「研究」「活字」に一途の人物像

落穂拾記(41)                       

「研究」「活字」に一途の人物像

羽原 清雅


 南方熊楠(1867−1941)、牧野富太郎(1862−1957)といった全国区の努力の人、その成果はよく知られている。その時代の環境もあるが、いわゆる高等・専門教育は受けられず、しかし、自らの関心に独創的な発想を持ち、生涯にわたって一筋に追及した人々と言える。  
 また恵まれた学歴のもとに頑張り、数十年の生涯をかけてロシア語辞典を作った八杉貞利(1876−1966)、漢字のルーツを追及し続けた白川静(1910−2006)といった一途の人たちもいる。
 だが、あまり目立たないながら、多くの文化遺産を一途に作り上げた、努力の人もいる。
 そのようなことをまとめて考えたことはなかったが、さきごろ、たまたま戦国時代から江戸時代にかけての一族を調べるなかで、そうした人の努力に巡り合い、ちょっと書き残したいと思った。

<太田亮のこと>

 その著作を知ったのは「姓氏家系大辞典」(角川書店刊)。3分冊、6678ページの大著で、日本古代からの氏姓や家系を調べあげたもの。この著者は、専門の世界では知られているが、知名度が高いわけではない。
 太田亮(1884−1956)。奈良県の出身で、立命館、神宮皇學館(現皇学館大学)卒業後、女学校教師、内務省嘱託などの傍ら、歴史的な文書を漁り続けた。やっと立命館大学教授の地位についたのは56、7歳のころだった。
 この辞典の初版本3巻は1934−36年に刊行され、それに先立っては1920年に「姓氏家系辞書」(1530ページ)を出している。筆者の利用した角川本は初版本の復刻だった。

 この角川本の末尾に、1936(昭和11)年に完成した時に書いた「稿終って」を掲載している。1900(明治33)年に諸家の系図を集め始めて37年めの完成で、「その基礎工事たる史料蒐集に30余年」を費やし、「一切他の事業を捨て、専心本書の編纂に従事してより満6年」、そして書いた原稿は6万枚を数えた、という。
 「かように完成と云ふ事を偉大と考へた訳ではなく、むしろ完成して何になるかとさへ考へもしたが、せねばならぬ為に、つまり完了さへすれば、あらゆる桎梏から逃れて人並に暮せる、それがどんなに愉快な事であらうと、毎日毎夜それを楽しみに急いだ」

 さらに、その苦闘を、子息の通昭さんが「父の思い出」として書いている。
 「骨と皮の痩せた身体で、よくも毎日毎日書斎に閉じこもって書いたものだ。」
 「私たち(子供)は書籍と原稿用紙の散らかった父の書斎にはほとんどはいったことがない。母もその部屋の掃除はできなかったようだ。」
 「日露戦争当時の学者で、戦争を全然知らないで研究をつづけた学者があったそうだが、父もそれに似ていた。」
 「父は学界では傍系の者であったため、疎外視される面が多く、研究室の利用、史料の収集にも困難があったようで、特に経済的には困窮し、補助者を雇うこともできず、すべてのことを父一人でやらなければならなかったわけで、この『姓氏家系大辞典』を書いている時などは原稿用紙も買えなくなって、ついには藁半紙に書いていた。それもインクがにじむような紙に苦労して書いていた。嵩張った原稿で一部屋がうずまってしまう始末だった。」

 今のように、パソコン、コピーなどもなく、学術援助もない時代だった。それに、分業や助手の活用もままならなかった。すべて個人ひとりの手作業で、ただ意欲と執念のもと、終生をかけた闘いだった。
 いまも、学者、研究者の苦労は容易ではないだろう。しかし、当時の状況とは様変わりに好転している。
 むしろ、こうした先人の粘りの作業結果のうえに、次の時代の展開が委ねられている。学問の世界にとどまらず、どの分野でも、様変わりしながらも、その前段の苦労があり、その実績をさらに伸ばさなければならない精神的な責務だけは変わらないだろう。

 太田亮の感慨に接して、昨今は簡便な世の中になってはいるものの、物事の基本は各人の非常なる苦労と、その成果のうえに成り立っていることを改めて強く思った。
 昨今の自分は「簡便」「安直」「自己満足」「ほどほど」「早いあきらめ」などのうえにあぐらをかき、それが普通で当然、のように感じていたのではなかったか、と。また、歴史認識の誤りは、このようなおごりから生まれ、広がるのだ、とも。

<中山泰昌(三郎)のこと>

 この人物は、出身地の島根県津和野ですら知られていない。
 近現代史やメディアにかかわった人なら、利用したかもしれない「新聞集成 明治編年史」(1934−36年、財政経済学会刊)をすべて一人で編纂した人物である。全15巻、9万もの当時の記事を時系列に掲載、全索引12、3万項目を一冊にまとめているので、きわめて使い勝手がいい。大正、昭和の編年史も似たような形で刊行されているのだが、索引がないか、不十分で、使いづらい。明治のものは戦後も2回、復刻版が出ている。

 もともとは反骨に徹した宮武外骨(1867−1955)の発案で、1927(昭和2)年に東京帝国大学(現東大)法学部内に現存する「明治新聞雑誌文庫」が創設され、外骨がかねて収集して持ち込んだものをベースに、明治期の新聞約870種37万部、雑誌約5600種12万5000部、図書約3900種6000余冊を保有した。これは関東大震災(1923年)で、多くの新聞、雑誌、書籍が灰燼に帰したことを憂えた外骨が、帝大の尾佐竹猛、穂積重遠、中田薫らに相談して生まれたもの。ついでに言えば、宮武外骨はあの時代、投獄されながらも、よくもあれだけの「言論の自由」を駆使したもの、と感嘆せざるをえない。「自由」が乏しいところに「自由」は生まれ育ち、いわゆる自由が充満してくると、「自由」の意味が誤解濫用され、むしろ後退する、というものなのかもしれない。

 中山泰昌(1884−1958)がこの明治期の新聞の蓄積に眼をつけて、外骨に編年史作りの計画を持ち込んだのは1933(昭和8)年のこと。外骨は「従来明治史実の刊行物は多くあるが、いづれも後人が作為した粗略な記述、而も一方に偏した孫引、ヒコ引に過ぎない編纂物ばかりである。・・・編年史を作り、記事其のまゝの転載で何等の工作を加へないものとしたならば、諸種研究家の堅実な参考資料と成ることが多大であろうと信ずる。・・・(泰昌から)如何かとの交渉に接した。余も其素志があったので、自己に代る人として其所志に賛成し、文庫の全面的利用を快諾した」との経緯を記している。

 泰昌は1933年2月から36年春までの3年余、文京区弥生町の自宅から毎日、玉枝夫人と二人で帝大に通い詰めた。新聞記事を漁って適当な記事を選び、夫人がそれをカードに書きとめ、筆生に書き写させた。コピーのない時代の9万もの記事だった。しかも、当初の新聞には写真はなく、相撲や事故、戦争の光景などは絵として描かれていたので、絵心のあった夫人はこれを薄い紙を載せて写し取っていた。その枚数は大小912図に及んだ。

 ところで、泰昌は家庭に恵まれなかった。津和野の高等小学校を出たあと、神戸に出て兵庫県庁の雇員、神戸教会の書記として働き、そのときに受洗、当時は小説を書くなどしている。その後上京、当時著名な出版社の金尾文淵堂で住み込みの小僧をするなど、出版状況を知ったようだ。半年ほどして、文淵堂の支援もあって百藝雑誌社を設け、ついで京華堂書店、文淵堂を離れてからはほかの支援を受けて獅子吼書房、さらに春秋社(現在の同名の出版社とは無関係)を立ち上げて、大まかには30数冊を刊行している。

 津和野出身の森鴎外のところにも行っており、やはり同郷の劇作家で早大教授の中村吉蔵(春雨、18887−1931)、校閲や明治の研究で著名だった神代種亮(帚葉、1883−1935)との交流が支えにもなっていた。神代と荷風の付き合いは、荷風の「墨東綺譚」(1936年)にくわしい。
 出版物のなかには、一色醒川、伊藤銀月、原霞外、薄田泣菫、綱島梁川、中村春雨、松村介石らの執筆があり、紹介の労を受けるなど、人間関係によって助けられたことも多かったと思われる。なかでも、キリスト教関係で親しくなった三浦修吾が翻訳した「愛の学校」(クオレ物語・アミーチス著)は大当たりだった。この版権は、小僧時代に知り合った小川菊松(1888−1962)が経営する誠文堂によって引き取られた。小川著の「出版興亡五十年」は泰昌がゴーストライターを引き受けてできたものである。

 キリスト者の綱島梁川(栄一郎、1873−1907)に心酔しており、その若い死の前後に、彼を囲む会合や回覧誌の世話を引き受け、また雑司ヶ谷墓地の墓碑建設にあたるなどの交流があった。また、社会主義運動から社会奉仕の活動に取り組んでいた西川光二郎(1876−1940)に共鳴、その会合で講話を引き受けたりしていた。
 神戸教会のころには大逆事件の管野スガ(1881−1911)とともに「基督教世界」の編集にあたったことがある。また、のちに新聞年鑑など新聞業界情報を扱った永代静雄(1886−1944)とも知り合った。田山花袋が、「布団」「縁」に登場させ、想いを寄せた女性(岡田美知代、1885−1968)を、永代もまた恋しており、その仲立ちが泰昌だったということで、わずかにその小説に登場している。

 1906、7(明治39、40)年ころに出版された、河東碧梧桐の「続春夏秋冬」には中山路峰の号で53の句が選択されて掲載されている。文学青年であったのだろう。
 大正期には、本格的に執筆に移る。「通俗日本精史」「忠孝義節 大和桜」「文武任侠 大和錦」といった史書もの、生活便覧といった風の「内治外交 吾が家の顧問」や「国民年中行事」など、部厚な本を数冊書いている。

 さらに、関東大震災でやっと生き残ったものの、無一文となった泰昌は、相次いで文学関係の全集の編纂を手掛ける。「校註日本文学大系」(25巻)、「近代文学大系」(25巻)、「校註国歌大系」(28巻)の3シリーズで、改造社による円本ブームに先行する全集の着手だった。
 「国歌大系」では、自らも2冊について校註を手掛けており、5巻にわたる索引を作るにあたっては、整理カード36.7万枚、4000ページ分にのぼったという。
 さらに、昭和初期に辞書作りに挑戦している。これには、少年期の同郷の仲間である神代種亮の刺激があったようだ。まず幸田露伴監修とする「掌中漢和新辞典」を仕上げる。その後は戦後の晩年に、「国語漢・英綜合新辞典」「難訓辞典」の2冊を生み出した。

 このように、乏しい学歴をどのように伸ばしていったものか、それはわからないのだが、その活字一途の日々と、その意欲、気迫はすごい。出版事業、執筆、全集作り、辞書編纂、さらに新聞集成と、個人としてのアイデアと作業に生涯を捧げた、といえよう。

 ある意味で、もう奇人の類とも思われる。
 しかし、泰昌は最後まで貧しかったようだ。というのは、筆者の母方が津和野の出だったことで、小学生か中学生のころに母親に連れられ、狭い書斎といっていいのか、本と紙のあふれんばかりの陋屋内の部屋を訪ねたことがあった。その時は、辞典をもらったこと、小柄なおじいさん、というだけで終わっていた。
 その後新聞記者として、「新聞集成 明治編年史」でなにかを調べているうちに、ふと「ああ、あの人の作ったものか」と思い出したのだ。
 そして今また、太田亮の「姓氏家系大辞典」の後記にふれて、先人のすごさを感じたことから、中山泰昌のすごさをも思い出すことになった。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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