『田沢義鋪』

■人と思想 (5)

戦後60年の青春群像 『田沢義鋪』     富田 昌宏

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 この稿で私は、永遠の師と仰ぐ田沢義鋪(日本青年館第5代理事長)の思想
と実践を説き、田沢が兄事した後藤文夫(日本青年館第4代理事長)との固いき
ずなが二・二六事件の鎮圧に役立った秘話を披露した。ついで、後藤・田沢と共
に、戦時下も自由主義思想を貫いた下村湖人の足どりを紹介した。その系譜をた
どれば今回は井上準之助か後藤隆之助ということになろうか。
 井上は日本青年館の第3代理事長で、大正8年日銀総裁。昭和2年金融恐慌
の際に総裁再任、山本、浜口、岩槻内閣の大蔵大臣をつとめ、関東大震災の事後
処理や金解禁を行い、血盟団事件で暗殺される。その生涯は過日亡くなった城山
三郎の『男子の本懐』に詳しい。

 後藤隆之助は、後藤文夫、田沢らとスクラムを組み、主として昭和研究会を
拠点にして大正末期から昭和の前半の重大事件に関与し、昭和史の怪物の異名が
ある。昭和12年の第1次近衛内閣のスポークスマンをつとめ、閣僚名簿を発表
したのも後藤であった。後藤は戦後、日本青年館の理事として、若い者に混じっ
て旦々と議論に加わっていた。私も青年館在職中大変お世話になったが、思い出
が一つある。いつのことだったか、後藤の東京の居宅が火災に遭い全焼してしま
った。家を新築するために宅地の半分を処分、その際庭にあった紫のつつじを譲
り受けた。今でも四月になると見事な花をつける。それをみるにつけ後藤の偉大
さに直に接する感じがするのである。
 ただ井上、後藤を紹介するのは少し重い。もう少し事績を調べなければなら
ない。そこで今回はお許しをいただいて、〃戦後60年の青春群像〃と題し、青
年団関係者と政治の係わりを雑談風に述べてみたい。


  気くばりの竹下も野次の浜幸も
  青年団で磨きをかけた


 戦後の青年団の流れをざっと見渡すと、親潮あり、黒潮ありで交錯し、さら
に大波、小波がぶつかりあって一つになったり分れたりで捉えにくい。そこで私
の独断と偏見でいくつかの山場を設定してみた。
 第1の山は、敗戦直後から日本青年団協議会(日青協)の結成まで。この間、
日本は連合軍の占領下にあり、日本青年館もアメリカ軍に接収されていた。軍
隊や工場に動員されていた若者がぞくぞくと町や村に帰ってきて、焼跡の中か
ら青年団を再建した。いわば黎明期である。
 第2の山は、青年学級振興法反対運動に端を発し、共同学習運動を積極的に
おし進めた主体性確立期で昭和30年前後。青研集会や青年大会がこの時期にス
タートした。全国の青年団員は当時、430万人といわれ、全国各地─大都市を
除く地域─主として農村部にくまなく組織されていた。その青年団は地方自治を
支える活力源でもあった。どこの市町村にも数名から十数名の市町村議員が青年
団をバックに当選し、活躍していた。私も昭和31年に28歳で合併直後の大平
町の町議に立候補し、1期4年を経験した。

 30年代後半から平成にかけて、県議会議員や首長を数多く輩出したのも特
筆すべきことで、仮に〃青年団党〃が存在していたら、地方議員の数では第1党
の座を占めていただろうと思う。残念ながら青年団は思想、信条的には中立で、
郷土を愛し、郷土を興すという一点でまとまっていた大衆組織であって、政治結
社には不向きであった。
 この時期、日青協は集団指導体制をとっていたが、その中心に辻一彦がいた。
辻は30年、31年の日青協会長で、会長経験者では唯一人の国会議員。28年
から5期連続日青協副会長をつとめた若宮きぬ(栃木)と結婚した。辻の選挙票
の半分は奥さんの力といわれ、いわゆるマドンナブームのハシリということにな
ろうか。
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 この時期、活躍した人びとの中での出世頭は総理大臣まで登りつめた島根の
竹下登であろう。7期連続県団長を勤めた。この間、日青協の会議には殆んど代
理を出席させ、政治と選挙に没頭していたという。
 元民社党委員長の塚本三郎は29年度の愛知県団副団長で、日青協第3回定
期大会の議長をつとめた。当時、社会党員でありながら革新県団の提案をことご
とく否決してしまったのが自慢で、私も本人から何度かこの話を聞かされた。 
29年、30年に鹿児島県団長の職に在った小里貞利も大臣経験者。竹下が日本
青年館理事長を長年つとめた後を受けて、竹下亡き後、青年館の第16代理事長
に就任し、現在も活躍中である。

 国会一の野次の名手といわれ、ホンネを語る政治家として人気のあった浜田
幸一は32年度千葉県団長。ラスベガス事件や衆院予算委員長時代に共産党の宮
本議長をバトウした話など話題にこと欠かないが、今もテレビの常連としてタレ
ント振りを発揮している。浜田の野次は青年団で磨きがかけられており、竹下の
気くばりと共に、青年団が生み出した傑作といえよう。
 第3の山(というよりは谷)は35年以降の経済成長期で、青年団は長期低
落への途を歩みはじめる。そして、若者組以来何百年にわたってつづいたきた農
業青年主流の青年団から通勤青年主体の組織へと脱皮する。蛾から蝶へと生まれ
変った青年団は、残念ながら大きく成長しない─というよりジリ貧の傾向をたど
るのである。
 この時期に活躍し、その後成長して最近、農水大臣に抜擢されたのが岩永峯
一であり、岩永は39年から3年連続滋賀県団長をつとめ、引き続き滋賀県青年
会館理事長の職にある。

 第4の山は、日本青年館建設に組織の総力を結集した50年代。青年団独自
で5億円募金を達成して天下の耳目を集めた。また、各府県に続々と青年会館を
誕生させて第二の高揚期といわれた。この時期の日本青年館理事長は小尾◎雄。
昭和35年に東京都教育委員会教育長。退任後、現文教大学学長、理事長を歴任
し、59年から日本私立短期大学協会会長。日本青年館理事長就任は44年度で、
在任は20数年に及ぶ。私は小尾理事長の下で総務部長10年、常務理事4年を
つとめた。
 その後任に、青年団出身者ということで竹下登が第15代日本青年館理事長
に就任。当時私は(財)田沢義鋪記念会常務理事として竹下理事長に種々ご指導
をいただいた。いつもにこやかに応対され、元総理という威圧感を感じさせない
お人柄であった。その小尾、竹下も今は亡い。寂しい限りである。ここで、竹下
の青年団時代と独特の調整能力に触れてみたい。
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 ◇竹下登─培った調整能力とふるさとの創生


 昭和20年8月15日、3年8か月に及ぶ太平洋戦争が終った。そして、戦
禍に荒れ果てた日本国土に米軍が上陸し、占領政治がはじまった。この時の日本
は精神的にも物質的にも荒廃し、混乱のドン底にあった。人びとは何よりも食を
求めたが、戦争末期から悪化していた食糧事情は敗戦と共に一層深刻になり、知
り合いを頼ってイモなどの買い出しに行く人が多かった。
 
 こうした混乱の最中、軍隊や工場に召集・動員されていた若者たちがぞくぞ
くと町や村に帰ってきた。竹下登もその一人だった。彼は大津の少年飛行学校で
終戦を迎えた。当時、第4期特別操縦見習士官(陸軍小尉)の資格で飛行教官を
していた。竹下は神話(ヤマタノオロチ)で有名な斐伊川に辿りついた。そこで
見たものは大水害で土手が寸断された故郷の川であり、茶色の肌をさらけ出した
出雲の山々であった。国破れて山河もまた荒れていた。この時、竹下の胸にこみ
あげてきたものは「政治家になって二度と戦争の起こらない世の中をつくろう。
こんな傷だらけの山河をなんとしても修復し、元の美しい国土に戻したい」とい
う熱い想いであった。〃ふるさとは、人間関係と自然の渾然一体となった調和に
よって生み出される〃とした〃ふるさと創生論〃はすでにこの時に彼の胸中に
芽生えていたのであった。

 故郷に帰り政治家を志した竹下登は、早稲田大学に復学し、21年に直子夫
人と結婚、ついで学生の身でありながら実家のあった掛谷町の農業委員選挙に立
候補し当選した。実家が造り酒屋であり、本来地主代表の立場にありながら農地
改革を積極的に推しすすめ、また、農地や林を一括して小作農に与えることを主
張して採用されるなど、異色の存在であった。
 22年に早稲田大学を卒業すると東京の下宿を引きはらって故郷に帰り、政
治家竹下に向けてゼロからのスタートがはじまった。その第一弾が地区青年団の
組織化であった。青年団活動のかたわら、地元の掛谷中学で4年間英語と社会科
を教えた。そして、掛谷町の青年団長をふり出しに、郡団長、県団長の階段を一
気にかけ上がり、26年から7期連続島根県団長をつとめた。この間培った人脈
が県下にがっちり根を張り、選挙時には強力な集票マシーンとして活躍すること
になる。

 竹下団長は奉仕、演劇、スポーツなどあらゆる面で活躍するが、中でも力を
入れたのが「模擬国会」であった。青年団員を与党と野党に分け、〃国会議員〃
を選挙する。当然竹下団長はトップ当選で議長に選ばれ、首相以下各大臣を適材
適所に配置して開会。議長は質問、答弁から議場のかけひき、野党の退場劇など
を細かく指示し、最後は会議をまとめあげる念入りな演出であったという。
 発足直後の世論調査で竹下内閣の支持率はほぼ50%、ふるさと創生論への
期待が27%もあった。とくに20代の女性では10人に8人が〃意見を調整し
ながら慎重に〃の竹下流政治手法を支持しているのが目をひく。
 「何よりも人間関係を大切にしてきた」という竹下首相は、人生後半の30
年位は人を怒ったことがない、大きな声を出したこともいっぺんもない。
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 「これはまず自分に勝たなければ駄目ですね」という。この性格は母 唯子
さんの教育に負うところが多い。ちなみに唯子さんが命名した竹下酒造の酒の名
は『出雲大衆』。そして、他人の意見をじっくり聞きながら対立した意見をまと
めあげていく調整能力にみがきをかけたのが青年団活動であった。
 「どこにいる人でも日本列島全体をふるさととして意識できる時代を創りた
い」とするふるさと創生論は、〃自分たちの手で住みよい郷土社会づくりを〃の
青年団の理念を具体化したもので、その根底は全く同一である。また〃説得しつ
つ推進し、推進しつつ説得する〃運動論もまさに青年団流であるといえよう。
 
 最後に思い出を一つ。
 竹下が日本青年館理事長に就任してまもなくのこと。田沢義鋪記念会総会で
記念講演をお願いした。快よく引き受け、一時間半にわたり熱弁をふるった。常
務理事として折衝に当った私は、あれこれ謝礼のことを考えていた。講演が終る
と田沢の遺影の前に飾ってあったりんごの篭から一つを取り出して、「これを講
演料としていただいていきます」と手にして会場を後にした。そのスマートさに
只々恐縮したことを想い出す。竹下の人柄のにじみ出たこの時の所作を私は永久
に忘れないだろう。
     (筆者は俳句結社「渋柿」代表同人・元日青協本部役員)
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