■『あの日―昭和20年の記憶』を見て 工藤 邦彦

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この8月15日を中心に、多くのマスメディアで戦後60年のいろいろな特集が

企画されたが、その中で、≪オルタ≫の今回の「戦後60年アンケート」にちな

んで紹介させてもらいたいテレビ番組が一つある。ご存知の方もあると思うが、

毎日わずか10分間の放映という、NHK(BS2チャンネル)の地味な帯番組『あ

の日―昭和20年の記憶』である。放映時間は毎朝6.50~7.00で、再放送が同日

夕方の6.50から。土日の再放送は少し遅い時間帯の夜11.50と9.50からとなっ

ている。

番組は毎回、路上に少年がチョークのようなもので父や母の顔を描いている場

面から始まり、その少年が空を見上げると、背景に焼け跡の街のイラストが広が

る。この短い導入部のあと、当時のニュースフィルムをバックに「60年前、日本

人は今では想像もつかない日々を送っていた」というナレーションがあって、次

のように番組が進行する。

 

1)その日の歴史的事実を三つほど取り出して日録のように示す「この日の出来

事」(1分弱)。

2)その日の紙面(朝日、毎日、読売報知)をカメラが移動しながら、いくつか

の見出しをハイライトしていく新聞記事紹介(1分弱)。

3)60年前のその日についての各界著名人へのインタビュー(約7分)

4)当時の人たちの当日の所感を短く取り出して見せる「誰々の日記から」(約1

分)という構成である。

 

目下進行中の番組であり、その評価は12月31日まで365日分が終わってから

のことだが、「8月15日」までを過ぎた今日の時点で間違いなく言えることは、

新聞雑誌など他のメディアを含めて、これはおそらく今年最も注目されるべき報

道記事(ノンフィクション+歴史記述)になるだろう、ということである。

その理由は次の3点による。

第一は、この番組の扱っている時期が、昭和20年全体(365日)を対象として

いることである。この方法を採用することによってこの番組は、現代史の最重要

テーマある「日本の敗戦」を、刻々の≪歴史プロセス≫として、いわばライブで

たどることができ、そのことによってわれわれの戦後史理解に再考を迫る内容に

なっている。1月1日から始まったこの「昭和20年の記憶」は、ふつうは「8月

15日」とされる≪敗戦の日≫を(したがって≪戦後のはじまり≫を)、この日を

はるかにさかのぼる日付まで移動させなくてはならない、という視角をわれわれ

に提供した。

敗戦あるいは戦時天皇制の解体は、「画期」としてではなく、むしろ一つのグラデーショナルな過程としてとらえうることを、この現在進行中の番組は見せてくれている。

これは私のまったく仮の設定だが、山田風太郎が「本日より比島戦線に関する

新聞論調一変す」と書いた(これもこの番組に引用されている)2月4日、ある

いは、より決定的には3月10日の東京大空襲、さらに地方中都市への無差別じ

ゅうたん爆撃の反復の時点で、敗戦は事実において確定していた。

のみならず戦後はすでに始まっていた、と考えることは可能である(ということ

は、この「事実上の敗戦」とポツダム宣言(45.7.26発表)の受諾との時間差と

いう、ふつうは8月段階の問題として位置づけられている日本指導者層の日本国

民に対する戦争責任の問題を、よりいちだんと鮮明な形で改めて浮かび上がらせ

る、ということだ)。

これは単なる直接的な「戦争の事実」のみを言うのではない。人々の考え

方、生活の現実がそうなのだということが、この番組を見ていると手のひらを見

るようにわかるのである。

 

第二はこの番組が、上に述べたように、1)その日の歴史的事実、2)これを受

けた新聞報道、3)各界著名人の語り、4)当時の知識人たちの日記という4部構

成になっていることである。これによりこの番組は、「昭和20年の○月×日」と

いう現在進行形の日付を立体的に浮かび上がらせることに成功している。

ここで最も重要なことは、進行しつつある「歴史的事実」とその「大衆情報伝

達」のズレの問題である。これはふつう新聞の虚偽報道として位置づけられ、繰

り返してはならない「ジャーナリズムの過ち」として安易に過去の問題にされて

しまっている。

しかしこれについても、この番組の365日(まだその3分の2を経過しただけだが)

の経過は、問題を単色で描くことの誤りを明らかにしてくれる。

見ようとする目を持ってすれば、この年の少なくとも最初の四半期ぐらいまでは、

戦線の後退と本土空爆の、地図を見るように明らかな拡大、そして生活破壊の現

実が、新聞紙面からはっきりと読み取れる。

なり振りかまわぬ新聞の大言壮語が始まったのは、沖縄戦の敗色以後である。

「国民は何も知らされていなかった」という戦後歴史学の記述では済まされない

のである(ついでに記すと、大仏次郎が、おそらく新聞の小説担当記者あたりか

ら聞いたらしい話として記録している2月12日の日記の一節、「敗戦的風潮が社

会の上層部の確信?となりつつある点は驚くに値す。編集局長は酔中の発言なる

も、戦争はもう済んでいる、おれたちは戦後の新聞を作りつ!

この立体構成の中でもう一つ注目されるのは、さきに「知識人たちの日記」と

一口に記した1分たらずの抜粋である。繰り返し取り上げられているのは、上記

の大仏次郎、山田風太郎のほか、永井荷風、高見順、内田百閒、安西冬衛、清沢

洌、徳川夢声、古川ロッパから、木戸幸一、細川護貞、真崎甚三郎、さらには大

本営機密戦争日記というものまで、多彩である。

これらの日記からは、民衆とはいま一つ違う当時の知識人たちの現実へのスタンスと、それにもかかわらず「時局」の推移に伴って推移する微妙な姿勢の変化が読み取れる。特に7~8月に入ってからのこの人たちの日記からは、ようやく目の前にある現実を≪知識人≫として再び見始めていく姿がとらえられる。

 

第三に、この帯番組の中心を占める「著名人たちへのインタビュー」に登場す

る人たち(これらの人々のほとんどが当時は著名人ではなかったことに注意)の

経験の多様さである。それは戦時下体験として共通しながら、しかもなおそのさ

まざまな差異において、戦争のあらゆる局面を多面鏡のように映し出している。

これらの人々は、宮沢喜一から松本零士まで、古橋広之進から金子兜太まで、河

合隼雄から岡田茉莉子まで、じつに多種多彩である。彼ら彼女らのうちおそらく

最も高齢と思われる日比野重明でさえ当時33歳だった。これらのいわば「若く、

無名で、貧乏な」人々が、この番組では、それぞれの「あの日」に対応して配さ

れているのである(たとえば3月10日の東京大空襲は半藤一利、4月1日の米軍

の沖縄本島上陸には大田昌秀、8月6日の広島原爆投下には平山郁夫というよう

に)。

これらの人々の語ることは、南北の戦場の経験から、空爆の恐怖体験、そして

学徒動員から学童疎開まで、じつに千差万別であり(外地の体験が率にして少な

いのが惜しまれる。それがもっと多ければ、侵略国、植民地保有国としての当時

の日本の姿がより鮮明になっていたのだが)、少し誇張して言えば戦争体験、敗

戦体験の小さな「万葉」と言いたいくらいである。

この人たちの「昭和20年の記録」(これは本来もっと以前に、もっと規模を大きくして、多くの歴史家やジャーナリストたちの参加によってなさるべきものであった)は、よく読みとれば、これからの戦後史と戦後思想史の理解と記述に、さまざまな手がかりを与えてくれるにちがいない。

その中でもさしあたり触れておきたいことは、日本の大都市の住民居住地区や、戦略的にも既に意味のないことが明らかになった段階での地方都市への米軍による無差別空爆(大量破壊、大量殺戮)の持つ意味についてである。

膨大な人々の生命と暮らし、長い時間をかけてこの国の人々が積み上げてきた歴史と文化、そしてゆたかな風土自然に対する、この想像を絶する破壊行為(それらはこの番組に登場する人々によって、目前にあるように語られている)は、大陸と南方諸島に対する日本の大掛かりな侵略行動とならぶ、もう一つの、そして今に続く巨大な戦争犯罪として、新たに検証しなおされなくてはならないであろう(ついでに言えば、日本でも訳本が出版されて一部で話題になったH・ビックスの『昭和天皇』などは、日本の重慶爆撃について弾劾する一方、日本に対する空爆については原爆投下も含めて、あたかも歴史的必然か自然史的過程のように書いていた。  ―同書下巻p13~14、118、127)。

 

これは過ぎ去った問題ではなく、間違いなく 今日の問題なのである。

ともあれ番組は進行中である。これまで戦争末期の現実を詳細にあとづけて来

たこの番組は、これからいよいよ本格的に敗戦直後の日々の物語に入る。最後に、この原稿を書いている8月18日の時点での、作家・杉本苑子の証言の一部を、

今後への展開の切り口として紹介しておこう。

 

「この日の出来事」は、満州国皇帝・溥儀が退位し、ソビエト軍が千島列島北

端の占守(しぶし)島というところに上陸して日本軍守備隊と激戦を展開する一

方、内務省は早くも(敗戦宣言のわずか3日後に!)占領軍向けの性的特殊慰安

施設設置を指令していた。そして当日の新聞は「新日本の朝ぼらけ」という見出

しで、東久邇内閣の成立を報じていた。

当時20歳の杉本は、進駐してくる占領軍から若い娘を守ろうという両親のは

からいにより、何かの伝手でこの東久邇宮首相の家にごく短い間、女中奉公に上

がっていた。その彼女は「行ったその晩に」、コックさんから『おそのさん、今

晩はマグロですけど、照り焼きにしますか、お刺身にしますか』と言われて、び

っくりしたという。

庶民は闇市へ行ってもなかなか食べものも手に入らなかった窮乏のどん底の時代に、「たかが一女中の夕食に対してそういうことを言われた」。

真っ白なご飯が出て、毎日がそういう食事でした、という。そして「お台所の戸

棚を開けると、何年もお目にかからなかった金色の線の入ったカニ缶がぎっしり

詰まっているようなご生活でした」というのである。

毎日新聞大阪支社の藤田信勝記者は、この日の日記に「予想もしなかった情景

が今日の警備府で展開された。軍用として備蓄されていた砂糖、マッチ、石鹸、

シャツ、靴、煙草、酒、シロップなどなど、いま世の中では殆んど見ることので

きぬ日用品の配給が始まり、若い士官や理事生が物欲に血眼になっている姿。あ

の15日の歴史的な放送をきいた時に、数日を出ずしてこんな情景が眼前に展開

されようと誰が想像したろう」と記している。

この放送については、何ヵ月分かを1回にまとめた総集編のようなものが総合

テレビでも放映されているほか、同じ『あの日』(上)というタイトルで、1月か

ら5月までの分が、最近単行本としてNHK出版から刊行された。しかし前者は

整理編集がなされていて、むしろ番組本来の意義を削いでしまうような出来だし、後者は、各人のインタビューの部分と「その日の出来事」は忠実に活字化されているようだが(私はまだこの本を読んでいない)、残念なことに新聞記事と日記が省略されている。何よりも、活字からは話をする人たちの体験の痕と表情が伝わってこない。

ともあれこの『あの日―昭和20年の記憶』は、映像による記録の持つ確かな

価値を改めて見直すことができた、力の入った番組であった。

                           (文中敬称略)