■歴史資料;

□『憲法を愛していますか』  金森徳次郎

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 九年の昔「新憲法」の名のもとに新しい日本の秩序が出来あがったとき、誰も彼もが憲法に深い関心をもった。議会では貴衆両院を通じて反対者は共産党の諸君や特殊な考え方の人を合わせてたしか十人以下であった。まずは全一致の賛成に近いものであった。津浦々で喜びの声をあげた。

 家を焼かれて世田谷に住んでいたときのことだが、破れ硝子の表 戸をがらりと開き、朝早く見知らぬご老人が入り口に立たれる。出 て見ると初めから興奮された涙声で、この憲法の出来た喜びを述べ ビール一本、するめ一枚を差し出し、ただ、引揚者の一人であると 述べただけで、名をも名乗らずサッとばかりに帰られた。私は生ま れてから初めての興奮をした。時節柄一枚のするめも容易に手に入 らぬときのことだ。一本のビールを一家八人で分ち飲んだ。これは まさに昭和二十一年十一月三日憲法公布の日のことである。

 憲法公布の文書には総理大臣以下十五人の国務大臣が副署してい る。この十五人は憲法については各人おのおのの見解があったであ ろう。それを少し聞きただして置きたかったと思っている。その中 でも田中耕太郎氏には今でも時々断片的ながら憲法に対する感慨を 聞く機会がある。「末梢的なことは別として憲法の精神を尊重する ことが、今後の国民精神のあり方でなければならぬ」という風のこ とを昨年末に聞いた。他の人が言えば形式的なおざなりと感じるか も知れぬが、田中氏の言となると、それは深い印象を受けるのであ る。

 憲法議会の当時田中氏が文教関係について答弁するとき、後ろか ら見ているとさすがに頭の毛のうすい所もあり、それに職務多忙で 時間の不足もあったせいか、毛髪用の油が強くにじみ出していたこ とをふと思い出してなつかしく思う。

 当時の農林大臣和田博雄氏についても思い出がある。この年少気 鋭、論ずればすなわち核心に触れんとする青年大臣には内心畏敬の 念をかくし持っていたが、ある時、憲法の行くすえがどうなるかを 雑談した。私はこの憲法は将来末広がりに大きな展開を国民にもた らすものであろうと確信していた。和田氏も強い言葉で同感を述べ た。当時和田氏は枯芝の庭で鶴と相前後しているような自作句を話 して居られたが、腹の中ではこの憲法が時人の推測よりも遥かに大 きな変化を促すものと思っておられたらしい。

 十年近い歳月は憲法にはげしい批難をふりかけるようになった。 言葉だけを聞くと、憲法は外国の圧迫によるもので、日本的でない もので、現代に適合しないものであるという風によい噂はあまり聞 かず悪い噂のみが耳に強くひびく。軽佻浮薄などという評はしたく ないが、憲法の産婆たる私は世に訴える所なき愛らしい吾子のため にいささか心境を語りたいのである。

 たまたま東京都の都政十年史を貰った。その序文に曰く「赤ん坊 の話のように日本語としては舌たらずの翻訳憲法」とある。一寸興 奮して分相応の舌がありますよと言って見たくもなった。 金森徳次郎著『憲法うらおもて』学陽書房 昭和37年6月16日刊 非売品  著者没後満3年の命日に夫人金森佐喜が親しい人に配ったもの。 ※金森徳次郎 略歴 1884年(明治19年)名古屋市生まれ。

 東京帝国大学法学部卒。大蔵省入省後、法制局に移り、34年岡田 内閣のもとで法制局長官になったが天皇機関説的憲法観が右翼議員 に攻撃され、35年辞任、退官した。

 戦時中は晴耕雨読の日々を送った。戦後、第一次吉田内閣の時、 請われて憲法担当の国務大臣となり、以降、1946年(昭和21)11月 3日、新憲法が公布されるまで政府側の担当大臣として国会での質 疑の衝に当り、新憲法誕生の産みの親となった。初代国立国会図書 館長。