『経済政策で人は死ぬか?—公衆衛生学から見た不況対策』

【書評】

『経済政策で人は死ぬか?—— 公衆衛生学から見た不況対策』

    デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス著
    橘明美・臼井美子/訳  草思社/刊  定価2,200円+税

松永 優紀


 トマ・ピケティの『21世紀の資本』が世間の注目を集め、経済的格差が取り沙汰されているが、一方では、健康の社会格差に注目する「社会疫学(social epidemiology)」の研究も進んでいる。社会疫学は、「健康状態の社会内分布と社会的決定要因を研究する疫学の一分野」と定義されている(バークマン、カワチ(2000))。すなわち、社会経済的な要因が、私たちの健康に与える影響とメカニズムを解明しようというものだ。

 例えば、ノッティンガム大学のR.ウィルキンソンは、所得格差が大きい国ほど死亡率が高いことを研究によって示している。本書も、このようなアプローチからの研究成果であると言っていい。ただし、本書の特徴を言えば、著者たちの「誰もが自分たちの経済と健康について十分な情報を得た上で民主的選択に参加するべきで、そのための情報を提供することが本書の目的である」という強い思いにより、大変平易な言葉でわかりやすく説明がなされていることである。

 2人の著者は公衆衛生学者であるが、本書のテーマへの関心は個人的体験から生じたものだと、まえがきで述べていて大変興味深い。デヴィッドは高校を中退後、その日暮らしをしていたが、肺炎を患い、失業中で健康保険もなく、金も家もない生活を経験した。サンジェイの母親は肺感染症を患っていて、入退院を繰り返していた。そのような経験から、2人は大学院で医学と公衆衛生を学び、現在も研究を続けているのだという。

 本書の主張は極めて明快である。「必ずしも不況や経済危機そのもので人々の健康状態が悪化するわけではない。不況や経済危機に対する政府の政策対応の良否が、人々の健康状態に影響を及ぼすのだ」ということである。しかも、その政策の良否は、人の命や健康に重きをおく政策か否かで客観的に定まるというのだ。本書は、そのことを8つの事例から証明しようというものである。

 ここでは、本書の事例の中でも、不況や経済危機に際して、政府の経済政策・社会政策によって、全く異なった結果が生じた2つの事例を簡単に紹介したい。

 まず、アイスランドの例を挙げる。周知のように、金融立国を掲げていたアイスランドは、2008年のリーマンショックの影響をまともに受け、まさに金融崩壊、国家危機に直面した。やむなくIMF(国際通貨基金)に支援を要請し、IMFから融資と財政緊縮策がセットとなったプログラムが提示された。IMFは、アイスランドのGDPの15%相当の削減を要求し、なかでも、保健医療関連予算の割合がヨーロッパの他の国に比べて高かったため、当該予算の30%の削減を求めた。しかしながら、アイスランド市民による度重なる抗議デモと世論は、IMFの緊縮策に「ノー」を突きつけ、政府も民意に沿う対応を行った。その結果、医療へのアクセスに問題が出ることはなく、未曾有の金融危機であったにもかかわらず、2007年から2010年にかけて死亡率は一貫して減少していたという。

 もう一つは、ギリシャだが、結果を先取りすれば、2011年、新規HIV患者数が前年同期比で52%増加し、ホームレス人口は2009年から2011年で25%増加、殺人事件も2007年から2011年で2倍になってしまった。その原因は、社会保護制度の削減にあった。リーマンショックの影響により、ギリシャは3つのショックに直面した。「需要ショック」、「粉飾決算ショック」、「緊縮財政ショック」である。粉飾決算については、2009年の政権交代で首相の座についたパパンドレウが、「旧政権が(ゴールドマンサックスに依頼して)財政赤字や政府債務残高の隠ぺい工作を行っていた」ことを暴露したことで明らかになった。ギリシャ国債は暴落し、国の債務不履行さえ現実味を帯びつつあった。IMFとEUは2010年5月にギリシャの支援を決め、収支改善のために社会保護制度の削減を求めた(「緊縮財政ショック」)。実際、ギリシャ政府は、臨床医や医師、公衆衛生に携わる職員を3万5000人削減した。給料を減らされた医師たちは、行列に並びたくない患者から賄賂をとり、貧困層は医療へのアクセスが困難になっていった。前述の健康状態の悪化が生じたのも無理からぬことであろう。

 2つの事例は、まさに金融危機に際して、政府の政策対応が「人の命や健康」を左右することになるということを示している。経済危機の際に、財政緊縮策、特に「人の命や健康」にかかわるもの(=保健医療分野)の予算削減を行うことは、短期的には効果を上げるように見えても、中長期的な視点から見るとむしろ逆効果である。健康への投資は最優先の課題だといっていい。ただ、本書の叙述で気になるのは、社会経済政策の良否と、当該政府の民主主義プロセスの良否を混同しているかのような部分があることである。すなわち、保健医療分野の予算を重視した政府は民主的で、そうでないところは、あまり民主的でないといっている部分が見受けられる。当然、この主張は(少なくとも本書には)論拠がないことであるから、再検討を要すると思う。

 最後に、もう一つ、事例の導入部分のみご紹介する。この事件の真相を知りたい方は、是非、ご一読をお勧めしたい。2007年5月、アメリカ・カリフォルニア州ベーカーズフィールドで鳥の大量死が話題となり、人間にも「体が震える」という奇妙な症状が出始めて、筋肉痙攣を起こしたり、ごく一部には麻痺状態に陥ったりする人までいたという。当初は、何の病気か定かでなかったのだが、その内に「ウエストナイルウイルス」感染だということがわかった。しかし、当地で大規模感染が起こったのは1952年以来のことだったのである。原因はほとんど考えにくかった。2006年をピークに住宅バブルが崩壊しつつあったことを除いては。

参考:Berkman LF, Kawachi I. A historical framework for social epidemiology. In: Berkman LF, Kawachi, I, eds. Social epidemiology. New York; Oxford university press:2000. p.3-12.

 (評者は、法政大学大学院生)


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