「生存権所得憲法168条を生かす」

■ 書評 『生存権所得 憲法168 条を活かす』村岡 到著

         (社会評論社、 2,000円+税)     深津 真澄
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  「小泉構造改革」の思わぬ副産物は、憲法九条ばかりでなく二五条の生存権の
規定の重要性が、広く一般に認識されるようになったことだと評者は考える。そ
の最大のモメントは、一昨年の暮れ、厚生労働省真ん前の日比谷公園に、ホーム
レスや派遣切りで行き場を失った労働者を収容する「年越し派遣村」が出現した
ことである。著者は、生存権をさらに一歩進めて「生存権所得」(ベーシックイ
ンカム)を保障することこそ、経済システム改革の目標だと主張する。
 
副題に「憲法168 条を活かす」とあるが、日本国憲法は103 条までだから「ア
レ ?」と思う人もいるかもしれない。この168 条とは九条と二五条のほか、法の
下の平等を定めた一四条、労働基本権を保障した二八条、地方自治の原則を規定
した九二条までを合計した数字である。この五つが「憲法のもっとも大切な原則」
であり、168 条は「イロハ」と読んで欲しいと著者は強調する。
 
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という
生存権規定は、法廷でその効力が問題になったこともある。一九五七年に結核患
者の朝日茂さんが低額な生活保護費では「健康で文化的な生活が保障されない」
と国を訴えた「朝日訴訟」である。一〇年後に最高裁は、二五条は理念や目標を
示したプログラム規定で、立法で具体的に保障されない限り訴えの根拠にはなら
ないとして要求を退けた。
 
しかし、労働条件の改悪や社会保障水準の切り下げで、多数の労働者が生活の
基盤を奪われ、明日の労働力再生産もおぼつかない暮らしに追い込まれる現状に
対して、二五条の規定を「お飾り」にしておくわけにはいかない。個人としては
力のない労働者が労働基本権によって団結し、闘い、地方自治体の支援も得て、
人間として最低限の生活を営める所得を保障させていくことが憲法を活かす道だ
という主張は説得的だ。
 
その具体的方策として、著者が提唱するのは「生活カード」システムである。
この制度は、人間は誕生したら誰でも一定の「生活カード」を月単位で社会から
給付され、そのカードで生存に必要な消費物資や生活手段を入手できるというも
ので、著者は「生存権所得」という表現も用いる。この制度なら、かつての欠陥
だらけの「社会主義経済」に代わる新しい「協議経済システム」が成立するとい
うのだが、さてどうだろうか。
 
著者の構想では、生活カードは各地の給付委員会が一定の基準に従って支給す
るというのだが、その基準づくりは各人の条件を考慮して<平等>を貫く方向で
社会的合意を形成するとし、社会全体の物資や生活手段の総量をどの程度にする
かは、生産者と消費者の代表間の協議で決定するという。だが、千差万別、多種
多様な個々人の要求を「平等に満たす」基準は可能だろうか。生産総量を協議で
決定することは、結局、中央からの「計画」押し付けになりはしないか。
 
生活カードは、希望する消費財を購入するときの<引換手段>としてだけ機能
するもので、貨幣と違って流通することはないし、蓄財機能もないという。幼児
や自分では使用できない者に給付された生活カードは、どの範囲までの人の代理
使用を認めるか、その確認はどうするのか。現在の銀行のキャッシュカードのシ
ステムでも本人確認にはさまざまな問題が起きており、代理者の本人確認はさら
に問題が広がるのではないか。
 
著者は、生活カードの第一のメリットは、<消費選択の自由>を確保できるこ
とだという。社会主義体制では商店での行列とサービス精神の欠如が当たり前だ
ったが、「生活カードと<引換場>さえ用意すれば、選択の自由は確保できる」
というのは楽観的過ぎる。

 選択の自由は生産の自由、価格決定の自由、
   つまり経済活動の自由を保障しなければ、実現しないのではないか。

 著者はあとがきで記している通り、九一年のソ連の崩壊以後、社会主義体制の
問題点をマルクスの理論にさかのぼって批判し、改善と修正を検討してきた人で
ある。その研鑽ぶりは古今東西にわたり、イデオロギーの枠を超えて自由で、捉
われない発想は驚くほど幅が広いものだが、生活カードシステムの構想は、まだ
ユートピアの域を出ていないと言われても仕方がないと評者は考える。
 
この本の魅力の一つは、社会主義に望みをつなぎながらも自由で柔軟な発想を
ためらわない著者の姿勢にあるだろう。たとえば、小泉信三の『共産主義批判の
常識』(一九四九年)から「社会主義の到来はある蓋然性をもつ」という文を引
用し、マルクス主義者が強調してきた「歴史的必然」と蓋然性は異なること、階
級闘争についても小泉が「民族と民族との対立闘争を見落としてはいけない」と
述べていることを紹介し、「いずれも小泉の認識の方が深くて正しい」と書くの
だ。
         (評者はジャーナリスト・元朝日編集委員)        

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