【書評】

『忘却のしかた、記憶のしかた』 ジョン・W.ダワー/著 外岡秀俊/訳

岩波書店、2013年刊  定価3000円(税抜)

                       白井 聡

 本書は、名著の誉れ高い『敗北を抱きしめて』の著者、ダワーによる論文集である。ダワーについては、いまさら詳細な紹介は必要あるまいと思うが、1938年生まれで現在MIT名誉教授の日本史研究者である。米国における随一の近現代日本史家であるとみなして差支えないと思われる。

 本書は全部で11章から成るが、それぞれは折に触れて書かれた歴史評論文であり、テーマはさまざまである。評者が特に強く興味をひかれた章の内容を簡単に見ておこう。
 
 第一章は、ダワーにとって先輩の日本研究者であったE.H.ノーマンに関する評論である。ノーマンは、社会主義者の立場から、近代化論の構図によって日本近代史を解釈しようとする主流派の史学に挑戦した。近代化論は、西洋近代を絶対視する観点から、日本を含む非西洋の他者を「時に道を過つこともあるが唯一の原理(=近代化)に基づいて進歩しようとしている社会」と見なす、根本的に西洋中心主義的な歴史観であった。

 ノーマンの歴史学は、これに対して民衆の立場から歴史の多様性を救い出そうとするものであった。しかし、マッカーシズムの余波を食らうかたちでノーマンは非業の死を遂げる。47歳の若さであった。ダワーのノーマン論は、ノーマンの広大な学識を伝え、また彼の業績が米国の日本研究においてどう扱われてきたのかを伝えている。その過程はまさに政治的なものであり、戦後の米国が日本を「どう見たいのか」という欲望によって深く影響されていることがわかる。左様に歴史学とは、政治的な存在なのである。ダワーのノーマンに対する深い敬意は、行間から明確に読み取れる。ダワーもまた、ノーマンがそうだったように、歴史において埋もれてしまった民衆の潜勢力を救い出そうとする歴史家なのである。二人の偉大な歴史家の情熱が共振し、読者を奮い立たせる章である。

 次いで、「日本の美しい近代戦」と題された第三章は、意外なテーマによって読者をひきつける。本章は、ニューヨーク州にある大学で2005年に催された、戦時下のプロパガンダを含んだ衣装をテーマとする展覧会のカタログに寄せられた文章である。それは、戦争賛美と結合したモダニズムのイメージが、衣服のような日常生活品に至るまでどのように浸透していたのかを豊富な図版とともに示している。ダワーいわく、日本の場合、その際だった点は「優雅さ」であった。確固たる反戦主義者であっても、それを認めないわけにはいかないであろう。それを認めなければ、「人間にとって戦争とは何か」という難問に正面から立ち向かうことはできない、とダワーは言外に言っているように思われる。

 第四章や第八章は、いまもまた再燃している歴史認識問題とそれに深いかかわりを持つ戦後の日米関係について論じたものであり、直接的に政治的な含意を持つ論文である。感心させられるのは、ダワーの戦後日本観が辛辣で手厳しいものであると同時に、決してバランスを欠いたものでない、というところである。膨大な言説を渉猟し消化しながら、大局的な見取り図を描き、批判を加える。だがその鋭い批判は、米国を筆頭とする日本を取り巻く利害関係のある諸国にも公平に向けられており、決して断罪となってはいない。

 ダワーの記述を読んであらためて実感させられるのは、日本の歴史修正主義がかなりの程度「日米合作」であるという事実である。某総理大臣のキャッチフレーズ、「日本を取り戻す」の中身は、その言動から察するに、どうやら「修正主義的歴史認識を堂々と表明する」ということらしく、それによって「われわれの本当の歴史」が「取り戻される」らしい。だが、精査してみるならば、そこで「取り戻される」ものとは、要するに、冷戦下のアメリカの事情・国策によって可能になった「われわれの本当の歴史」にほかならないのである。自国の歴史までアメリカに与えてもらわなければ「誇り」を持てない、と彼らは言う。もちろん彼らに本当の意味での誇りが授けられる日は永遠に来ない。

 (評者は文化学園大学助教・社会思想・政治学専攻)


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