「谷中村から福島原発被害地へ」の一世紀

「谷中村から福島原発被害地へ」の一世紀


                      田村 紀雄

  国会議員のひとりが秋の園遊会の場所で天皇に「手紙」を差し上げたことが問題になったことがある。内容は福島第二原発の被害者たちへの思いを書いたものだと伝えられている。この話題でほぼ一世紀前の田中正造の「天皇への直訴」事件に言及した記事も見られた。
 田中正造は鉱毒問題の解決のために国会議員として長年、獅子吼の奮戦をし、新聞記者を現地に案内して実情を報道、農民とともに霞が関へ「押し出し」、各地へ遊説して政府と足尾銅山の不当を説きまわったが成功しなかったのだ。萬策つきた結果、自ら逆に国会議員の職を辞し、かたちだけだったが類の及ぶのを恐れて妻に離婚状を書いての「直訴」だった。それは現場で護衛の警官に槍をもって阻止され、逮捕されるなど実際、命がけの行動だった。
 昨今の議員がこの事実を知っての行動かどうかは不明だが、田中正造の行為と歴史を越えて単純に比較論評することは、危険だろう。しかしその背景には1世紀をこえて、なお自然や環境に無関心な日本社会の構造的な問題点の類似性のあることにおどろく。
 田中正造は国家や工業の意思が、農民(住民といってもよい)や大地を押しつぶしたことに抵抗したのだ。その象徴が渡良瀬川と利根川、思川等の諸河川が合流するあたりにあった谷中村を破壊したことである。ここ数年、田中正造の没100年の道標である田中霊祠があり、谷中村のあとに名をかえた「渡良瀬遊水地」がラマサール条約に登録された湿原として注目されることになった。なにか不思議な「自然の声」を聞く思いがある。
 田中正造は世の人々に鉱毒地の現状や政府の無策、足尾銅山の非を訴えるべく、議会での追究とならんで、あらゆるメディアを駆使した。自身、『栃木新聞』の経営者であり、疑うことなくジャーナリストである。『栃木新聞』社は当時、県庁所在地であった栃木市の目抜き通りにあったが、現在、名をかえた『下野新聞』栃木支局として一階建ての建物をそのまま使っているのに因縁めいた細い糸を感じたものである。かれは言論=新聞の効果を充分承知していたことから、輿論に影響を与える東京の新聞社・雑誌社への働きかけにはことのほか熱心だった。
 さらには著名な知識人に面会し、現地へ新聞記者をなんども招致している。新聞の役割を重視する一方、当時の可能なあらゆるメディアを駆使した。小冊子、単行本、東京での演説会、鉱毒地の寺院での集落ごとの小集会、「こんにゃく版」や「謄写版」によるビラ、写真や幻燈さえ運用している。
 なかでも夥しい手紙である。かれほど、無数の手紙を残した運動家を知らない。由井正臣によると、『田中正造全集』に収録された手紙は5,020通だと語っている(『語りつぐ田中正造』(1991年、社会評論社)。この全集以降、さらには将来にわたり、田中正造の手紙は、あと何百通、発見されるかわからない。かれは手紙を重要な人々への工作のメディアと考えたから、必要な時期にはほとんど30分おきに1日中、手紙やはがきを書いている。旅先の旅館で書き、歩きながら書き、駅の待合室で書き、車中で書き、食事時に書き、寝床で書いた。いずれも墨汁と筆による。
 石川三四郎あての封書で「曾て手紙運動御願 諸君にも御願、地方の事ハもとより無邪気の人民 言語同断、只此無知の人民の財産を恣む暴悪を憎む。谷中村ハ亡滅にあらず、政府の腕力を以て撲滅するなり」と認めている。田中正造が各界、個人、農民に手紙を書いただけでなく、かれらにも「手紙運動」を呼びかけ、広げたのである。
 天皇への「直訴状」もこの脈絡であったであろう。だが、田中正造は突拍子に実施したわけではない。皇室への礼を失することのないよう、文体は古式に則って推敲し、幕末の漢文の素養をもち、名文・達筆家の幸徳秋水に加筆・清書を依頼した。石川半山も構想に噛んでいる。両者とも名の知れた新聞記者だ。ここには田中正造のもうひとつの計算があった。直訴状が政府に押収されたり、田中正造が天皇行列の手前で不敬・非礼の理由に護衛に殺されたりして、直訴状の内容が闇に葬られても文句もいえない時代であった。だから新聞記者の目を通し、原文が残るように幸徳らに依頼したのだ。
 内容は計画とおり、直訴を報道した在京各新聞に掲載され、田中正造の目的の一半は達成されたのである。読者大衆・農民に充分、運動の内容を理解させることになった。
 谷中村は行政的に「撲滅」されたあと、行政的には主として藤岡町に併合され、さらに数年前、平成の大合併で栃木市の一部になった。谷中村、そのものは「渡良瀬遊水地」となり、農民は四散したが、最後まで抵抗した16戸は藤岡町その他に住むことになる。その「遊水地」がラムサール条約に登録され、ここで戦った田中正造が死没したのが、100年前の1913年であった。16戸の農民のひとりで最後まで田中正造に付添った島田宗三のことはよく知られている。かれの子孫のひとり島田稔とは、田中霊祠での毎年の例祭でなんども語りあう機会があった。その島田から2013年の田中正造没後100周年の例祭ではなしをしてほしいという打診が、同じ藤岡町の吉村栄市からあった。この村の新制中学一期生以来の同期の友人である。 わたしは、ふたつ返事で準備し「世界のなかの田中正造」というテーマで欧米やアジアでの田中正造研究を100人ほどの農民の前で話した。その少し前、福島第2原発事故での被害者のひとの話をきく機会があった。その人は「100年前の谷中村と同じで、われわれは政府と大企業によって生業の土地を奪われようとしている」と怒っていた。全力でその非をうちならす一人の本物の田中正造も現代いないのか、ともいうのだ。
 わたしはある構想をあたためていた。それを田中霊祠でのはなしに出席していた旧知の栃木市長に提案することになった。わたしが50年間の大学での研究生活で追究してきた田中正造と農民の言論活動を数冊の書に上梓した。朝日新聞社から朝日選書として出版した『鉱毒農民物語』は現在も売られているし、社会評論社からの『川俣事件』は25年間のあいだに3度版元をかえて出版し続けている。この50年間に蒐集した図書、論文、資料等、数千点を栃木市の図書館に寄託することの提案だった。市長はこれを受け入れ、2013年はほぼ半年をかけてわたしは自宅での整理に追われ年末に最後のダンボール箱を栃木市からの運搬車にのせる仕事で一段落した。
 栃木市ではすでにこの「田中正造研究文書」のやまに丁寧に対応してくれており、その目録の第1回分が送られてきた。これらの文献をつかった若い学徒が栃木市をたずねて目録を紐解くことができる日も遠くないだろう。それが、八十路を迎える老研究者の初夢でもある。
    (筆者は東京経済大学名誉教授・社会学者)


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