「歓喜して死をむかえよ」~ニューオーリンズのジャズ葬式~

■ 【北から南から】

ニューオーリンズのジャズ葬式           武田 尚子

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  「残念でしたね、昨日は珍しく大きなジャズ葬式があったのですが・・・」ホ
テルのマネジャーの気の毒そうな返事に失望したものの、私たちはあきらめない
で地元の新聞を調べてみた。その前日にあった葬式とは、この市の初代の黒人市
長エルネスト・モラルのために行なわれた盛大なものだったらしい。解説による
と、もともと貧しい黒人から生まれたジャズ葬式は、いまの上昇志向の黒人、こ
とに中産階級入りした黒人には敬遠される傾向がある。

 だから、ジャズ葬式を見ることをひとつの目玉にしてニューオーリンズにやっ
てきた私たち一家は、大きな機会を逃がしたらしかった。夫はいくつかの教会に
直接電話をかけ、幸運にも翌日、小さい葬式のあることをつきとめたのである。

 翌朝、フレンチクオーターの外にあるその教会の近くまでタクシーをとばす
と、すでに道の両側は立ち並ぶ群集で埋まっている。大多数は黒人であり、普段
着の大人や子どもが、首を伸ばしてしきりに、葬儀が行なわれたらしい教会か墓
地の方角を見ている。同じように首を伸ばして待っていると、出てきた 出てきた。

 列の先頭に立つのは、タキシードに白い幅広のリボンを斜めにかけ、シルクハ
ットを高々とかぶった背の高い黒人である。この役柄の人はグランドマーシャル
とよばれ、伝統的には葬儀一切の手はずを監督し、葬列をリードすると聞いた。

 その後には、ドラム、コルネット、クラリネット、トランペット、トロンボー
ンにバイオリンなどを加えたジャズバンドが続く。先頭のタキシード氏は身体を
自在にくねらせ、背をそらせて完全に二つ折りにならんばかり。そのまま路上で
宙返りをしたと思うと、一拍のリズムも逃がさずステップを踏みながら、シルク
ハットを片手に愛嬌をふりまいて行く。

 西インド諸島の名にしおうブードウーダンスだとは後で知った。ルイ.アーム
ストロングは子供時代、めったに家に顔を見せない父親がタキシードとシルク
ハットのさっそうとしたいでたちで、グランドマーシャルの役をこなすのを誇ら
かに見まもったことを記している。'女の子はみな、親父を見て失神したもんだ'
と。沿道の人たちはリズムに合わせて拍子をとる。ジャズバンドに続く近親者ら
しい喪服の一団。その後には、雑多な参列者が続く。

 後になってこれが、墓地からの帰途の葬儀であることを知った。強烈なピンク
のドレスに赤いハイヒールで、観客に応える舞台女優のように、人々の目を楽し
みながら手拍子足拍子を取って踊り歩きする女性がいる。沿道の見物人が一人二
人と列に加わって行く。ハイヒール姿も、サンダル履きも、スニーカーの少年も
いる。

 行列に加わってディスコ風の踊りをはじめる二人組もあれば、一人で複雑
なステップを踏む中年の女性もいる。"ニューオーリンズの統治は難しい。誰も
彼もダンス気ちがいだからな"とキャリボーン知事を嘆かせたという町にふさわ
しい。この明らかに死者とは無縁の参加者たち、要するに招かれざる客たちの列
はセカンドラインと呼ばれて、ジャズ葬式独特の現象なのだという。

 私たちが見逃したのは、教会から墓地での葬儀に向かう死者の近親や友人によ
る厳粛な行列で、バンドは緩慢な悲歌を奏でる。棺が土中に下ろされ、列席者が
故人の死を悲しんだあと一息入れると、バンドの合図でグランドマーシャルは斜
めに肩からかけた黒いサッシュを明るい色に裏返し、ミュージシャンもおのおの
の黒いボタンを裏返して明るい色に変える。

 同時にバンドは陽気なアプテンポのラグ曲をかなで初め、先に見た多様な踊り
に活気づくセカンドラインの行列が次第に膨らんでゆくのである。セカンドライ
ンの黒人たちはいかにものびのびと、好みのダンスをまったく気ままに踊ってい
る。カメラなどを持って沿道から加わってゆく白人ツーリストもいるが、彼らは
いくらか恥じらい気味で、完全には身体の動きを解放できないまでも、喜ばしい
葬列に参加してたのしげにステップを踏んでいる。

 まさに"I want to be in that number"という気分だ。列に加わらない沿道の
観衆も、行列のだれかれを指差したり、声高に呼びかけたりとにぎやかである。
いつのまにか私たち一家も墓地を目指す沿道の群集にまじり、行列に平行して
ゆっくりと、手拍子をとって歩いていた。
 
  その夜たまたま通りかかった小さな劇場で私たちの見た芝居は、サックス吹き
の仲間の死がテーマになっていた。近親者や友達が次々に現れては舞台中央に置
かれた棺をめぐって歩く。

 三度づつ回るのが決まりだと聞いたが、彼らはまるでお経のように、「死んじ
まうってのはよいこった」ととなえているのである。死者を囲んで思い出話があ
り、歌があり、タップダンスがあり、昼間見た葬式同様、どうみても湿っぽい雰
囲気からはほど遠い。

 芸達者な黒人たちは、やがて楽器をかきならしながら、花道を通ってひとりひ
とり舞台を去っていく。それは偶然にも、私たちにはおあつらえ向きの、小さな
劇場でのジャズ葬式の芝居だったのである。
 
  多くのアフリカ黒人がアメリカにきたにもかかわらず、なぜこれほどユニーク
な音楽つきの葬式がニューオーリンズという町だけに生まれたのだろう。もちろ
ん、ジャズなしにジャズ葬式は生まれ得ない。ジャズの起源には簡単な答えはな
いらしいが、ジャズ葬式の生まれた背景には、いくつかの要素が絡み合っている
ように見える。

 ジャズとジャズ葬式は、スペインおよびフランスに統治されたこの街の歴史と
かかわっている。ルイジアナ州は一七六二年フランス領からスペイン領になった
が、一八〇三年にまたフランス領にもどり、同年アメリカがフランスから買って
いる。フランス人、スペイン人のほかに、フランス人と黒人とのあいだに生まれ
たクリオールと呼ばれる混血のグループがあり、彼らの中にはフランスで教育を
受けたものも少なくなかった。

 したがってニューオーリンズにはほかにない人種の混合から生まれるある程度
の人種寛容も見られたのではないだろうか。

 それを裏付ける一つの事実は、南北戦争後の再建(Reconstruction)期の後、
約束された政治的な平等の理想は後退し、黒人差別のテロの横行した時代に、戦
争のおかげで自由民になった多くの黒人が、家族連れで、ミシシッピやルイジア
ナの大農園から、ニューオーリンズに大移動を行なったことだ。

 この町が驚くほど豊かな音楽の土壌であることは後に証明されたが、ルイ.ア
ームストロングの母親の家庭も、ルイの恩師のジョー(キング).オリバーも、
マハリア.ジャクソンも、そのほか無数の、音楽家として後に盛名を馳せた黒人
が4万人と言う黒人移民に含まれていた。1887年、50人余の黒人がテロで
虐殺されたあと、イリノイやテネシーをへてやってきたルイ.ジェイムズは、一
日25セントでニューオーリンズの栽培園で働いた。キッド.オーリーもナッシ
ュヴィルからやってきた一人だった。

 ジャズの研究家トマス.ブラザースは言う。「ジャズの歴史ではしばしば19
10年から20年ごろをピークとしたシカゴやニューヨークへの黒人の移住が語
られる。しかしこのニューオーリンズへの移住は、それに先立つ、ジャズの誕生
のための重要な一歩だった。南部再建後の何十年かにニューオーリンズは、何千
もの個々の移住家族のおかげで、かつて大農園をみたしていた音楽エネルギーを
集積することができたのである。」

 自らを黒人と見なさないクリオールたちは西欧の音楽を基礎から学び、ソルフ
ェージュや読譜は欠かせない勉強だった。彼らはダウンタウンと呼ばれる地区に
住んで、黒人とは一線を画していた。一方アプタウンの黒人たちは楽譜はいっさ
い読めず、そのかわり耳で聞いたものを再現することにも記憶することにもずば
ぬけていたし、楽譜なしでほかの楽器とあわせることも自由にできた。

 これがジャズの即興につながったのは想像に難くない。ダウンタウンのミュー
ジシャンたちは長い間アプタウンの黒人との協演を嫌ったというが、そのうち、
音楽の技量さえあれば喜んで一緒に演奏するようになった。

 ニューオーリンズのジャーナリスト、デラハントリーは言う。「植民都市ニュ
ーオーリンズが誕生した一七一八年、植民者はダンスや、仮面舞踏会、パレード
などをたずさえてヨーロッパからやってきた。この街のダンス熱についてある旅
人が書いているように「冬場には、人々は暖をとるためにダンスをし、夏場には
涼をとるためにダンスをした」。

 一七九六年にはグランドオペラ劇場が開かれそれ以後長年にわたって、ニュー
オーリンズはアメリカ唯一の固有のオペラ団を抱えていた。一八一七年には、ア
フリカ人の奴隷たちは市外の一部で音楽を演奏し、ダンスをすることを都市政府
によって認められていた。

 日曜日の朝から日没まで、五〇〇-六〇〇人の集まる広場で、アフローカリビ
アンの音楽とダンスがにぎやかにくりひろげられた。」ジャズが発酵してゆくた
めの多様で芳醇な下地が、いたるところにあったのだ。 ジャズの研究者とます
ブラザーズは言う。「このかつての奴隷たちの、ニューオーリンズのアプタウン
(貧しい黒人の集結する地区)への移住は、創草期のジャズに、どんな芸術の開
花にも必要な多数の愛好者のひいきを得させることになった。

 ニューオーリンズでただの労働者として働くことにさしたる賃金は支払われな
い。それでも作物の収穫以上の金になったので、人々は喜んでその金を音楽に費
やした。アームストロングの子供時代、ニューオーリンズにはミュージシャンの
集まる場所が山ほどあった。

 貧しい黒人の住むアプタウンだけでも10から15のダンスホールがあり、そ
こを下れば必ず安きゃバレーなど(ホンキートンク)があり、それらすべてに音
楽があった。市中には戸外のパーテイやポンチャトレイン湖のダンス館があり、
日曜日には20ものバンドが一日中広場で技を競った。

 だから黒人移民は、安全で、農園以上のしごとを得られるこの町に引き付けら
れた。そして彼らや親たちの生まれ故郷の伝統につながる教会や農場の音楽を多
数の場所で愉しむことができたのである。
 
  確かに米国深南部のどの町にも黒人娯楽はあるというものの、ニューオーリン
ズほどそれが横溢する場所は見当たらない。もしもこの管楽器による新しい音楽
が、常に存在する広範なひいき客の愛顧を受けることがなければ、南部の多くに
存在した、アフリカ各地の風土色にいろどられた音楽が、ここで起こったほど熾
烈な競争に出会い、いっそうの洗練と完成に向けてしのぎを削ることはなかった
だろう。

 またそれが何十もの異なった方向に創造的な発展をすることも、ホールデン、
オリバー、アームストロングのようなソロの大ものを生むことも到底できなかっ
ただろう。」

 さてここでジャズ葬式のもう一つの大きな要素であるニューオーリンズの風土
について触れなくてはならない。 この地方の風土には、よそにない特殊な事情
があった。この町は非常な湿地の上にあり、歴史的に、黄熱病や赤痢、天然痘な
どの伝染病で多数の死者を出してきた。ミシシッピ川の河口で交易の中心地とし
て栄えながらも、高温多湿に呪われるというパラドックスを抱えていた。ここで
は、今日生きている家族が明日を共に過ごせる保証はなにもなかった。
 
  デラハントリーのニューオーリンズ案内は、湿地とそこに発生する熱病のため
に、初期の伝道者たちがこの地を「湿った墓地」と呼んでいたことを記している。

 天然痘のほかに、コレラ、チブス、ジフテリアなども、街の初期に広く蔓延し
たキラーだった。カリブ海から入ってくる船舶の水夫たちは、おそろしい黄熱病
をはこんできたが、市政は、ここの港湾の芳しくない評判が商業の停滞を招くこ
とを恐れて、検疫を許可しなかった。ペストを放逐しようとして、せまいフレン
チクオーターの道路に松脂のたるをならべて火をつけ、燻蒸消毒をするという不
毛な試みもなされたとある。

 一八〇四年に、妻と娘を疫病で失ったキャリボーン知事は記している。「死者
の数はまことに多い。過去一二ヶ月にここに移住したアメリカ人の三分の一以上
は確実に死者になった。それに夏の間にヨーロッパからきたものはほとんど亡く
なった。」 ロジャー・ボーディエというクリオールのジャーナリストは書いて
いる。

 「これほど死の影の付きまとう土地に住むことは盛大な葬儀への好みと同時に
多くの墓地を拡張する必要を生んだ。死の恐怖がひろがっていたことは、おそ
らく、仮装舞踏会や仮想行列への異常なエネルギーとか、陽気で気ちがいじみた
祝賀熱など、この町に発達した特殊な心理とおおいに関係がある。ニューオーリ
ンズの人々はその悲劇的な経験から、生命がどんなにはかなく、いつ断ち切られ
るかわからないと知っていた。

 だから、家族や友達と共にいられるつかのまの幸運を心ゆくまで分かち合うの
だ、夏がくれば、彼らを失うかもしれないのだから。そして、暑い気候が雨と共
に見境もなく死を運んでくる前に、冬の社交シーズンの渦に身を投じる。娘たち
を社交界に登場させる。結婚の絆で、人間関係と財産をしっかりと結びつける、
そうして夜が明けるまで踊りぬく。

 ニューオーリンズがカーニヴァルシーズンにあれほど大騒ぎをするのも、死の
影がいつも頭上を覆っていたためだろう。貧しい黒人の間でのジャズ葬式の伝統
も、陰鬱な死をいくらかでも喜ばしいものにしようとする欲求のあらわれだ。」
このジャーナリストは一九三〇年代に次の回想を記してもいる。
 
  「古くからの親族の一人、いとこのロザリーは、何時も身辺に何かが起こりそ
うな気配を漂わせていた。陰気な人で、カメリア会の苦悩のノートルダム, 救済
のノートルダムなどに深く献身していた。彼女の義兄は、ロザリーを「泣き柳」
と呼び、彼女の兄は「哀悼女会の会長」と呼んだ。セントルイス墓地にあるすべ
ての家族の墓を知り尽くしていたロザリーは、どの墓に花がないかまでまで心得
ていた。

 家族の別の一人は彼女を「死者好みの犬」と呼んだが、それはロザリーが、街
灯にはられる黒枠の死亡通知を目にすると、必ず立ち止まって読んだためだった。」

 かつての死者の街には、いまだにその影が散見できる。私たち一家は市内観光
のバスに乗ってみた。そのハイライトの一つは、第二墓地の見学である。始終水
浸しになる土地には深い穴を掘るわけにゆかず、たとえ地下に棺を埋めても、雨
季が来ると水があふれ、地上に棺が突き出して漂流することもあるので、住民は
スペインの伝統に従って地上に棺も収納できる墓を作ることにした。ほぼ正方形
の大墓地は、その形からオブンー天火と呼ばれる三段になった保管室(Holding
Cemetary)で囲まれている。

 これらの保管室は一年契約で貸し出され、たえず再使用される。ガイドの話に
よると、ニューオーリンズの暑熱と湿気のために大体一年で死体の肉は落ちて骨
になる。家族の墓には一人から三人の死者の棺が収められるが、一年以内に別の
死者が出ても墓に余裕のないときはどうするか。墓に入れない死者は前述のオブ
ン、つまり保管用の墓に収納される。それは墓地をかこむ石壁に箪笥のようにし
つらえられた棺桶用の空間であり、死者をおさめたのちはセメントで封をして、
時の来るのを待つ。

 一年と一日たつと、家族用の墓に収められていた初めの死者はすでに骨になっ
ているので、袋に入れ、棺置き場の下にある灰の穴である納骨所カヴォーに収め
られ、棺は焼かれるのだという。余裕のできた墓の空間の広さに応じて、保管用
の墓から死者の棺は家族用の墓に移される。公園の敷地よりも、墓地の方がよほ
ど大きいというニューオーリンズならではの話であろう。
 
  ジャズ葬式を見た翌朝は、ゴスペルを聞きに行く。私たちはホテルのメイドの
所属するという,エヴァンジェリストの教会の許可をもらい、かなり遠い郊外の
教会までタクシーをとばした。八分どおり埋まった教会の座席は黒人ばかり。牧
師が出てきて出席会衆の点呼をする。私たちの隣に座ったおばさんは、たちまち
体を左右にゆすり始めた。両手はひざを軽くたたいている。前の人も後ろの人も
同様、リズムに乗って楽しそうに体をゆすっている。

 牧師のメロデイカルな点呼も会衆の答えも、まるで音楽のようだ。牧師の説教
も歌うようになされ、合間に「アーメン」とか「イエス サー」などといれられ
る合いの手も小気味よくリズムに乗っている。コーラスの人たちが壇上にのぼっ
て始まったゴスペル歌曲はさらに豪勢で、厚い胸から出てくるみごとな合唱を私
たちは魅せられて聞いていた。ハプニングが起きたのはちょうどこのときだった。

 コーラスの一人が、ふわーつと倒れかけたのである。あっと思うまもなく、そ
の左右に居た仲間が彼女を支えてやる。一人は、手に持ったタイム誌大の雑誌で
彼女に空気を送り、二-三人で抱えながら舞台裏へつれていった。と、思うまも
なくまた一人、さらにまた一人と失神する人が続く。雑誌を手にした何人かは、
確かに待機していた様子で、倒れた人に風を送りながら連れ出してゆく。四〇人
くらいは居ようかというコーラス員は、ものなれた様子でこのハプニングを処理
し、会衆も驚いた様子はみじんも見せない。まるで教会の行事予定の一部でもあ
るかのように。
 
  私たちの眼前で、結局六人の女性が卒倒した。臨席の女性に大丈夫かと目でた
づねると、手を振って「心配するな」とゼスチュアを送ってくれた。思うに、ゴ
スペルのもたらす高揚感が、あの集団ヒステリアに似た連鎖反応を引き起こすの
でもあろうか。日曜の教会のゴスペル歌唱に托して、天国の正義を夢見、あるい
は忘我の陶酔感を通して現実を忘れようとするのだろうか。黒人の心情にまざま
ざとふれる思いがした。

 写真集「歓喜して死を迎えよ」「Rejoice When You Die 」はニューオーリン
ズのジャズ葬式の卓越した写真集である。これには「生まれてくるとき、人は泣
くではないか」というサブタイトルがついている。実はこのサブタイトルを見た
とき、あやうく涙があふれそうになった。

 私にはこの一句が、数百年前のアフリカから現代に至る、黒人の生の歴史的な
苦悩を、単純な言葉に凝縮しているように感じられたのである。生まれてくる赤
ん坊の産声を、その子を待ち受けている苦難の人生に比し、それからの解放とし
て死を祝賀していると思えるこの本のタイトルは、その後長らく私の心をはなれ
なかった。それはひとりアフリカ黒人だけではない。誰しも免れることのできな
い人間苦の象徴であるとも見えた。
 
  だから、「死んじまうってのはよいこった」といいながら、お棺の周りを回っ
ていたあの芝居の中の黒人たちは、白人と同じく、ニューオーリンズの風土のも
たらす死の影に抗し、それをできるだけにぎにぎしく陽気な生の息吹で受け止め
ようとする一方で、確かに別の本音を吐いても居たのだ。彼らにとって、親しい
ものの死はいくら悲しくとも、死者にとっては解放であることをみな知り尽くし
ていた。

 ジャズの楽音にあわせて踊る行列の群衆は、死者を弔いつつ、文字通り死を祝
賀していたのである。

             (筆者は米国ニュージャシー州在住・翻訳家)

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