「私の靖国神社考」―靖国神社は御霊神社―

■「私の靖国神社考」―靖国神社は御霊神社― 

                        西村 徹
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◇その1.靖国は遠かったが          
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 靖国神社は私にはさして身近なものではなかった。実物は見たことがなく、今も見ていない。

 中学4年になると修学旅行は東京1週間が恒例だったが、私の時から一年繰り延べて5年生で鮮満旅行ということに切り替わった。4年は旅行のかわりに兵営宿泊になった。5年生になると非常時で修学旅行は取りやめ、そのかわりに再び兵営宿泊になった。十五、十六歳と2年連続、都合2週間の兵営暮らしをした。

 おかげで実弾射撃も体験した。監的壕では直ぐ頭上で標的を貫通炸裂する銃弾のすさまじさを肌で知った。射撃の成績はバカによくて、「射撃のぼんやり」を身にしみて納得できた。その4年前には南京虐殺の主犯格だった連隊、後にフィリピンで大量に戦死者を出した連隊、「戦死やあわれ ひょんと死ぬるや」の竹内浩三が入った連隊に、勘定の上では彼より一足二足先に入ったことになる。自然修学旅行に定番の靖国神社を実地に見ることはないままにきた。

 したがって戦死を日常身近に感じるのは、死んでも兵隊の位を彫りこまれた、天辺の尖った角柱のような戦死者の墓と、農家の軒に懸かる「英霊の家」の表札を通してであった。また「無言の凱旋」を駅頭に迎えての白木の箱を通してであった。むろん遺族との直接の接触や、弔慰金、年金等の受け取りをめぐって、時に遺族の内側に波風も立つ話を間接に耳にすることの方が、より痛切であること云うまでもない。

 片や靖国神社はきわめて抽象的でしかなかった。子供の頃の絵本に見る、ただの五稜の星でない桜葉星章の近衛兵とか、仰々しく綺羅に飾った参謀肩章とか、「帝都」「帝都」と物々しい言い草とか、夜空を照らすサーチライトとか、そしてとりわけ宮城とか、すべて東京人には身近でも、他国者には東京限定の、エキゾチックでさえある軍国風景と同じだった。

 同じように靖国はきわめて遠いものでしかなかった。それは数ある神社のうちの少し毛色の変った一つでしかなかった。「靖国で逢おう」などという、歯の浮くようなあざとい文句は、日常のものとして耳にすることはなかった。それは、平壌放送そっくりのニュース映画、新聞、ラヂオの上で、あるいは見聞したかも知れぬ空疎な台詞でしかなかった。

 ちなみに私は軍隊で、私信の検閲がろくにないらしいのを見て高を括り、寸足らずの葉書にびっしり細かい字で友達に宛て「焦土と化したこの列島の上で、やがて東西の二大思潮がぶつかりあい、血みどろの戦いを戦うことになるのだ。その日にそなえて自重しよう」みたいな、後で思えば冷や汗ものの、若気の至りの壮語を書いた。さりとて私がさほど特異でないことは『中井英夫戦中日記 彼方より』(河出書房新社)を見れば分かる。

 間抜けなことに八月も十日前後に、それが検閲にひっかかって古兵たちに囲まれた。てっきり半殺しになるものと覚悟したが、敗色歴然の終末期でもあり、彼ら自身に累の及びかねぬ憲兵沙汰を恐れての保身も働いたのか、古兵たちは腰が引けていた。兵隊にはケタが外れていて、因縁をつけようにも、然るべき常套句は彼らの語彙にはないらしく、こちらを正視しないで「もし憲兵に知れたら」ばかり喚いていた。制裁はまったくなかった。毎夕の、点呼のあとのリンチとは勝手がちがうらしかった。私という「非国民」の、名辞だけでない実際の存在に当惑し、怯えている風さえあった。

 あくまでも推測ではあるが、上級からの強い牽制もあったのだろう。いわゆる学徒兵は中隊で私一人だったし、おそらくは、入隊して最初の検診時に「ボクは松本(高校)」と、まるで懐かしい便りのように、さりげなくポツリと言った、年輩の医大助教授の軍医が強力に介入してくれたのではと、今もひそかに感謝している。この推測は、あるいはいい気な手前味噌かもしれないが、それを打ち消す反証もない。

 なにしろその軍医は、召集されていきなり座金の見習士官だったが、軍医観閲(?)には、同じく応召の初老の軍医中尉が鞄持ちで随行していた。将校の間ではよほどの貫禄であったはずである。敗残のその日に階級章も軍刀も放り出して、わざわざ私に晴れ晴れと「終わりましたね」と言い、横で口惜しがって何事かブツブツ言っている若い純真な見習い士官(少尉の服に替わっていた!)に目をやり「あれらはどうも・・」と穏やかに憫笑した。

 ともかくも、その事件が呪術のように働いて、その後は暗々裏に、私は腫れ物のように隔離敬遠される塩梅だった。手前味噌ついでに道草を続ける。

 工兵だから工業学校出はたくさんいる。私のような文科の劣等生が、工業学校出のおとなしい兵隊と二人して測量要員というものになった。三角法の教科書を渡されて勉強しろという。いくら劣等性でもこれは簡単だ。そして村を歩いてトランシットを探して来いという。そんなものがあるはずはないから毎日ぶらぶら村を歩いて一日は暮れる。相棒のおとなしい兵隊は私の見張り役だったのかもしれないが、畑のトマトを?いで「食え」という。おかげで苦手だったトマトを旨いと知ることも出来た。

 わざと遅くに帰る。他の新兵は演習の挙句に銃の手入れなどしている。古兵は叫ぶ。「戦友が遅くまで苦労しとったのに、黙って見とるヤツがあるか!」

 出来すぎた話に聞こえるが本当なのだ。ひょっとすると、これも軍医のなせるわざ?なにしろ独立工兵大隊長は旧式の詰襟軍服に色褪せた旧式の肩章、骨董品のような爺さん大尉。中隊長も小隊長も中等学校卒のまだ青臭い見習い士官。そんな将校の中に旧制の医大教授が紛れ込んだらどうなるか。たいてい事があれば頼りにされよう。あれこれ思えばこの軍医には、私はいよいよ身を屈めざるをえない気がする。

 そんなこんなで、まずは世間知らず、それゆえ向こう見ずでもあり、野放図でもある精神水位にあったから「靖国で逢おう」にも特段に私は鈍感であったのかも知れぬ。

 その靖国が、この夏一挙に近いものになった。絵空事でないものになった。書店に「靖国」本が溢れ、テレビにも溢れた。新聞もむろん特集した。インターネットも賑わった。つるべ打ちに映し出されるテレビの特番も勤勉に見た。高橋哲哉も読んだ。啄木の「やや遠きものに思いしテロリストの 悲しきこころに近づく日のあり」の「テロリスト」を「靖国」に置き換えたぐらいには近づいたようにもあった。          

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◇その2.宗教法人問題             
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 井上俊夫という、中国戦線での兵士体験を綴り続けて倦まぬ詩人のページで「八・一五の靖国神社訪問記」(http://www.vega.or.jp/~toshio/yasukuni.htm)というのがあり、そこに載った軍服仮装行列の写真を以前に見たことがあった。先ずは絶句、そして笑った。仮にも小泉氏の口からでさえ、国会で辻元清美氏に質問されてオスロ合意を知らなかった小泉氏の口からでさえ「不戦の誓い」を聞く神妙なるべき場での、このいきなりのグロテスクには、先ずは、そのような反応しかありようもなかった。笑いには怒りの笑いも、悲しみの笑いもある。その時の笑いは、剥き出しにされた死者の不在に対しての怒りでもあり悲しみでもあった。と言うよりは、もう少し乾いた不快、いわば死者への冒涜を見る思いがあった。むろん憫笑もあった。それが、この夏すこし違ったものになったのは、この夏一挙に大量に情報が流れ込んで、その九牛の一毛にせよ吸収したからでもあったろうか。

 その大量の情報のなかで巡り会った靖国神社の松平永芳6代宮司の一文は、決して新しいものではないが、私には特段に新鮮であった。先立つ晩春に五条の御霊神社(ごりょうじんじゃ)に立ち寄って、そのあからさまな社名から、怨霊信仰が神道そもそもの根底にあることを、あらためて痛感していた。そして、この二つを繋げば靖国のあり方も、その筋道がはっきり見えてくるのではないかと思ったからである。

松平宮司はA級戦犯合祀をやってのけて世間を騒がせた張本人である。そのことの是非は後に回して、煎じ詰めれば彼の主張はただ一つ。靖国は徹頭徹尾宗教法人だというに尽きる。神社本庁にも属さぬ単立の宗教法人であって、したがって祭祀法人化とか国家護持法とか、その他、国の介入は一切これを斥ける、つまりは世俗化を拒否して宗教本来の聖性を保ちたいと言うに尽きる。それはきわめて筋が通っているもので、それならば古来の御霊神社として首尾一貫すればよいだけで、外から四の五のいう筋合いにない、というのが、先回りして言えば私の得た結論である。

 宮司の所論は、1992年10月3日「東京レディーズ・フォーラム」での講演に基づき「誰が御霊を汚したのか――『靖国』奉仕十四年の無念」と題して『諸君』(同年12月号)に掲載された(http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html)。講演は13年も前であり、A級合祀そのものは1978年11月、今を去る25年前である。新人物往来社のもの(http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc01-8/yasukuni.htm)もほぼ同内容。

 この講演があって後、神社の外の情況は大きく変った。しかし靖国神社が合祀を取りやめたとも、松平宮司の発言は打ち消されたとも聞いていない。つまり、神社の基本姿勢が変わったとは聞いていない。松平宮司の発言のあるなしに関わらず宗教法人であるという事実も変りようはないはずである。それとも、ひょっとして変ったのであろうか。変ったと知らぬは私だけであろうか。

 ためらったのは、毎日新聞05年8月15日号に「宗教宣言必要あった」とする山折哲郎氏のインタビュー記事を見たからである。「宗教宣言」をせずにいて、「外から宗教的な観点で論じられない靖国と、自ら宗教的な見方をはねつける靖国という二重のねじれがあると思います」といっている。一方新聞側が同じ紙面枠に「戦後GHQの指令で国の管理を離れ、宗教法人化」と注記している。山折氏と新聞の注記と、どちらが正しいのか。

すでに「宗教法人化」されていて、宮司は、遺族会、戦友会等の絶対多数の意に逆らって国家護持法案に反対し、また祭祀法人化にも反対し、宗教法人の立場を《これ以外にいま靖国神社としては生きる道がない》として非妥協的に堅持してきた。とりたてて『宣言』などしてもしなくても変りあるまい。『宣言』していないから宗教法人でないというのは、少なくとも松平見解に限れば、随分酷な話に思う。「二重のねじれ」云々は、あるいは合祀分祀に絡むことかもしれないが、それは『宣言』とは別問題であろう。

 それとも山折氏は靖国と言うとき、遺族会、戦友会などを神社と一緒くたにしているのだろうか。宮司はこのように述べている。

 《 遺族会と靖國神社を一心同体のように見ている方々が大半です。しかし知る人ぞ知るで、私が宮司在任中は、多少ギクシヤクしていたと言ったほうが正直でしょう。》

 また、別なところ(新人物往来社版)で、このようにも言っている。

 《 昭和60年の公式参拝 あの時はその直前に私は遺族会とか英霊をたたえる会等の主だったかたによばれました。・・・先方が神社に来るのではなく、私を呼出して、相当に大勢の方々で、いわばつるしあげのようなかっこうで、強引に迫ってきたのです。》 また、こうも言っている。

 《「国家護持」という言葉は戦後誰が言い出したのかは存じませんが、全国の戦友会や遣族会の方々が、何百万何千万という署名を一所懸命集められた。そして国会に何度か法案が提出されたものの、ついに通らずに廃案となった。いわば戦友会、遺族会の悲願中の悲願だったわけです。しかし私は断乎反対いたしました》 

 1969年5月、「朝日新聞」で、靖国神社法案に反対の記事を書いて「内容に間違いがあるわけではなく、この法案に反対することがまずい」という理由で、大ゲラになってからボツにされた本多勝一氏(同氏『貧困なる精神X集』)と結論を同じくしている。 宮司はさらに続ける。

 《「靖國法案」をよく読むと、靖國神社という名称こそ残すものの、役員である理事長などは総理が任命するし、宗教色はなくせというのです。法制局の見解によれば、祝詞は感謝の言葉にかえ、降神、昇神の儀はやめる。修祓も別の形式を考案し、拝礼も自由にするという。つまり、政府はカネを出すかわりに政府が牛耳る。靖國神社と称するものの中身は神社ではなくなってしまうんです。》

 「宗教色はなくせ」という法案に反対している。これで十分ではないか。これでもまだ『宣言』せよと言うのなら、神社すなわち宮司の立つ瀬はなくなる。さんざんの査察の挙句、大量破壊兵器が無いことを無い者に証明せよというのに似ている。

 他のことはともかく「宗教宣言必要あった」はご親切ではあるが冷や飯に冷や水。これでは靖国を徒に疎外するだけで、実りある議論にはなりにくかろうと私は思う。どんなに意見が違っても互いに「言路洞開」(松平容保)で行きたいと思う。

 宮司は講演の結びで言っている。

 《 靖國神社というのは決して平穏な神社ではありません。政治的に非常に圧力のかかる神社です。それは左からの圧力だけではなく、そうでないところからもかかってくる。一見"愛国""憂国"を装った形でもかかってくる。だから、ともかく権力に迎合したらいけない、権力に屈伏したら、ご創建以来の純粋性が目茶苦茶になってしまう。権力の圧力を蹴とばして、切りまくる勇気をもたないといけない、ということを、次の宮司への一番の申し送りにいたしました。》

 ここまでのかぎりで靖国神社の宗教的真実性あるいは自己同一性(identity)は明白であり、その一貫性あるいは自己完結性(integrity)をかき回すものに対する批判を、靖国神社自身に向けるのはお門違いであることもまた明白であろう。靖国について論じるときは、靖国とその周辺に群がる雑音をよほど注意深く腑分けしないと、枯れ尾花を幽霊と間違えることにもなりかねまい。

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◇その3.A級戦犯合祀              
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 松平宮司は1979年6代宮司に就任半年後の秋にA級戦犯14人を合祀した。理由の第一は東京裁判を認めないことである。東京裁判の結果を尊重しなければならぬのは、サンフランシスコ条約に調印した日本国政府であって一宗教法人たる靖国神社ではないというだけで、それはもはや十分であろう。

 私もまた東京裁判を否認する。なによりも死刑を否認する。Death by hangingという判決を告げるラヂオ放送を、当日往来を歩いていて聞いた。人間全体に対する、そしてその手前のところで自分の属する民族に対する、露わに意識に上ったのではないが、刺すような陵辱を身に覚えたことを今も忘れない。勝者によって報復としてなされた裁判は茶番でしかなかろう。731部隊の扱い一つとってみても公正とは程遠いことは明瞭である。意図的に被告を抽き出したり切捨てたり、判決も軽重はなはだ杜撰なもの。各国とも冷戦の雲行きから裁判の終了を急いで浮き足立っていたからだろう。

 それよりも、東条家の人々がメディアや周囲の人々から執拗ないやがらせを受けたことには、傷ついている人に襲いかかって、その傷口にさらに塩を揉みこむような、日本人にとりわけ顕著な、その卑劣を日本人は恥じてしかるべきであったろう。東条の問わるべき責任が、比較の上で特段に大きいこととはまったく別のことがらである。

 A級合祀の理由として宮司は興味深いことをいくつか挙げる。

 《サンフランシスコ平和条約の発効は調印の翌1953年の四月二十八日である。従って、その日までは戦闘状態は続いている。その間に敵に殺されたのは戦死である。そして翌1954年十六国会では、超党派で援護法が一部改正された。それで、いわゆる戦犯死亡者も一般の戦没者と全く同じ取り扱いをするから、すぐ手続きをするようとの通知を厚生省が出している。》

 宮司はさらに言う。

 《それまでの、いわゆる戦犯の遺族は、まったく惨めな思いをしていたんです。あまり知られていませんが、財産も凍結されていて、家を売って糧を得ることさえもできなかった。それを、終戦直後の国会には婦人議員が多かった関係もあり、彼女たちが先頭にたち、超党派で改正されたわけです。》

 先頭に立ったのは社会党婦人議員であり、満場一致であったと聞く。

 じつは宮司の義父醍醐忠重海軍中将は司令官としてボルネオのポンチャナック事件の責任を問われ、オランダ軍によって銃殺刑に処された。困窮する醍醐家遺族の生活は宮司が見た。

 《 国際法的にも認められない束京裁判で戦犯とされ、処刑された方々を、国内法によって戦死者と同じ扱いをすると、政府が公文書で通達しているんですから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖國神社は、僭越にも御祭神の人物評価を行って、祀ったり祀らなかったりするのか、となってしまいます。》 とも言う。

 このような言い訳の必要もなく、A級だろうとなんだろうと祭神を決めるのは当該宗教法人の自由に属する。それ自体はなんら他者の介入余地のないことである。神田明神の第三祭神は平将門である。将門を祀る神社は関東には少なくない。藤原純友を祀る神社も岡山県鷲羽山沖合に一社存在する。弓削道鏡を祀る弓削神社もある。

 したがって分祀論というのも、政治がなんらかの圧力をもって臨めば不当介入であり、外部の身勝手でアメ細工のようにこねまわそうとするのは政教分離に反すると私は考える。

 ただ、片方で宗教法人の自由を主張しながら、祭神選定については国の通達にしたがっているのはダブルスタンダードだという批判を聞く。たぶん山折氏の「ねじれ」云々もそれを言うものであろう。たしかに、いささか説明に苦しいところがあるようにも聞こえはする。

 しかし、戦死の現場その他の消息は靖国神社側では得るすべもない。かつては、それゆえ陸海軍に依存していた。それが旧軍の残務を引き継ぐ厚生省援護局になった(美山参謀らの工作もあったとして)のであり、そこに依存するのも実務上無理からぬことに思われる。また、それならばA級合祀になって初めてのことではなく、1954年時点でその批判はなされているべきはずである。批判者側にも証文の出し遅れのそしりはまぬがれまい。

 それよりも、戦時中、日本国民として動員された台湾・韓国・朝鮮人の戦没者らが靖国神社に合祀されていて、合祀取り下げを求める遺族も少なくないことの方が問題だろう。

  靖国神社側は、「戦死した時点で日本人だったのだから、死後日本人でなくなることはあり得ない」とするのは理屈として成り立つ。しかし「日本の兵隊として、死んだら靖国にまつってもらうんだという気持ちで戦って死んだのだから遺族の申し出で取り下げるわけにはいかない」(田中伸尚著『靖国の戦後史』岩波新書227ページ)と拒否しているのには仰け反ってしまった。自家撞着もここまで来ると小泉総理の答弁か落語みたいで、よくお終いまで噴出さずに言えたものだと呆れてしまう。

《 何か決断を要する場合、御祭神の意に添うか添わないか、御遺族のお心に叶うか叶わないか、それを第一に 》

 と言いながら「御祭神の意」を勝手に決めては御祭神の意に添うまい。無理やり「赤紙で引っ張られて」そんなことを本気で考えるのは、正味の日本人でも多くはない。私の叔父も従兄もそんな「気持ちで戦って死んだ」はずもない。叔父はやけくそだった。従兄は二度目の召集で、愁嘆のかぎりを露わに妻子を置いて応召した。昭和17年に徴兵に応じず行方を晦ました者は8778人に達する(保坂正康『あの戦争はなんだったのか』新潮新書40ページ)。

 また、「御遺族のお心に叶うか叶わないか、それを第一に」するなら「遺族の申し出で取り下げる」のが「第一」であろう。こっちとあっちで、言うことが正反対では困る。

 私は松平宮司の、そのひたぶるな丈夫風(ますらをぶり)に人としての強い魅力を感じた。それゆえ半ばオマージュにも似たアポロギアを書いてきた。しかし、この、冗談かと思いたくなる自家撞着には弁護も苦しい。苦しいところをあえて言えば戦後処理の間違いが一因である。

 旧植民地出身者に国籍選択を委ねるべきであった。英国は帝国解体時にそれをやった。日本は逆に国籍剥奪に等しいやり方で放り出した。また、遺族の国籍を問わず、日本人遺族と対等の年金その他の受給権を認めるべきであった。「八紘一宇、普く皇恩に浴せしむ」などと言っていた国ならば、そうすべきであった。そうすればこの種の問題はほとんど生じなかったであろう。吉田茂のサボタージュがいけなかった。当時は素寒貧で、ない袖は振れなかったのも分かる。しかし出世払いの空手形にせよ出しておくべきであった。間もなく朝鮮事変、隣の火事で濡れ手に粟だったのだから。

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◇その4. 中曽根非礼参拝            
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 なによりも松平永芳宮司の硬骨ぶり、勁冽清廉の面目は、講演の標題が示すとおり、85年の中曽根公式参拝の場合に躍如たるものがある。この部分は講演中の白眉なので引用が多くなり、かつ長くなるのは避けがたい。

 《 昭和六十年八月十五日。「おれが初めて公式参拝した」と自負したいからか、藤波官房長官の私的諮問機関として「靖國懇」なるものをつくって、・・そして手水は使わない、祓いは受けない、正式の二礼二拍手はやらない、玉串は捧げない、それなら「政教分離の原則」に反しないという結論を出したのです。しかし、これは私に言わせれば、「越中褌姿で参拝させろ」というのと同じで、神様に対し、非礼きわまりない、私は認めないと言ったんです。そしたら遺族会やら英霊にこたえる会の方々に呼ばれまして、「折角、ここまできたんだから、宮司はゴタゴタいわないで、目をつぶってくれ」と、相当強く迫られたのです。》

 遺族会や英霊にこたえる会と宮司との軋轢については既に一度触れたが、遺族会や英霊にこたえる会が政治的で日和見的であるのに対して、宮司は非政治的、非妥協的に国家権力に鋭く立ち向かう、保守ラディカルの節操を貫いていることが印象に残る。以下もまたさらにその印象を裏打ちしている。

 《 前日の十四日、藤波官房長官が見えたので、・・私は言いたいだけのことを言いました。天皇様のご親拝のご作法・・を全部やらないというのは、弓削道鏡にも等しい。そう靖國の宮司が言っていたとおっしやっていただきたいと、しかし、これは恐らく言われなかったでしょうね(笑)。それから、私は明日は総理の応接には出ない、泥靴のまま人の家に上がるような参拝は、御祭神方のお気持に反することで、「ようこそいらっしやった」とは口が裂けても言えないから、社務所に居て顔を出しません、それも伝えてほしいと。》

 歯に衣を着せぬと同時にユーモアをも忘れぬ大らかさは正に古代的な丈夫風といえるだろう。それでもなんとか折り合いをつけて中曽根参拝は行われた。

 《 私は、お偉い方でも心なき参拝者には、離れた社務所からスッ飛んで行くようなことはいたしません。しかし、年老いたご遺族が、特に地方から見えたら必ず知らせてくれよと奥の方の神職には言ってありました。》

 この人は華族であるが、心は常に草莽に身を置いている。横井小楠を迎えて、自ら座を立って小楠に敷物をすすめた祖父春嶽の姿と重なる。

 《 八月十五日だからといって・・特別なお祭りはないのです。・・ただ、八月十五日には武道館で全国戦没者追悼式が行われ、全国からご遺族の方が見えますので、参拝者の数が多くなります。マスコミも注目する。それで政治家も地元のご遺族方の参拝に合わせて来られるのでしょう。》

 以下当日の記述は省略の余地なく、すべてを引用する。

 《私は例年、八月十五日は、武道館のほうへ靖國神社の代表として招かれておりますので、モーニングを着て出席いたします。式が終って、出ようとしても出口が混雑するので待っている。その間に首相は、さっさと靖國神社へ回って参拝を終えるので、従来から八月十五日には全然首相とは対面していません。ところが、昭和六十年の鳴物入りの「公式参拝」私に言わせれば「非礼参拝」ですが--そのときは、武道館での追悼式のあと、総理は、時間調整のため昼食をとられ、その間に武道館から退場したご遺族さんたちを神門から拝殿まで並ばせたんですね。その中を中曾根首相一行が参拝するという、ショー的な手配をしたのです。

 しかし善良なご遺族たちは「公式参拝してくれてありがとう」と喜んで拍手で迎えていました。私はすでに武道館から神社に戻っていたのですが、藤波さんにも職員たちにも宮司は出ていかないと言ってあったので、出ていかない。社務所の窓からご社頭の状況を眺めておりました。ちょっと子どもじみておりますかね(笑)。 

 ところが夕刊を見てびっくり仰天。これはしまったと思いました。参拝が終ったあとの写真が出ているんですが、中曾根総理、藤波官房長官、厚生大臣、それとボディガードが写っている。写真では二人しか写ってませんが、四人ついていた。

 拝殿から中は、綺麗に玉砂利を掃き、清浄な聖域になっているんです。天皇様も拝殿で祓いをお受けになって、あとは待従長などをお連れになって参進される。警護はなしです。

 だから、中曾根総理が、厚生大臣と官房長官を連れていくのは、幕僚だからそれは結構だ。しかしボディガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだと思うわけです。靖國の御祭神は手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇様でもなさらない警備つきとは何事かと、七年経った今でも無念の感情が消え去りません。》

 ボディガードが四人というと、小泉チルドレンの杉村太蔵議員にもガードが四人ついたのを思い出してしまうが、風景がちがう。英語ではボディガードのことを俗にgorillaという。神の宮居の奥津城にゴリラを四頭も引き連れて入る神経とは!信仰の有無、宗教のいかんを問わず、靖国であるといなとを問わず、それが涜神、涜聖以外の何ものでもないことぐらいは尋常人並みの人間であれば誰にもわかる。

 中曽根氏も弟が戦死していると聞く。たぶん中曽根氏に敬虔の気持ちがなかったわけでなく、権力に驕って目が眩み、自分が何をしているのか、他者の目で見ることが出来なくなっていただけだろうとは思う。虚栄心あるいは野心のまるでない政治家を探すのは、物を盗らない泥棒を探すぐらい難しいことではあろう。見栄がなければ華もあるまい。それはむしろ政治家には、なくては叶わぬものですらあろう。虚栄心をバネにし、また矯めつつ、それを使命感に昇華させてゆくストイシズムが政治家には問われよう。そのきびしさの次第で粋と卑しさは別れる。卑しさが非礼にまで堕ちた。それを仮借なく炙り出したのは宮司の、ときにニヒリズムの匂いさえする超然たる無私性であった。

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◇その5 草の根の遺族
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 松平宮司の歴史観、国家観は偏奇なものであろうことは言葉の端々からも窺える。それは遊就館に貼り出されているところに照応するものでもあるだろう。大東亜戦争は自衛のための戦争であり、さらにはアジアの解放のためだったとする。中国侵略が自衛とは、いくらなんでもそれは無理だが、太平洋戦は自衛と言えなくもない。アジア解放は結果としてその側面もあったかもしれず、それを無邪気に丸々信じた人もいるだろう。

 何から何まで戦争は自存自衛のためであったとするのは、「すべて日本が悪いとする」東京裁判史観と同じくデタラメだろう。しかしデタラメでも、そう考えるのは思想信条の自由に属する。心の奧処は「天使も踏むを恐れるところ」(Where angels fear to tread)。宮司は海軍の軍人だから、軍に強い影響力を持った平泉澄史学の皇国史観の持ち主だったとか、ほかにもさまざまの蔭口はある。「歴史に對する認識に於ても著しく缺けてゐる人物であった」(『入江相政日記』)かもしれぬ。環境的条件の制約は誰にもある。その限界の中で右顧左眄せず所信に誠実剛直に生きる人を私は貴しとする。

 米軍によって軍国の圧政から解放されたと受け取る私などとは対蹠的に、サイゴンで死処を得ずして敗軍の将となった軍人の無念は容易には消えまい。ときに華族会館などで山内容堂のように「気騰(あが)り色驕(おご)る」ことはあったかもしれぬ。しかし、それはあくまで私的な空間でのことであり、南方総軍参謀の某氏のように、ぬけぬけと講演してまわる「敗軍の将 兵を語る」見苦しさとは無縁である。

 松平氏は戦後国家に絶望している。徹底して絶望している。私がニヒリズムの匂いがすると言ったのはそのことである。《この神社は先細りになることが分っている神社なんです。やがて、ご遺族、戦友がいなくなる。おまけに「国家」を大切にする教育は、戦後一切されていない。先細りは目に見えている》ことから目をそらさない。むしろ、その運命を進んで選び取ろうとしているかに見える。その潔さこそがA級戦犯合祀をも先送りにしないで実行させたのでもあったろう。

 それゆえ遺族会や戦友会などの、いまだに未練がましく国家護持や首相公式参拝にこだわる煮え切らなさとは鋭く、かつきびしく一線を画している。そのことを、わざわざ後任の宮司に申し送ってもいる。公式参拝なるものの「ショー的」性質、政治利用にすぎないことを見抜いており、《しかし善良なご遺族たちは「公式参拝してくれてありがとう」と喜んで拍手で迎えていました。》と遺族の甘さをやんわりと皮肉っている。

 A級戦犯合祀は公式参拝をきわめて困難にしたが、それはむしろ宮司の思う壺で、意識の底では、公式参拝を閉めだす意図をも秘めての合祀ではなかったかとさえ思う。国や首相に対する強烈な不信からしてそう思う。

 東条合祀以後昭和天皇も参拝しなくなったと、合祀について非難がましく言う人がいる。逆ではないか。七名の刑死は昭和天皇の身代わりではないか。七名はそれを胸の奥に納めて、「玉体」を護るためにこそ、自らを贄とするに安んじて刑に服したのであろう。「昭和天皇は大言壮語しない英機の知性を好んだ」(中井久夫「朝日新聞」大阪版夕刊05.8.16)というのが本当ならば、自分の身代わりになった七名の合祀以後にこそ、なおさら参拝すべきではなかったのか。

 昭和天皇、じつは木偶であった。私はそう考えるが、木偶であったとしても形のうえで"The King Must Die"がまず来るべきものに思う。そもそも天皇を免責した裁判だということを指一本触れないでA級がどうのこうのは辻褄が合わないのではないか。

 ここで三島由紀夫の『英霊の声』を思い出す。

「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」は有名であるが、「死したる者のため、何ゆえ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」もまた「死したる」七人にかぎってだけでも痛烈である。「架空を護る」ことのみを願って彼らは自らの死を納得したはずではないか。松平宮司の合祀の沙汰もまた三島の告発に和するもののように思えてならぬ。いうならば天皇親拝への督促状でもあったと思える。

 それは実らなかった。実るはずもなかった。中曽根参拝は更にそれを決定的なものにした。天皇恃むべからず。国家、権力もとより恃むべからず。また信ずべからず。一切それらと絶縁し単立の宗教法人としての道を行く以外に道はないという覚悟を示すものとして、国家護持ならぬ「国民護持、国民総氏子」という言葉には注意深く耳を傾けるべきであろう。「国民総氏子」の「総」がどうのと、くだらぬ揚げ足を取るのはやめて、「国家」に対置する「国民」の語に注目すべきであろう。

 05年8月17日に見たNHKの「終戦60年企画:靖国神社」の中でのこと。アッツ島で玉砕した矢敷喜作少佐は、その遺骨も遺品もなにも残らなかった。その長男喜一さんは合同慰霊祭には毎年来るが「戦没者を賞賛した軍部のやり方に矢敷さんは違和感を覚えています」というアナウンサーの言葉に続いて、つぎのように言う。

 「英霊とか軍神というのは当時の戦意高揚のために作られた言葉ですから。只一つ、戦争で亡くなった者は靖国に納まっているんだという、うちのオヤジはあそこにいるから、うちのオヤジに会えるんだという。タマシイがいってるんかどうか分かりませんけども、他に拠りどころはないじゃないですか。どこにもありませんから」

 このむなしさ。深沈たる喪失の思い。「遺族会とか英霊をたたえる会等の主だったかた」の逸り立つ心とは裏腹に、これが、おそらく多くの、草の根の遺族の偽らざる心のように私には思われる。「遺族会とか英霊をたたえる会等の主だったかた」とはしばしば対決しつつ、この草の根の遺族の心を、宮司は澄んだ目で、しかと見届けていたにちがいない。次の言葉がそれを証している。

 《 靖國神社がよそのお社と異なるところは、・・古くからの神様をお祀りしているんじゃない。自分の父親や兄弟が祀られている、わが子、わが夫が祀られている、そういう神社だということです。今でもしばしば見かけますけれど、昇殿ご参拝なさった方が目頭にハンカチをあて、涙を拭われる。・・靖國神社は、ご自身のご縁のあった御霊がおいでになる。そこで語らいをされ、涙を流される。それが特色だと思うんです。》

 宮司の目はじつは、外にざわめく波風にではなく、わき目も振らずといっていいほどに内に向いている。

 非礼参拝はいうに及ばず、八月十五日に社頭に押し寄せて、「"愛国"、"憂国"を装った形で」鎮まる御霊を騒がせ、新たな御霊を増やしたいかのごときチープな煽情の口説を弄する連中もまた、靖国を政治的に利用しようとするものである。それら一切のよこしまな政治的「権力の圧力を蹴とばして、切りまくる」とすれば、宮司が《これ以外にいま靖国神社としては生きる道がない》とする宗教法人の立場は、必然的に、古来の神道に伝統的な御霊神社に純化する道以外にはなくなるであろう。

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◇その6 むすび
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 怨霊信仰は古くからあるが、顕著になったのは八、九世紀の交、奈良朝末期から平安初期のことらしい。私が直接体験として知ったのは五条の御霊神社であるが、井上内親王(イガミノヒメミコ)とその子らを祀っている。井上内親王は聖武天皇の皇女で白壁王(光仁天皇)の妃そして皇后となったが、桓武帝擁立の陰謀に加わったとして巫蠱大逆の冤罪を 着せられ、五条の宇智に幽閉、母子ともども774年毒殺された。その祟り数々生じたゆえに、777年墳墓は改装され800年吉野皇后と追称された。

 義江彰夫『神仏習合』(岩波新書)によれば、

 「御霊」と呼ばれるようになった最初の人は、早良(さわら)親王である。彼は785年・・無実の罪で皇太子の地位を奪われて淡路に流される途上、断食死
した人物。しかし、七年後の792年、桓武天皇が淡路島の早良の墓をその祟りを避けるために整備・・800年には「崇道天皇」の追称を捧げ・・ とあり、『日本三代実録』を典拠としているのだから、正しいのだろうが、年代の上で五条の方が一足早いように素人には見える。所詮は素人の生齧りだから、どうでもいいことだが一筆疑念を呈し、以下怨霊信仰について同書から、というよりその記憶から、勝手大雑把に換骨奪胎する。

 怨霊神の極めつけは、その百年余の後903年に大宰府に没した天神・菅原道真であること周知のとおり。政争に敗れ、おおくは冤罪によって非業の死を遂げた人物の祟りをおそれて文字通り祀り上げた。祀り上げるのだから慰霊と顕彰はセットで、顕彰の度合いが足りないと怨霊がベースアップを迫って、そのたび位階を吊り上げて慰撫することもしばしばであった。

 ベア要求は御霊会(ごりょうえ)というデモによった。当然反王権的にはたらく。御霊会は歌舞、弓射、相撲、競馬、大道芸などで、群衆の熱気にむせかえった。挙句は反王権の御霊会のはずが、そのエネルギーは王権王城守護の武神とされた八幡にまで及び、これまた「兵馬の権」を御霊会に託して強調した。慌てた王権は自ら御霊会に参加、主催するなどして懐柔に努める。道真怨霊の鎮まった後に祇園の牛頭(ごず)天皇御霊なども出現するし将門新皇またしかりであるが、ともかくも王権はこれらも凌いでガス抜きし、御霊会は解毒され、今日見られるカーニバル的祝祭として土俗化した。

 靖国もまた御霊神社そのものではないか。仕えてであれ欺かれてであれ、国のために非業の死を遂げた人々が祀られ、ときに三島の『英霊の声』に見られるように、仕えたはずが欺かれたとして、すなわち怨霊としてあらわれもする。その御霊を慰め顕彰する御霊会としてはじめて八月十五日のすべては納得できる。京都の時代祭りにも似たものとして軍服仮装行列も納得できる。また例大祭などに付随する縁日の猥雑も納得できる。

 遊就館の由緒書きのようなものも、靖国だけが例外ではなく、これに劣らず誇大または荒唐無稽なものが神社のご由緒にはすくなくない。維新後の旧幕臣の痩せ我慢みたいで、ほほ笑ましくもある。目くじら立てるより普通の神社のいわゆるご由緒とひとしなみに綽々として受け流せばよかろう。

 武神八幡大菩薩は応神霊で、応神は神功皇后三韓征伐の過程に生まれたことに由来するという。三韓征伐は大和王朝が海の向こうの本家の揉め事で手伝いに出かけ、結局負けて帰ったというようなことが伝説化したものらしい。負けて帰った武神なら今次戦後の靖国にもなかなか適う。

 遊就館はよくできた兵器の博物館のようだから、スミソニアンが神社の中にあるとは一風変っているが、スミソニアンと違ってときには原爆資料展なども催せば、これまた話題性を呼ぶだろう。そして「感情の錬金術」が生み出した腥気は、遺族、戦友が「先細りになる」につれて蒸発してゆくだろう。徒に掻き回さずに落ち着いた神社として、いくらかキッチュな神社として土俗化を遂げるのが宗教法人靖国神社安定永続の道筋であろうと思う。

 私自身は神道の神域を好む。緑深い森厳の風趣を好む。社頭では二礼二拍手一揖すると気持ちが冴える。神気あれば神社あり、神社あれば神気がある。神気は空気、清浄の気あるのみ。祭神の詮索はあとのついででしかない。気だから私の縁者が祀られている、いないは、どうでもよい。A級が祀られている、いないも、どうでもよい。

 しかし、どうでも良くない人もいるのであろう。神祇官がのさばった神仏分離令以後神田明神から朝敵将門は別居させられ、昭和59年にまた復籍した。滑稽なはなしである。台湾人遺族が何か言ってきたら突っ張らずに水は方円に従えばよかろう。気は不増不減である。事を起こさぬは靖国の字の示す本来の意義である。

                 (筆者は大阪女子大学名誉教授)