【ガン闘病記】(5)

■【ガン闘病記】(5)           吉田 勝次

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 前回幾つかある療法を組み合わせてこれなら効果を発揮するというホリステ
ィックでオーダーメードの療法をつくりあげることは難しいが、その難しさを承
知のうえで次回はその筋道を少し考えてみたいと申し上げました。原稿を編集部
に送ったあと、「しまった、なんて軽率なことを書いたのだろう」と思いました。 

 おそらく「その筋道」を書き上げれば、ノーベル医学賞ものなのですから、私
の軽率さも相当なものです。前のめりになって、生真面目に走ってきた私が癌に
倒れ、気がついたら老いが定年というかたちで目前に迫り、24時間頭のかたす
みで絶えず死を意識する生活が始まりました。生・老・病・死といいますが、と
もかくがむしゃらに生きることだけで、老・病・死のことは、まあ、そのうちゆ
っくり考えようと思っていました。定年になって時間がとれるようになったらぜ
ひ読みたい本が幾つかありました。井筒俊彦先生の著作集、中村元先生の著作集、
それから植民地政策論の大先輩、矢内原忠雄先生の著作集を書棚にそろえ、まあ、
死ぬまでにイスラム教、仏教、それにキリスト教もざっと見てやろうなどといい
気なもんでした。ですから、私の生命観、身体観、死生観など素人の思いつき以
上のものではありません。こうした前置きをご理解のうえ読み続けていただけれ
ば幸いです。

 30年も昔、新米の検察官を相手に年季の入った検察官が研修で使う教科書『検
察読本』という分厚い本を読んだことがあります。関心は、検察官が死刑を求刑
するときどんな心理状態なのかということでした。若い検察官は死刑を求刑する
ときに魂の深いところで動揺をきたし、なかなか死刑を求刑できない心理状態で
あることがわかりました。そこで先輩の検察官が若い検察官を威嚇するような口
調で「死んで仏様になってもらうんだという気持ちで求刑しろ」と脅しつけてい
るところが印象的でした。世界的にみて、野蛮な死刑は原則的に廃止されていま
す。先進工業国で死刑が残っているのは、日本とアメリカの幾つかの州だけでし
ょう。要するに、検察官僚には死刑を求刑する倫理的、思想的根拠などまったく
ないのです。あるとすれば、騒がしいサルを沈黙させるために鳥を殺して見せつ
けるという中国の専制王朝の支配者の論理だけです。それはニヒルで野蛮なもの
です。

 20年ほど昔、検事総長だった伊藤栄樹の『人は死ねばゴミになる――私の癌
との闘い』を読みました。彼はこう述べています。
「僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになっ
てしまうのだと思うよ。死の向こうに死者の世界とか霊界とかいったようなもの
はないと思う。死んでしまったら、当人は、全くのゴミみたいなものと化して、
意識のようなものは残らないだろうよ」
 
これは違う、強い違和感を感じました。高校時代、結核で療養所に入院し、左
肺の半分を切除した経験をもつ私は、十六~七の年頃で何人もの同室の結核患者
の死を間近で見ました。親しい、兄貴のように感じていた隣のベッドの20代後
半の順ちゃんが真夜中、薄明かりのなかで大喀血をし、死んでいくのを経験しま
した。それから長いあいだ、おそらく今でも、順ちゃんがゴミやホコリになって
いるなどと考えることはとうていできないのです。私の人生で残念といえば、こ
うした貴重な生死に関する経験を思想的にゆっくり消化し、宗教的にも深い信仰
をもつというところに到らなかった点です。逆に、科学至上主義とでもいうべき
マルクス・レーニン主義によってがんじがらめに縛りつけられ、その呪縛から解
放されるのに長い長い時間を要した点です。10年ほど前に兵庫県立大学に赴任
したとき、隣の研究室に国際ボランティア論の草地牧師が時を同じく赴任してま
いりました。内心、待ってましたと喜びました。牧師の彼から本物の宗教者のキ
リスト教を学ぶことができると思ったのです。しかし、彼はパプアニューギニア
の大震災救援のための活動から帰国した直後に何らかの感染症で急逝されまし
た。学ぶチャンスを失いました。ですから、癌の闘病生活を始めて午後の1~2
時間、ゆっくりと風呂上りに井筒先生のコーランの読み方や、中村先生の大乗仏
教の思想などを読むのは私にとって至福の時間となりました。

 でも今回はホリスティックな治療の道筋の根拠を私の専門とする国際政治と
国際社会開発論のなかから探ってみたいと思います。そこで最初に世界人権宣言
の第1条(自由平等)を引用いたします。
 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにつ
いて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神を
もって行動しなければならない」
 
すべての人間が自由平等に創られているという意味は、人間は創造者によって
創られたものである以上、創造者には従属するが、彼と彼女は不滅の魂であって、
一個の人格として地上のいかなる権力も侵すことのできない、譲り渡すことので
きない権利をもつということなのでしょう。そして、理性と良心を授けられてい
るとありますが、もちろん第1条に書かれていないものの第1条の主語は創造者
であって、創造者が授けているということは自明の前提なのです。名誉革命のと
きにレインボロー大佐が「イングランドに住む人は、たとえどんなに貧しくとも、
もっとも富裕なひとと同じく、生きるべき生命をもっている、と思う」と語って
います。人は、財産・能力・人生の起伏において多様であり、格差に満ちていま
す。しかし、民主主義的平等とは、各人の相違を認めたうえで、その魂はすなわ
ち生命の尊厳と人格は等しく平等であるということを意味するのだと思います。

 こうみてくると、世界人権宣言や国際人権宣言に書かれている人間とは魂であ
って、物ではないということが大前提です。いや、私は魂を信じない、創造者を
信じないという方もいらっしゃることは理解しています。しかし、現代文明の根
底は、「人間とは魂であって物ではない」という事実は動かしがたいように思い
ます。人間とは、創造主によって生命を吹き込まれ、動物や物以上の何ものかだ
という信念が文明というものだと思います。死刑について20世紀アメリカの偉
大な政治思想家リップマンはこう主張しています。
 
「人はみな自身の価値を知っており、ある者はそれと同じ価値を他人にも属さ
せる。同情の才能を持った人々は、それを自分の知っているまたは創造し得るす
べての人々にまで拡げ、またある人々はそれを妻子だけに差し出す。すべての
人々に本当に同情できる人は稀れでも、しかしこの教義を相当広く打ち立てるに
十分なことは別にある。それは多分未知の世界での自分の運命についての恐怖に
よって、いっそう強められているであろう。われわれは殺人犯を死刑に処するが、
彼の侵すべからざる部分に対する敬意から、僧侶による慰めを彼に許し、彼が死
んだらうやうやしく埋葬する。彼の行為がどんなに恐ろしいものであったにせよ、
それにもかかわらず彼の中には、だれもそれを見届けることはできなくとも、彼
をして宇宙の中でのわれわれ自身の運命の一部分たらしめるところの、窮極的な
属性があることをわれわれが信ずるからである。私は人間がなぜ他人に対しこの
神秘的な尊敬を抱かねばならぬのか、それ本来の理由には考え及ばない。しかし
もし平等の仲間の意識が失われたとしたら、世の中でのわれわれが最良だと思っ
ていることの如何に多くが失われるかを示すことは容易である」

 伊藤氏が、人は死んだら単なる物質やホコリになると言ったのは、よく考える
と偶然ではないように思います。西洋医学そのものは、生命現象とはすべて物質
世界の法則、すなわち物理科学的な現象として説明することができると主張する
機械論であることは周知のことです。そのごく通俗的な表現を伊藤氏が病に倒れ
てくりかえしていたに過ぎないのです。生命は創造主によって創られ、命を命た
らしめる原理やエネルギーがあるとする主張は近代合理主義のなかではどこか
時代遅れのやがて科学の進歩によって一蹴されるものとみなされてきたのです。
ですから、人間とはさまざまな部品の集合であり、医師とはその部品の故障ある
いは不釣合いを修繕する修理工にすぎないとみなすのです。部品に欠陥があれば
それを取り除き優秀な集合を作り上げる優生学がナチスの人種絶滅政策の根底
にあったこともまた偶然ではないのです。

 ところが、人間は物ではなく魂であるという見方によれば、人間とは創造主に
よって創られ、無償で貸し与えられた庭のようなものであり、管理人たる私が貸
主に返却するその日まで、庭の手入れを続け、医師とは庭が荒れたときに庭を整
備するために力を貸す庭師であるという考え方がホリスティック医学の根底に
あります。創造主によって創られたとか、創造主に無償で貸与されたなどという
と、なにか違和感を感じるかもしれませんが、これは考えてみればじつに単純自
明なことでもあります。私自身の存在が太陽がさんさんとふりそそぎ、エネルギ
ーを地上に与え、大地がそのエネルギーを水として食物として育てあげ、その結
果つくりあげられた存在であるということは幼稚園児でもわかる自明のことな
のです。ところがいつの間にか自分のことに熱中し、前のめりに突っ走っている
うちに、この大きな私以外のものによって私の生命と身体が日々創りあげられて
いるという真理を忘れているように思います。ですから、私は無農薬の玄米や中
国山脈の千種で採れた野菜や水を闘病の中心におき、そのことによって生命力あ
ふれる心と身体を創りだそうとつとめてきました。毎朝、近い大学の芝生のグラ
ンドを何周も回り、小高い丘の八丈岩山をながめながら芝と語らい八丈岩山に呼
びかけながら天と地のエネルギーを心と体に十二分に行き渡らせようとしてき
ました。おそらくこの二つが私のホリスティックな闘病の柱であり、私とは物質
ではなく魂なのだという考え方が闘病の土台をなすものです。この点でいえば、
気功や太極拳はこうした土台をよりしっかりするうえでじつに大きな役割を演
じてくれました。

 私には命が宿っている。私には生命力がある。私には癌とたたかう自然治癒力
がある。こういう深い信念は私の場合にはある偶然の機会に直観することができ
ました。細部は近日私が監修して発行する予定の『太極拳をはじめませんか』で
お読みいただきたいのですが、まったくの偶然でした。術後まだ体に自身がなく、
ふらふらしているような状態のなかで冬の芝生を歩いているときに魂の奥底で
生命がみなぎるのを感じることが起きました。私の太極拳の先生の王さんが「先
生、走ってみましょうよ」と声をかけて下さったのです。歩くことがやっとの私
は、走ることなど恐くてとうていできそうにありませんでした。ともあれ彼に励
まされて、幼児のよちよち歩きのように芝生の上をゆっくりと一歩一歩20メー
トルほど走りました。彼は私のとなりを伴走しながら、「ホッ、ホッ」と声をか
けてくれました。その瞬間、遠い昔、小学校5年の秋の運動会で学年対抗のリレ
ーに選手として出場したとき、コーナーで大歓声を受けたあのときの張り裂けん
ばかりの元気な時代の自分の感情がよみがえり、そして突然嗚咽がこみ上げてき
ました。弱々しい私の体の内部に生命のときめきが確かに動くのを実感しました。
それは、恐ろしい夢を見て突然目をさまし、自分の家の二階のベランダで昼寝を
していることに気がついて、自分は生きているのだと感づき、安堵して大声で泣
き出してしまった幼い頃の夏休みの体験に通じるものでした。

 生命力あるいは自然治癒力というのは今日なお何かまゆつばものと考えられ
ている形跡があります。広辞苑にも「生命力」という項目そのものがありません
し、主婦と生活社の分厚い『家庭の医学百科』の索引にも生命力どころか生命と
いう項目も記載されていません。人間を部品の集合とみる機械論の影響はここま
で根強いのだと思います。しかしこの根強さは昔からのものではありません。上
野圭一氏によれば、明治維新と戦後のマッカーサー司令部によって政治的に上か
ら無理やり作られた社会意識なのです。幕末の日本人は幾つもの療法を選択する
ことができました。西洋医学の蘭法、病気を部品の故障とみるのではなく、人間
全体の心身の不調和ととらえる漢方、さらに日本の伝統療法たる和法が存在して
いました。ところが明治維新によって一夜にして医師免許をもった西洋医学の医
師でなければ医師にあらずという西洋医学採用令が定められ、西洋医学以外の伝
統的な療法家は鍼灸師も含め、一挙に職を失ったのです。さらに戦後、マッカー
サー司令部は野蛮で不潔だという理由で、鍼灸を全面的に禁止しました。私も幼
い頃、母にお灸をすえると追っかけられ逃げ回る時代がありました。近くのお寺
では年寄りがずらりと横になり、お灸をすえる風景も見られました。もう今では
すっかりこんな風景をみることはできません。

 もちろん漢方や和法の中に改善を要する点があったことは当然だと思います。
しかし、そうした伝統的な療法はその根本的な思想において人間をまるごとホリ
スティックにとらえ、あれこれの臓器や骨格や神経の部分的な変調に局所的に対
処するのではなく、心と体のバランス全体を回復させ、命のエネルギーを高める、
すなわち養生という考え方でした。西洋医学は結核菌を発見し、明治、大正、昭
和の深刻な時代病であった結核をパス、ヒドラジッド、ストマイの三種を併用し
て根絶することに成功しました。外科医にしろ、整形外科医にしろ特殊な臓器の
急激な変化に対して効果的な対処策で効果を上げていることは疑いのない事実
です。私自身も秦野の国立療養所で左肺の切除手術を受け、健康を取り戻しまし
た。今回は明石の県立成人病センターで右腎臓の摘出手術で危機を脱しました。
西洋医学の医師が臓器の修理工として腕のいい専門家であることになんの疑い
もありません。しかし、生活習慣病と呼ばれる長年にわたるストレスの累積から
生まれる複雑な内因性の病の治療に西洋医学は明らかに限界にぶつかっていま
す。ところが人間の惰性というのは恐ろしいものです。医療というものは、西洋
医学にかぎり、医師免許をもつ医師だけが治療に当たることができ、薬品は全国
画一で、厚生労働省の認定を受けたものだけが保険の適用になるという松下圭一
先生流にいえば、「官治・集権型の全国画一・省庁縦割・時代錯誤の省庁官僚主
導の政官業複合」なのです。西洋医学以外の漢方、代替療法などに広く目をひろ
げるとき、生活習慣病と闘う効果的な武器がじつにたくさんあるにもかかわらず、
そうしたものが何かいかがわしいものとして排除されているのが現実です。

 癌とたたかうためには生活習慣の根本的な見直しが不可欠です。バブル崩壊以
降の時代病と言ってもいいかもしれません。時代病を克服するためにはコレラ菌
を発見してコレラをなくしたり、結核菌を発見して結核を絶滅したり、麻酔や外
科手術で負傷した兵士を治療するのとは違った論理が求められることはまちが
いありません。西洋医学の成功体験によって支えられた従来型の論理では間に合
わないのです。成功体験の論理化・基準化で飯を食う「学識経験者」は舞台の主
役が生活習慣病に変わった以上、それと闘う論理は従来のものと異なるのだとい
う論理が理解できないのです。大きな局面の転換に呼応して土壇場で大きな活力
を発揮するのは、いつの時代にも病に苦しむ「草莽屈起」(吉田松陰)が生み出
す創造的イニシアティヴなのです。松下圭一流にいえば、市民主権ならぬ患者主
権を発揮し、多様な医療をもとめる多元的で個性的な療法こそが求められている
のでしょう。

 与えられた紙幅に到達しましたので、続きは次回に回します。次回は太極拳や
気功の思想の根底にある「天人合一」の私流の解釈のなかから創造主が何者であ
るかをもう少し考え、生命力をあふれさせる療法について論じます。そのうえで、
一連の連載の結論として私がガンジーの非暴力抵抗主義と市民的不服従から考
えた癌と闘うことの意味について考えてみたいと思います。
           (筆者は兵庫県立大学教授)
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