【書評】

『「大日本帝国」崩壊―東アジアの1945年』

  加藤 聖文/著  中公新書  2009年/刊  定価/820円+税

岡田 一郎

 本書は、ポツダム宣言の作成過程およびそれを日本政府がどのようにして受け入れたのかを明らかにしたうえで、日本の無条件降伏前後に日本の植民地であった朝鮮半島・台湾・南洋群島・南樺太および日本の傀儡国家であった満州国そして戦場となった中国で何が起こったのかを検証した書物である。

 ポツダム宣言が当時のアメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマンの独断で作成されたものであるとか、日本政府がなぜポツダム宣言受諾に時間がかかったのかといった考察も興味深いが、本書の白眉であり、筆者自身が最も力を入れている所は、無条件降伏前後の日本政府がいかに、海外に住む日本人および、直前まで帝国臣民として扱っていた植民地の人々に対して無責任であったかということである。

 1945年8月14日、アジアの占領地を管轄していた大東亜省は次のような暗号を発信した。「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」、朝鮮人・台湾人については「追て何等の指示あるまで従来通りとし虐待等の処置なき様留意す」(なお、「何等の指示」はその後、発せられなかった)。これは海外に住む日本人および(帝国臣民の一員とされていた)朝鮮人・台湾人の保護責任を連合国に丸投げするものであった(本書57頁)。8月19日には内務省も「朝鮮・台湾・樺太に在住する民間人は『出来る限り現地に於て共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力する』」との方針を決定していた(本書75~76頁)。

 このような方針が全くの絵空事であったことは言うまでもあるまい。8月9日、ソ連軍が満州および朝鮮半島北部への侵攻を開始し、8月11日には南樺太への侵攻も開始していた。ソ連軍は過酷なドイツ戦線を戦った精鋭部隊であり、気性が荒く、占領地では暴行凌辱の限りを尽くしていた。さらに満州では日本に土地を奪われていた住民が日本人を襲撃し、他の植民地でもそれまで日本に虐げられていた現地住民が立ち上がっていた。そのような状況の中で同胞に対して「定着」「共存親和」せよ、などと恥知らずなことを私だったら、口が裂けても言えない。百歩譲って、大東亜省や内務省が現地に人員を派遣して、連合国軍と、日本人定着のための努力をしたというのならまだ理解できるが、大東亜省や内務省がそのようなことをしたという記述は本書の中にはない。当時の日本の官僚は恥知らずの集団であったようだ。

 本書が明らかにした、当時の日本政府の無責任さ・恥知らずさを象徴する事例を、昨年8月、私はNHKが放送した「村人は満州へ送られた ~“国策”71年目の真実~」という番組の中で見出している。

 長野県河野村(現・豊丘村)の村長は村人を満州開拓に送り出すことに消極的だったが、インフラ整備などを政府からちらつかされ、村人を満州に送り出すことを決意する。しかし、戦局が悪化する中で河野村からやってきた移民のうち男性は兵隊にとられ、女性と子どもしか残っていないところにソ連軍が侵攻し、さらに土地を奪われた現地住民たちも土地を取り戻すために開拓村を襲撃して、日本人を追い出した。前途を悲観した女性たちは子どもたちを自らの手で殺し、自分たちも自決したという。ソ連軍侵攻の報を聞いた河野村の村長は急きょ、上京し、外務省と農林省(満州移民を熱心に勧めていた)に問い合わせるが、どちらも何の情報も収集していなかった。後に命からがら帰国した隣村の開拓団員から現地の惨状を聞かされた村長は自責の念に駆られて、自ら命を絶ったという。一方、満州移民に携わった農林省の幹部は戦後、満州移民について「失敗だったが、いいことだった」と平然と語った。

 結局、日本の政府官僚は恥知らずにも何も反省せず、彼らに踊らされた人々だけがひどい目にあったのである。このような図式は今でも私たちは目にすることがある。官僚の誤った政策によって甚大な被害が発生しても官僚たちは全く反省せず、白々しい答弁を続け、被害は放置され続ける。戦後70年経ったが、私たちは官僚の無責任体質を一向に改めさせることは出来ずにいる。これはひとえに日本国憲法によって主権を与えられたはずの日本国民の無作為の結果ではないだろうか。

 同胞に対して冷淡だった日本政府は、植民地人に対してはなお冷たい。それは日本政府が掲げる大義を信じ、帝国臣民として日本に協力した人物にも同様である。サハリン少数民族出身のゲンダーヌ(北川源太郎)は対ソ諜報戦の要員として日本軍に協力し、サハリン南部(南樺太)がソ連領に編入されると、日本に「引き揚げ」たが、日本政府は彼を日本人として扱わず、軍人恩給の認定も拒否し続けた(本書216頁)。
 このような海外に住む同胞や植民地住民に対する冷淡さの原因を筆者は以下のように述べている。

   大日本帝国憲法が発布された一八八九年の時点では、大日本帝国とは万世一系の天皇
  と臣下である日本人だけの小さな国家─「ミカドの国」でしかなかった。だが、対外戦
  争を重ねるなかで、植民地帝国へと変貌し、多民族国家となっていた。しかし、敗戦ま
  でほとんどの日本人はその現実に気がつかなかった、否、気づこうともしなかった。
    (中略)
   結局、大日本帝国の誕生から崩壊まで、ほとんどの日本人は日本人による日本人だけ
  の帝国という意識を捨てきれなかったのである(本書221~222頁)。

 最近、園児たちに教育勅語を暗唱させている幼稚園の存在が明らかになり、ある閣僚は国会における野党の質問に答えて、教育勅語は「道義国家」を目指したものであり、内容は評価できると答弁した。また、ある国会議員は国会での質問中に戦前日本のスローガンであった「八紘一宇」は素晴らしい言葉だと述べた。

 このように、戦後70年経ち、第二次世界大戦の記憶は薄れ、戦前を再評価する動きが出てきている。確かに戦前にも評価できる点はあり、一切合切、戦前を否定するのはおかしいと自分も思う。しかし、本書で浮き彫りにされたように、戦前の大日本帝国が異民族を抱え込む器量を持たず、抱え込んだ責任をとろうともしなかった無責任な国家であったこともまた事実である。教育勅語や八紘一宇はそうした戦前日本の器量のなさ・無責任さを覆い隠すための言葉ではなかったか。そのことを考慮に入れず、ただ単純に戦前を懐かしむだけでは、私たちは再び日本国という無責任な体系によってだまされ、大きな犠牲を払うことになるだろう。

 (小山高専・日本大学非常勤講師)


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