『下村湖人』

■人と思想(3) 

戦時体制下も貫いた自由主義思想

   =小説『次郎物語』の著者 下村湖人=       富田 昌宏
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1.台北高校でのストライキ事件


 前々回、この欄で田沢義鋪を取り上げた。田沢は六十年の生涯を道義国家、
平和国家の建設に全身全霊を傾注した。前回は、その田沢が、二・二六事件で
内相後藤文夫と共にその事件の鎮圧に当った余話を披露した。
 今回は、その後藤(日本青年館第四代理事長)、田沢(同第五代理事長)と共に、
戦時下も自由主義思想を貫いた人物、小説『次郎物語』の著者でもある下村湖人
の一側面について触れてみたい。

 昭和11年、日本青年館発行の月刊雑誌『青年』に『次郎物語』の連載がはじ
まり、16年に第一部が単行本として出版された。60有余年を経た現在でもこ
の小説は読み継がれ、愛読者をもっている。ベストセラーといわれる書物の寿命
が数年に過ぎないことと対比してみると『次郎物語』の真価が浮かび上がってく
る。今回はその作者、下村湖人について書いてみたい。
 下村湖人は明治17年10月3日、内田郁二、つぎの次男として佐賀県千歳村
に生まれた。本名は虎六郎。生後まもなく里子に出され、大正2年下村家長女菊
千代と結婚するが、翌年に実父が病死、そして実家は一家離散の数奇な運命をた
どる。この体験が『次郎物語』の下敷きになる。
 
 湖人は佐賀中学を振り出しに教職の途を歩み続けるが、昭和6年、台北高校長
を最後に上京し、田沢義鋪のもとで、大日本連合青年団の無給嘱託となり、昭和
8年4月、浴恩館(日本青年館分館)に開設中の青年団講習所長となった。この
ことに後で触れるとして、台湾での出来事について述べてみたい。
 教職の途を歩んだ湖人は鹿島中学校長から唐津中学校長にもどり、職員、生徒
の敬愛を集めていた。ところが困ったことに湖人は台湾に渡ることとなった。当
時の台湾総督府の長官は後藤文夫であった。後藤は台湾の学校に反日運動が盛ん
で、手を焼き、内地で校長を物色しているうちに、白羽の矢が湖人に立った。そ
の招きに感激して台湾行きを決意するが、唐津中学の職員、生徒はそれを承知せ
ず「松浦(唐津の地名)の哲人を去らしめるな」と猛運動を起こした。湖人はそ
れらの人たちに声涙ともにくだる話をして許しを乞い、台湾教育に使命を感じて
渡台した。
 
 台北一中の校長に赴任、ストライキを見事におさめ、台北高校(今は大学)の
校長に抜擢された。そこで前校長の時からくすぶっていた事件が爆発して大きな
ストライキとなる。下村校長は生徒数名を退学にしておさめ、その後、そのスト
ライキをあおった教員何名かをクビにし、逆に退学させた生徒を全部復学させた。
そのことを総督府に無断でやったというので風当たりが強くなり、湖人はさっさ
と辞表をたたきつけ東京に引き上げた。しかし家族は多く、食うに困る。長男覚
氏を残して一家は帰りの船に乗った。その時の歌がある。
"われひとり島に残るとほこらしく別れに堪へて泣かざりし子よ"(男覚14歳)。
 このストライキ事件の処理、決断に感動したのが、当時学生であった李登輝で
あった。李登輝は後に中華民国総統となり台湾を統治するが、湖人の決断に感動
し、後にそのお礼として、長男覚氏を台湾に招待し謝意を表したという。この話
は、台湾から帰国した下村覚氏に直接私が聞いた話であり、人間李統輝の人柄を
象徴している逸話でもある。


2.小説『次郎物語』と青年団講習所


 
 湖人一家は郷里佐賀にしばらく滞在して、東京の戸山が原(今の新宿百人町)
の田沢義鋪の隣りに、退職金で買った家に落着いた。
 ところが、その生活もつかの間、湖人に新しい仕事ができた。
 湖人が台湾から東京に出てきたのは昭和6年9月、それからまもなく大日本連
合青年団(今の日青協の前身)の無給嘱託となり、田沢を助けて調査部につとめ
ることになった。そのころから手をつけた『若者制度の研究』はあとで一冊にま
とめられた。若者制度に関する日本唯一の貴重な資料でもある。
 
 なお、海外に日本の青年団を紹介する英文の本も出版されたが、これも湖人の
執筆によるものであった。東大の英文科が意外なところで役に立ったのである。
 昭和8年4月湖人は沿恩館(日本青年館分館)に開設中の青年団講習所に異動
し、その所長となった。内部指導者を育てることが自主的青年団発展の基礎であ
るとする田沢の構想で6年にスタートした青年団講習所は、友愛と創造を基調と
した、一期二カ月ほどの長期宿泊研修会であった。定員は毎回50名程度で年数
回もたれ、昭和12年まで継続した。
 湖人は家庭を離れ、沿恩館で講習生と起居を共にする生活をおくった。ここで
の活動は次郎物語の第5部にそのまま描かれており、講習所が『友愛塾』のモデ
ル。明治の背骨を持ち、しかも反戦思想を貫いた朝倉先生のモデルが湖人自身で
あった、といえよう。
 講習所における湖人の指導精神は講習生に対する次の説明に端的に表明されて
いる。
 
「この浴恩館は絶海の孤島と思ってほしい。われわれはここに漂流し偶然顔を
合せた。そこで第1に、まず愉快な共同生活をはじめる努力、第2に、心を深め
合い、お互いに相手を伸ばし仲好しになる努力、第3は、そのために最も都合の
よい組織を作り上げる努力が必要だと思う。この島は伝統もしきたりもない、指
導者も先輩もない、お互いに知恵をしぼり、努力するしかない。大切なのは自由
創造の精神である」。
 当時、軍国主義思想の高まりと共に、ある人の指導命令だけで動くように訓練
され、共同生活の訓練というと、だいたいそうだと思っていた青年たちにとって、
この訓示は意表をついたものだったが、湖人は全国から集まった青年団の中堅幹
部と畑の草取りから便所掃除まで一緒にやりながら人生を語り、青年団を説いた。
友愛と創造を基調とした自由なフンイキの中での研修は、講習生に大きな感銘を
与え、その理念はやがて戦後青年団の原点として大きく花開くことになる。


3.戦時体制下も貫いた自由主義思想


 
 その頃、日本の軍国主義の色彩が日に日に強まり、青年団内部にもその影響が
及びはじめていた。昭和11年に田沢義鋪が生涯を共にした青年団を去ると、湖
人に対する圧力は次第に露骨になっていった。12年2月の大日本連合青年団の
代議員会では「緊迫したこの時局下、自由主義尊重という生ぬるい運営方針は間
違いだ」とする講習所批判が相ついだ。湖人は香坂理事長に辞表を出した。連載
中の『次郎物語』も自由主義的だとの非難をうけて中止の止むなきに至った。
 かくして12年4月、青年団講習所は閉鎖され、湖人も追われるようにして青
年館を去った。その年の7月7日、日本は中国に侵攻し、一路第二次大戦へとす
すむことになっていく。
 
 青年館を去った下村湖人は、その後、自由な講演と文筆活動に専念することと
なった。13年に講談社から『論語物語』を出版。翌14年に『煙仲間運動』を
提唱し、雑誌『青年団』に論陣を張った。また、岩波書店発行の雑誌『教育』に
「行の教育と共同生活訓練」を発表し、教育の軍国主義化を批判した。
 一方、『次郎物語』は16年に第1部、17年に第2部を小山書店から出版し、
18年から雑誌『新風土』に第3部の連載をはじめた。第3部が出版されたのは
第2次大戦で日本が劣勢になりはじめた昭和19年であった。最初雑誌『青年』
に連載された名作は、戦前・戦後を通じて日本青年館から発行されることは一度
もなかった。
 
 青年館を去った下村湖人は壮年団に力を注ぐようになる。この壮年団運動は昭
和4年から田沢義鋪が唱えたものであった。その内容は青年団を熱心にやったも
のが少数でもいいから手をつないで地域建設に役立てようという構想で、そのモ
ットーは「郷土の魂」、「社会の良心」の二つであった。
 壮年団は既成同盟から飛躍して壮年団中央会へと発展、昭和12年には全国協
議会を開催し、各方面の注目を浴びた。常務理事は後藤隆之助。田沢、下村、後
藤文夫などが理事として活躍したが、この壮年団組織も拡大するにつれ軍部が着
目、大政翼賛運動に組み込まれ、事実上解体を見るに至った。湖人はこの後、「煙
仲間」と称する運動を起こすが、このことは他日にゆずりたい。

 昭和27年8月、下村湖人は病身をおして、日青協主催の第2回指導者講習会
に出席し、リーダーシップを説いた。当時受講生として出席していた平野重徳(現
日本青年館顧問)は「あの話を聞いて青年団の在るべき姿を知った」と語ってい
る。
 また、栃木県青年会館の『黎明塾』、防長青年館の『防長青年塾』などの指導者
養成機関も、湖人の青年団講習所をモデルに発足したものである。その意味で、
戦後の自主的、民主的青年団の底流には、田沢・下村精神が脈々とうけつがれて
いるということができる。
 戦争中は軍におもねり、戦後はもっともらしく民主主義を唱えた文化人、評論
家が多いなかで、終始一貫自己の良心に生きた下村湖人の偉大さをしみじみと思
う。(文中敬称略)
                (筆者は元日本青年館常務理事)

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