『大塩平八郎』(森鴎外)に見る明治大逆事件の影(下)

■研究論叢

『大塩平八郎』(森鴎外)に見る明治大逆事件の影(下) 

                              荒木  伝


◇五 大逆事件の影(その三)


 やがて三〇〇人にまで膨れ上がった大塩軍団は淀川を渡るべく天神橋まで南下
し、豪商屋敷のひしめく市街地船場突撃を試みるも、それより早く危急をさとっ
た大阪東西町奉行陣によって天神橋の橋梁は破壊され尽くされてしまっている。
  やむなくその西側の難波橋を渡橋して市内襲撃に大塩軍団は掛かる。いよいよ
攻撃は騒乱の様相を帯びてくる。ここまでは、森鴎外の『大塩平八郎』は史実の
通り、進行してきた状況を描写している。ところが騒擾の真っ只中にあって、領
袖たる大塩平八郎の所作を森鴎外は次のように描写している。

 平八郎は難波橋の南詰に床几を立てさせて、白井、橋本、其外若党中間を傍ら
にをらせ、腰に付けて出た握り飯を噛みながら、砲撃の轟き渡り、火焔の燃え上
がるのをみてゐた。

 そして心の内に自分が兼て排斥した枯寂の空を感じてゐた。

昼八つ時に平八郎は引上の太鼓を打たせた。それを聞いてより寄り集まったのは
やうやう百五十人許りであった。その重立った人々の顔には、言ひ合せた様な失
望の色がある。(『大潮平八郎』森鴎外 傍点引用者)

 なんと、市中騒乱激戦の真っ最中にあって、大塩平八郎は早くも敗色を予感し
、「枯寂の空」を感じたと森鴎外は書いている。半減した大塩軍団の面々にも失
望感が広がる。
  これも森鴎外の創作だ。
  果たして乱戦のさなかに、「枯寂の空」など感じるだろうか。言ってみれば今
回の大塩決起は、かねてからの覚悟の上の蜂起で"確信犯"的な行為と解するのが
至当であろう。
  これまでも、この「枯寂の空」をめぐって文学研究者の間にさまざまな議論が
交わされている。「枯寂の空」は仏教用語で、古くは中国思想に淵源すると説く
研究者もいる。また「枯寂」は「虚寂」
(こじゃく、きょじゃく)が正しく「空虚にして静寂な心の動き」とする人もい
る。さらに「枯寂」はサンスクリット語の漢訳で「空寂」(くうじゃく)と同義
であるとして「分別、執着、煩悩を除去した静かな心の境地、それは悟りに通じ
る」という学者もいる。

 そんな言葉の詮索はともかく、私は素直に「うつろな寂寞感」とかいしゃくし
ておきたい。また鴎外もそんな意味に使っている。
  個々にも私は大逆事件の影を見る。
大塩平八郎の心中に生じた「枯寂の空」は重要で、森鴎外が『大塩平八郎』を書
く動機にもなったライトモチーフの一つくらいに私は思っている。
  森鴎外は「大塩の乱」をそれまでの主体的な大塩行動と異なって、事態の流れ
るまま「陰謀」が人間大塩を拉致したとみているのである。そこでは大塩平八郎
の信念や主体意識はうつろになっている。大塩はなにか自分自身では律し切れな
い、天が命じる運命的な感覚に自分が支配されて行くのを無意識のうちに感じて
いる情況がそこにはある。極論すれば運命に翻弄される大塩平八郎の姿が---。
  「枯寂の空」はそんな大塩平八郎の心に宿った空虚感であって一連のものだ。
  この「枯寂の空」に森鴎外は二つの意味を込めている。

 その一つは、「大塩の乱」は飢饉が原因で惹起した事件であるが、それまでの
大塩平八郎のビヘイビアにはみられない、なにか無意識的な衝動に突き動かされ
た無謀な観念に支配されている大塩を強く印象づけようとする意図が垣間見える
。無目的一揆的な秩序破壊者の行動は絶対容認し難い、結局は空しい失敗に終わ
るしかないという、作者森鴎外の強い意志を読みとることができる。つまり「大
塩の乱」を否定的にみているわけだ。

 その二つは、大塩平八郎の心象風景を事件の被告達の胸中に仮託して描いてい
ることである。大逆事件の幸徳秋水と大石誠之助は共に文筆家であり、当時の文
化人である。獄中、数々の文章や書簡、所感エッセイ類を残している。この二人
は大塩の「陰謀が己を拉して走った」と同様、獄中重罪犯人に仕立て上げられた
自分の境遇を天から授かった運命と諦めている風が見える。意外と、さばさばし
た心境は読む者をして驚かされるくらいである。事件に巻き込まれたことに対し
て幸徳秋水は、莫逆の友堺利彦に宛てた書簡の中でこう言っている。そして漢詩
を詠んでいる。

 考へれば考へるほど宿命論の信者になる。遺伝の因と境遇の縁とが作り出す運
命てふ大波には意志の自由も力もあったものではない。但一片の木葉の漂ふと似
て相似たりだ。(友人が死去したことに感慨を催しながら)僕は此のザマだ。人
さまざまの成行く末の測られぬのも面白いではないか。

 昨非皆在我 (昨非みな我にあり
  何怨楚因身 なんぞうらまん楚因の身
  才抽惟任命 才つたなくただ命にまかす
  途窮末祷神 途に窮して未だ神に祈らず
  死生長夜夢 死生は長夜の夢
  栄辱太虚塵 栄辱は太虚の塵
  一笑幽窓底 幽窓の底に一笑す
  乾坤入眠新 乾坤眼に入りて新たなる)
  (『幸徳秋水の日記と書簡』塩田庄兵衛編)

 この漢詩は、幸徳秋水に死刑判決が下された二日後に「獄中愚作」と銘打って
、やはり堺利彦宛に墨痕鮮やかに揮毫したものである。獄中、死を覚悟したもの
がいえる澄み切った心境で、たんたんと綴ってたさまがにじみでている。
  『自由新聞』記者時代の同僚で秋水の親友であった小泉策太郎宛の書簡の中で
も幸徳秋水は「(小泉が秋水に著作活動に専念するように忠告してくれたことに
感謝しつつ)併し、今春君の忠告に従って、一切の世事を抛ち著述の生涯に入ら
うと決心した時は今思へばモウ既に遅かった。冷酷な運命の極印は疾く面上に捺
されて居たのだ。(略)残念だが是も成行で仕方がない。」(小泉策太郎宛 明
治四三年一一月一五日)と、諦念を込めた運命観を開陳している。
  事実を検察陣によって捏造されてゆくのに抗議、抵抗するよりも諦念の方が先
行しているのは、ちょっと現代人からは理解し難い。
  同じよう被告の諦念と運命感は、大石誠之助のエッセイ「獄中断片」にもみら
れる。これは森鴎外も目を通しているはずだ。

 (略)軍医総監として文芸の人なる森鴎外が(の)「あそび」主義にも同情を
寄せる事が出来る。彼等は人生の海へ飛び込んでその中を泳ぐと言ふのではなく
無難な範囲に於て出来るだけ海に近より、而かも尚ほ現在生活の陸地に安住しよ
うと言ふのだ。(略)
(しかし)若し非常な大波が逆捲いて来たならば、彼等も進んで海を泳ぐの人と
ならねばなるまい。」(『大石誠之助全集』第一巻森長英三郎 仲原清編 弘隆
社刊)

 この皮肉めいた大石の文章を読んだであろう森鴎外は、きっと苦笑を禁じえな
かったに違いない。鴎外の小説『あそび』にもあらわれている"二股人生"的な傍
観主義を諷したものだ。続けて大石誠之助は次のように言う。

 人間の立場などといふものは、或点までは自らきめて置いても。時と場合によ
っては、意外の出来事に逢って意外の辺に さらはれてしまふものだ。(略)自
分は何事に対しても執着心が薄くて、強烈な積極的努力を為し得ない。自らこん
な事ではだめだと思ってみても、いつかしらん、寂しいあきらめと言ふような気
持に落ちてしまふ。(略)自分が今の心持はどうかと問はれたら「寂しき悟り」
、此一言を以て答うる外ない。(前掲)

 そして死刑宣告判決(一月一八日)の朝、作ったという短歌にこんなのがある

 運命の手にとらはれし
   われながら尚ほも生きんと悶えつつあり

 わがむくろ煙となりて
   はてしなきかの大空に通ひゆくかも

 激戦のさなか、放心状態に等しい虚無的な大塩平八郎の煩悩に浮かんだ「枯寂
の空」には、森鴎外はさまざまな想見を込めて描いたに違いない。
  また、大塩決起が敗色を濃くする中、大塩平八郎は同志たちにめいめいが自由
行動をとるよう自己決裁を迫る場面がある。そして大塩自身は少人数になった門
弟たちと小舟で脱出を図ろうとしている瞬間、門弟たちを前に大塩が謝罪の弁を
述べる情景がある。

 (蜂起がシュッパイに帰したことに対して大塩は)主謀たる自分は天をも怨ま
ず、人をも尤めない。只気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方であ
る。自分はお前方に謝罪する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒として、袂を分
って陸に上り、おのおの潔く処決して貰ひたい。(『大塩平八郎』森鴎外)

 このように謝罪していたかもしれない。しかし、ちょっと考えると、これも不
自然だ。「大塩の乱」は着々と計画されてきた覚悟の上の行動である。しかも門
弟たちは血書たちまでしている。いってもれば"確信犯"的な行動だったわけだ。
  死刑宣告判決の翌日、堺利彦に宛てた手紙で幸徳秋水はこう書いている。

 (死刑宣告を受けて)僕も重荷を卸した様だ。今日は気持も心ものびやかに骨
休めしてゐる。(略)一切人の世の面倒な義務も責任も是で解除となる訳だ。但
だ覚悟のなかった多数の被告、殊に幼い子供のある人や、世間を知らない青年な
どは如何にも気の毒でならないが、然しどうすることも出来ぬ。難破船に乗り合
わせたとでも思って観念して貰ふ外ない君等も出来るだけ慰めてやってくれ。一
塵一毫の生滅も全く無意義ではあるまい。
(略)(『幸徳秋水の日記と書簡』塩田庄兵衛編)

 この書簡は森鴎外はみていないだろう。しかし、大塩に謝罪させている森鴎外
の心の形象には、まだしても大逆事件の被告たちの影が私にはちらつくのである


◇ 六 森鴎外と大逆事件


 日記や文章には残してないが森鴎外は、大逆事件には重大な関心を寄せていた
のは間違いない。『大塩平八郎』を書くに当たっても執筆動機の一つになってい
ただろうと私は推測する。森鴎外は慎重で用心深い人だ。大逆事件に対して是非
の評価を与えるには、軍医総監という、あまりにも政府高官筋と至近距離にいる
立場上、自己規制せざるを得なかったこともある。しかし森鴎外は、ただ黙って
みていたわけではない。
  大逆事件に対して森鴎外は非常に複雑な動きをしている。「大逆事件と作家た
ち」という小文の中で小田切秀雄は次のように言っている。

 それにしても、背後で推進に暗躍したといわれている"元勳"の一人の山県有朋
に自ら進んで近づいていた森鴎外が、同時に、被告の弁護を引き受けていた平出
修弁護士に、ひそかに社会主義をレクチャーし(鴎外の日記にもこのことは記さ
れていない)、また『沈黙の塔』や歴史小説『大塩平八郎』等の作品で、弾圧さ
れるがわに近い思考を示している、というような奇怪なこと(これが鴎外なのだ
)が明らかになってきてもいる。
  言論の自由は守りたい、ということではあったろうが。(『日本文学の百年』
小田切秀雄)

 また森鴎外の研究者としても著名な吉野俊彦(日本銀行理事)は、大逆事件に
際し、森鴎外のとった行動について、このように言及している。

 さればこそ明治四十三年、大逆事件に際して、裁判する側も、無政府主義・社
会主義・共産主義の区別すら明らかでなかった時、鴎外が『沈黙の塔』や『食堂
』を相次いで公表し、サンシモン、マルクス、バクーニン、クロポトキン、スチ
ルネル(沈黙の塔)、プルードン、タッカー(食堂)にふれ、それぞれの評価を
行ったのは、このいわば延長線上にあるものであり、また大正三年五月「我等」
に載せられた『水のあなたより』で、マルクス-エンゲルスの往復書簡が公刊さ
れたのを、日本に最初に伝えたのも不思議でない。(『鴎外百話』吉野俊彦)

 天皇に社会主義の取り締まりを上奏し、西園寺内閣引責辞任に追い込んだのは
山県有朋である。大逆事件公判中に、天皇に「社会破壊主義論」なる意見書を提
出したのは山県有朋であり、桂太郎首相に「社会主義に対する愚見」を提出し、
思想取り締まりの強化を訴えたのは"山県閥"の平田東助内相である。この二人と
歌会、常磐会で親友の賀古鶴所と常に席を同じくしていたのが、ほかならぬ森鴎
外である。該博の文豪森鴎外は、無政府主義、社会主義に関する知識は当時の文
人にめずらしく豊富であっただろう。しかし森鴎外はその思想には同調しなかっ
た。政治権力側の頂点に位置する山県有朋に対しても、また反体制知識人の弁護
を買って出た平出修にも、知識の提供はしただろうけれど社会主義思想には否定
的だ。『大塩平八郎』で「恐ろしい社会主義」という表現をつかうほどである。
 
また、山県有朋と森鴎外の関係は並みのものでない。山県有朋が死ぬまで、ず
っと常磐会の面倒を森鴎外はみていた。山県有朋のさまざまな政治判断に森鴎外
が何等かの形で寄与していたとしても、けっして不思議でない。森鴎外は常磐会
で山県有朋と席を同じくしながら、リベラルな西園寺公望の雨声会にも顔を出し
ているのである。森鴎外らしいところだ。
  大逆事件に森鴎外はもっと深くかかわっていると推理する文学研究者がいる。
  『国家という難題』(武藤功 田畑書店)という著書の中で、武藤功は山県有
朋の私的諮問機関的な永錫会の存在にふれている。常磐会は歌会をたてまえとし
ているが、永錫会は社会主義思想取り締まりのための非行然な対策会議的性質を
帯びていたというのである。そのメンバーを見れば驚きである。山県有朋を始め
、平田東助内相、小松原英太郎文相、安広伴一郎法制局長官、穂積八束東大教授
、井上通泰、賀古鶴所、森鴎外らである。大逆事件の公判審理模様は、刻々と永
錫会に伝えられている。
 
死刑判決被告の出るのを予測して「天皇の温情的特赦措置」が山県有朋らによ
ってひそかに企てられたのは、判決の出る前年暮れ頃と推測している。森鴎外の
本心はといえば死刑には反対であったろう。思想、言論、表現の自由の抑圧につ
いては森鴎外は、かたくななまで抵抗する姿勢をみせていた。だから死刑被告の
「恩赦」には森鴎外は深くかかわっていたに違いないと武藤功は推測している。
森鴎外の胸中はまことに複雑だったに違いない。だから急いで『沈黙の塔』や『
食堂』を書いたのである。大逆事件それ自身を作品の題材に選ぶ愚行は森鴎外は
絶対しない。
  そんな場合でも寓話、暗喩の形式をとるのである。『沈黙の塔』はインドの西
岸マラバア・ヒルにあるパアシイ族の出来事と、架空の話になっている。この作
品で森鴎外はこういう文章を連ねている。

 芸術の認める価値は因襲を破る処にある。因襲の圏内にうろついてゐる作は凡
作である。因襲の目で見れば、あらゆる芸術が危険に見える。

 学問も因襲を破って進んで行く、一国の一時代の風尚に肘を掣せられてゐては
、学問は死ぬ。

  芸術も学問も、パアシイ族の因襲の目からは、危険に見える筈である。なぜ
といふに、どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず
反動者の群がゐて 隙を窺ってゐる。そして或る機会に起って迫害を加へる。只
口実丈が国により時代によって変る。危険なる要所も其口実に過ぎないのであっ
た。(『沈黙の塔』森鴎外)

 大逆事件の公判審理を目の当たりにしながら、自分の置かれている立場を省み
つつ、がまんの一線が切れて森鴎外はこれらの作品にとりかかったに違いない。
大胆に推理すれば森鴎外は大逆事件の捏造過程とからくりを察知していたのでは
ないか。しかし立場上、批判めいたことは言えない。そこで裁判終結後、森鴎外
は、平出修の弁護要旨をまとめた『意見書』を当時の文部次官であった福原鐐二
郎に、わざわざ送りつけたのだろう。そこには大逆事件の公判過程が鋭くあばか
れ、司法権の権威失墜が指弾されている。また大審院判事ともあろうものが真実
を直視できぬ失態を克明に記されていたのである。
                              (終)

  (筆者は日本社会文学会理事・大阪経法大学アジア研究所客員研究員)

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