『「戦後」と安保の六十年』

書評
「もはや「戦後政治研究」どころではない」のか?—戦後政治再考の必要性—

『「戦後」と安保の六十年』 植村秀樹/著 日本経済評論社/刊 2600円

                   木下 真志


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はじめに
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 昨年末の第二次安倍内閣の発足を契機に、再び改憲論が活気づいている。このような状態は、中曽根内閣期以来のことだろう。「戦後」日本の政治は、1990年代半ばまでは、現行憲法第九条をめぐって、「改憲」をめざす勢力と「護憲」を唱えるグループとの二つのイデオロギー対立を大きな特徴としてきた。そしてしばしば、自衛隊が違憲か合憲かをめぐって、さらにはアメリカとの距離の置き方をめぐって不毛な論争がくりかえされてきた。
 しかしながら、1980年代後半からの冷戦の沈静化、終焉は、日本の各政党の対外観にも多大な影響を与え、1993年、自民党内の派閥抗争も要因となり、細川内閣の成立をもって自社を中心とした「55年体制」は崩壊した。これまで主役であった自民党は下野し、「護憲勢力」は衰退したのである。
 「55年体制」の崩壊は、リクルート事件、東京佐川急便事件と金権腐敗が立て続けに政界を席巻し、与野党を問わず「政治改革」が声高に提唱されたことが促進したものでもあった。「政治改革」は結果としては、いつの間にか「選挙制度」の改革に収斂し、1994年に現行、小選挙区比例代表並立制を確立することで収束をみた。
 その後、政党は乱立し、2009年秋、2012年末には政権交代もあったが、「護憲勢力」の衰退は顕著で、かつて国会で議席を3分の1占めていた時代は既に遠い過去のものとなった。

 植村の近著は、「戦後」60年の自社の対立を講和、憲法(第九条)、日米安保、自衛隊、在日米軍基地、知識人(論壇)を主軸として、私見を交えながら時系列に概観し、これからの日米関係や自衛隊のあり方をも検討したものである。本稿ではこの著作を繙きながら主たる論点別に「戦後」日本の政治を再考してみたい。

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自社の防衛論争について
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 自主憲法の制定を綱領に掲げる自民党(内タカ派)と、「護憲」や「非武装中立」を掲げた社会党の主張とは、相容れないものであった。この点について植村は次のようにみている。これまでの「護憲勢力」の主張がいわば、感情的、教条的であり、「現実」との間で、齟齬をきたしてきたという。
 植村のいう通り、国防に関して「理想を語るのはたやすい」。これは彼の一貫した見方で、本書を貫く太い幹である。自らの体験に依拠した厭戦感や「平和」を「語り継ぐ」ことの危険性や限界、旧日本陸軍や海軍の暴走を「軍隊」そのものの危険性と一般化したり、太平洋戦争を「戦争一般」におきかえてしまっているのではないか、という問題性についても指摘される。また、「戦争体験者がその体験を語り、若い世代がそれを聞くことは意味のあることではあるが、体験を語り継ぐのは限界があるばかりか、必ずしも望ましいとばかりはいえないように思う」(185頁)と告白してもいる。

 国家間で紛争が発生し、頻繁に衝突するのが現実の国際情勢なのであり、「ならば、自衛のために武装することは、当たり前のことではないのか」という「常識からの挑戦を受けた」とき、観念上の革命や理想論のみでは説得力を持たず、「侵略に対抗するための自衛力さえ保持しないという選択をあえてするのなら、武力にかわる実現可能な安全保障の方法を提案し、それを国民に納得させなければ」、戦争の記憶が遠退き、風化していく過程、風化したあと、次第に国民に支持されないようになっていく、というのである(102頁)。「護憲勢力」の主張が「現実的な実効可能性に対する詰めを欠いたもので」あった、としばしば批判された要因や、影響力低下のプロセスの解明は、著者の考えに対し、賛否両論はあろうが、出色である。
 一方で、社会党勢力の台頭が、防衛力の整備よりも経済優先の「吉田ドクトリン」を下支えしたことも否めない事実であろう。吉田も対米交渉において巧妙に「護憲」勢力の成長を活用し、高度経済成長は、吉田の経済優先路線を継承した池田、佐藤両内閣で結実した成果といってよい。
 植村は、「習い、性となる」ということわざを引き合いに、鳩山一郎や岸信介の対米強硬路線論者が吉田の対米追随を批判するものの、官僚に支持されないことを以下のように説明する。「アメリカに従うほかに当面の道はない。そうしているうちに、とくに外務省はアメリカにつき従うことがそれこそ生まれつきの性質のようになってしま」った(101頁)というわけである。「55年体制」は、「だれもそうなることを望んだわけではない」のに「保守・革新」双方にもそうした「性」を植え付けたという。
 
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憲法改正論について
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 1950年代の自由党、改進党、自民党に設置された憲法調査会や鳩山内閣の憲法調査会についての詳細は周知であろう。これらに対抗した「護憲勢力」は、「憲法問題研究会」を1958年に発足させ、憲法調査会に相対した。憲法問題研究会は、思想的にも、構成メンバーからも「平和問題談話会」を継承する意図もあった。「進歩的文化人」や「護憲勢力」の主張を一言で表現すれば、「憲法を守ることが平和を守ること」であり、「戦後の平和主義とは、過去の戦争や軍隊と戦うことであった」と著者はいう。
 改憲勢力、護憲勢力双方の主張は、自社の対立、あるいは保革の対立の代理乃至代表ともいえ、安保条約の改定をめぐって展開され、妥協を許さない激しい対立を招くことになる。左右が統一した社会党が分裂した契機も、安保条約改定をめぐるものであった。自民党内部も、社会党内部も、つきつめて検討すればするほど、内部の矛盾や対立を表面化させる契機となるものでもあった。そのため、社会党の例をみれば明らかなように党内の人間関係が悪化すると、分裂の契機となる「起爆剤」ともなったわけである。
 これに関連して本書において、植村が最も強く批判するのは、当時の最高裁判所長官田中耕太郎である。砂川事件やジラード事件など、安保条約の合憲性も争われた裁判において、東京地裁「伊達判決」後、跳躍上告された最高裁判所は、「統治行為論」をとり、裁判所の判断を超えているとした。著者の怒りは、判決そのものよりも、アメリカの関係者と田中との密会や、裁判官の全員一致で一審を破棄したい意向をアメリカ側に伝えていたことに向けられる。「法の番人の頂点に立つ最高裁の長官が、みずから憲法を放棄していた」というのである(122頁)。しかも、その後のインタビューで「全員一致の判決が出て喜ばしい」とこたえていた。のみならず、退官した後の新聞への寄稿では、「独立を保障されている裁判所や裁判官は、政府や国会や与野党に気兼ねをする理由は全然ない」と述べた。植村の田中への批判には多くの読者が共鳴するであろう。

 さらに、「自衛のための組織を持つか持たないかというのは、国民の生存そのものにかかわる重大事であり、確かに、裁判所が憲法典の文言だけから判断を下すべきものではないだろう。自衛権についての判断は、裁判官にまかせるには重大にすぎる」(155頁)という著者の考えは、含蓄に富むものである。ことは、自衛隊が違憲なのか、違憲状態なのか、合憲なのか、「違憲だが合法的」なのかという法律問題だけではないのである。
 この点に関しては、著者も引用しているが、私が学部学生時代に読んだ法社会学者、渡辺洋三の次の主張に最も共感をおぼえる。「平和主義すなわち軍備放棄は、憲法にそう書いてあるから、われわれは、それを守るのであろうか。そうではない。日本が現在軍備を持つべきでないということは、憲法にそう書いてあろうがなかろうが、それが日本の国民の真に平和な生活を保障するみちであることを、われわれが信ずるゆえである」。「日本が軍備を持たないのは正当であるということは、決して憲法九条がつくりだしたものではない。その正当性は、法以前の、国民の生活の中からつくられたものであり、その中に基礎をおいている」(158頁)。これを「理想論」だと一蹴することももちろん可能ではあるものの、昨今の政治状況から再度かみしめておくことの必要性を私は感じる。

 自衛隊に関し、植村は、広く国民に支持される組織となることに期待をかけている。理想だけでなく、現実を直視するとき、東日本大震災等々での自衛隊の組織をあげての災害救助活動や国連PKO活動で海外に派遣されている現状は、かつてのような、国会において自衛隊が違憲か合憲かをめぐって保革が頻繁に論争していた時期から、国民の自衛隊に対する認識を変化させてきているという。それは確かに各種輿論調査にもあらわれている。関連して、「諸君は永久にだねぇ、ただのアメリカの軍隊になってしまうんだぞ」「天皇陛下万歳」と叫んで切腹した三島由紀夫事件(1970年)を引き合いに出し、自衛隊を論じるとき、植村の考えが正直に吐露される。
 「三島は自衛隊を天皇に返そうとした。さもなければ、アメリカの軍隊になるという。天皇のものでもアメリカのものでもない自衛隊というのは、存在しえないのだろうか。そんなことはない。日本国憲法の精神に自衛隊の基盤をみいだすならば、自衛隊は国民のものとなる。」(182頁)
 また本書の締めくくりでは、植村が結論的に下記のように述べていることも紹介しておこう。
「わたしは自衛隊を手放しで礼賛しているのではない。防衛省・自衛隊に歓迎すべからざる点が少なからずあることもよく承知しているつもりであるし、防衛政策に対しては、はなはだ批判的な意見の持ち主であると自負している。しかし、そのことと自衛隊に評価すべき点をみいだすこととは別の話である。古い憲法学者のように、戦争体験や憲法典の文理解釈だけで頭から存在を否定するような態度をわたしは取らないということである。」(265頁)
 頭ごなしに「自衛隊は違憲だ」「違憲だから縮小しろ」、あるいは「違憲だが合法的だ」「法的存在だ」と憲法解釈を重ねても、現実の前には無力であったことを踏まえ、何とか現状との折り合いをつけようとする植村の苦慮がうかがえるのである。

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六十年安保改定について
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 この問題は、本書のタイトルの一部にも使用されており、著者が大きな問題と認識していることがわかる。しばしば従前、「戦後最大の大衆運動」と言及されてきた問題でもある。研究の蓄積もあり、問題はどのように再評価するかにある。
 一方の主役であり、多くの国民から民主主義を冒涜したと敵視された岸信介首相は、外国との安全保障条約のような、国防の基本問題については軍事の専門家の意見をきくことの必要性を強く認識してはいた。それゆえ、一年以上の時間をかけ、研究や検討をし、そのうえで要綱をまとめたと回顧したが、この条約改定を主導した岸は、軍事戦略に疎く、実質は、米軍の撤退に伴う防衛責任や返還施設の引き継ぎ等々、行政的なことが話し合われただけであったとされる(124頁)。このことは、岸が、国民の反対や条約改定の問題の大きさについて誤った認識をもっていたことを示している。岸のこだわりは「片務性」を「双務性」に変えることにあった(第5条「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動する」)とされるが、どこまで問題の本質を見抜いていたのかは疑問である。
 A級戦犯容疑をかけられたという事実のみならず、前段階としての警職法の改正を画策したことや国民の反対運動に自衛隊を治安出動させようとするなどの影響も大きかったが、やはり新安保条約の批准のために、強行採決して国会の会期延長をしたことが「戦後最大の大衆運動」を招いた要因であろう。運動(デモ)に参加した面々は、議会政治や民主主義の危機を感じての行動だったのである。この過程で、丸山眞男が果たした役割についても詳細に紹介されている。

 国会での論戦では、「極東」の範囲をめぐる論争、「事前協議制」をめぐっての駆け引き等、野党との議論も、政府の答弁は「逃げ」「言いくるめ」に終始し、社会党が審議未了に追い込もうとする作戦に対抗した。
 植村の見方の特質は、アメリカにとって日本、とりわけ沖縄は、アジア(極東)の防衛戦略上、手放せない地域であり、主権国家としてもう少し日本側に有利な交渉を展開できたのではないか、という点を強調している点にある。特に、条約に付随していた行政協定の全面的改定(いわゆる日米地位協定)の交渉についてそうである。例として、第4条(基地として使用していた土地を日本側に返還する場合、アメリカは原状回復義務を負わない)や米軍の財産に対する捜索や差し押さえなどをおこなう権利が日本にはない点、航空法などの日本の国内法を適用しない点、罪を犯した兵士の身柄の引き渡し等、刑事裁判上の優先権等々、アメリカ側に様々な特権を認めている点が挙げられる。

 もうひとつ、植村が強調するのは、安全保障のあり方をめぐって展開されるべき議論が、知識人の活動も手伝っていつの間にか民主主義の原則をめぐる問題へとすり替わってしまったことの(悪)影響である。新安保条約が「自然承認」されると急速にデモの波が引いていったのも、安全保障問題がデモ参加者の間で重要視されていなかったからではないのかという。
 社会党は、この問題をめぐって「護憲・再軍備反対・日米安保反対」「非武装中立」を看板に掲げ、これらに同調できない勢力(西尾派)が離党し、再度分裂した。議席数だけから見れば、社会党にとっては有利な政治状況にあったにもかかわらず、安保闘争前の1958年総選挙後が最大議席数であった。周知のように、この後は離党した西尾派(民主社会党、のち民社党)も含め、長期低落傾向となった。

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「戦後」解釈をめぐって
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 戦後政治は、憲法第九条をめぐる議論が主たる論争点であったことは既にみた。改憲、護憲双方の立場の知識人が、それぞれ調査会(研究会)や談話会(研究会)を立ち上げ、論争してきたことについても検討した。
 植村は、「憲法をめぐって対立する陣営に属していた高柳[賢三]と丸山[眞男]は、意外と近いところに立っていたのではないだろうか」と指摘している。防衛問題を「具体的な政策の問題として慎重な討議を行なうべきである」という視点で議論していれば、「建設的な対話が可能だったように思える」というのである(162頁)。しばしば引用されるように、丸山は、「政治的な選択というものは必ずしもいちばんよいもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターな選択であり、…(中略)…「悪さ加減の選択」なのです」と述べている。
 この丸山の議論を援用すれば、原理的護憲論と原理的改憲論との間に第三の立場が成り立つと植村は考えた。それが、「現実的護憲論」である。つまり、「現実的であることと平和主義的であることは二律背反ではないはず」であり、それは「ないものねだりの空想ではない」と主張する。結局、両者に歩み寄りはなかったのではあるが、これまでみてきたような植村の考えは、「現実的護憲論」ということばに集約されることとなろう。

 1965年の新聞誌上での「論争」から「戦後」を考え直すことの難しさにも言及している。56歳(終戦時35−6歳)の主婦が「一体いつまで[「戦後」ということばを]使うのか、と少々抵抗を感じて」おり、「戦後も早くも20年。ここらでやめたらどうかと思います」との意見を投書したところ、40歳前の別の主婦(終戦時10代後半)は、「戦争というものをこの地球上からなくすために、少くとも日本の歴史からなくすためには、あのいまわしい第二次世界大戦が最後であらねばならない」と主張したというものである。この主婦は、さらに次のように書いた。「戦後50年たっても、百年たっても「戦後」が通用するように、私たちは生きている限り戦争の悲惨さ、愚かさを次代に訴え続けたい」と。
 1956年7月発行の『経済白書』(後藤誉之助責任編集の年次経済報告)が「もはや戦後ではない」と書いたことはあまりにも有名である(この年2月に、中野好夫が雑誌に書いた言葉)が、先の「論争」について植村は、反論した主婦には、単に「「あの戦争の後」という以上の意味を「戦後」ということばに込めている。単なる戦争体験というだけの問題ではない」とする。
 それから約50年後の2013年の現在においても、「戦後最大の○○」、「戦後三番目の○○数」という表現がしばしば耳目にとまる。深慮の末の表現というよりも、何気なく使われているこの言葉について、「戦後政治」という言葉とともに改めて考える必要性を認識した次第である。

 「戦後」という言葉に関し、『経済白書』の他にもうひとつ有名なフレーズが残されている。1965年に佐藤栄作首相によって発せられた、那覇空港での次の声明文である。「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって「戦後」が終わっていないことをよく承知しております。これは日本国民すべての気持であります」。対米交渉の詳細や「核抜き、本土並み」をめぐる外務省、若泉敬の秘密交渉については、若泉自身のものも含め、既に多くの研究成果がある。政府は2009年の中曽根弘文外相まで、外務省は現在も否定し続けているが、「密約」により、「核抜き、本土並み」返還は当初から骨抜きになっていた。外務省によって「貴重な記録」が「闇に葬られた」のである。
 非核三原則誕生の経緯についても言及されているが割愛する。ただこの原則が「国是とまで呼ばれるのは、政党や国会議員だけでなく、ひろく国民のあいだでそのように受けとめられてきたからであり、それだけの土壌ができていたからである。佐藤にとっては意図しないものであったにしても、国民は待っていた。佐藤としては不本意であろうが、沖縄返還はなんとしても、どのような代償を払ってでもやり遂げなければならない課題であった。国内では非核三原則が、アメリカとのあいだでは核密約が、佐藤にとっての代償となった」(200−201頁)であった。
 「戦後」という言葉とともに、広く使われる言葉がこの引用にある。「国民」という言葉がそれである。人民、臣民、有権者、市民、庶民、大衆、生活者、世間、人々、皆、あるいは「われわれ」等々、の言葉について、国語辞典的な意味づけではなく、政治学事典的に考えようとするととても難題であることがわかる。那覇空港で、佐藤首相は、どの言葉に近い意味で「国民」と述べたのだろう。

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さいごに—新・新しい政治学へ
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 今は亡き高名な政治学者がかつて、日本の新聞の政治部は「政界部」である、と指摘した。永田町を中心とした政界の動向について、日々事細かに紹介され、論評や憶測もしばしば書かれる。しかし、新聞をいくら読んでも今「政治」で何が問題なのか、「政治」がどのように行われているのかが現在でも見えてこないのである。
 わが国の戦後の政治学も、「政治」そのものを研究対象とするよりも、外国文献の紹介や翻訳の時代、「文献解釈学」や「古文書学」だけのような時代があった。また、イデオロギー過剰の時代もあった。しかし、1970年代後半から漸くわが国の政治について真っ正面から分析する政治学が登場した。
 その新しい政治学も、分析のみに徹し、自らの立ち位置を表明しない政治学(者)と、自らの立場を鮮明にしつつ分析する政治学(者)とに二分されていた。植村の今回の著作は、この両者の長所をそれぞれ採用したもので、私は、新しい政治学の到来を感じた。オルタ第109号で紹介した中北浩爾による『現代日本の政党デモクラシー』岩波新書(2012年)とともに、着実に政治学が進展していることは、従前、悲観的にみてきた私にとって、喜ばしいできことであった。

 「戦後政治」という言葉から、私が連想するのは、「自社の対決」「イデオロギーの対立」である。植村とほぼ同世代の私にとって、防衛問題は戦後政治を語るうえで、不可欠の問題であった。幼少期、頻繁に自衛隊、日米安保問題が報道されていたことが影響しているのだろう。ノスタルジーだ、との批判は甘んじて受けよう。
 1980年代後半からの、米ソ冷戦の終焉やドイツの統一など国際情勢の変化は、イデオロギー対立から、国民の生活に関わる政策論争へと国会の主要議題を変化させた。自民党の分裂による政権交代、社会党(社民党)の衰退、民主党への政権交代、自民党の二度の政権復帰等々はあったものの、前述の「政治」改革のみならず、行政改革、税制改革、年金制度改革、税と社会保障の一体改革、教育改革、格差社会対策、少子化対策、幼保一元化等々、国会における議論は、イデオロギー色がうすい生活に密着した問題をめぐるものに大きく変容した。そこでの議論がよりよい政策をめざして侃々諤々の議論が展開されているのならばよしとしよう。しかしながら現状は、自分の利益への固執や他党の政治家のあげ足取りや失言探し、のような我利我欲に満ちた敵失待ちの様相も呈しており、決して高水準の政策論争が展開されているとはいいがたい。
 第二次安倍内閣になり、国家安全保障会議設置法案、特定秘密保護法案等々をめぐってやや緊張感のある議論がみられるのは、良し悪しは別として、安倍首相の提起する諸問題が「国家」そのものや国の行く末に大きくかかわる論点になっているためと思われる。運用によっては、忌まわしい時代の再来を想起させるからである。昨今の国会の議論は、かつての自社のイデオロギー対立の状況を彷彿とさせることもある。

 小稿でみてきた植村著の意図は、自社の(不毛な)論争(イデオロギー対立)の再燃にないことはもちろんであるが、本書から「戦後」政治を再考することの必要性を改めて認識した。同時にさまざまなことを考えさせられた。広く読まれることを期待して長々と拙文をしたためた所以である。

※著者・植村秀樹氏は流通経済大学法学部教授

 (評者は法政大学大原社会問題研究所研究員)


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