■「東アジア・コミュニティの展望」  姫路獨協大学教授 初岡昌一 郎

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(A)歴史的に振り返って  「あらゆる歴史は現代史である」といわれるのは、歴史は確立しているので はなく、その時代の価値観を反映した思想をもつ歴史家によって常に書き変え られているからである。われわれの知りうる歴史とは、歴史家にとって光をあ てられた事実とそれに関する歴史家の判断である。したがって、権威主義的な 独裁の時代にはそれにふさわしい歴史が書かれ、ナショナリズムが支配的な国 ではそれを合理化する歴史が書かれがちである。

 グローバル化する時代はそれにふさわしい歴史を求めている。世界史にみて アジアの歴史はより未来指向の観点から再評価されていくべきであろう。われ われは東アジアコミュニティという、将来の光に照らした東アジアの新しい歴 史像を必要としている。それは国家とナショナリズムの枠を越え、文明史的な パースペクティブに立つ新しい時代におけるこの地域に住むすべての人々のた めの東アジア史でなければならない。  東アジアにおいては歴史認識が対立要素として新しい地域主義の成立を妨げ ている。歴史的事実は事実として直視しなければならないし、自己弁護や過去 を美化するために歪んだ解釈をすることは批判されてしかるべきである。しか し、事実の認識とその解釈だけで、歴史認識にたいする合意の太い枠組みが設 定しうるものではない。

 世界的地域的な協調よりも、「ナショナル・インタレスト」や自国と自民族 の優越性を証明しようとする狭いナショナリズムが現実の政治に強い影響力を もつ限り、歴史認識にもとづく対立は解消されないであろう。

 未来への一致した展望こそが、過去についての不一致を解決する最良の道で ある。歴史は「過去と未来の対話」(E.H.カー)によって形成される。 アジアは地理的に広大であるだけでなく、多様な文化と文明の発祥地である。 歴史的にみるとアジアとは必ずしも実態的な概念としてよりも、ヨーロッパ人 によってユーラシア大陸の非ヨーロッパ部分を指す言葉として用いられてき た。

 近代においてしばしば欧米に政治的に対抗する概念として「アジアは一つ」 とか「アジアの連帯」が唱えられることがあった。しかし、これは理念にとど まり、具体的な構想として実ることはなかった。  アジアの地理的範囲や抽象的なアジア主義を論議するのを避けて、ここでは 現実の地域的協力と将来の統合を目指す動きが、南アジア(SARC)とか東南ア ジア(ASEAN)という共通性がより高度に存在するサブ地域レベルで生れてい る現実から出発したい。今日、15カ国で構成され、近く25カ国へと拡大するこ とも予想されているEUも、その出発は6カ国による欧州共同市場(EEC)からで あった。

 今日、アジアにおける将来の統合を視野に入れた地域協力を考えて行く上で、 まず東アジアという範囲にわれわれの焦点を置くことはその歴史的文化的共通 性からみて妥当であろう。 中国を中心とした東アジアは、近代までは歴史的にみて世界の最先進地域で あった。アメリカの著名な歴史家ポール・ケネディはその『大国の興亡』の中 で、歴史上もっとも長期に世界最大の工業国でありつづけた中国は、18世紀中 葉には世界の工業生産の約三分の一を占めていたという数字を紹介している。 中国の最近における躍進はこのような歴史的パースペクティブからみると発展 途上国というより回復途上国としてより良く理解しうるであろう。 アジア、特に東アジアは20世紀後半において最もダイナミックな経済的パ ワーとして登場したことによって、かつての「アジア的停滞」という言葉は死 語となり、むしろ「21世紀はアジアの世紀」という誇張された評価が生れ、警 戒心すら呼び起こすことになった。しかしながら、巨大なものとなった東アジ アの生産力と経済的力量は域内における平和的協力や各国における国民生活の 質的向上と福祉、そして世界的な諸課題の解決のために十分振り向けられてい るとはいえない。むしろ、東アジア域内における各国間の協力は、歴史的政治 的障害と一定の緊張的関係のために足踏み状態から脱却していない。 われわれは国家レベルでの交渉にすべてを託するのではなく、市民社会レベ ルにおけるコモンスペースを拡げることが、各国と諸地域の間の協力を容易に し、促進することに資する可能性に焦点をあてたい。 (B)経済と社会の分野における協力  アジアにおいて第二次世界大戦後、さまざまな形でアジアの協力が論じられ てきたが、恒常的な自主的協力機構はASEANという東南アジア6カ国によっては じめて実現した。ASEANは域内安全保障、共通市場の拡大を目指してきた。ア ジアにおいて平和的な協力の推進という雰囲気を醸成し、貿易を拡大する上で みるべき成果をASEANがあげてきたことは評価したい。  しかしながら、その反面、ASEANでは「国内問題への不介入」という建前か ら、社会的諸問題はとりあげない立場が貫かれてきた。したがって、ASEANの システムには国家を代表する政府のみが参画可能であり、労働組合やNGOなど 市民社会が関与する余地はほとんどない。この点は、ヨーロッパ共同市場を創 設したローマ条約が、出発点から社会労働問題を経済的協力と統合の不可分な 一部として位置づけ、労働組合にフォーマルな参加資格を認めていたのと大き な相違がある。  現在、ASEANの提唱により、「アセアン・プラス・スリー」という枠組みで、 新しい自由貿易圏が中国、韓国、日本を含めて検討されようとしている。その 構想自体は否定すべきものではなく、経済的には一定の効果を期待しうるもの かもしれないが、地域協力と将来の統合という観点からみれば、従来の枠組み の延長線にあるものとみざるをえない。つまり、経済的な利益の観点はあって も、それに伴う社会労働次元でのインパクトやそれらの諸問題への共通の取り 組みは視野に入れられているとは思われない。

 1997年のアジア経済危機以来、アジアにおける経済的協力を質的に強化する 提案がなされてきた。単に貿易上の相互間の特恵供与や自由市場にとどまら ず、最近合意がなされた「アジア債券市場」や、「アジア通貨基金」の提案な ど、一定の経済的統合を目指す論議が急速に進展してきている。これは、アジ アにおける経済的発展、特に東アジア諸国の世界経済における位置と力量の飛 躍的上昇を反映したものである。

 こうしたことを背景として、これまで以上に「東アジア・コミュニティ」と いう、よりトータルな統合の長期的展望について、現実感を伴った議論が行い うる条件が成熟してきているように思われる。われわれが約10年前に「ソー シャル・アジア」の研究と討論を開始した当時と比較して、東アジアの状況は 政治的経済的社会的に様変わりしてきた。 (C) 「東アジア・コミュニティ」に向けて  東アジアにおける協力と"共同体"の実現は、三つのレベルで基本的に考察し うる。

その第一は政治的、第二は経済的、第三は社会的な側面である。それら は相互に密接に関連するものであり、その境界も必ずしも分明ではないが、議 論を進める上で個別的に考察する。 東アジアにおける協力を阻害し「共通のコミュニティ」の構想を成立しがた いものとしているのは主として政治的要因である。これに関連して、日本軍国 主義の負の遺産と第二次世界大戦の戦後処理、異なる政治体制、共通の安全保 障システムの不在と不信感、朝鮮半島をめぐる不協和と対立などがあげられ る。ヨーロッパにおける経済統合が究極的な政治的統合を出発点から視野に入 れて進められたような条件は、少なくとも現在の東アジアには存在しない。 政治的なレベルでの協力や国家間の安全保障の問題は極めて重要な問題であ り、冷静な研究と大胆な提起の必要はあるものの、この課題に正面から向き合 い、市民社会レベルで議論を進めるのは時期尚早であり、生産的議論を直ちに 行いうるとは思えない。 第二の経済的レベルにおける協力はさまざまな形で進行中であるが、これを 東アジアという地域の枠組みで制度化し、より統合的な経済的コモンスペース を創設することにはためらいがみられる。アジアというレベルではもとより、 東アジアというより近似性の高い限定された地域でさえ、統合は言うに及ば ず、具体的経済圏の創出さえ日程にのぼっているとはいえない。東アジアにお いて、長期的展望に立つ経済的協力抜きに、議論と関心が当面する貿易、投資、金融に集中するのは、主として経済外的な諸条件、すなわち域内の東アジ アの広汎な諸国民と市民社会の中に信頼感と一体感が十分に存在していないこ とによるものである。 貿易や経済協力は当面の相互利益が合致するかぎり、いかなる国とも行うこ とができる。経済的協力が地域におけるその他の協力の契機になってきたし、 すべての地域的協力の実利的な基礎をなすことは疑い得ない。しかし、経済は 競争と利害対立を内包しており、経済協力が社会的協力と並行しないかぎり、 統合の前提となる国民的支持と理解を得ることはできない。社会的協力が先行 ないし並行してこそ、経済協力がはじめて恒常化、永続化され、次の統合とい う段階に進むことができる。 第三の社会的レベルの協力は、極めて広い視点からとらえられる。教育と学 術研究、文化交流から、環境擁護や社会福祉の分野に至るまでの広範な分野が ある。それぞれの分野で既にかなりの協力が進展しており、その主体は公的機 関、地方自治体、社会団体、NGOなどと多様である。 社会的協力とは、人間の安全保障や個人のエンパワーメントを目指すという 社会的目的のための協力である。それと同時に、社会協力は、自主的な社会団 体を中心として、市民個人が主体的に参加しうる協力である。ここでわれわれ が中心的に論じようとする社会協力は、市民社会における自主的な協力で、国 家や公的機関の援助や協力を受ける場合であっても、国家の枠組みから相対的 に自立した分野である。 今日の東アジアにおいては市民としての個人が次第に経済的社会的自立した ものとみなされるようになっており、自己の意思によって行動する範囲と可能 性が拡大している。この意味から、「東アジア市民社会」がまだ顕在的にでは ないとしても、潜在的に形成されてきているとみることができる。 社会的協力の目的は少数のエリートの交流や協力によって達成されるもので はない。大衆的レベルの広範な参加と支持を得てはじめて実現されるものである。