「秦檜審岳飛」(秦檜が岳飛を裁く)

中国単信

「秦檜審岳飛」(秦檜が岳飛を裁く)

                      徳泉 方庵


 中国の重慶市共産党の最高位に君臨し、次は国家主席をも狙うエリートとして注目されていた薄熙来(ボーシーライ)はその地位を利用しての巨額の収賄と横領、職権乱用などの汚職容疑で逮捕され、無期懲役、政治的権利の終身剥奪、全財産没収の判決が九月に言い渡された。
 この間、中国国内は言うまでもなく、日本などでも少なからず注目を集めていた。しかし、裁判が始まる前日に山東省済南市の裁判所前で、「秦檜審岳飛」(秦檜が岳飛を裁く)というプラカードが掲げられたことは日本ではあまり知られていないようである。このプラカード、中国の歴史に少し詳しい人なら「おやっ」と思うのではないだろうか。

 秦檜と岳飛は今から九百年ほど前の宋の時代、金国という異民族からの侵攻に苦しめられ、亡国の危機に直面していた時、秦檜は金国と結託して主戦派の指導者で徹底抗戦の岳飛を「莫須有」(有ったかもしれない)として反逆罪で謀殺してしまった。後世、岳飛は救国の英雄、秦檜は売国奴となり、現在でも浙江省杭州の岳飛を祀る岳王廟の墓の前には秦檜夫婦が縄で縛られて跪いている像があるほど中国人には馴染みのある人物たちである。
 さてこれを今回の裁判に当てはめると「秦檜」は裁く側であり、つまり国ということになる。そうなると「岳飛」が薄煕来ということで、彼が英雄となるのである。

 実は庶民にとって高級官僚の汚職、腐敗は慣れっこで、ほとんど日常化してしまっている。中国元鉄道相だった劉志軍(リウジージユン)が十億円を超える巨額汚職により猶予付きの死刑判決を受けたのは、つい三か月ほど前の七月のことだった。収賄、汚職で処分された高級役人だけでも数万人にも及ぶと言われる今の中国では、末端の役人まで数に入れ、発覚していない贈収賄を含めたら不正をしていない者などきわめてまれだろう。
 たまたま今回の薄煕来の場合は、国家運営のトップに近い地位にあっただけに、権力闘争、あるいは保守派と経済改革派との対立という面からも注目される結果になっていた。ところがこれを庶民感覚からすると、先ほどの「秦檜審岳飛」と映ることにもなるようだ。

 この点はある民意調査がいみじくも証明していて、公判前に薄被告に良い印象を持っていなかった人のうち、ほぼ三人に一人が被告への印象が改善したというのである。ただこの「改善」には次のような注釈が必要かもしれない。
 “薄煕来が収賄、横領したことは悪いが、よく考えてみると彼は我々のために益になることもやってくれて、ひたすら私腹を肥やした連中よりはまだマシだ”
 確かに「大連の繁栄は薄熙来のおかげ」「暴力団撲滅をやってくれた」「汚職摘発に手を抜かなかった」と言って彼を弁護する人たちは決して少なくない。つまり庶民は自分たちのために何をどれだけやってくれたのかが評価の基準になっているのである。

 しかしその一方で、ある官僚が収賄の取調べに対して「収賄をしないなら、自分は何のために官僚になったのか」とうそぶくほど「責任、人格、信念、原則」すべてを捨て去り、“収賄こそ我が使命”とばかりに、それが骨の髄まで染込んでしまっているのが高級役人の現実にほかならない。
 その意味で「秦檜審岳飛」のプラカードの出現は中国の現指導部へ突きつけた、次のような厳しい批判を含んでいたのである。
 一つは、中国指導部は汚職に厳罰の姿勢で臨んでいるが、もはや自浄能力を失った者たちを厳罰だけでは根絶できない。一つは、高級役人の汚職、横領、職権乱用はもはや慣習化しており、清廉潔白な役人ははじき出されてしまうのが現実。だとすると現在、国家指導部に登りつめているのははじき出されなかった証左。つまりは同じ穴のむじなではないか。一つは、中国共産党内部での激しい権力闘争や主導権争いの内幕暴露が薄熙来の口から飛び出すのを恐れて裁判の早い決着を企み、その一方で公正な裁判を演じてみせるためにインターネットを利用していて、裁判そのものが信用できない。

 いずれにしても、汚職への厳しい取り締まりで民衆から評価されていた薄熙来が汚職犯罪者として審判を受けるとは、何とも皮肉であり、中国という国の腐敗の深刻さを物語っている。
 ただ少し見方を変えると、このような国家の政策決定、政策の実施、法律の制定・実行・監督等あらゆる国家システムに関わる役人たちが汚職にまみれている中国ではあるが、かすかな光が見えなくもない。

 インターネット利用による公開裁判形式にしたのは中国指導部の思惑もあるだろうが、民衆の声をまったく無視できなくなっているのである。また「秦檜審岳飛」のプラカードの出現はその内容もそうだが、そうした行為を完全に封じ込めることができなくなってきている現れでもある。
 このように見ると、中国の民衆の目が、声が、耳が、わずかずつではあるが動き始めてきている。まだまだ時間はかかるかもしれない。でもこれまでは沈黙するしかなかった民衆の公正、平等、民主への強い思いが大きなうねりとなって、いつか爆発する可能性を否定できない。いや民意の爆発なくして中国の未来はないと言えるかもしれない。

 (筆者は大妻女子大学准教授)