「未完の革命」としての平和憲法 千葉真著

■ 【書評】                宮崎 文彦    

『「未完の革命」としての平和憲法 

      ― 立憲主義思想史から考える―』 千葉眞著
       (岩波書店、2009年・定価3100円)
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  かつては圧倒的多数を占めていた日本国憲法改正反対の世論は、近年変化を見
せ、時には改正すべきとの意見が半数を超えるようにもなった。もっとも依然と
して第9条については、改正すべきとの意見は必ずしも多いとはいえず、また憲
法改正、自主憲法制定を党是とする自由民主党が先の衆議院議員選挙で敗退した
ことから、平和主義の日本国憲法はその改正の危機からは「ひとまず」免れてい
るといえるであろう。
 
  しかしながら、核密約問題や普天間基地移設問題をはじめとして、わが国の平
和憲法を巡る情勢は必ずしも穏やかではない。
  このような情勢において、政治学という学問そして政治学者が果たすべき役割
はどこにあるであろうか。改憲の流れを阻止し、平和憲法を護持するための論拠
の提供ということもあるいは期待されるかもしれない。
 
  しかしながら、これまでの憲法改定の議論に関して、筆者はある重大な事実を
指摘する。すなわち「憲法というものが所与の前提として自明視されてしまい、
『そもそも憲法とはいったい何なのか』という問いかけが十分になされていない
事実」である。そのような事実ゆえに「改憲派の議論も目先の問題と思惑だけに
規定されてしまっているという印象を与え、護憲派の反論の方もいま一つ説得力
をもち得ていないように思われる」と筆者は述べる(vi~vii頁)。

 このような認識を持つ筆者は、憲法というものがいかなるものであるのか、特
にわが国の日本国憲法というものがいかなる性格・特色を持つものであるのかを
明らかにした上で、より積極的に日本国憲法の平和主義を活かしていくべきとす
る「活憲論」を展開するのである。
 
  その「活憲論」とは、日本国憲法の成立の特異性により、「憲法制定それ自体
が、いまだに実現されていない政治革命と社会革命を先導し、将来にむけて具現
化するという特異な任務を帯びることになった」(vi頁)という認識に基づくも
のであり、「未完の革命」というタイトルが付けられているのはそのためである。
 
  未完の革命であるがゆえに、私たちはただ日本国憲法の平和主義を護持するだ
けでは、その内実を活かすことができないというが筆者の「活憲論」であり、「
護憲論」と同様に日本国憲法の現代的意義を積極的に評価しつつも、「歴史的現
在と将来にむけて日本国憲法の三原理をさらに具現化し活性化させていく課題と
取り組む立場」が採用されるのである。
 
  そのための「実践的な場ないしアジェンダ」として、以下の3点が掲げられて
いる。この3点が本書のメッセージの要点となろう(x頁)。

(1) 平和条項の骨抜きと人権侵害の脅威に以前にもまして深刻に直面し始めて
    いる日本社会の新たな方向づけ
(2) いまもって冷戦構造を引きずっている東アジアにおける平和と和解の実現
(3) 過剰暴力に悩まされる現代世界における核兵器廃絶と戦争廃絶にむけた平
    和主義の実践

 本書の第I部、立憲主義思想史概観においては、「立憲主義」の意味が引き出
される。すなわち立憲主義とは、専制君主による恣意的な支配である「人の支配」
を排した「法の支配」であること要求するものであり、その「法の支配」を実
現するために、憲法を最高法規として位置づけるとともに、三権分立の原則や法
の運用における公正な手続を保証する「法の適正手続」や違憲立法審査権などの
諸制度が確立されていったことを確認することができる。
 
  そして後半の第II部では、「公共哲学」の観点からの平和憲法の意義、憲法平
和主義の理論的意味平和的生存権や人間の安全保障といった観点から、日本国憲
法における平和主義の現代的意義が説明されていく。本来はそれらの内容を簡略
にまとめてご紹介すべきなのかもしれないが、本書評では、2部構成の橋渡しと
なっている「第四章『八月革命』説の再考」に着目することにより、本書が
「『憲法とはいったい何なのか』という主要な問いに政治学的に応答するという
課題」を担っていることの意義、特に「政治学的に」憲法を語ることの意味は何
なのかを明らかにしていきたい。
 
  しばしば「解釈改憲」という言葉が使われることから明らかなように、憲法そ
のものを改定するか否かという問題よりも、憲法をどう解釈するのか、どう運用
するのかという問題が大きいのであり、それは「政治」の問題なのである。「憲
政」という言葉は、憲法に基づく「政治」を意味する言葉であるが、もはや「憲
政記念館」ぐらいでしか、私たちにはなじみのない言葉になってしまっているの
は、軽視されている現状の反映であろう。
  その点を以下のように筆者は指摘している。

 国家の基本構造および国家の最高法規としての憲法は、それ自体、一種の集合
的目的ないしある特定の共通善とみなし得るものの実現と保持を前提とし、また
それを自己目的化している。つまり、憲法それ自体が、不断の解釈と吟味を要求
する一つの出来事であり、そのような解釈学的実体であるといえよう。(107頁)

 どのような内実を持った憲法を制定すべきか、という問題と同時に、憲法は「
不断の解釈と吟味」が要求されるものであり、どれほど意義のある憲法が制定さ
れたとしても、それが適切な解釈・運用がなされなければ、その憲法の内実は活
かされることがない。その点に着目した点に本書の一番の意義があるものと評者
は考えている。

 それでは第4章を簡単に概観していくが、まず、議論の大前提として、私たち
は戦後の新しい日本国憲法が戦前の明治憲法を「改正する」かたちで現在の日本
国憲法は制定された点を思い起こす。この点は単なる一つの歴史的事実を語るの
みならず、この日本国憲法の特異な性質を規定することになるのである。
 
  このような「改正」は、天皇主権から国民主権へという主権の変革、すなわち
「日本の政治の根本建前の変革」を行うものであり、これを憲法学者宮沢俊義は、
当時「八月革命」として捉えた。そして、宮沢は法律論理的にこの「憲法改正
手続き」を擁護したのだが、筆者にしてみればその議論は「はなはだ不明瞭で、
論理的一貫性と説得性を欠いている」のであり「今日の読者には一貫性が見えに
くく、理解しがたいものとなっている」と手厳しい(121頁)。
 
  その背景として、天皇制的メンタリティーがあったのではないかとの試論が展
開されているが、より重要な点は、そのような時代背景分析ではなく、そのよう
な改正手続きで済ませたがためにいかなる事態が生じたのかを明らかにしていく
部分である。

 それが筆者の「憲法革命二段階説」である。第一段階が「敗戦とポツダム宣言
(無条件降伏)の受諾」であり、これにより日本は主権の変更を受容れている。
続いてこの受諾に伴い、次の段階、すなわち「日本国憲法の制定」に始まる「第
二段階」が始まる。この第二段階はもちろんまだ完了をしていない。
 
  なぜならば日本国憲法は制定によってすでに獲得されたものではなく、デモク
ラシー(立憲的民主主義)・基本的人権の尊重(立憲的人権主義)・世界平和(
立憲的平和主義)のどれもが「いまだ実現されていない政治改革と社会改革とを
いわば先取りしつつ約束した」ものであり、これらは「将来に向けて必ずや実現
されるべき達成課題」なのである(128頁)。宮沢による「八月革命」説は、こ
の第一段階を説明するする法理論として「きわめて適切」なものであり、本書の
貢献は、第二段階の「未完の革命」がそれに続くことを明らかにした点にあると
いえるであろう。
 
日本国憲法は制定をされた時点で完成されたものではない。その内実は、その
後の政治のプロセスにおいて、実現に向けて不断の努力を求められるものであっ
たのである。誤解を恐れずにまとめるとすれば、問題は憲法を改正すべきかどう
かにあるのではない、ということになるであろう。
 
  ところで筆者は「あとがき」において「体験的平和主義」から「経験的平和主
義」への転換を訴えている。すなわち戦争世代の「体験的平和主義」が、省察と
思想上の熟成を経た「経験的平和主義」となって次世代以降にうまく継承されな
かったがために、現代日本の一般民衆の意識における平和主義の後退が行ったの
ではないかとことである。
 
  確かに「体験」は時が経つにつれてそのリアリティを失っていくものである。
どれほど戦争の悲惨さ、その体験のリアリティを次の世代に伝えようとしても、
残念ながらそれは「過去」(それも下手をすれば「ここ」ではない「どこか」)
のこととして、そのリアリティを失い、忘れ去られてしまう。
 
  私たちは日本国憲法における世界的に例を見ない平和主義を、目先の問題に捉
われることなく、また第九条の条文の問題に矮小化することなく、その内実を実
現へ向けて不断の努力を重ねていくほかないのではないだろうか。

(評者は千葉大学特任研究員、京都フォーラム/公共哲学共働研究所共働研究員)

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