『許浚(ホジュン)』

■書評  

『許浚(ホジュン)』       加藤 宣幸

 『許浚』(ホジュン)李恩成著・朴菖熙訳 上・下 各1900円 桐原書店刊
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 「許浚」(ホジュン)は、約400年前の朝鮮(李)王朝時代(中期)に『東医宝鑑』という不朽の医書を著した実在の名医である。李恩成氏によってその生涯が『小説 東医宝鑑』(上・中・下3冊、ソウル・創作と批評社刊・1990年)として描かれ韓国で300万部の超ベストセラーとなった。その日本語訳が朴菖熙氏の手になったのだが、その際、日本語版は、改題され、この人物の名『許浚』がつけられた。

 著者の李恩成氏は1937年生まれの在日2世で1945年帰国、苦しい生活とたたかいながらシナリオライターになり、数々の賞を受賞し、人気作家になった。特に名医「許浚」を描いたシナリオ『執念』は76年MBCで放映されて大ヒットした。奨められてこれを小説にして1984年から雑誌に『小説 東医宝鑑』として連載を開始したが1988年執筆中に突然倒れたため、小説は「春・夏・秋・冬」の4部作になる構想であったのが秋までで、未完となる。

 訳者の朴菖熙氏は1932年、日本統治下の朝鮮・蜜陽に生まれ、51年渡日、一ツ橋大学経済学部で学び社会学博士号取得、都立大学では歴史学専攻、68年帰国し、梨花女子大、韓国外語大などで20年間、経済史・思想史・韓日関係史など講義、現在大阪経済法科大学アジア研究所客員研究員。編著書に『史料国史』『韓国史の視座』があるほか論文多数。本書の翻訳中、95年に国家保安法で2年11カ月服役、復権後市民運動にたずさわり、強制連行、戦後処理問題などにかかわる。

 この本は四六版・上下巻2冊で2段組1000ページという大部だが、大ベストセラーになるだけにドラマ仕立ての小説として急テンポな展開は面白く、韓国の歴史や文化について何の予備知識を持たない読者をも作中に引き込んで放さない。私も一気に読んでしまった。

 例えるのは、原著・訳者に失礼となるが、読み易さ、登場人物の設定、歴史的な背景の描き方、読後に一種の爽やかさを感じさせるなどは、多くの日本人にとって馴染み深い司馬遼太郎の歴史小説に似ていると思う。

 許浚は身分差別に苦しみ、それからの脱出の途として医者を志すのだが、その波乱万丈の生涯が絵巻として繰り広げられる時代とその主舞台は朝鮮王朝中期(1500年代末から1600年代初め)の宮廷である。日本の読者は、主人公「許浚」のドラマチックな生涯に胸を躍らせるだけでなく、この小説の舞台として描かれた韓国の異文化・社会の実相に触れることになる。一衣帯水の隣国で、1500年を超える交流がありながら、よく知られているとはいえない文化、とくに日本人には身近な針・灸・薬草などに表徴される東洋医学の神秘について肌に感じるのも、この書の魅力だ。

 訳者の朴菖熙氏は日本語に翻訳出版しようと決意した動機を「訳者あとがき」で次のように述べている、少し長いが引用する。

 『私は1992年の春、韓国外国語大学校の教え子に勧められて、はじめて本書を読んだ。

 小説の展開が急テンポで、一気に読み進んだ。そして最も私の胸中に深く突き刺さったのは、朝鮮人の醜さとひ弱さ、汚辱にまみれている“自画像”が描き出されていることだった。私自身を含めて、隣近所にざらに存在する同族の生の姿であり、性(サガ)であった。私は思わず顔を赤らめ、恥ずかしい思いがするのを自分でどうすることもできなかった。

 しかし、同時に、小説は、至善至高を志向し、言葉ではつくせない凄惨な状況においても凛々しく生きていく同胞の姿や性(サガ)をも描き出していた。一言でいえば、この小説は朝鮮人の深層をたぐり上げて満天下に露わにしているのだと私には思えた』と書いている。

 まさに、この書の精髄を衝いているように思う。

 訳者は、この感動を「訳者あとがき」のなかで「日韓を結ぶ虹として」という小見出しのもとに書いているのだが、私も日本の読者の一人として深く共感を覚え、海峡に架かる虹を共に渡りたい衝動に駆られた。

 日本の“韓流ブーム”も日韓相互理解増進のためには悪い現象ではないと思うが、これが本格的に根づくためには映像以外のメデイアによる歴史認識・思想・芸術・文化の交流がより深い視点から続けられなくてはならない。この書などはシナリオを小説にしたものだけに読みやすく、楽しみながら学ぶには入門書として格好なものである。

 メディアミックスの効果ということでは、私もNHKで放映されている韓国の人気番組『チアングムの誓い』を時々見ていて、とくに小説と映像の舞台が同じ王朝時代の宮廷なので、非常に興味をそそられ、小説とその背景を理解するのにも役立った。

 この書を読んで多くの衝撃をうけたが、その一つは、主人公「許浚」が中国から伝えられた“漢方医学“をそのまま利用するだけでなく、あくまで朝鮮の風土に合った医学として独自に発展させようと生涯をかけて苦闘した姿である。そして、その基礎をなすのが朝鮮の山野に自生する幾千の薬草について幾世代にもわたり、その生成と薬効が克明に記録され続けられてきた“薬草文化”について認識を深めさせられたことである。

 彼が「心医」の境地に達するまで貫き通した姿勢と努力は、1610年に25巻25冊の『東医宝鑑』として遂に完成するのだが、この書は83種の古典方書と韓、唐以来編集された70余種の医方書が引用され、当時の医学のあらゆる知識を網羅した臨床医学書で、朝鮮で出版された後、日本と中国に伝えられ今日でも貴重な漢方臨床医学書としてその地位を保っている。

 朝鮮人の著作としてこれほど中国・日本人に広く読まれた書は無いといわれているが、ちなみに日本では1662年に江戸幕府の使節団がこれを求め、これをもとに1724年、1799年1984年に刊行される。中国では1763年に始めて出版されてから25回も刊行され、日中両国に大きな影響を与え続けている。

 漢方医学を朝鮮の風土に合った医学として発展させようとした「許浚」についてのエピソートとしては下巻の本文に「許浚」が朝廷の「進慰使」(中国宮廷火災の見舞い使節)に随行して明の首都北京に行き、漢方医書の著者を訪ねようとするくだりがある。それは日本からの遣唐使たちが死を覚悟して先進文明の吸収に勤めた姿に似ているが中国側からの扱いぶり、古高句麗地域を往復する時の感慨などに描かれる「許浚」の意識からは、今日でも韓国・中国の間に潜在的に存在する歴史問題としての『高句麗』問題を感じさせる。

 陸続きの「半島国家朝鮮」が感じる「大陸国家中国」の“圧力”は「中華文明大国」と同じ隣国であっても海を隔てた「島国国家日本」が感じるそれよりも余程大きいものがあるようで、現代朝鮮にもつながるナショナリズムの高揚を連想させるが、同時に明日の東アジア共同体への夢はこの地政治学的原点を無視しては築き上げられないように思えた。

 第二には「許浚」たちが苦しみ抜いた朝鮮王朝時代の身分差別は日本と比べても想像を超えるような厳しい、くびきがあったことだ。それは両班・中人・良人=常民・奴婢と差別され、この下層奴婢がさらに公奴婢、私奴婢に別れ、職業と結びついて最下層の賤民を白丁・芸人・巫覡・喪輿業者・僧尼・妓生・公私の奴婢というように別け、しかも身分間の移動は厳重に禁じられていたのである。多くの人民がその厳重な差別制度のために、もがき苦しむ姿が「許浚」を通して描かれていて、それが、いまさらのように私達の胸を締め付けてくるのである。

 なお、なぜか医者の身分が低く固定されるのも私たちを奇異な感じにさせた。

 第三には、いわゆる倭寇の跋扈や豊臣秀吉による7年にも及ぶ侵攻(文禄・慶長の役、朝鮮側では壬申ジンシン・丁酉テイユウ倭乱)による惨状について、この書では必ずしも多くの頁を割いているわけではないが、その苦難の模様は行間に滲み出ている。

 たとえば倭寇について「三南(忠清・全羅道・慶尚道)の肥沃な田野に、秋の取り入れどきともなると、決まって間違いなく侵略してきた。少ない時は十余隻、百人未満の海賊規模で、多い時には200人も乗せた大型船舶500隻にもなる一大軍団規模で押し寄せ、穀物や家畜を奪い、女をさらっていった。・・・」これはこの地方に限られたものでなく、朝鮮の奥地まで蹂躙されないところはなく高麗滅亡二大原因の一つであったと指摘している。

 また、壬申倭乱(1592年)については「国内統一戦争で磨き上げられた倭軍15万、さらに最新兵器の火縄銃で武装した倭の圧倒的な武力の前に・・・散々に蹴ちらかされた。」などの他にも戦闘の模様が記されているが、いずれにしても、多くの日本人にとって蹂躙された側からの史実に目を通す機会は少ない。

 日韓(日朝)の歴史認識は、植民地支配時代だけではなく、時代を遡って共有されなくてはならないと感じた。

 最後に、本書そのものの評ではないが著・訳者についての感慨がある。在日韓国人1世、2世の作家・芸術家・研究者などで日本を舞台に活動し、それぞれの分野で素晴らしい成果を上げている方は多く、私たちは何人もの著名人の名をあげることが出来る。しかし、当然のことだが韓国で活動され、実績を築かれた方についての日本における情報は乏しい。とくに金大中政権が出現する以前の軍事政権時代における知識人の動静が知らされることは非常に少なかった。

 本書の著者李恩成氏は在日2世ながら帰国後、シナリオライターとして輝かしい業績を遺されたことについてはすでに書いたが、67年「東亜日報」シナリオ部門当選、69年アジア映画祭最優秀脚本賞、73年韓国芸術祭脚本賞、75年韓国演劇映画TV芸術賞最優秀TV脚本賞、76年同シナリオ賞というように受賞した栄誉を具体的に列挙すると、まさに今日の“韓流”ブームを創りだした“元祖”であって、しかも紡ぎだされた作品のなかに日本の風土で培われた感性が多少でも流れているとすれば、それが、特に私達の胸に迫ってくるのだろうかとも思えた。

 訳者の朴菖熙氏は冒頭で紹介したように、在日の出身ではなく、日本の大学で教育を受け、研究活動もされた非常に日本語の堪能な教育者であり、日韓の交流に心を砕いておられる知識人である。私はまだ直接お話をしたことはないが、消費者運動の大先輩野村かつ子さんの出版記念会に、はるばる韓国からお見えになり、スピーチをされて、それを御聞きした。実は、その野村さんから、この「許浚」を読むように勧められたのである。

 早速読み終えて、内容もさることながら訳者の朴菖熙氏の履歴に『本書の翻訳中に国家保安法に問われ3年半服役・・』とあったのに驚いた。その経緯が『1950年、6.25動乱で行方不明になった実兄が、あるいは北に生存しているのではないかと行方を尋ねた末、一度書信を交わしたことが国家保安法違反に問われ・・』と書かれていたからである。

 それは、私にとっての畏友初岡昌一郎氏が「オルタ」17号の『回想のライブラリー』(その一)の中で韓国の多くの友人の中でも最も親しく、かつつきあいの最も長い畏友権重東氏について 『67年の全逓(日本の)大会に来賓出席したことで権さんはこともあろうに「反共法」に触れて投獄の憂目に遭い組合からも追われてしまう。当時の韓国では(日本の)総評は反共法の対象であり、全逓はその加盟組合だからという理由だった。

 しかし、(中略)はるか後に初代労働部長官としてカムバックし現在、権重東は韓国ILO協会会長として健在で、私が韓国に行くたびに真っ先に会う人である』と語っている。

 北の親族に手紙を出しただけ、日本の労働組合大会に来賓として出席しただけで簡単に投獄されてしまった状況について隣国の私たちが余りにも知らなさ過ぎたことについて慄然とした。

 私達が韓国・朝鮮の人々と交流を深めるための一書としても是非「許浚」の一読をお勧めしたい。
                         (加藤 宣幸 記)