『北方部隊の朝鮮人兵士』

【書評】

『北方部隊の朝鮮人兵士 日本陸軍に動員された植民地の若者たち』

    北原道子/著  現代企画室/刊  定価2800円+税

小中 ももこ


 5月1日付の朝日新聞デジタルで以下の様な記事が掲載された。

 「第2次世界大戦後に旧ソ連に抑留されて亡くなった日本人について、厚生労働省は(4月)30日、延べ1万723人分の名簿を新たにウェブサイトで公開した。このうち延べ2130人分は今の北朝鮮や中国、樺太(現ロシア・サハリン)などで死亡した人だ。シベリア地域(モンゴル含む)以外の抑留死亡者の名簿が公表されるのは初めてとなる。厚労省は今回、ロシアなどから入手した名簿形式の資料はすべて公開したと説明する。戦後70年を迎える遺族にとって、肉親の最期の状況を知る手がかりとなる可能性があるものだ」(以下省略)

 まさに筆者20年以上にわたる研究テーマが現在進行形の問題であることを証明する数多くの事象の一例である。このニュースで語られている「日本人」とは誰を指すのか。筆者が「アジア・太平洋戦争期、兵士として日本軍の北方部隊に引っ張られた朝鮮人について調べ始め」られたのは20年近く前のこと。「札幌で参加していた市民運動で札幌の日本軍動員数を調べる作業をするという話しになった時に、なぜ日本人だけなのか、朝鮮人もいたのではないか、と意見を出したことが始まりだった」という。

 この疑問こそが朝鮮人兵士たちを無名のまま葬り去ってしまうことを決して許すまいと研究を筆者が続けてこられた原動力である。そして上記のように2015年の今もなお「日本人」と一言で犠牲者が括られてしまっていることが筆者の研究が大きな意義を持ち続けていることを証明している。

 筆者に先立ち多くの研究者たち、例えば菊池英昭氏はアジア・太平洋戦争で犠牲になった2万名以上の朝鮮人軍人軍属の名簿を一人で入力。村山常雄氏はシベリア抑留中に死亡した4万6000名のリストを入力、出版、サイトにアップするといった作業を丹念に積み上げてきたという。村山氏はシベリア抑留で犠牲になった全ての人を「『無名戦士』と虚飾して」しまうことは決して許されないとして事実を追求してきたのだろう。

 筆者は、「北方部隊の朝鮮人兵士 日本陸軍に動員された植民地の若者たち」を記すため、これらの研究者たちの研究成果を網羅するだけでなく、日本にとどまらず韓国の資料にも依り、戦時中から現在に至るまでのありとあらゆる公的資料、論文、書籍から新聞のほんの一文までも見逃さず、膨大な量の資料と向き合い、研究を続けてきた。筆者は一切主観を差し挟むことなく事実のみで語る。本に並ぶ記録はただの数字の羅列では決してなく、事実であるがゆえの迫力をもって読むものの感情を激しく揺さぶる。

 戦時中1938年の「朝鮮総督府官報」といった公的資料から1939年1月7日付『毎日新報』の記述、1944年12月11日付『北海道新聞』1942年11月12日付「東亜新聞」(『東亜新聞復刻版』戦時下在日朝鮮人新聞資料第3巻)といった新聞に掲載されたある一つの記事から厚生労働省から直近で発表された資料の数々まで徹底的に朝鮮人軍人、軍属に関わる資料を探し求めている。【註】に書かれているが、2013年5月には直接、厚生労働省にも問い合わせをしている。

 「厚生労働省で保管している主な戦没者など援護関係資料の例」中で既に国立公文書館へ移管された資料についてたずねると「朝鮮人に関する資料の扱いについては統一された方針はない、移管資料の中に朝鮮関係としてまとまっていない、という説明」があったとし、「これらの資料に朝鮮人が含まれているのかどうか不明である。歴史資料として例外なく公開されることが望ましい」と書かれている。筆者の研究意欲は時を経て劣るどころか研究を進めるほどに強烈な熱を放っていく。

 筆者はサハリンまで飛び、学徒兵経験者の呉昌禄さんに会ってお話を伺うという直接取材もしている。この証言にも膨大なデータと同様に強く心を突き動かされる。呉昌禄さんは1944年1月、22歳の時、学徒動員により関東軍に入営、その後、樺太(現サハリン)の部隊に移動、1945年8月を迎える。「祖国は解放されたものの日本のサハリン在住の朝鮮人切り捨てと東西冷戦の中で」朝鮮半島に帰ることができずサハリンにとどまり、2000年半ばになって韓国に永住帰国。しかし帰国のわずか8ヶ月後に亡くなる、という人生を歩まれた。

 ここで私自身の話しを持ち出すのはおこがましいが、大学の卒業論文で私も「志願兵制度に見る朝鮮支配政策」をテーマとした。せいぜい1年弱ほどの準備期間で何かが見えたような気になっていたことは恥ずかしい限りである。その後社会人となりタイへ旅をし、かつての泰緬鉄道の路線をたどりカンチャナブリを訪れたことがある。カンチャナブリには今も元連合軍捕虜のテント後が残されており、元捕虜の方々が描いた絵が展示されている。元捕虜たちの記録は残っているが捕虜の監視員などとして働かされていたはずの朝鮮人軍属の痕跡は見当たらなかった。

 冒頭で引用した記事にある、旧ソ連に抑留され亡くなった「日本人」名簿をウェブサイトで見てみた。五十音順でリスト化されており、名前の表記はカタカナ表記と漢字表記。漢字表記のないものも少なくなく、カタカナ表記にいたっては姓名が逆の場合もあり、ロシア語表記だからか日本語の発音とは違うものもあった。探したい名前を見つけるためには一人一人全リストを見ていく必要がありそうだ。

 この一人一人の名前の中には創氏で表記されている朝鮮人兵士もいるだろう。筆者も名簿資料を見るときには朝鮮の母(オモニ)のつらさを思いながら見たと語っている。筆者が痛みを共有しながら20年続けてきたこの地道な事実を積み重ねる作業こそが平和をつくる最も確実かつ着実な方法であるということを膨大な資料と生の証言が物語っている。

 (筆者はフジテレビジョン社員)


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