『大塩平八郎』(森鴎外)に見る明治大逆事件の影(上)

■ 研究論叢

『大塩平八郎』(森鴎外)に見る明治大逆事件の影(上) 荒木 伝

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◇(一)大塩平八郎に対する冷厳な眼


  森鴎外の歴史小説『大塩平八郎』は、近世政治史上最大の騒乱と目された「大
塩の乱」を、天保八年(1837年)二月十九日に限定した“一日の出来事”と
して森鴎外によってまとめられた作品である。一日の出来事に圧縮されているた
め、事態の進行は時系列的に追う
手法をあえてとらないで時には回想、追想の形式をとって陽明学者、与力職にあ
った大塩平八郎の行跡を丹念に記述している。そこには天保飢饉による庶民の困
窮、その窮状を打開するための救済策の役人、官僚への献策、その一方で暴利を
むさぼる特権的な豪商の存在、また幕府の言いなりのままの役人の不正、腐敗実
態の追及など、ほぼ「大塩の乱」蜂起に至るまでの大塩平八郎の心情と決断の様
子が克明に叙述されている。貧吏豪商をちゅう罰せんものと挙兵はしたものの、
難民救済の実をあげ得ないまま、志半ばにして敗退を余儀なくされ、最期は痛ま
しくも焚死するさまが描かれている。
  
『大塩平八郎』には小説とは別に『付録』がついていて、森鴎外がこの小説
を起草するに至った経緯が述べられている。「大塩の乱」に関心を抱き森鴎外が
史料を渉猟していくうちに幸田成友が明治四三(1910)年、東亜書房から上
梓した同書名の『大塩平八郎』が目にとまったという。同書は史料としても一番
確かなものと判断されたので、構想を練るのに活用させてもらったといっている
。だから「無遠慮にも」とわざわざ断り書きをつけて同書名の『大塩平八郎』を
執筆したのだという。
 
幸田成友の著作は大阪市史編纂の過程で収集した大塩関連の史料を中心に史実
をもとにした歴史書である。ところが森鴎外の著書は大塩平八郎という固有名詞
を冠した伝記風の体裁をとっているが歴史書ではなく、あくまで歴史小説である
。そこには森鴎外の想見が秘められている。   森鴎外自身、執筆にあたって
は史実に推測を加えたといっている。「推測を逞しくしたに相違ないが、余り暴
力的な切盛や、人を馬鹿にした捏造はしなかった。」(『付録』森鴎外)ともい
っている。
 
だから森鴎外の『大塩平八郎』という歴史小説を行間読み解いていく過程で、
作者の森鴎外が如何なる動機でこの著作を手懸けたのか、大塩平八郎という人物
像を鴎外解釈によるとどういう姿となって映し出されるのか、また起こってくる
事象に対する鴎外判断や価値評価はどういう結論に至るのか、そのあたりが私の
興味をそそるゆえんである。
  まず全編を通していえることは、幸田成友と森鴎外とでは執筆の動機がまった
く違うのではないか、という点である。
  幸田成友著『大塩平八郎』は東亜書房から出版された初版本の「自序」ではこ
ういっている。

 大山をめぐらすに雲霧あり。偉人を蔽うに誤伝謬説あり、雲霧を抜いて始めて
真の山容を知り、誤伝謬説を排して始て偉人の面目を窺ふに足る。  
  大阪の人大塩中斎は一代の偉人なり。(『大塩平八郎』幸田成友 東亜書房刊

  幕藩体制下で、るる伝えられてきた「大塩平八郎父子裁許書」に示された大塩
悪人乱臣像、反逆人説に対して、幸田成友は修正意図を持って、あえてこの暑を
上梓したのである。そこでは「偉人なり」という表現すら用いている。
  ところが森鴎外の大塩像は、不正を働く役人や飢餓に乗じて巨利をむさぼる奸
商への義憤から決起した事実は正当におさえながら、『付録』では「大塩の乱」
そのものについては次のように認識している。

 平八郎が暴動の原因は、簡単に言えば飢餓である。外の種々の説があっても大
抵揣摩である。
  (略)貧民の味方になって、官吏と富豪に反抗したのである。(略)平八郎は
極言すれば米屋こわしの雄である。天明に於いても天保に於いても米屋こわしは
大坂から始まった。平八郎が大阪の人であるのは決して偶然ではない。平八郎は
哲学者である。併し、その良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生まれず、恐
ろしい社会主義も出なかったのである。((『大塩平八郎』『付録』森鴎外 
岩波文庫)

 幸田成友は大塩を「偉人なり」としているのに対して、森鴎外は「米屋こわし
の雄」とみている。
  そして森鴎外は暴動の原因は飢餓であるとして、色々な諸説があるがそれは大
概推測や憶測にすぎないと断定し、暴利執心の奸商行為や官僚、役人の腐敗行政
追及に執念を燃やす大塩平八郎の政治意図の方は、いささか軽く扱われているき
らいなしとしない。幸田成友の目は温かいが森鴎外の目は冷厳である。
  幸田成友より早く、「偉人史叢」第八巻に『大塩平八郎』(国分種徳 東京裳
華堂刊 明治二九年)が出版されているが、この著書の序文を書いている三宅雪
嶺は、大塩決起をこう評している。
 
  我が邦古来忠義の士に富む、而も窮民の為に貪婪の富豪を撃たんとして掘起せ
しもの、独り指を平八郎に(かがみ)せざるべからざるなり、此の如きは空前絶
後、古住今来唯平八郎一人あるのみ、彼は自然に社会主義を得たるもの、而して
、ついに主義のために斃れたるものなり。(『大塩平八郎』国分種徳 序文 三
宅雪嶺)

 明らかに三宅雪嶺も大塩像については、温かい同情のまなざしをためている。
森鴎外は大塩平八郎の思想は『付録』の中で「未だ醒覚せざる社会主義である」
と認識しているが、大塩思想に社会主義を発見したのは、いっそう早く三宅雪嶺
であった。歴史を厳正中正に見ようとする鴎外の歴史観からすれば、こうした価
値判断に抵抗感を抱いたのではないか。また森鴎外は米騒動に都市暴動の典型を
みていたようで、彼の著書(『大塩平八郎』には必要以上に“米屋こわし“が強
調されている。

これは私の想像だが、森鴎外が同著執筆前に富山県で起こった“富山県米騒動
”が脳裏をかすめたのではなかろうか。歴史上有名なのは富山県を発端とする大正
七年の「米騒動」だが、その序曲ともいうべき“富山県米騒動”は明治四五(1
912)年六月に惹起し耳目をそばたてさせた事実がある。秩序維持はの森鴎外
には、この「米屋こわしの雄」には同調しがたい思いがあったに相違ない。また
社会主義思想についても思想探求は是認しつつも実際の政治行動には肯んじ難い
思いを抱いていたに違いない。


◇(二)「大塩の乱」と大逆事件と


大塩平八郎の哲学か幸徳事件)である。幸徳秋水ら被告の死刑執行は明治四四
年一月である。森鴎外の『大塩平八郎』は大正三年一月である。この二つをもっ
とも早く透視した文学者に中村星湖がいる。森鴎外の『大塩平八郎らは「頼もし
い社会政策も生まれず、“恐ろしい社会主義”も出なかったのである。」(“は
筆者)といったのは森鴎外である。森鴎外は晩年、国家の社会政策については関
心を深くし考究する所があったがここでは詳論を避ける。ただ社会主義について
は、「恐ろしい社会主義」という表現を用いて否定体だ。「恐ろしい社会主義」
イメージで直感連想されるのは『大塩平八郎』執筆直前に世間を震撼させた明治
大逆事件(』について、中村星湖は「作者が最近の事件を頭に置いて書いたらし
い所に、私一個の興味があった。」(『文章世界』「新年の文壇」大正三年二月
)といい、事件をめぐって起こる事態の推移のとらえ方や事件被告の心理模様に
それがうかがえると述べている。しかし具体的分析はない。

「大塩の乱」と明治大逆事件の共通項は、共に秩序騒乱の首謀者という点だ。
「大塩の乱」は既遂だが大逆事件の方は未遂である。森鴎外は大塩を「米屋こ
わしの雄」と評しているが、大逆事件の首謀者幸徳秋水をどう見ていたか。森
鴎外は慎重派だから大逆事件については日記や文書の形で痕跡を残すようなこ
とは絶対していない。しかし、福岡県で鴎外と親交のあった寺の住職、玉水俊
(こ)あて書簡(明治四三年十一月四日付)の中で、大逆事件被告に慄然たる
思いを抱いたとして、幸徳秋水を「匪徒」と表現している。森鴎外の頭脳の中
では大塩と幸徳は秩序破壊者として二重写しになってはいまいか。
 
ここで明治大逆事件を説明しておきたい。結論から先にいえば、明治天皇暗殺
を計画したという理由で、当時多数の社会主義者、無政府主義者が逮捕、処刑さ
れた事件である。これには関係のない二つの事件、すなわち宮下大吉による「爆
裂弾の試作、実験」と幸徳秋水らによる「十一月謀議」が関連ありと大審院特別
法廷で認定され、大陰謀罪に発展、非公開裁判で幸徳以下死刑二四名(翌日一二
名恩赦)、有期刑二名の判決が下された。爆裂弾の試作、実験を宮下大吉が行っ
た事実は否定できないが、天皇暗殺計画はたわいもない“図上作戦”でこれに関
与したのも宮下大吉、菅野須賀子、新村忠雄、古川力作の四名だけで他は無関係
である。さらに幸徳秋水らによる「一一月謀議」なるものは、幸徳秋水が大石誠
之助、森近運平、松尾卯一太らを前に、少々ふざけた調子の放言めいた発言が言
質にとられたのである。

幸徳はどんなことをいったか。幸徳秋水は当時、病弱気味で、少々“捨て鉢気
分”も手伝っていたのだろう、自嘲気味に大意次のように語ったことをいう。「
どうも僕の命もそう長くはなかろう。座して死を待つのは僕の心情にあわん。僕
らの社会運動に対して政府の迫害が、こう厳しいと、いっそのこと決死の覚悟を
した人間を五十人ばかり駆り集め、景気よく諸官庁を攻める、豪商、富豪の米倉
を打ちこわす、そして皇居二重橋へと一挙に迫る。どうだ、こんな計画に賛同者
を募ってくれないかねぇ」この怨言発言を行ったのは明治四一(一九〇八)年一
一月だ。宮下太吉の爆裂弾試作、実験は明治四二(一九〇九)年一一月である。
この二つの事件はまったく関係のない出来事である。それが強引にも関連ありと
認定され、共同謀議に仕組まれ、明治天皇暗殺計画に捏造されていった、まさに
“政治裁判”だった。以降、社会主義弾圧体制が強化され、運動は逼塞事態に陥
る。

この大逆事件を陰で仕組み、政治工作をしていったであろうとされているのが
、当時の元老、陸軍元帥の山県有朋であることは今日では公然の秘密となってい
る。そして作家森鴎外が歌会の常盤会や永錫会を通じて、この山県有朋と深くか
かわり、“政治ブレーン”的役割を果たしていたことも、いまでは明らかである
。誤解のないようにあらかじめ言っておくが、だからといって森鴎外が大逆事件
に山県有朋と一緒になって関与したというような事実はまったくない。むしろ森
鴎外は、このような“政治裁判”をフレームアップしたことには批判的であった
のだ。大逆事件に対する森鴎外の胸中はまことに複雑で、心の葛藤もひとしお、
幾重にも屈折していたものと想われる。
 
しかし、森鴎外は大逆事件を傍観していたのではない。大逆事件公判に姿を見
せていたという人もいるくらいだ。そして何よりも確かなことは、文学上の愛弟
子平出修(弁護士)が大逆事件被告の弁護を買って出た時には、社会主義や無政
府主義の解説を自ら行い、平出修の弁護活動に資する行動もとっていたのである
。そして裁判終結後も、平出修法律事務所から密かに大逆事件関係の裁判記録、
陳弁書、大逆事件意見書類を入手していたのだ。あの聡明な森鴎外がこれらの書
類に目を通さなかったはずがない。
  「森鴎外は二つの顔をもったヤヌスのような作家で、一筋縄ではゆかない。」
(『大逆事件・文学作家論』森山重雄)と評されるゆえんだ。獄中、幸徳秋水が
磯部、花井、今村三弁護士宛て書いた「陳弁書」の中に、めずらしく大塩平八郎
に関して陳述している箇所がある。

 天明や天保のやうな困窮の時に於て、富豪のものを収用するのは、政治的迫害
に対して暗殺者を出すが如く、殆と彼らの正当防衛で必死の勢ひです。(略)政
府の迫害や富豪の横暴其極に達し人民溝(がく)に転ずる時、之を救ふのは将来
の革命に利ありと考へます。(略)其時の事情と感情とに駆られて我れ知らず奮
起するのです。
  大塩中斎の暴動なども左様です。飢饉に乗じて富豪が買占を為す、米価は益々
騰貴する、是れ富豪が間接に多数の殺人を行って居るものです。坐視するにする
に忍びないことです。此乱の為めに徳川氏の威厳は余程傷つけられ革命の気運は
速められたことは史家の論ずる所なれど、大塩はそこまで考へて居たか否やは分
りません(略)」(『幸徳秋水全集』第六巻 全集編集委員)

 この文章をきっと森鴎外は読んでいたはずである。『大塩平八郎』執筆過程で
、この幸徳秋水の大塩観が揺曳したと私は見る。


◇三 大逆事件の影(その一)


  さきにもふれたように森鴎外の『大塩平八郎』は歴史書や史伝ではない。それ
は歴史小説の形をとっている。だから作者の想見、形象が自在に入ってきてもい
っこうに差し支えないわけである。そこにまた作者なりの想念が潜んでいるのだ
。森鴎外が歴史小説に手を染めかけたのは明治末年頃からだ。歴史小説を書くに
あたって森鴎外は「歴史其儘と歴史離れ」という短いエッセイを書いていて、史
実と想念との間に横たわる垣根の深さに悩んでいるさまがよく出ている。
  私は森鴎外の『大塩平八郎』の中に幾つか大逆事件の影を見るわけだが、それ
はあくまで影であって姿そのものでないことを、あらかじめ断っておきたい。 
その一つは、大塩決起の当日、蜂起に異を唱え、大塩平八郎に諫言は大塩の容れ
る所とはならず、結果的に大井正一郎の手によって宇津木は惨殺されてしまう。
これは事実である。
 
宇津木は大塩の高弟であった。その宇津木矩之允が、自分が九州から連れてき
た孫弟子の岡田良之進という青年に、大塩決起の意味を語って聴かせるところが
ある。そこの描写を森鴎外は次のように叙している。

 「(決起挙兵を弟子たちに告知する大塩の言を聴き入った宇津木が岡田に語っ
ているのだが)先生はざっとこんな事を説かれた。我々は平生良知の学を攻めて
ゐる。あれは根本の教だ。然るに今や天下の形勢は枝葉を病んでゐる。民の疲弊
は極まってゐる。草妨(がい)あらば理亦宜しく去るべしである。天下のために
残賊を除かんではならぬと言ふのだ。そこで其残賊だがな。」 「はあ」と言っ
て、岡田は目をふせった。
「先づ町奉行衆位のところらしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損な
ってをったのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこま
で考へてをられぬらしい。」(『大塩平八郎』森鴎外 傍点引用者)

 こう宇津木に言わせているところは森鴎外の創作だ。町奉行所程度を襲撃して
、いったいどんな効果が得られるというのか、と自問しながら「我々は実に先生
を見損なってをったのだ」とまで言い切らせている。本来、改革を迫るべきは幕
府や朝廷であろうに、先生である大塩平八郎はそこまで考えていないらしい、と
宇津木に言わせている。先に引用した幸徳秋水の大塩観では「大塩はそこまで考
へていたか否やは分りません」となっている。
 
つまり、この宇津木発言は森鴎外自身の「大塩の乱」評価にかかわる重要な発
言なわけである。宇津木発言に仮託しているのが森鴎外自らの、大塩事件評価が
そこに出ているのだ。森鴎外は大塩決起を計画性のない、無謀な無目的一揆行動
と見ている。そして、そこに秩序破壊者で「恐ろしい社会主義」者の、明治天皇
暗殺計画を企てたとされる大逆事件被告たちの思想と行動をダブらせていたので
はないだろうか。森鴎外はこの宇津木発言によって「大塩の乱」を冷ややかに断
罪しているものと私は見る。
 
宇津木矩之允の大塩平八郎に対する諫言は実際、どんな内容のものだったのか
。二人の文学研究者の証言から引用させてもらいたい。
  平八郎を諫止する宇津木敬治(一名矩之助)は、天下が飢饉に見舞われたのは
失政を天が罰したわけでなく、気候のめぐり合わせが悪かっただけと言う。幕府
の恩禄を受けている先生が家名を汚し、無辜の妻子を犠牲にする企ては成功する
はずはないとも言う。そして「士道を守りて潔く自殺」するならば、家名も守れ
るはずだと言い切る。平八郎は今さら後に引けないと宇津木を斬ることを命じる
。(『森鴎外 歴史文学研究』山崎一頴)

 宇津木は大塩に対して、救民は官自らやるべきである。そのため富豪を誅殺し
たら、かえって民を災し、乱民となるといっているのだ。「萬物一体の仁」とい
う陽明学の立場からは、宇津木の言うことは正しい。(略)「萬物一体の仁」に
おいて両者は一致していたが、しかも大塩は宇津木を殺さざるを得なかった。」
(『大逆事件・文学作家論』森山重雄)

 これら宇津木の発言からは「我々は実に先生を見損なってをったのだ」と言う
ような軽侮を込めた発言はその片鱗さえうかがえない。ただここに来て、いささ
か気になる発言を森鴎外がしていることも記憶にとどめておく必要がある。『付
録』の中でこんな事を言っている。

 松岡寿君は平八郎の塾にゐいた宇津木矩之允と岡田良之進とのことに就いて、
在来の記録にない事実を聞かせてくれ、又三上参次君、松本亦太郎君は多少纏ま
った評価を聞かせてくれた(『大塩平八郎・付録』森鴎外)

 森鴎外が宇津木をして語らせている大塩批判発言に、何か根拠のある資料でも
鴎外が手に入れていたのだろうか。詮索する手段がない。 大塩平八郎は『檄文
』の中では、このたびの蜂起が天下、国家を簒奪する意図から起こしたものでな
いことを強調している。そのかぎりでは倒幕意識など幸徳秋水が言うようにまっ
たくなかったといってよい。しかし、それならば森鴎外の大塩把握のように、激
情的、かつ無謀な一揆的行動にしかすぎなかったといえるかどうか。
 
大塩に国家意識がどの程度まで射程距離に入っていたかは思量する事はできな
いが、宇津木発言のように「先生の眼中には将軍家もなければ朝廷もない」と言
い切れるかどうか。大塩は蜂起にいたるまで奉行所に何回も献策、進言を行って
いる。富豪に対する窮民救済も訴えている。万巻の蔵書も処分して困民救貧の挙
に自らも出ている。しかし万策尽きて、やむにやまれず決起したのだ。 しかも
最近、大塩研究者の手によって発見された『建議書』によれば、『毎日新聞』は
次のように報じている。 

 厚い和とじ本サイズの建議書には、無尽の不正が克明に記述されていた。今の
閣僚に当たる老中六人のうち大久保加賀守忠真ら四人が関与、さらに寺社奉行・
勘定奉行・若年寄・京都所司代、そして大阪町奉行所まで、まさに幕府組織ぐる
みの構図だ。(略)建議書のあて名は関与していた当の大久保と無関与の脇坂の
二老中だが、文部大臣職の大学頭(かみ)・林述斎に仲介の労を依頼している。
(また記念講演した青木美智男教授の言として)事件前年、将軍・家斉は家慶へ
の代替わり祝賀のため、兵庫から米三万石余を直接江戸へ回送させた。大阪へ送
る慣例を破る処置で、大阪町奉行が作業に加担したこともOB大塩を怒らせた。
多くの餓死者は天災ではなく人災で生じた-。(『毎日新聞』夕刊 一九九三年
四月二八日 傍点引用者)

 大塩平八郎は幕府の構造汚職に憤り、それを摘発、追及していたわけだ。討幕
ではもとよりないが、幕府批判と糾明の矢は決起前に放っていたのである。森鴎
外の「平八郎が暴動の原因は簡単に言へば飢饉である」と自然災害に帰し、幕府
批判など大塩の眼中になかったとする森鴎外の大塩観には、いささか私は抵抗を
感じる。しかし森鴎外にその責めを帰するわけにはゆかない。『建議書』が日の
目を見たのはずっと後のことだったのだから-。森鴎外には大塩決起が単なる秩
序崩壊の一揆的暴動に映った背景には、またしても大逆事件の影がちらついてい
たからではないかと私には思われる。


◇四 大逆事件の影(その二)


  宇津木矩之允を斬ったあと、森鴎外の『大塩平八郎』によれば、いよいよ出立
、決起の瞬間を迎えることになる。
  その直前で、大塩平八郎は書斎で沈思黙考している場面がある。来し方、行く
末を案じるのである。これも森鴎外の創作だ。
  これまで飢饉で困窮にあえず貧民救済のため、種々の方策を考えたがそれには
三つしかない。一つは人世必然と、この事態を傍観すること、二つは奉行、役人
や富豪に進んで救済策を講じさせること、三つはそれが不可能ならば、諸役人を
誅し富豪を脅かし、資材を散じさせる以外にない。諸役人や富豪がやすやす従う
わけがない。そこで平八郎は誅伐として己の行動を正当化して納得させようと思
考し続ける場面がある。過去を振り返れば、耶蘇教徒を逮捕したり、奸官を糾弾
したり、破戒僧を検挙したり数々の行跡をあげてきたことにも満足感を覚えてい
る風である。そして己の行動には、いささかの疑いも挟まなかったという。次々
と走馬灯のように浮かんでくるのだ。ところが、今回の行動はちょっと違う、と
いうのである。森鴎外は大塩の心中の思いをこう描いている。

 今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先づ恣に動いて、外
界の事柄がそれに付随して来た。今度のことになってからは、己は準備をしてゐ
る間、何時でも用に立てられる左券を握ってゐるやうに思って、それを慰藉にし
た丈で、動もすれば其準備を永く準備の儘で置きたいやうな気がした。けふまで
に事柄の渉って来たのは、事柄其物が自然に渉って来たのだと言っても好い。己
が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉して走ったのだと言っても好
い。一体此終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。(『大塩平八
郎』森鴎外 傍点引用者)

 決起寸前に過去を省みて想念に耽る筋立て自身、ちょっと異常であるが、そこ
は作者である森鴎外の心に浮かんでいる形象で、虚構といって差し支えなかろう

  ここにも大逆事件の影が見られる。ここで森鴎外が言いたいのは、それまでの
大塩の行動は大塩自身の確たる信念と主体意識が先行して構築
されてきたものだが、今回の蜂起挙行は準備はしたものの「事柄其物が自然に渉
って来たのだと言っても好い。己が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己
を拉して走ったと言っても好い」(前掲)ような心理状況を描いているのである
。ここで「陰謀」という表現にも注目しておきたい。無謀ともいえる決起計画は
、知らず知らずの間に膨れ上がり、自然になすがままに任せてきた結果が今日の
事態を招いてしまったと言いたいのだろう。これから、この行動がどういう展開
のしかたをして行くのが、自分でも判断がつかず、不安と動揺が大塩の心の中に
広がっていくさまを描いている。ここでも大塩平八郎の行動を無目的な「陰謀」
と捉える所に森鴎外の判断がある。 しかし、つぶさに大塩行動の軌跡をたどれ
ば、そうはいえないだろう。大塩平八郎の決起は、前年から丹念に積み重ねられ
てきた行動計画の上に挙行されたものである。
 
大塩が武装蜂起を決意したのは、いつごろか定かでないが天保七(一八三六)
年九月には、門弟を通じて砲術の演習を指示し、ひそかに火薬や鉄砲、木砲類を
準備させている。飢饉深化で米価騰貴、餓死者が多数続出しているのをしり目に
幕府は大阪町奉行に大阪、兵庫の江戸への米穀回送を命ずる。幕府は将軍家慶就
任の大礼を優先し、街中にむらがる困窮の惨状をかえりみない。大阪町奉行の権
限を一手に掌握していた跡部山城守に対してこの年一二月には息子、大塩格之助
を通じて官倉を開くように進言、その献策三回に及ぶも無視される。さらにまた
、門弟有志の俸禄を担保に豪商から私財を提供させる案も大阪町奉行跡部山城守
の圧力で閉ざされてしまう。万策尽きたと悟った大塩平八郎は、この年一二月頃
から「檄文」を起筆し始めたという。「檄文」にある「最早堪忍難成」の心境で
決起を決断し、門弟たちに行動参加の血書までさせているのである。森鴎外には
大塩決起が成り行きまかせの「陰謀」に映ったかも知れないが、事実はこのよう
に違う。
 
成り行きまかせのまま、あれよあれよと見る間に大事件に発展し、明治天皇暗
殺計画にまで「陰謀」が展開、捏造されていったのは大逆事件の方である。大塩
の方は、実は計画的で、大逆事件の方こそ偶然の所産ではなかったのか。秩序反
逆の共通因子を両事件に発見した森鴎外は「陰謀」をひと括りにして、大塩の行
動に大逆事件の被告の行動心理を投影させていたのではなかろうか。(続く)

  (筆者は日本社会文学会理事・大阪経法大学アジア研究所客員研究員)

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