【書評】

『マルクスと日本人 — 社会運動からみた戦後日本論』

  佐藤 優×山崎 耕一郎/著  明石書店/刊(2015年7月) 定価1,400円+税

 井上 定彦


 佐藤優さんの矢継ぎばやに発表される著作について多少とも知るものは、その知力・才気に満ちた大きなスケールの思考に驚嘆させられる。また、もしそこで「戦後革新」とか「日本社会党」とかのすでに歴史的過去となりつつあるようにもみえる事象について、なにがしかの関心・知識をもっている方がおられるとすれば、本書でまた驚くことになるだろう。

 むろん、佐藤優さんはマルクス主義者ではなく、プロテスタントのクリスチャンである。そして、対話の相手の山崎耕一郎さんはかつての社会党のなかのマルクス主義者の中心部に位置していた社会主義協会派(もとは故向坂逸郎代表)の中心リーダー、そして社青同中央本部委員長でもあった。この対話は、佐藤さんが高校生時代から数年の間、この青年組織の同盟員でもあったことがひとつのキッカケとなった。彼はその青少年時代に、当時なお隆盛であった新・旧左翼各派に根強かった類型的な「講座派」型の思想と行動、不必要な対立につながりがちな急進的志向とはちがって、やや普遍性と体系性を志向するという特徴をもつ(佐藤の認識)労農派マルクス主義に接したことは、その後の世界観(宗教観)への帰着、また現代分析と現代思想に有益だったとみている。したがって、話題は世界と日本の20世紀から現代にわたる歴史的現実をふまえながら、そこに関わる思想・世界観、哲学、理論・宗教、文化・芸術まで及ぶ深みのある対話となっている。

 お二人ともに、21世紀現代について大きな懸念をもっている。「リーマン・ショック」から今の中国経済減速に及ぶグローバル金融資本主義の暴走、殊に日本ではブラック企業やブラック・バイト、そして分厚いワーキング・プア層をはじめとする貧困について、そして職場と社会の荒廃という問題である。人間の自由と人権が改めて求められながら、新自由主義的思考がますます幅をきかし、民主主義の機能不全が懸念されるという現実がある。しかしながら、これに対抗する政治と社会の運動がわきおこってこない、担う主体がみえにくい。いまとなってみると、そこには「東西二大体制」時代の終了とその後のあり方、さきの「戦後革新」を含む社会運動・政治運動への幻滅が未だ重い後遺症をひきずっていることに関係があるのかもしれない(連合の一部や殊に民主党にも)。

 佐藤はいう。ソ連というのが「マルクス・レーニン主義」を建前としながら実際には地政学的な思考でナショナル・ボルシェビキという「帝国」イデオロギー、共産党官僚が支配する国になってしまっていた。そしてその党官僚は、自分自身が信じていないマルクス・レーニン主義を日本の社会党左派、共産党、いわゆる新左翼諸派までがいまだ本気で信じていると驚いていたものもいた。ロシア革命の後には、世界中の社会主義勢力がみなソ連に「片思い」をしたと山崎も認める。

 これらをめぐる議論の中には、評者にとっても(共感できる)いくつかの新しい発見もあった。水野和夫の言説について、ブローデルの歴史的アプローチとローザ的な世界経済観(途上国の収奪によって先進国は繁栄した)に引きつけられている(佐藤)。三池での労働運動支援について向坂に最初にすすめたのが、戦前ではあったが山川均であったこと(山崎)。そしてハンガリー動乱(1956年)で山川がソ連の介入を強く批判したのに対して、大内兵衛が強力にソ連擁護の論陣をはったこと(佐藤)。またマルクス主義の体系的理解と導入に熱心であったとすれば、本来はもっと評価さるべきカール・カウツキーやオットー・バウワー(欧州社会民主主義のリーダー)が位置づけられていなかったこと(佐藤)、などである。ソ連崩壊時にはすでに存命ではなかった宇野弘蔵が、大変意外にもソ連について同情的であったことは評者も聞きおよんではいたが。
 日本は戦争の総括もいい加減にして次の時代にうつってしまったけれども、ソ連の崩壊の総括、そして社会主義の再出発、という議論にはならなかった(山崎)。ひろくいえば、エリック・ホブズボームが試みたような「20世紀の総括」をまずふまえて、直面する社会と政治の困難に立ち向かう必要があるように思う。

 「静かな社会主義者」山崎耕一郎はいう。自分達は当時の新左翼や共産党のセクト主義にはずっと距離をおいてきたつもりだ。運動の前面にたつことはできるだけ避け、前衛党的発想ではなく労働者運動を学習と思考において支援することに徹しようとした。しかし、そのためにも組織防衛の論理に「なにをなすべきか」(レーニン)は読みやすかった、という。それが結果的には、いまからみれば自分たちに近い戦線の仲間を攻撃することになったり、あるいは社会党・総評のなかにまで大きな組織的反発をよぶことになったのかもしれない。他方、中曾根政権をはじめ(右翼をふくむ)保守勢力は、総評・社会党を抑えるには公労協を抑えること、そのためには国労を潰すこと、国鉄分割民営化をしかけながら内部からの分裂をさそいだすこと、であったのかもしれない。
 その点を含めて、歴史的現実にまず向き合う、全労働者的な運動の視野から取り組む、それにはかつての「協同戦線党」的な勢力の結集が肯定されるべきかもしれない(佐藤・山崎)、ともいう。

 普遍性の追求というものが労農派マルクス主義の長所としてあるとすれば、それはむろん、これから生かされ発展さるべきことであろう。歴史的反省(reflection)をふまえ、鋭い現実感覚をもち直視する力、そして普遍性の追求という姿勢、ということをあらためてふまえなければならない。そのような視角からみると、本書は多くの未来への示唆、課題を、私たちの周辺をはじめとしてもたらしてくれると思う。

 (評者は島根県立大学名誉教授)


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