【書評】

『日本と中国経済 ― 相互交流と衝突の100年』

梶谷 懐/著  ちくま新書(2016年12月) 定価900円+税

井上 定彦


 梶谷懐氏については、すでに中国経済についての第一線の分析家、専門家としての定評があると思う。筆者のような旧世代は、かつて中国経済について日本の研究者の著作を読むとき、やや部分的に限られたものであったり年表のように表面をなぞるような議論が多いな、と物足らなさを感じたことがしばしばあった。ところが、今日では内外に多くの本格的な中国経済の研究者・分析家が分厚い層をなして輩出するようになり、目を通すべきすぐれた邦語文献もでてきている。
 著者はそのなかでもオーソドッスクな経済分析の手法を駆使する代表的な経済学者のひとりである。ところが、今回は本書の題名にあるように日本と中国それぞれの経済の展開・推移と相互関係を100年のスパンで考えるという「歴史家」兼「政治学」者の役割をも演じてくれている。

 このようなテーマを論ずるには、通常は起こってきた出来事や事件について時系列的に話しを進めるわけだが、それでは普通の歴史(紹介)書となって面白くはない。しかしながら、「日本と中国経済」というテーマをもしも正面からを読み解こうとすると、実は大変な思考作業が必要となるらしい。つまり、日本の政治経済過程と中国の政治経済過程のそれぞれについて、内在的な変化を理解し、そのうえでその双方の接触がもたらすダイナミックな関係を考える、という大作業が求められることになる。そこではいわゆる国際関係論や現代世界史のなかの位置づけも要請される。穏やかな書名「日本と中国 その100年」ということを書き記すというのは、実際には「穏やかな仕事」ではないわけだ。

◆日本・中国 相互理解の困難性
 たしかに中国と日本が相互に理解しあうことは容易ではない。日・中が文化、経済を含めて長い歴史的つながりをもちながら、近現代において幾度なく繰り返した衝突(日本の侵略)や近年の外交場面での軋轢・ゆき違いがある。それは何故か、これが本書の出発点でもあるようだ。

 その記述のなかには、読者にとってあらためて合点のゆく歴史的事件の理解もある。たとえば、奉天郊外の関東軍による1928年の張作霖爆殺事件というのは満州を基盤にした軍閥の張作霖が関東軍の思惑通りにはゆかず独自の動きなするようになってきたこと。何よりも、時代のタイミングとして、国民党が北伐に終え強固なナショナリズムに支えられた統一政権が成立し近代国家として動き始める(1927年)という、「中国は分裂したままが続き、それがよい」と想定していた日本軍部にとっては都合の悪い「誤算」、あせりがあったかもしれないと指摘する。あるいは、また時代が下って1989年5~6月の春の天安門事件は、政治路線だけでなく保守派の経済失政により前年からの20%を越えるようなインフレ、そして引締めによるスタグフレーション(インフレ下の停滞)という経済背景があった。それらに対する反発として噴出した天安門への人々の結集と怒りが国家権力に向かうとみえたとき、民主化路線を志向する趙志陽がひきずりおろされなければならなかったかもしれないとみる。これも筆者にとっては新鮮な指摘であった。いずれせよ、これを期に日本の対中国観は、親中国から嫌中国に反転してゆくことになる。

◆中国と日本の社会 ―「後進性」「歪み」をいかに理解するか
 また、日本社会あるいは中国社会の「後進性」「異質性」の位置づけをめぐる、戦前から現代にいたるまでの認識についての梶谷の見方には触発されるところが多い。よく知られているように、戦前期日本社会の性格規定をめぐり、講座派と労農派との間に「日本資本主義論争」が生じた。そして中国にも通底するところがある「中国社会史論争」があった。

 そこに関連して、日本では中国に関する認識方法、向き合うべき態度について、三つの異なった類型を見出すことができるという。ひとつには、「脱亜論」的中国批判、すなわち中国はあくまで異質であり統一的な政権に支えられた資本主義的な発展は実現しえないというもの、ここには日本の中国侵略を正当化する議論、あるいは欧米帝国からの侵略を懸念する立場からのもの、という双方が含まれる。二つには「実利的日中友好論」で、中国の発展や相互の経済関係の深化は日本の利益にもなり歓迎すべきだというもの。これには石橋堪山の「小日本主義」から、戦後の日中貿易を支え国交回復を後押しした親中派の政治家、財界人につうずる。三つには「親中国」との連帯論で、中国民主革命へのシンパシーの志向、戦前は尾崎秀実に代表され、戦後は対米従属を続けたまま主体的な外交を行えず戦争責任を果たすことに消極的であった自民党政権への批判を行ってきたいわゆる「革新勢力」の志向がある。

 この三つはまったく現在もそのままに続き、たとえば中国経済についての「国家資本主義」の理解、すまわち一方ではその歪みが大きく破綻は目に見えているという見方、あるいは逆に発展を続ける中国についての「脅威」の強調、という分裂した論調がある。これには、あるいは次元が違うものの中国内部での経済運営路線をめぐる論争と交又する部分があるのかもしれない。

◆「歴史の記憶」をふまえる
 いずれにせよ、日本の中国侵略と10数年にわたる支配は、民族の自決や国家統一の否定という政治の基本に関わる問題だけでなく、1920年代にはすでに発展しつつあった中国経済の近代的な有機的一体性の破壊、あるいは国際的発展を全面的に阻害した。このことを起点とする長期にわたる中国社会の深い亀裂・対立と停滞、おそらくは数千万人以上におよぶかもしれない難民・餓死を含めて中国の自然な発展を数十年にわたり抑え続けることになったのかもしれない。結果的にみれば、20世紀の世界現代史における長期にわたる中国の後退・不在につながったという見方も成り立ちうる。ここに関わるような民衆の「歴史の記憶」と「痛み」を日本人が理解するのは、たしかに容易ではない。政治文書としての「謝罪」で解消できるようなものではないわけだ。

 「中華民族の夢」という言葉を聞いたとき、筆者もかなりの違和感を覚えた。しかし、このような歴史的背景を私達も考慮に入れなければならないのかもしれない。
 本書は新書版であり、啓蒙書であるにはちがいない。しかし、読み始めると、以上わずかに紹介したように、鋭い分析と深い歴史理解が次から次へと登場する。自分にとっては面白い哲学書や長編小説を読むように、そのままおよそ読了せざるをえないような迫力ある展開となっている。次の本も楽しみである。

 (評者は島根県立大学教授・オルタ編集委員)

著者紹介; 梶谷 懐(かじたに かい)
      神戸大学経済学部教授、1970年生まれ。専門は現代中国経済論
      著書 『現代中国の財政金融システム』(名大出版会)
         『「壁と卵」の現代中国論』(人文書院)
         『日本と中国「脱近代」の誘惑 アジア的なものを再考する』
                        (太田出版)


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