえば1945年になって集中的にやられた大空襲、
また沖縄戦、二つの原爆投下での一般市民の犠牲者については国家は関知しない
という態度で今日まできている。この点ドイツなどは軍人と市民とは関係なしに
すべて戦死者として同じレベルで補償している。

 それでは歴史としての20世紀はいつ終ったのかといえば、明らかに我々がカウ
ントダウンで興奮した紀元2000年12月31日ではない。ではいつかと言えば私の考
えでは、1989年から1991年にかけてです。1989年の東欧革命でポーランドに連帯
政権が出来、ハンガリーに東ドイツの市民が雪崩れ込んで、それをハンガリーの
政府当局者が決断して西ドイツに道を開いた。東ドイツではライプチッヒの市民
のデモから遂に東ドイツの権力者がベルリンの壁を開放せざるをえなかったのが
、89年の11月9日です。そして翌90年10月3日には東西ドイツの統一が行われた。
東ドイツのライプチッヒの市民の標語は「われわれは人民である」から「われわ
れは一つの民族である」に変わり、これをドイツ語でいえば、
"Wir sind das Volk" から"Wir sind ein Volk" と冠詞を変えるだけで意味が一
変して、さらに、まさかと思った社会主義陣営の本丸であるソ連邦のモスクワで
いわゆる91年の8月革命が起り、ソ連邦が崩壊する。

 1989~91年の変革を東西対立すなわち冷戦の終結とのみとらえ、西側の資本主
義の勝利、特に新自由主義の勝利と謳歌する風潮が、一時世界を巻き込んだが、
その後の世紀の変わり目にまたがるイスラムとアメリカの対立激化と、2008年の
リーマンブラザーズの破綻を引き金として世界的不況に突入した状況は、それが
誤りだったことを教えている。

 歴史としての20世紀の始まりのことを考えると、このときが終わりの時だった
のではないかと私は思います。たまたま、私は1989年の8月に衆議院外務委員会
の超党派調査団(団長は自民党の相澤英之氏)に加わりポーランド、ハンガリー
、スペインと回ったのです。8月ですから東欧革命のまさに動き始めでポーラン
ドでは連帯政権が出来たときでマゾビエツキ氏を首相に推す連帯の幹部にも会え
ましたし、当時労働組合「連帯」の議長であるワレサ氏がワルシャワではなくグ
ダンスク(ダンチッヒ)に事務所を設けていたのでそこまで会いにいきました。
なかなか豪快な男で、一緒に行った自民党の議員が「今日は久しぶりに角さんに
会ったような気がする」と感想を述べていました。
 
丁度ワルシャワのホテルに泊まっているときに売店でイギリスの週刊誌『エコ
ノミスト』を買って読みましたら、論説で「もし今ポーランドで行われている変
革が平和的に成功するならば、一個の妖怪がベルリンから北京まで徘徊すること
になるであろう」と書いてある。ピョンヤンまでとは書いてなかったが。(笑い

  つまり、これは有名なマルクスの1848年の共産党宣言の冒頭の一句ですね。一
個の妖怪がヨーロッパを徘徊している、それは共産主義である、をなぞったもの
であります。ただ、今度の妖怪は共産主義ではなく、共産主義をひっくり返す妖
怪なのです。私はその論説に強い衝撃を受け、新聞雑誌の論説というものはこう
でなくてはいけないと思いました。

 そしてハンガリーに行きますと今度はイムレ・ナジ(1956年のハンガリー動乱
の指導者として死刑になる)の名誉回復運動が起こっていまして、ハンガリーの
共産党(ハンガリー社会主義労働者党)の幹部に聞きますと、忠実なマルキスト
は「あれは一部のものが勝手にやっているのだ」というような言い方をするし、
リベラルなほうの幹部は「われわれも真剣に考えている」というようなことで、
何よりも今、我々は東ドイツから来た市民が溜まるばかりで、どうしたらよいか
迷っている、というような印象でした。なにも帰せばよいではないか、迷ってい
ると言うことは西ドイツに送ろうと言うことかなと思いました。
 
  こちらは外務委員会の調査団ですから外務大臣に面会を求めていましたが、そ
れが叶わず、その日は首相・外相が飛行機でボンに飛んでいた日であることを、
のちに我々は知ります。二人は西ドイツの首相コールに会い、”我々は東ドイツ
市民をあなたの国に送り出したいが受け入れてくれるか”と申し出るのです。そ
れを聞いたあの大男のコール首相が涙を流して感動したといいます。当時は正確
なことはわからなかったが、何か大変な地殻変動が始まっていることを感じなが
ら私は日本に帰ってくるのですが、日本は相変わらずちっとも変わっていなかっ
た。
  
  先日、NHKのTV放映で市民デモのことを詳しく知って、「あー、そうであ
ったのか」と合点しました。ことに月曜日の市民デモが毎週予想外に膨れ上がっ
ていく、勿論、デモ参加者は警察によって次々に逮捕されていくのだけれども、
徹底的に鎮圧されたわけでもない。むしろ警察の方にも同調者が増えていくので
す。当時の市民デモの指導者は実は、お世話役程度の人なのだけれども、その人
々は口々に、このデモの成功は自分たちの力ではなく奇跡だったと言っていまし
た。これが非常に印象的でした。つまり、あの変革は一発の銃声もなく、一人の
強力な理論的指導者がいたわけでもなく、奇跡のように実現されていくのです。

 私はギリシャ語のことは知らないのですが、新約聖書時代のギリシャ語では「
時」という言葉には2種類あって、クロノスは継続する時間で、カイロスは特別
な時、機会・チヤンスとか、宗教的に言えば神の時ともいうべき時に、このカイ
ロスを使う。まさにこれはカイロス・神の時だったのではないかと思います。
 
  歴史としての20世紀を経験したものとして、毎年の暦だけではなく、カイロス
が目の前に来ているのか、いや、近い将来くるのか、「時の徴(しるし)」に絶
えず神経を集中させることが必要ではないか、というのが一つの結論です。
 
  私の経験で言うと、1989年の1月に、社会党の先輩議員・田中稔男氏が主宰す
る日本国際問題研究協会から「日本外交の新しい転換のために」と題するシンポ
ジウムの報告書が出版され、附録として、川崎寛治氏や高沢寅男氏とともに私も
寄稿を頼まれているのですが、私は「時の徴(しるし)」という題で寄稿してい
るのです。これは刊行が1月ですから、いまお話したさまざまな事件より半年あ
るいは10ヶ月以上前のことなのですが、そのなかで自分の経験として、1971年の
米中接近を1969年つまり2年前から私は警告をしていたことにふれています。196
9年9月、つまりニクソン大統領の任期が始まった最初の年ですが下田で第2回日
米民間人会議があって、私と参議院議員の羽生三七氏と2人で社会党として始め
て出たときの経験を書いております。
 
その時に、大統領の政策に最も強い影響を与えるのは無名でも大統領補佐官的
立場の人だと私は考えていたが、この会議にたまたま出席していたラムズフエル
ド下院議員がニクソンの側近の一人だと聞いていたので、是非会いたいと思い、
主催者側に申し出て、コーヒーブレイクのときに2人だけで話をしました。

 この会議には、日本で有名なライシャワー教授とパーシー上院議員が出席して
おり、休憩時間は新聞記者や日本の学者は2人を囲んでいて、ラムズフエルドに
は誰一人気付かず、私がその時間を独占する形になりました。
 
彼は、ご承知のように、後のイラク戦争で大変な役割を果たすことになってし
まうのですが、彼にたいする私の質問はニクソン大統領が任期早々になぜルーマ
ニアのような小国の共産国を訪問したのかと言うものでした。それに対して彼は
、大統領が飛び立つ前の日まで国務省は反対だったがキッシンジャー博士の強い
アドバイスにもとづいて飛び立ったのですと答えた。それだけであとは何にも言
わなかったけれど、その晩、寝ているときに閃いたのは、ルーマニアのチヤウセ
スクは西側ともモスクワとも北京ともよい関係を持つ、世界で唯一の指導者であ
ることを考えると、これは中国へのメッセージではないのか、これ以外にチヤウ
セスクに会う意味はない。あるとすればそれを依頼したのではないかと考えたの
です。それ以降、私はいろんなところで"米中接近近し"と書いたりしゃべったり
しましたが、なかなか世間は――社会党を含めて――私の主張を聞き入れてくれ
ませんでした。

 1971年の4月に地方議会選挙がありまして、神戸の市会議員の応援に奔走して
いたところ、何の手違いか時間が30分くらい空いてしまい、この話をしましたら
、市会議員の立候補者が「先生、面白い話だけれど、そんな10年20年先の話では
なく、3ヶ月後の話をして下さい」というのです。私はまさに3ヶ月後のキッシン
ジャーの訪中(71年7月)を予言したわけですが、そんな空気でした。従って198
9年の1月には私はまだ衆議院外務委員会の東欧事情調査団でヨーロッパに行くこ
とも決まっていなかったが、何か大きなことが起きるのではないかと予感してい
ました。

 この動きは当然、理論的な問題も伏在していました。私は1983年に日本社会党
の国際局長を辞めた後、党理論センター事務局長を石橋政嗣委員長に頼まれて1
年足らずやりました。その間にやった仕事は、「新しい社会の創造」いわゆる「
構想」といわれる理論的文章でありますが、その冒頭に私は"ソ連型社会主義"と
書いたのですが、それは少し刺激が強すぎると反対され、"既存の社会主義"とい
うことにいたしましたが、既存の社会主義では中央集権的な計画経済と党と国家
の一体化と社会主義における民主主義という問題で、重要な局面に逢着している
と書きました。皆の注文を入れて表現を和らげたのですけれど、あとから考えて
みれば、1989年のあの変動の到来を見越していたような発言だったのです。これ
を理論センターで了承を得たあと党の執行委員会に提出をしましたところ、私の
あと国際局長になった八木昇氏から、これは社会主義の優位性を傷つけるもので
あって、この数行全部を削れと主張されました。

 私は理論センターで決定したことであるし、これは重要な部分であるので削る
わけにはいかないと頑張り通しました。新旧国際局長の対決とひやかされたので
すが、結局全部そのまま残りました。提出される前にあちこち議論があって相当
角張ったところは削ったつもりだったのですが、それでも社会主義協会派は文句
をつけてきたのです。

 もうひとつ私が序論で強調したのは既存の社会主義は西欧の社会主義を含めて
北半球のもので、南半球に対するアッピールが全くないこと、これからは南北問
題の解決に社会主義は立ち上がらなくてはいけないという意味のことを言ってい
るのです。しかし、「日本における社会主義への道」が廃棄されるのは、1986年
の新宣言の採択を待たねばなりませんでした。

 1989年から1991年があのような展開になりましたが、私の主張は一種の予感に
加えて、1989年の夏から秋にかけての旅行の体験の裏付けがあったわけです。し
かし私が視察旅行から日本に帰ってきたら、とんでもない絵そら事を言っている
に過ぎない、あれは東欧の出来事と、受け止められてしまった。私はそのうちに
いろんなことがあって議会を去ることになりました。

 実は20世紀には多くのことが起きています。そのうちのひとつとしてソ連型社
会主義の挫折は勿論なのですけれども、それを照らしだすような対比的な存在が
西欧、特に北欧の社会民主主義であったように思われます。先日、偶然ですが、
私はノルウェーから来たキリスト教の宣教師にお会いしました。若い頃から海外
での布教活動に使命感を見出して、まず1947年から49年まで中国での伝道に従事
していたが、毛沢東政権の成立とともに中国にいられなくて宣教団の指示で日本
に来て伝道に尽くし、定年まで務めたあと母国に帰っているのですが、最近、系
列の日本の教会を助けるために久しぶりに、短期間、日本に帰ってきたという。
伺えば、私より1歳年上で、夫人は私と同年丑年生まれです。

 お国の社会事情を伺うと、ノルウェーの消費税は23%とかなり高いのですが、
医療費は勿論、大学まで学費は全部ただです。従って我々から見ると消費税23%
はかなりのもので、それだけ可処分所得は小さくなって皆不満だろうと思うので
すが、しかしこの人たちは不満を感じていない。その証拠に貯蓄は0ですといい
ます。このように経済活動は資本主義で、健康・社会保障的な面は社会主義でい
くという制度が、北欧4国を括っているような状況になっている。ただ、その北
欧諸国も西欧諸国と同様、南北問題に対する答えを十分に持っていないように見
えます。それが我々が20世紀の大きな教訓として考えなくてはいけないことと思
っております。

 また、この方は47年~49年の中国でのキリスト教の伝道をあきらめて、しかし
、宣教団の方針で日本に来たのですが、今、毛沢東以後の中国でキリスト教が猛
烈に増えて400万人とか、いや非公認のいわゆる地下教会を入れると7000万人だ
とかいわれており、このご夫妻にとって感慨深い事実として、そのことにも触れ
ておられた。

 20世紀を生きてきた私共にとって、21世紀に20世紀から残された課題は何かと
いえば、日本にとってはやはりアジアとのこれからの付き合い方だと思います。
これは1945年の敗戦こそ、ある意味ではまさにカイロスというか神の時であった
のですけれど、すぐ冷戦時代に入りまして、もうそれを口にすることさえ許され
ない状況が続きました。そのご、日中国交回復・日中平和友好条約調印になりま
したけれども、基本的には一度チヤンスを失うと課題があとに残されるのではな
いかと思います。

 中国では、トウショウヘイの改革開放路線が1978年から始まるのですが、私
は1978年3月に飛鳥田訪中団で北京に行っています。そのとき我々との会談に
トウショウヘイが出てきたときの強烈な印象が私には今も残っています。2月
に公明党の矢野書記長が行ったときには当時NO.1の華国鋒が出てきたのに、3
月、社会党の飛鳥田委員長が行ったときにはNO.2のトウショウヘイだったので
社会党代表団の一部に失望を与えます。実は華国鋒は半年余り後に実権を失
い、姿を消します。トウショウヘイは我々訪中団に対し「われわれは11・12年
間を浪費してきました。」と一言いっただけでしたが、その意味は重大でし
た。
 
私は11・12年間とはなんだろうかと考えた末、78年から12年引くと66年だから
、つまり、これは文化大革命の否定だなと気付いたのです。?>.J?$O$=$l$r<R2q?
党の人に予告をしたのだろうと思うのです。ひょっとすると、中国側にこそそれ
を伝える狙いがあったのかもしれません。それをチャント受けとめきれなかった
のが、当時の社会党の代表団だったわけです。
 
  そして始まりました改革開放路線はあっという間に外国への留学生の派遣から
始まって実績を積んで行くのですけれども、ご承知のとおり1989年6月4日の第二
次天安門事件で大きく挫折するのです。中国の当時の若い人たちに聞きますと、
これでまた文化大革命の時代に戻るのかと皆思ったらしいのですが、1992年の??
小平の「南巡講話」で改革開放路線は変わらないということを断言したので皆安
心して、またそれに取り組むようになるのです。その結果中国は年々2桁の経済
発展をとげまして、これは日本の高度成長期の初期などは17%だったのですから大
変なことなのですが、中国の場合、もとが小さかったといえばそれまでですが年
々2桁発展して参りました。

 その結果、日本の貿易相手国は一昨年でしたか、一位は中国、二位は米国で、
戦後、米国に完全に依存していた貿易構造がそこでちょっと変わった要素を抱え
るようになった。この傾向に対して、日本の右翼勢力は、中国に頼ってはいけな
いとか、対中貿易を推進するのはけしからんとかいう雑誌や言論が市中に氾濫し
、経済団体の長が自宅に爆弾か何か仕掛けられる事件さえ起こったが、結局、中
国の経済発展はドンドン進み日本との結びつきも強まってきます。

 中国の貿易相手国の一位は日本ではなく米国で、2位はEUで、日本は3位なの
です。特に皮肉なことに小泉首相時代に日中貿易は急に伸びました。当時「政冷
経熱」という言葉が生まれた程です。こういう状態に対して、日本では中国は信
用できないと、中国不信あるいは中国侮蔑の風潮がとくに言論界に強いのですが
、ここで、これまでとは違った日中関係を構想することによってこの経済的な発
展関係に対応することが必要なのではないかというのが私の考え方です。

 歴史を見ますと、たとえばイギリスとアメリカの関係は、19世紀は勿論のこ
と、20世紀初頭まで圧倒的にイギリスが優位に立っていたのですけれど、ただ経
済的指標はもう第一次大戦が起こる前夜にはアメリカの方がイギリスより優位に
立っていた。にもかかわらず、アメリカは政治的には田舎の成り上がり者扱いを
受けていたのです。したがって第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議でもウイ
ルソン・アメリカ大統領は国際連盟を提案することによって、国際政治を大きく
リードしようとするのですけれども、あの時のイギリスのロイド・ジョージ首相
とかフランスのクレマンソー大統領などは、田舎者の元気のいい青年よといった
感じでウイルソンを扱っています。

 この会議で日本の代表団は人種の平等、貿易の自由、移民の自由、という3原
則を提案し、これをよいことに英仏の老練政治家はウイルソンに向かって、あな
たがそんな理想的なこと――民族自決など――をいうなら、このさい日本の提案
を国際連盟の規約に取り入れたらどうかといってからかう。当時のアメリカでは
人種差別が厳しく、ましてウイルソンも現在のオバマ大統領の出現などは予想も
していない(笑い)からとんでもないと、三点とも拒否し、散々おちょくられて
終わりになってしまう。日本も山東半島のドイツの利権を要求して、中国のナシ
ョナリズムを刺激し、第二次大戦後の毛沢東革命の出発点ともいわれる五-四運
動が起っている。
 
1941年8月14日、日米開戦の前夜、イギリスとアメリカは首脳会談で大西洋憲
章を出すのですが、その時イギリスの首相チャーチルはアメリカの海岸まで行っ
てルーズベルト大統領と船の上で会って調印するのです。呼びつけるのではなく
て、イギリスの方が飛んで行くのです。ここで、もう完全に英米でなく米英に変
わるわけです。

 現在、日本と中国との関係が経済的に日本が中国市場に完全に依存するところ
まではいっていないかもしれませんが、今の不況を乗り切るためにも現在の状況
を冷静に受け入れる必要があると思います。
  英米が米英に変わるためには約20年以上のタイムラグ(時間差)があったわけ
ですが、それを頭に置いて日中関係を我々として再構築しなくてはいけない。事
態があるところまで行ってから日本が慌てて対応しても却って駄目で、日本から
進んで対応すべきではないかと思います。それにはクロノス方式ではなく、まさ
にカイロス方式で行かなくてはならない。そこで想起されるのは、今日のEUの出
発点である、独仏伊蘭ベルギーとルクセンブルグが参加した1951年の石炭鉄鋼共
同体方式です。

 これは、領土と資源をどちらか一方ではなくて双方で共有するという形で困難
な課題を突破しようとするもので、戦勝国であるフランスのジヤン・モネーが提
案するのです。この人は外交官というよりも国際関係の設計者という方がよいか
もしれません。それをモネーから聞いて当時のドイツの首相アデナウワー(敗戦
国の首相で、ある意味で日本の吉田茂と対比される立場にあった)が涙を流して
握手をするのです。

 このときは西側との和解ですが、後にドイツ社民党のブラント政権ができて東
側との和解が進んでいくわけです。その時はブラントの方がイニシャティブをと
るのです。ソ連のブレジネフから手を差し伸べたわけではない。我々は、そう長
く生きていないと思うのですが、20世紀というのは人類史上希に見る激動の時代
で、戦争と革命の世紀を通じ、千万単位で計算する人もいますが、ある意味では
億単位の犠牲者を生み出したのですけれど、しかし、他の世紀の人が経験しなか
ったさまざまな試練とその裏側としての教訓とを我々に与えたのではないかと考
えます。

 そういう意味で1945年体験というものをもう少し大事に生かしていく、それに
は中核として中国に対する付き合い方、また被爆体験というものを人類に与えた
課題として積極的に取り上げる必要があると思います。

         (東海大学名誉教授・元衆議院議員)

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